22.本当は、とうに友だちを通り過ぎているけれど

「なんか今日、元気ね? 幽霊に元気って言うのも、変だけど」


 暗い玄関で、心なしか、幽霊の輝度がいつもより高い。電気をつけても、やはり普段より輝いている気がした。

 美鈴が靴を脱いで三和土から上がると、幽霊が後ろに下がる。その足取りさえ軽い。

 幽霊の足取りに軽いとか重いとか、奇妙かもしれないが、だいぶ慣れてきた。


「今日はなんだか、気分がいいんだ。すっきりした感じがする」

「なんで?」

「さあ……? 憶えてないな」


 幽霊は唇を緩ませたまま、のほほんと首をかしげた。成仏できていない幽霊のくせに、しあわせそうである。

 しあわせそうにしながらこの世に留まっている幽霊なんて、そろそろ幽霊の定義から外れそうだ。幽霊本人が自分のことなのに適当極まりなく、機嫌のよい理由がさっぱり謎なのも、またややこしい。


「あなたの気分って、どこから来てるのかな」


 今朝、先輩とした生物学の話を思い出しながら、美鈴は幽霊を上から下まで眺めてみる。

 思い出のありか。心の生まれる場所。

 彼のそれはどこだろう。

 幽霊は、上から下まで全部透けていて、中身がありそうに見えない。いっぽうで、服に隠された肌とか、それこそ、前髪の下にあるはずの目などが、透けて見えることもないのだ。


「うーん」

「俺の体が、どうかした?」

「あなたの体はもとからどうかしてる」

「そういうことじゃないよ」


 幽霊は唇をとがらせて、自分の腹のあたりに触れるようなしぐさを見せた。彼の手のひらにあわせて、ゆったりとしたスウェットのラインが、かすかにへこむ。

 幽霊自身に対してだけ、彼の体は実体を持っているみたいだった。


「そういうミリンさんは、……うーん、機嫌は悪くなさそうだけど、ちょっと……くたびれてる?」

「……くたびれて、って、初めて言われた」

「俺も初めて言ったかな。どうだろ」

「終電の近いサラリーマンくらいにしか、あんまり言わない気はする」


 美鈴は鞄を置き、カーディガンを脱いだ。そこで、自分の服装についてふと、普段はしないおしゃれをしたのに、くたびれてるって失礼だな、と思う。

 けれど、幽霊が失礼だったのには理由があった。

 クローゼットから部屋着や下着を取り出した美鈴が振り返ると、彼は美鈴を、やけにじっと見ていた。


「なあに?」

「ミリンさん、今日、何かあったの?」

「何かって?」

「……その……、服が、いつもより……おしゃれ、で」


 言いにくそうに口ごもった幽霊は、スウェットの裾をぎゅっと握って、顔を伏せてしまう。美鈴は、彼が踏ん切りをつけるのを待たずに答えた。


「ないよ」


 デートか何かだと思ったのだろう。幽霊の想いを知っていて、彼の仕草を見れば、なんとなくはわかる。

 幽霊ははっと顔を上げて、それから、情けなさそうに首を縮めた。


「う……そ、そっか……」

「なんでびくびくするの?」

「だって、ミリンさんに何か、いい感じの予定があったとしても、俺にはそれを嫌だって思う資格なんかないし、ないって言われて喜ぶのも、やっぱり……」

「自分の気持ちくらい、資格なんかいらないんじゃない」

「でも、俺がここでリアクションしたら、ミリンさんにはわかっちゃうだろ」


 幽霊はやけに真剣に言った。リアクションしなくてもわかってたよ、とは、あえて言わないでおく。


「私は気にしないよ」

「俺が、ミリンさんに嫌なやつって思われたくない……嫌な思いもさせたくない……優しくしたい……」

「前、見栄張ってちゃやってられない、みたいなこと、言ってなかったっけ」

「言いました……」


 しおしおとひとまわり小さくなる幽霊に、美鈴は笑顔になるのをおさえられなかった。とっさに唇をおさえたが、こぼれた笑い声は聞こえたのだろう。


「……笑わないでよ……。俺だって、こんなこと……」

「今日ね、あるひとが言ってたんだ」


 美鈴は、今日一日、ずっと胸に居座っていた複雑な気持ちを心の隅っこに押しやって、その言葉だけを、しみじみと舌に乗せた。


「気持ちに、理由はあっても、理屈でどうこうできるものじゃない、って」


 幽霊が、ひらきかけたように見えた唇をふとつぐんで、美鈴を見つめてくる。誰が、どうしてそんなことを言ったのか、見極めようとしているみたいだった。


「あなたも、そうみたいだね」

「あああ」


 幽霊は顔を覆って、その場にうずくまった。


「べつにいいじゃん。これも前に話したけど、あなたがどんなに情けなかろうと、もう失うものなんてないって」

「違うよぉ」


 透明な手のひら越しに聞こえた声は、生身の肉体にぶつかったかのようにくぐもっていた。美鈴もしゃがんで、幽霊に頭を近づける。


「違うって?」


 幽霊は、ちらりと顔を手のひらから上げ、また埋め直してから、呻いた。


「ほんとうに、何も無いわけじゃない……」


 本物の幽霊の呻き声は、ホラー映画や、お化け屋敷で聞いたことがあるような、恐ろしげなものとは、まったく違っていた。一目散に逃げ出したくはならず、むしろ、美鈴はそっと頭を寄せて耳を傾けた。


「ひとつだけ……ううん、ふたつ……。さっきも言ったように、ミリンさんに嫌われたくないし、ミリンさんに嫌な思いもさせたくない。なのに、俺は自分を抑えられない……。ミリンさんにそんなこと言った人みたいに割り切れたら、まだ格好がついたのに」


 美鈴は、昼間の先輩の横顔を思い出していた。

 割り切れている、というのかは知らないが、この幽霊を見ると、言葉のわりに、だいぶ平然としていたように思える。もちろん、昼休み真っ最中の大学の食堂で、幽霊みたいに嘆きだすことも普通はしないだろう。けれど、ままならない心のもどかしさを、穏やかな言葉に変えられるのは、やはりおとなだからなのかなあ、と思う。


「幽霊になってまで、そんなに悩まないといけないなんて」


 先輩の想いが嘘だとか、軽いとかは、思わない。その想いが彼にとってどんなものかは、美鈴には判じえないことである。

 でも、先輩からは逃げ出してしまったのに、目の前で嘆いている幽霊の、その嘆くほどの想いは、どうしても嬉しいのだ。


「ねえ、大丈夫だよ。そういうふうに思えるだけ、私より、ずっとマシだよ」

「ミリンさんはこんな嫌なやつじゃないよ」

「それは理想にすぎない」


 勢いよく顔を上げて美鈴を語る幽霊に、美鈴はきっぱり言い返した。多少の自覚はあったのか、幽霊が怯む。


「言ったでしょ。元彼と付き合ってたときでも、私は彼を好きになってあげられなかった。なのに、好きでいるつもりだったんだよ。向こうからすれば、ひどい話よね」


 否定したそうな気配が伝わってきたが、何も言わないでくれた幽霊の無言の促しに乗って、続けた。


「一緒にいて楽しかったよ。向こうは、友だちなんかじゃなくて、ちゃんと彼氏として接してくれた。私には、好きになれるだけの理由はあるはずだった」

「好きになれなかったからって、ミリンさんが悪いんじゃないよ」

「そうだね。結局、どうしようもなかったんだと思う。だけど、本当は好きじゃないのに、それに気づかなかったのは、私が悪かったと思うの」


 ひどいでしょ、と美鈴が言うと、幽霊は、ほんの少しの考えるような間をおいたあと、首を横に振った。


「そんなに何もかも、自分のことも、他人のことも、わかるものじゃないよね……」

「私もそう思う。なら、あなたもそんなに悪くないし、仕方がないって……私も、自分がそうだから、思うよ」

「仕方がなくても嫌な思いをしたら、やっぱり嫌われるかもしれないだろ」

「それは、本当にもうどうしようもないんじゃない? そこで無理やり自分をおさえて、ひたすら相手が気分良くいられるようにするのも、きついでしょ」


 そんなにつらい思いをしてもなお、相手を好きでいられるのだろうか。

 好きでいてしまって、苦しむのもまた、仕方のない人の心なのかもしれない。

 だけど、美鈴は、そういうのは嫌だ。見知らぬ赤の他人ならばともかく、この幽霊にそんな思いをさせるのは、美鈴も苦しいと思う。そんな自分は、好きじゃない。


「私は、あなたを嫌いにならないから、大丈夫。気持ちが仕方のないものだって、自分だって経験したから、わかるし……。たとえ自分がそうじゃなくても、わかってあげられる、っていうのが、理想なんだろうけど」


 自分に経験のあることでしか他人を気遣ってあげられなかったら、たくさんのものを取りこぼすだろうことは、そう考えなくても想像できる。かといって、実際には、経験がなければなかなか気づかないことが多いのも、もどかしいけれど、現実だった。


 優しいひとでありたい。


 友だちや、この幽霊がそうしてくれるように、自分も彼らを思いやって、美鈴がみんなから与えられるものを、せめて同じくらいは、返してあげたい。

 でも、まわりのみんなが当たり前みたいにしてくれることを、美鈴は、当たり前にはしてあげられない。

 だから気を張って過ごして、ときどき、疲れてしまう。

 良い人でいたいんじゃない。大事な人たちを、ちゃんと大事にしたいだけなのに。


「そんなわけで、私もそこそこぽんこつだからさ、べつに、あなたのこと、嫌なやつだなんて思わないよ」

「同類相哀れむってやつ?」

「どうせなら類は友を呼ぶって言って」

「……友」


 不満そうに、幽霊がぼそりと呟く。そこに不満を持つ元気が出たならなによりだ。


「よく言うでしょ。お友だちから始めましょうって」

「それって結局断り文句でしょ!」

「そうとも限らないんじゃない?」

「えっ」


 はっと顔を上げた幽霊の声には、美鈴の聞き間違いでなければ、期待のようなものが滲んでいた。

 一瞬、軽率だった、と後悔した。

 でもすぐに、嘘じゃない、とも思った。

 もしも、幽霊じゃなければ。――幽霊、だとしても。

 けれど、覚悟にはまだ足りない。


「便利な言葉なのには、違いないけど」

「もう、人を翻弄して楽しい?」

「人、ねえ」

「そういう意味じゃない! 人だよ、俺は」

「まあ、幽霊っぽいかって言われたら、人寄りだって思うよ」


 美鈴は、透けてさえいなければ普通の男の子に見える彼を眺めて言った。

 仕草も言葉も感情も、全部、まるで普通の人間のよう。

 でも透けているのだ。

 もし、彼が普通の人だったら、美鈴に覚悟する時間なんて必要なかった。想いのままを彼に伝えて、幸せな気持ちをわかちあっただろう。

 けれど美鈴は、無計画で、衝動的に気持ちを打ち明けることはできなかった。


 恋がかなう喜び。同時に訪れるであろう別れを、受け止める覚悟ができたなら、この気持ちを伝えよう。

 今はまだ、無理だ。そんな勇気は、今の美鈴にはない。

 もう少し、あと少しでも、成長できたら。

 そのときには、きっと。


「ねえ、ミリンさん」


 自分の中にある気持ちへ言い訳をしていたところ、幽霊が控えめに美鈴を呼んだ。


「なあに?」

「じゃあ、本当に、何かあったわけじゃないんだね」

「うん。なんでそんなに心配するの?」

「……かわいい服着て、疲れたように帰ってきたから……その、なんか、誰かっ……ていうか男と、何かあったりしたのかな、って」

「やきもち? それとも、慰めようとしてくれてる?」

「……両方」


 正直な幽霊である。かっこつけて、慰めようとしてる、と答えたっていいのに、白状してしまうのが彼らしかった。もっとも、たとえ彼がやきもちを言わなかったところで、美鈴が察しないわけではないけれど。


「この服は、特に何があったわけじゃないの。ただの気分」

「女の子って、気分でそんなにおしゃれするんだ?」

「するよ。これなんて見た目はかわいいけどただのワンピースだし、後ろのファスナーを閉めればいいだけなわけで」


 スカートのすそをつまむ。夏向きの軽い生地。美鈴が着回す服より少しだけ布の量が多くて、ゆったりした襞が風や体の動きで翻れば、ふくらんで華やかに見える。なんでもない日のローテーションには入らないけれど、とびきり特別というほどじゃない。美鈴の普段着よりはちょっといいモノとはいえ、おしゃれな子なら、毎日このくらいの服だったりもする。


「初デートのときや、記念日のデートなら、もうちょっと気合いいれる」

「それ以上、どうするの……?」


 幽霊は、なぜかおずおずと訊いた。

 この幽霊、生前、着飾った女の子に恐怖心でもあったのだろうか、と思いつつ、扉を開けたままにしていたクローゼットを指さす。


「この端っこのとか、生地がもっといいの。縫製もしっかりしてて、そのぶん値段も高いんだけど」

「あの……それで、何が変わるの?」

「着たときのシルエット。それに、動いたときのしわのラインや、スカートの襞の動き方や、あちこちがちょっとずつかわいいわけ。そのちょっとが大事なのよ」

「へえ……」

「そんなのわからないのになあ、と思ってるでしょ。彼氏が鈍感だろうが何だろうが、こっちとしては、ほんのちょっとでもかわいくなりたいんだって。いつもよりいい格好してるって、自分のテンションも上がるしね」


 美鈴が指さす服と、今の美鈴を交互に見た幽霊は、自信なさそうに頭を右に左に傾けていた。まあ、彼のそういう反応は、想像の範囲内である。


「男の子だって、大学に行くより、デートのほうが、身だしなみは気にするものでしょ」

「そうだとは思う……うーん、でも、大学で好きな子と会うなら、毎日気合い入れるかも」

「毎日は大変じゃない?」

「わかんない。俺がそうやってた記憶はないし……。けど、なぜかそう思ったんだよね。俺はそういうことしてたのかなあ」

「そのゆるゆるした格好から、大学ではキメてたって?」


 幽霊は軽く両腕を広げて自分の姿を見下ろし、「俺だってさすがにこんな格好じゃ外には出なかったと思う」と言った。彼の格好は、今日もゆるゆるのスウェットである。


「そりゃそうでしょうよ。と言っても、あんまりおしゃれしてるタイプでもなさそうだけどなあ」

「なんでさ」

「うーん、雰囲気? おしゃれかどうかっていうか、服装に限らずかっこつけるタイプじゃなさそう、かな」


 一緒にいて肩肘張らなくていいのは、幽霊が、どちらかと言わずとも気の抜けた空気感の人柄だからだ。格好をつけようとしたら、そうする自分に赤面しそう。

 そんなことを考えている美鈴に、幽霊はややむっとしてみせた。


「そぉ? 俺だって、そっちの服着たミリンさんと、今の服のミリンさんの違いがわからなかったときに、言うべき言葉はわかるよ」

「どっちもかわいいから、服なんて関係ないなんて言ったら、二度とデートしない」

「うぇっ、違う、重要なのは中身だから、外側は何でも……アッごめんなさい」


 美鈴があからさまに顔をしかめたので、幽霊は亀が甲羅に首を仕舞うように肩をすくめた。


「男の子って、みんなそういう言い訳するよね」

「言い訳じゃなくて、本当にそう思うんだよ……。女の子って、そこんとこ、わかってくれない」


 彼は、少し呆れたように言った。

 その気持ちは嬉しいと思うのだが、しかしながら、おしゃれしてもどうでもいいと言われるのも遺憾である。


「ちょっとでもかわいいと思われたいの。どんな服が好みかなあとか、いろいろ考えるよ。中身が重要って言ったって、好みに合わないとかわいくないとは言うじゃん」

「俺はミリンさんをかわいくないって思ったことはない」

「ぅぇ……あ、そう……」

「……」


 美鈴は言葉を途切れさせ、幽霊も何も言ってくれないから、気恥ずかしくて、やわらかい沈黙が落ちた。部屋の温度が三度くらい上がった気がするし、空気はふわふわとまろやかになった気がする。


 何の話をしてたんだっけ。

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うちの幽霊くん 昼の先輩と夜の君 崎浦和希 @sakiura

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