21.先輩のさしすせそ

「先輩、私の名前、知ってたんですね」


 食堂へ向かう途中、前を歩く先輩の肩のあたりを見ながら、美鈴はなるべくさりげなく、なんてことのないように聞こえるよう、慎重に声を出した。嫌だとか気色悪いとか、そういう気持ちは、もともと少しもないのだ。そう思われやすい問いかけであると、そのくらいは理解している。


「俺の名前、佐藤うしおって言うんだよ」

「さとう、うしお……」

「高校時代のあだ名は、味の素」

「それ、砂糖でも塩でもなくないですか……」


 先輩の肩が揺れる。笑ったらしかった。


「グルタミン酸ナトリウム。ナトリウム塩だから、少しはかするかな」


 うまみ調味料の正体は、去年の夏、農学の夏期講習で習った。

 グルタミン酸は、昆布に含まれる。

 そこから連想して、つい、あだ名がワカメじゃなくてよかったですね、と、先輩のふわふわのくせ毛を見ながら思った。

 もちろん声に出しては言わない。


「この名前が嫌だとか、そういうことはないんだけど、調味料には少し敏感になった」


 先輩の言わんとすることが、美鈴にもわかってきた。


「それで……」

「そう。去年の夏、ミリン、って呼ばれてるのが、耳に入ってきて。班分けの名簿を見て、名前、覚えたんだ」

「よくわかりましたね、漢字で」

「読みがわかっていれば、受講生のなかで、そう読みそうなのは海野さんだけだったから」


 食堂について、メニューを見る。注文と受け取りのカウンターが、日替わり定食を選んだ美鈴と、カレーを選んだ先輩でいったんわかれたが、レジを通過したところで合流した。

 昼休み開始からやや出遅れたせいで、席を探すのに少し苦労したものの、広い食堂の、レジから遠い端っこ、窓際のカウンター席が横並びで空いているのを美鈴が見つけ、事なきを得る。


「きっかけは名前だったけど、名前だけで憶えてたわけじゃないよ」


 美鈴が焼き魚をほぐして口に入れたとき、先輩は出し抜けに言った。


(何かやらかしたっけ……?)


 目線だけを先輩に向ける。彼は、口がふさがっている美鈴を見て、自分のカレーを口に運んだ。


 さっきのこと、どう思われたのだろう、と、頭の片隅でずっと思っている。

 先輩の様子に変わりはないけれど、助けてくれたということは、状況を理解しただろう。付き合っていたのに、その相手を好きじゃなかったなんて言った美鈴に、呆れていてもおかしくない。


「海野さん……ミリンさん、大丈夫?」

「あ、……さっきの、思い出していて。今さらですけど、変なことに巻き込んで、すみせんでした。それに、助け船を出してくれて、ありがとうございます」

「大変だったね」


 先輩は、労るような笑みを美鈴に向けた。気まずい美鈴が視線を逸らすと、彼はのんびりぼやいた。


「人を好きになるの、難しいよなあ」

「えっ?」

「俺もわかるよ。『わたしのこと、好きじゃないんでしょ』って振られたことある。三回くらい」

「三回?」


 付き合って別れた回数が三回なら、まあそんなものか、という範囲だろうが、同じ理由でとなると、問題があるような気がしてしまう。美鈴なら、一回で懲りる。というか、懲りたところだ。


「付き合ってって言われて、……断る理由も特にないし、大学生って彼女がいても普通だろうし、けど、そこまで真剣である必要は……あの、結婚を考えるとかそういうね、そんなこともないよなあって思って」

「女子のあいだで、彼氏としてはダメって言われるギリギリ、アウトっぽいですね」

「でもさ、相手を好きじゃなければ全部断るのも、どうかなって思うじゃん……。相手の子、さすがに全然知らない人は断ったけど、グループとかサークルとかで付き合いのある子で、友だち、っていうか……そういうサークル内で楽しくやってる人なら、まあ、付き合ってみようかな、と思う……」


 先輩も、自分のそれに自信があるわけではない、どちらかと言えば自信も無い寄りのようで、歯切れが悪い。


「それで付き合ってみたけど、振られてきたわけですね……」

「うん……」


 彼は小さくため息をついて、スプーンの先で、カレーのにんじんをつついていた。


「付き合って楽しかったし、それなりに、彼女として意識もしてたんだけどな。その子たちの言う『好き』って、どうしてあげたらよかったのかな」

「……わかったら苦労ないですよ……」


 三回も繰り返したことはともかく、先輩の心情は、美鈴にもとてもよく理解できた。

 違うのは、少なくとも美鈴は、元彼を好きなつもりだったことだ。どちらかと言えば、美鈴のほうが、たちが悪いのかもしれない。

 三回やらかしたことと、どちらが重罪だろう。


「付き合った子たちが、俺の何から、好きなわけじゃないって思ったのか、全然わからないんだよな。べつに、好きじゃなかったってわけでもないんだけど」

「先輩なりに、好きだったんですか?」

「一緒に楽しく過ごして、ちょっと喧嘩とか仲直りもして、ほかの人より仲良くなれたから、好きになれるかなって思った」

「それ、好きではない、ような……」

「好きに至る前に振られたって思った」

「……」


 感想に困る。

 情がないと言えばそうとも言える気がしたし、とはいえ、先輩なりに思いやっていたのだろうことも、美鈴にはわかる。

 ただし、女子会で話題にしたら、コメントの七割は非難だろう。七割のうち、そのさらに三割くらいは、ノリではやし立てる程度かもしれないが。

 人付き合いとは、あっちでもこっちでも、何かと難しいものである。ウラのウラのウラ、くらいは、普通に存在する。


「至る前、でもないな。彼女だってちゃんと思ってて、ほかの子より特別で、そういう気持ちはあったよ。無理にそう思ってたってわけでもなしに」

「ややこしいですねえ」

「そうだねぇ」


 先輩は、長いため息とともにうなずいた。非難はされるが、同情の余地もある。

 なのに、彼はこう続けたのだ。


「でもホントは、そんなに難しい話じゃなかったのかも、とも思うんだ」

「どういうことですか?」

「人を好きになるって、難しいけど、難しいのは思い通りにならないからで、それって逆に、単純なことなのかもな、って。理由はあるかもしれないけど、理屈じゃないな」


 美鈴は、ゆっくり箸をおろして、先輩の横顔をしっかりと見上げた。


「……あの、まさかとは思いますけど、今、彼女いませんよね?」

「それはない、さすがに」


 よかった。相思相愛の彼女ができたから悟りを得たのかと思った。

 しかし美鈴はすぐに、油断するのは早すぎたと思い知ることになる。


「っていうか」


 先輩はつついていたにんじんを転がしてスプーンに載せ、大きめのひと口で、皿に残っていたカレーを平らげた。大きく口をあけるのを少しもためらわないところ、男の子だなあ、と思う。つられて食べるのを再開した美鈴を置いて、先に食事を終えた彼が、トレイを軽く奥に押しやりながら、言った。


「今は、好きな子、いるから……」

「んぐ」


 即座に突っ込みたかったが、口の中にある米に邪魔された。咀嚼したりないまま飲み込んで、喉につっかえそうなのを、水で流す。

 けれど、間が空いて言うべきことを整理したら、気持ちが勢いをなくして、ひたすら気まずさだけが残った。言いたくない、と思いながら、しぶしぶ口をひらく。


「私といたら、ダメなんじゃないですか、それ……」

「……」


 先輩は、すぐには何も言わなかった。美鈴は内心で頭を抱えた。

 感情的な部分は置いておいて、今の状況が何を表すか、わからないとは言わない。

 先輩が天然記念物ものの大らかさを持ち合わせていない限り、普通、たぶん、おそらく、好きな子がいる状態では、別の子とふたりきりで食事なんかしている場合じゃない。ここが大学の食堂で、なりゆきがありうるとしても、この雰囲気でそうじゃないことも、わかる。


 それらを抜きにしたところで、好きな子がいるのに、まったく別の子の手を取って、付き合っていると積極的に誤解させるようなことは、大らかが度を超えていてもしない。

 美鈴が何を考えたか、先輩も察したはずだ。


 いったい、何のつもりで、今、好きな子がいるなどと言ったのか。それはもともと、今言うつもりがあったのか、ただつい言ってしまったのか。

 この場、どう片づけたらいいのだろうか……。

 こういう悩ましさを、つい最近、別件でも感じた気がする。


(そう……あの幽霊……)


 間の悪い状況の作り方がよく似ている。

 美鈴は、残った定食を急いで口に放り込んだ。この際、行儀や体裁は後回しだ。

 そうして食事を片づけて、椅子から立ち上がる。


「私、次の講義があるので、もう行きますね」


 逃げるが勝ち。

 あんまりな不意打ちを食らった今の美鈴では、何の対策も立てられない。

 先輩は、美鈴を引き留めたりしなかった。


「……うん」

「さっきのこと、本当に、ありがとうございました」

「気にしないで」


 そう言いながら、彼はほのかな苦笑をうかべて首を横に振る。美鈴の行動を、彼がどう受け取ったのか、その表情や仕草からは読み取れなかった。もちろん、突っ込んで訊くわけもない。

 美鈴は軽く頭を下げて、きびすを返した。


 美鈴自身、どういう感情で逃げることを選んだのか、自分でもよくわかっていない。

 すぐに決着をつけることもできたはずだった。よく知らないひとなのだ。普段の、まして元彼とのことで痛い目を見たばかりの美鈴であれば、答えは決まっていたはずだ。


 そうしなかったのはなぜなのか。

 なんで先輩は、よく知りもしない美鈴を気にかけていたのか。

 先輩の気持ちについて、自分はどう感じているのか。


 全部、ほんとうはわかっているような気もする。そうではなくて、やっぱり何もわからない、とも思う。

 しかしながら、根本的に、何がわかったら解決するというのか。どういう状態を解決と呼べるのか?

 美鈴の行動次第で、きっとどうとでもなるけれど、自分がどうしたいのかを見つけられないでいる。

 先輩がいったいどうしたかったのかも美鈴には知りようがなく、あれが成りゆきで口を滑らせたかしたものであったのなら、もしかしたら、先輩自身でさえも、わかっていないのかもしれない。


(どうしよう……?)


 いくら考えても、正解と思えるものは思い浮かばなかった。

 選択肢自体は限られている。


 付き合うか付き合わないか。先輩の気持ちをはっきり聞くか、あいまいなままにしておくか。きれいさっぱりなかったことにして、先輩とはもう会わないでいるか。


 どれもこれも、正解でも不正解でもないような気がした。

 そもそも、たぶん、正解、不正解が、ここには存在しない。

 あるのは、美鈴と先輩が、どうするのか、という問いだけだ。

 レポートかよ、と、内心で悪態をつく。

 資料から自分なりの結論を導く形式の、答えの用意されていない問いかけ。資料は、状況、先輩の言葉、表情、態度、美鈴自身の感情。

 回答の作成方法は自由。

 〆切、未設定。ただし、突然宣言される可能性、あり。


「ほんとに、どうすんのよ、これ……」

「え? どうしたの? ミリンさん? ミリンさんってば、おかえり!」


 その日一日、どう過ごしたのかあまり記憶にない。

 気づけば美鈴は帰宅していて、玄関で幽霊に出迎えられていた。


「た……ただいま……?」

「うん! おかえりなさい、ミリンさん!」


 声をはずませた幽霊は、こちらはこちらでどういうわけか、妙に機嫌がよさそうだった。

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