20.子どものフリしたおとなの狡さ


 キャンパスに着けば別れると思っていた先輩とは、講義が同じだったことで、隣同士座ることになってしまった。美鈴にも先輩にも、合流する友人がいなくて、離れるタイミングもなかったのだ。適当な理由をつけて離れようと思わないくらいには、先輩の隣が苦痛ではなかったのもある。


「海野さんは、どうしてこの講義を取ったの?」

「シラバスを眺めてて、なんとなく、です。教養の単位で、どうせなら自分の学部と関係ないこともいいなって。先輩は、三年で教養って、少し珍しくないですか?」

「……友だちに誘われて、合わせて講義取ってたら、必要な単位が、歯抜けになっていたんです……」


 先輩は情けなさそうにしょんぼりと肩を落とした。


「……。人付き合い、よすぎるんじゃないですか……?」

「一緒に取ろうって言われたら断れなくて……。ひとりならよかったんだけど、別々の友だちから、それぞれ言われたら……」


 なんでまたそんなことを、と思わずにいられなかった。

 限度があるだろうに。


 疑問は顔に出ていたのか、先輩が小さく息を吐いて続けた。


「人と違うのが、なんだか怖かったんだ。先輩もこの講義取ってただとか、人気がある、単位が取りやすい、みんな選ぶのはこれとか、そういうのから外れると、キャンパスでひとりになりやすいでしょ?」

「まあ、でも、大学って、そういうものなんじゃないですかね……」


 言ってしまってから、嫌味っぽかったかな、と思ったが、先輩はなぜか、明るいまなざしを美鈴に向けて、笑った。


「この大学って、同じ高校から進学してくる子、多いじゃん。俺は地方から来てて、同じ学校の子もいなくて。入学式のオリエンテーションのときから、周りが同じ高校の子でグループになってるの見て、焦ってさ」

「そんなの、入学してすぐだけですよ。みんな、授業やサークルがバラバラになったら、高校つながりでも会えなくなりますし」


 美鈴は、同じ高校の子たちの顔を思い浮かべ、最後に会ったのはいつだったっけ、と考えてみた。疎遠というほど前ではないけれど、頻繁とは言えないくらいに、前。奈子か、昼休み前の少人数講義で同じ班になった、惰性みたいなグループで休み時間を過ごすことのほうが、ずっと多い。

 美鈴の場合は、バイト先に同じ学校の子がほぼいないので、学内のつながりなんてほんのちょっとだ。


「でも、先輩の不安な気持ちも、わかります。だからって自分の単位が足りないっていうのは、なんていうか、……お人好しが過ぎると思いますけど……」

「しっかりしてないって言っていいよ」


 そうは言われても、それこそ親しくない相手には、だ。先輩もそれはわかっているのか、自分で言ったことに自分で苦笑していた。


「大学に入って、高校までと全然違って、まわりがおとなっぽく見えたり……見えたっていうか、実際、俺よりおとなだったんだろうけど」

「私からしたら、先輩もおとな側ですけどね」

「えっ、そんなことないよ」


 先輩は、お世辞や場をもたせるための定型句ではない、心から思っているというふうな言い方をした。彼は、美鈴がなぜそう言うのかわからないとでも言いたげだけれど、美鈴のほうが言いたい。


「先輩って、化粧してある程度ちゃんとした服を着てれば、女の子をおとなっぽいって思うタイプですか?」

「いやいや、さすがにそこまで単純じゃ……。ミ、海野さん、しっかりしてるし」

「レポートのこと知っててそう言うと、先輩がよっぽどみたいに聞こえますよ」

「あれは……」


 何か言いかけたのに、先輩は言葉を切って、しゅんとしてしまった。

 彼を否定したかったのではないが、自分をしっかりものとは思わない、というか、実際にしっかりしてなどいないことを、自分のことだから、美鈴は先輩よりも知っている。


 そのまま先生が来て講義が始まってしまって、黙って隣にいるのが絶妙に気まずかった。

 そっと先輩をうかがってみるものの、不自然に横顔を凝視するわけにもいかず、自然、美鈴の視線は先輩が取るノートに落ちた。

 おしゃれな外見と、やや繊細そうな内面の、どちらとも違って、彼の字はけっこう大ざっぱだった。おおらか、伸びやか、とも言える。罫線を無視するなら、いっそ無地のルーズリーフを使ったほうがいいんじゃないか、と思うくらいの自由さだ。

 ふと、先輩の手が止まる。


「……どうかした?」


 小声でささやかれて、はっとした。


”すみません、ちょっとぼうっとしてました”


 美鈴はルーズリーフの端っこに文字を書いて、先輩に見せた。すると、彼はちょっと腕を伸ばして、美鈴の字の下に、にっこり笑う顔を描いた。


「……」


 横目でうかがった先輩は、もう前の板書に目を向けつつも、微笑んでいた。その顔つきは、なんとなく彼の描いた顔に似ている。

 なんだかよくわからないが、機嫌がよさそうだ。

 美鈴は、彼は気づくだろうか、と思いつつ、顔の絵のそばにシャーペンを走らせた。


”何かいいことがあったんですか?”


 美鈴の動きが視界に入っていたようで、先輩は美鈴が手を止めるとすぐにルーズリーフを見た。笑ったのか、驚いたのか、小さく息を吐く音が聞こえる。

 それから少し間が空いた。美鈴が、前を見ながらも意識は隣に向けてじっとしていると、先輩は何かを書こうと手をルーズリーフの上に持ってきて、そこからも、ややためらうようにくるんとペン先を泳がせ、ゆっくりと字を書き付けていく。


”あのね”


 そこまで書いたのに、その上に二重線が引かれた。次いで先輩のペン先は、そのすぐ下を、やや早めに滑った。


”す こ し ね”


 文字が恥ずかしげに小ぶりで、そのぶん字間があいていた。

 思わず顔を上げて先輩の表情を見たくなる。でもそれで目が合っても、授業中では何かを言うにも不自由すぎるから、まじめに講義を受けるふりをした。

 残りの数十分、講師の声よりも、隣から聞こえるかすかな衣擦れの音や、シャープペンシルの摩擦音ばかりが、美鈴の意識を持って行っていた。




 講義は、チャイムが鳴るのとほぼ同時に終わった。

 先輩に気を取られて、ところどころ内容の飛んでいるルーズリーフをバインダーに綴じ、ペンをペンケースに仕舞う。学生たちが出口付近で黒い人だかりを作りつつあるなか、美鈴がいつもよりゆっくり片づけをしたのは、隣の先輩の出方をうかがっていたからだ。

 このあとは昼休みの時間帯である。

 誘ってほしいとか、そういう気持ちとも違うけれど、このまま別れるのも味気ない気がする。

 かといって、べつに親しいわけではない先輩に、昼休みどうするんですか、とわざわざ聞くのも気が引けた。特に用事はないと言われて、じゃあ一緒にご飯食べましょうよ、と言う仲ではない。


 美鈴は私物を鞄に入れたあと、中身を整理するふりをしながら、先輩が席を立つか、何か言うのを待っていた。入り口はまだごった返しているから、まだ席にいても不自然ではない。先輩も人が捌けるのを待っているのか、のんびりと荷物をまとめていた。

 隣の席の先輩ばかり気にしていた美鈴は、通路側に座る自分の横で人が立ち止まったのを、特に気に留めなかった。


「ねえ、ちょっと」


 声をかけられて何気なく振り返ろうとしたら、強く肩を掴まれてぎょっとする。


「えっ、何?」

「ミツくんに手を出すの、やめてくれない!?」

「んえ?」


 修羅場、の文字が頭をよぎっていった。本来の意味ではないが、俗に言うそれ。

 こんな漫画かドラマみたいなことが、自分の身に起こるなんて。


「いや、あの、べつに私……」


 肩を掴む手をたどって見上げた先にいたのは、美鈴の元彼の、今の彼女だった。

 なんでまたこんなところで、とうんざりしかけて、泣きそうな顔を見つけてしまい、ため息を飲み込む。


 こういうことをしてしまうのが、人を好きな気持ちなのかなあ、と思う。


 とりあえず立ち上がって向き合うと、相手は見上げていたときの印象よりも小さかった。

 といっても、おおよそ美鈴と同じくらいの身長である。


「あの、全部勘違いだから」


 美鈴は、この彼女と知り合いではない。それこそ、元彼の近くにいたから、今の彼女はこの子か、と知っているだけだ。付き合うに至った経緯はおろか、学部も学年も、年下なのか年上なのかさえ知らない相手だ。


「勘違いって、そんな気合い入った格好して、気を引くつもりだったんでしょ」

「これはそういうわけじゃない……っていうか、今日会う予定とかないし、どこにいるかも知らないし……」


 元彼は美鈴を煙たがっていたし、その態度を見ているこの女の子が、なぜ自分に、と考えかけて、奈子が、妙な含みのある言い方をしていたことを思い出す。


『向こうは美鈴のこと気にしてる』


 本当だとしたら、元彼のそれがたとえ美鈴が近づいてこないようにとの警戒だっだとしても、彼女がこんな顔をする理由として、じゅうぶんなのかもしれない。


「……」


 先輩がまだ横にいるときに、こんな話はしたくなかった。

 たいして親しいわけではないけれど、少なくとも好意的に接してくれる人に、わざわざ自分の嫌なところを知られたいとは思わない。

 だけど、言ってあげなきゃいけないんだろうな、と思った。


「私、彼のこと好きじゃないし、付き合ってたときから、そうだったよ」


 彼女に顔を向けているから、先輩がどう思ったのか、知ることはできなかった。


「……だから、向こうも私が嫌になったんだと思う」

「違う」


 安心して、と言おうとした美鈴を、彼女がさえぎった。もともと泣きそうだった顔がもっとゆがんで、ていねいにアイシャドウで囲われた目から、大粒の涙がこぼれた。


「好かれてないことを嫌だと思うの、なんでだと思う?」

「え……」

「好きだからしんどくなったんだよ」

「……」

「しんどくなって別れたからって、海野さんを好きな気持ちが、なくなったわけじゃないから……」


 恋敵であるはずの美鈴に、彼のそんな気持ちを泣いて伝えてくるほど、このひとは彼が好きなんだ。


 まっすぐ伝わってくる切なさが、美鈴の心を揺らした。

 彼と別れたときや、付き合っていたときでも、彼とかかわることで、こんなに切ない気持ちになったことはなかった。

 申し訳なくて、でも、美鈴にはどうすることもできない。

 正直に言えば、元彼にそこまで好かれていたとも思えずに、誰がどこで何を勘違いしているのか、はかりかねるところもある。

 そしてたとえ、元彼が美鈴をまだ好きでいるのだとしても、復縁するわけがないのだ。


「ミリンさん」


 途方に暮れる美鈴の手を、後ろからそっと引くものがあった。


「お昼、時間なくなっちゃうから、行こうか」


 それがどういう意味か、美鈴より、美鈴の前で泣いていた女の子のほうが先に理解していた。

 彼女はハンカチで顔をおさえ、それから美鈴と、美鈴の後ろにいる先輩を見て、小さく頭を下げた。講義室を出ていく彼女を見送って、少ししてから、先輩はまた美鈴を呼んだ。

 振り返ると、彼は気まずさや、気遣いや、いたたまれなさ、そのあたりが混じり合いつつ、穏やかな微笑をうかべて、美鈴を見ていた。


「センター館の食堂でいい?」


 何でもなさそうに尋ねてくる。


 やっぱりおとな側じゃないの、と、思いながら、美鈴は「はい」と答えた。

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