19.思いがけない誤算
朝目覚めたとき、やけに部屋がしんとしていた。
行き場のない寂しさを胸の中に仕舞い込んで、カーテンを開ける。晴れた空に、今日も暑い日になる気配を感じた。
顔を洗い、ヨーグルトを朝食にして、メイクをする前に、開けたクローゼットの前でしばし悩む。
何でもない日だ。大学に行って、バイトをして、帰ってくるだけ。
でも、初夏らしい浅緑色の、よそ行きのワンピースを、クリーニング店のハンガーから外した。
スリーブレスだから、薄いグレーのレースのカーディガンを羽織る。メイクはいつも通りにしたけれど、靴はつま先が丸くて可愛らしい印象のバックストラップパンプスにした。サンダルは、まだちょっとだけ早い気がして。
「……行ってきます」
玄関を出るとき、誰もいない部屋を振り返って言う。実家を出てから、久しぶりに口にした。
恋をすると、景色が違って見えると言ったのは、いったい誰だったか。
美鈴の目に映る街はいつも通りで、どこも変わらない。だけど、恋をしていない、わけじゃない、と思う。何でもないのに少しくすぐったくて、なんとなくいつもより遠くを見るから、見えるものが違うのではないだろうか。
そうして視野が広かったせいか、美鈴は、普段は意識しない駅の人波の中に、意外な人を見つけた。
先に改札を通ったその人は、美鈴に気づいていない。声をかけるかどうか少しだけ迷って、レポートの恩人だし、ということで、ホームについたところで後ろからあいさつをした。
「おはようございます、佐藤先輩」
「! おはようございます」
先輩は、振り返って一瞬目を丸くしたあと、微笑んで頭を下げた。美鈴がいることに驚いた様子はない。
「先輩の家も、ここの近くなんですか?」
「うん。図書館のもう少し向こう。海野さんの家の三軒隣のアパートだよ」
「えっ」
「……あ。ごめん、実は前に、この駅で見かけたことあって。俺が後ろを歩いてたから、知ってたんだ」
「……そうだったんですね。私、全然気づきませんでした」
「まあ、そうだろうね」
先輩が苦笑する。美鈴は、いったいいつからこの人は自分のことを知っていたのだろう、と、顔には出さないようにしつつも、気にせずにいられなかった。駅で見かけて気づくくらいに、彼は美鈴を認識していたのだ。美鈴はこの先輩のことをついこのあいだまで全く意識していなかったのに、先輩はそうじゃなかった、というのが、なんだか不思議だ。
しかし、この無害そうな先輩だから美鈴も不思議に思う程度で済むけれど、相手によってはだいぶ問題である。
あの幽霊も、無害だから何も問題はなかったが、自分は知らないうちに誰かに家を知られていることが多いのだろうか、と、つい疑問も生まれた。
いくらなんでもそうそう人に目をつけられるはずはないから、たぶん、偶然だろう。
「大学って広いし人も多いのに、案外、世間は狭いんですね」
「そうだねぇ」
先輩は可笑しそうに目を細めて、のんびりうなずいた。そのまぶたが少し腫れているように見えて、少し気になったが、ただの顔見知り程度では、尋ねるきっかけがない。
「このあいだは、資料を譲っていただいて、ありがとうございました。おかげさまで、無事レポート出せました」
「どういたしまして。どういうレポートになった?」
「そうですね……。私は、死なないとは言わないんじゃないか、と思いました。分裂して別個体になるなら、そこから先は、違う経験をするわけじゃないですか。そうしたら、もう元のものと同じではないと思って」
「なるほど。そうしたら、アメーバに経験という概念があるってこと?」
先輩の目は大きくて丸いから、じっと見つめられると視線を強く感じる。美鈴の肌に当たる視線の面積なんてものがあったら、広そう、と、くだらないことを思いながら、問いかけの答えを考えた。
「うーん……」
経験、つまり記憶。そもそも、アメーバに脳みそってあるんだっけ、と考える。高校の生物で単細胞生物について習ったとき、脳みその話があったような、なかったような。
「仮にあったとして、分裂によって前の経験をそのまま引き継いでいくなら、はじめに生まれたものの記憶がずっと保たれるよね。だとすると、はじめのものがずっと生きているとも言えない?」
「そうであるような、ないような……。でもそれだと、代を重ねるごとに、あまりに膨大になりませんか? そんなことがあるんでしょうか?」
「ずっと生きてるって、なんだかすごいことだなって思ったんだけど……、そうなると大変そう。記憶って、どこに蓄積されているんだろう?」
自分で始めた話のはずが、先輩はそう言って首を傾げた。宙に視線をやって考え込んでいる。
ヒトなら、海馬とか、そのあたり。美鈴もなんとなく知ってはいるけれど、本当にそれだけか、と問われたら、うなずけない。
人の記憶の在処。心の生まれるところ。それがすべて脳だけのはたらきだと思うには、思い出も感情も、少し不思議すぎる。
(俺も、好きだって、言いたかったよ……)
美鈴は、脳がないのに、笑って、泣きそうになるひとを、知っている。
美鈴が彼と話をするだけじゃなくて、触れあうことができたら、と思ってしまったのも、脳みそだけでは足りないと感じたから、であるような気がした。
目と耳、それに皮膚。たぶん、匂いとか、そういうものも。
見えたもの、聞こえたもの、触れたもの、五感のすべてが、それぞれ何かを感じた瞬間に、たとえほんのかすかでも、何かの感情を生まれさせている。
触れたいと思ったのは、美鈴の脳ではなくて、指先であるように思う。
指先がそう感じたから、頭に衝動をフィードバックしたんじゃないか。
脳ではないどこかにも、気持ちや思い出が仕舞われている場所――心の生まれる場所が、あるのではないだろうか。
「頭だけじゃないですよね、たぶん」
「アメーバに頭ってあったっけ」
「あっ、すみません、人間のこと考えてました。……人間と、人間っぽいもの」
「っぽい……? サルとか?」
美鈴は、まあそんな感じの、とごまかした。あの幽霊は、サル呼ばわりされたと知ったら拗ねそうだ。
「先輩は、どんなレポートにしたんですか?」
「どんなだったかな。なんか俺、死ぬってどういうことなんだろう、とか、まあいろいろ考えて、脇道に逸れて、そのまま徹夜したせいで、肝心のレポートに何書いたか、いまいち憶えてないんだよね……」
「大丈夫なんですか?」
「あの講義はとりあえず提出さえできればいいから、たぶん、平気」
「そうじゃなくて、先輩です。目が少し腫れているみたいだから、寝不足がまだ響いてるんじゃないかって」
「あれ、冷やしたんだけど……」
先輩は、恥ずかしそうに目元に手をやった。子どもみたいに力の加減なく目を擦るから、つい、口を出してしまう。
「擦ったらだめですって。昨日も忙しかったんですか?」
「ううん、昨日はかなり早くに寝たよ。それに、一徹くらい平気だって」
「目を腫らして平気だって言われても……」
「そんなに? あはは……」
そこまでひどくはないが、肌が白いから、赤いのが目立つ。そういうことを、あまり親しくもない男の人相手に言っていいのか、なんとなく判断がつかなくて、つい黙る。
黙ってじっと見つめてしまったからか、先輩が手のひらで目を隠した。
(……あれ……?)
朝のせわしないホームだから、彼はすぐに手を下ろした。それでもまだ美鈴と目が合ったことを、不思議そうに瞬く。
「俺の顔、どうかした?」
「いえ、すみません、知り合いに似ていた気がして」
美鈴の頭に、幽霊のはにかむ顔がよぎった。あの幽霊はオーバーサイズの服でゆるゆるしているから意識しづらいが、そういえば体格はこの先輩と同じくらいだし、年もたぶんそう変わらないから、先輩の印象的な目を隠されたら、なんとなく似て見えるのかもしれない。
それとも、美鈴が幽霊のことをよく考えているからだろうか。
「俺に似ている人がいるなら、ちょっと気になるな」
「気がしただけで、まあ……」
先輩に微笑みかけられると、美鈴は少し困る。幼めの顔立ちだからか、やけに親しげに見えるけれど、実際はそんなことはない。人気者だというなら、先輩のほうは人と打ち解けるのにも慣れているのかもしれないが、美鈴はそこまで人付き合いが得意ではないのだ。
あの幽霊に対してはいろいろ言った美鈴でも、先輩を相手にすると、幽霊に仲間意識を抱く。
少しだけ、先輩をうらやましくも思った。
人気者になりたいとか、そういうことはどうでもいいけれど、もしも彼のようにそつなく人付き合いができるタイプだったら、美鈴のような気まずさはあまり経験しないだろう。
または、あの幽霊が、この先輩みたいなタイプだったら、幽霊になることなんて、なかったかもしれない。
「何かの、小説で読んだことあるな。自分とそっくりの人間がいて、でも、生まれも性格も何もかも、全く違う人生を送ってきた。彼らが出会ったとき、互いがうらやましく見えて、入れ替わるってやつ」
「先輩は、入れ替わってみたいと思うんですか?」
「読んだときは、怖いなって思ったおぼえがあるけど、最近は、ちょっと興味あった」
「別人になりたいってことですか?」
「うん」
意外だった。
先輩ほどうまくいっていそうな人が、それを捨てて、別のものを欲しがるなんて。
でも思えば、美鈴はこの人のことをよく知っているわけでもなく、あるのはただの噂話から来たイメージだ。
「でも今は、やっぱりない、かな」
「どうしたんです?」
「今入れ替わっちゃったら、俺がやりたかったこと、っていうか……憧れてたこと、なくなっちゃう気がするから」
「それって、最近、いいことがあったってことですか?」
「うん」
彼は、とても嬉しそうに目を細めて、美鈴にうなずいてみせた。
整った顔立ちが幸せそうに微笑むと、とても清らかで、美しかった。
ごく自然に、その幸福が壊れることのないよう、祈りたくなる。
「……よかったですね」
「うん」
子どもみたいにうなずくのは、彼が心から、その『いいこと』を喜んでいるからなのだろう。
何があったのかは知らないが、美鈴の心まで温かくするようなまっすぐさだ。
だから、人に好かれるのだろうな、とわかった。
純粋そうなところは、あの幽霊が小さく笑うときの感じにも似ている。
(幽霊だって、きっと、人に好かれるタイプだったのに)
臆していないで、話しかけてくれていたら。
つい、もしも、を思い浮かべてしまう。
あの幽霊がここにいたら、こんなふうに笑うんだろうな、と、先輩の姿を重ねるのは、妙に簡単だった。
それでついうっかり、この先輩にも幽霊に対するような親近感を抱き、微笑み返して、ふと我に返る。
「どうかしたの?」
顔をそらした美鈴に、先輩はやや心配そうに声をかけてくれた。
「ちょっと、目に埃が入って」
先輩にしてみれば、人が親しく笑いかけてくるのは慣れたことかもしれないが、美鈴にとっては、急に距離を詰めてしまったみたいで、気恥ずかしいのだ。
「えっ、大丈夫? 目薬か、水道……」
「いえ、大丈夫です、もう取れました」
ごまかしの常套句のような美鈴の言葉を、先輩がそのまま信じたうえ、過剰に心配したのは誤算である。視線を上げると、彼はほっとしたように「よかった」と言った。
勝手に抱いていたイメージより、だいぶ素直で、邪念など知らないみたいなひとなんだな、ということを知った美鈴だった。
そんなところも似ている気がして、なんとなく、
(困ったな)
と、思った。
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