18.神さまの意地悪と幽霊
「ミリンさん!」
「……」
「よかった、気がついた……。ねえ、具合悪いの? どうしよう、俺、救急車も、人も呼べないんだよ」
「え、何?」
視界いっぱいに幽霊の顔がある。すごく近い。
普通なら吐息がかかりそうなほど近くても、やっぱり目元は前髪に隠されて見えなかったし、体温も感じなかった。
「気づいたらミリンさんが床に倒れてて、ごはんも食べかけだし、びっくりして誰か呼ぼうと思ったのに、スマホ触れないし、外に行っても戻されちゃうし」
早口の幽霊は今にも泣きそうな声をしていた。美鈴はやっと、自分が床に寝ていることを認識し、ゆっくりと起きあがる。美鈴に覆い被さるようにしていた幽霊が体を引いて、力なく正座した。深くうつむいたかと思えば、急に顔を上げて美鈴をじっと見てくる。
「ミリンさん、大丈夫なの? どこか悪かったりしない?」
「なんともないよ」
「だって、倒れてたんだよ? このまま死んじゃったらどうしようって……」
「ただの寝不足だよ。幽霊なのに、変な心配して……」
思わず笑ってしまいながら、近くにあった鞄からスマホを取り出し、時間を確かめる。
二十二時。夏至が近づいたとはいえ、さすがに外も暗い。けれど昼の名残を感じるのは、空気に熱さが残っているからだ。
幽霊にふさわしい季節は、もうまもなく。それを待たずに現れた幽霊は、およそ幽霊らしくない男の子である。
「今日は、出るの早いね?」
「そうなの? 俺、そういうの全然わからないから……。ねえ、ほんとになんともないの?」
膝の上で手を握りしめて、声を震わせる幽霊は、もしかしたら、泣いているのかもしれない。幽霊だからなのか、その目に涙はないけれど、心なしか、青白い輪郭も小刻みに震えているように見えた。
電話のひとつもかけられず、誰にも気づいてもらえず、ここから出られない。涙をこぼすこともできない。
美鈴は幽霊を見つめて、ゆっくりと言った。
「本当に、大丈夫」
幽霊は、美鈴を上から下までつぶさに確かめるような間を置いたあと、肩の力を抜く。
「……それなら、いいんだけど……。俺、ミリンさんに何かあっても、何もできないから……」
「今日提出のレポートで徹夜したから、ご飯食べなきゃって思いはしたけど、途中で眠気に耐えられなくて……ちょっと仮眠のつもりだったんだよ」
ローテーブルの上の食べかけのサンドイッチを、まだ大丈夫だろうか、それともやめたほうがいいだろうか、と考えながら言う。もし美鈴が食中りでも起こそうものなら、美鈴よりも幽霊がつらい思いをしそうだ。
「……徹夜したのって、あなたのせいなんだよ」
「えっ?」
「きのうの夜、なんで出てこなかったの?」
「俺、そうなの?」
「うん。あなたのせいでレポートのこと忘れてたんだって、ちょうどいいし、レポート書くのにつきあってもらおうと思ってたのに。でもいつまで経っても出ないから、一晩中、気になって」
レポートだけなら、徹夜まではしないで済んだはずだ。でも、出てこない幽霊のせいで集中できなかったから、たった一ページくらいの小レポートに丸一晩もかかってしまった。
だから、正直に言えば、今は少し、ほっとしている。
「ごめん、俺、どのくらい時間が経ったかなんて、わからなくて」
幽霊のことが気になっていた、と言えば、彼は少しは喜んでくれるのではないかと思っていた。
それが逆効果で、しょんぼり落ち込むのを見て、自分の軽率さを後悔した。傷つけたくなかったのに、どうしてうまくやれないんだろう。
「……あなたが、悪いんじゃないよ」
「……でも」
「しかたがないって。悪いと思うんだったら、今日、話に付き合ってよ」
「寝たほうがいいんじゃ……」
「目が覚めちゃったし。ちゃんと寝るけど、寝るまで……。シャワー浴びてくるから、話したいこと、考えておいて」
クローゼットから、いつもより薄手の部屋着を取り出す。本格的な梅雨に入ったら底冷えする雨の夜もあるけれど、その手前の今は、夏へ一直線に向かっているような感じがする。
シャワーから戻ると、ベッドのそばで膝を抱えていた幽霊は、美鈴を見てはっと息をのんだ――ような気配をみせたあと、恥じらうように顔をそむけた。
美鈴は少し笑って、幽霊の横で、ベッドを背もたれに床に座る。彼と同じように膝を曲げ、持ってきた麦茶を舐める。風呂上がりには必ず水分を取るように美鈴に言ったのは、高校生のころに亡くなったおばあちゃんだ。
生前には、普通の家族として、可もなく不可もなく日々を過ごしていた。それなのにいなくなってしまってから、ときどき、こうしておけばよかった、と、いくつかの後悔が浮かんでくる。後悔とともに、思い出せることに安心しもする。
「ミリンさん、上着とか、膝掛けは……」
「いらないよ。何のために薄着にしたと思ってるの。暑いでしょ」
「で、でも」
「それより、話したいこと、何かあった?」
美鈴に取り合う気がないことがわかると、幽霊はそろりと姿勢を変えて、美鈴と同じようにベッドを背もたれにした。はす向かいでいるより、完全に隣に並んだほうが、視界には入りにくい。それでも美鈴を横目に気にしているのは、また倒れないかと心配でもしているのだろうか。
「話したいこと、でも、俺なんかが聞いていいことか、わかんなくて」
「化けて不法侵入がもっともダメなことだとすると、今さらじゃない?」
「そういうアレじゃ……」
美鈴のからかいに、幽霊は困ったようにゆるく首を振った。
「……いやなこと訊いて、嫌われたくない」
「そういうふうに言うほど、気になっているのに、訊きづらいことなの?」
「そうかもしれないし、違うかもしれないけど、ミリンさんがどう思うか、俺にはわからないんだもん」
「じゃ、訊いてみればいいじゃない」
「ねえ聞いてた? 嫌われたくないんだって」
美鈴は小さく笑った。幽霊の気持ちもわかるし、いっぽうで、美鈴には自分が決定権を握っているという余裕もある。
「大丈夫だよ」
幽霊に、そう言ってあげられるのが嬉しかった。
「訊いていいよ、嫌わないから」
「でも……」
「あんまり好きじゃないの、言いたいこと言えないとか、気になること訊けないとか。しんどいじゃない。今、そういう遠慮しないでいいって思うと、私が楽だから」
「……そういうふうに言ってると、つけ込まれるよ」
「誰にでもは言わないから、大丈夫」
相手が手も足も出せないとわかっているからこそ、美鈴にもこんなことが言える。つけ込んでいるのは、美鈴のほうだ。
本当は、思ってはいけない。それでも、思わずにいられなかった。
今が、ずっと続けば、いいのに。
「本当に、俺が何を言っても、怒らない?」
「うん」
「ものすごくひどいことを言うかもしれないよ」
「じゃ、私が泣いたら慰めて」
「言わない」
「泣いてる女の子って面倒だって、思うタイプ?」
「それは時と場合に……そうじゃなくて、ミリンさんを泣かせたいわけないだろ」
幽霊はむっとしたように美鈴に顔を向け、もそもそ身じろぎした。何かしたいことがあるのかと、美鈴がその様子を見守っていると、彼は透けている手のひらに目を落とし、しばらくそれを見下ろしてから、ぽつりと言った。
「……ミリンさんに、元気がなかった理由、ずっと、気になってて」
「えっ」
「ごめん……」
「あ、嫌だったとかじゃなくて。そんなふうに見える?」
思いがけないことだった。幽霊は美鈴を見て、首を横に振った。
「今は、そうは見えないよ。でも初めて会ったときにそう見えたのが、いつの間にかそうじゃなくなって。どっちにも、どうしたんだろうって、思ってる……」
彼は、見下ろしていた手のひらをゆるく握り、そのままぽとりと床に落とした。何もかも透ける手なのに、相変わらず、彼自身と、床は透けない。不条理だなあ、と美鈴はそれらを眺めて思った。
「ミリンさんに元気がないのはいやだ。だけど、俺の知らない何かがあって、元気になったのかなって思うと、それも気になる」
「なるほどねぇ」
「引いた?」
「べつに。人がそこまであけすけに言うのって珍しい気がするから、わりと興味深い、かな。でもやっぱり、ひとりで悩んで微妙な空気になるより、わかりやすくていいな」
「なんでも言葉にすればいいってものでもないと思うけど……」
「そうかもしれないけど、そこのとこ、判断するの、難しいよ」
言ったほうがいいことと、言わないほうがいいこと。その境目は、案外あいまいだと、美鈴は思う。相手のために言わないでおいたら、裏目に出ることもある。言い過ぎても、もちろんトラブルになりがちだ。
それでも、きちんと言葉にしてもらえないと、美鈴にはわからないことも多い。
「難しくて、うまくいかなくても、喧嘩して仲直りできるなら、それでいいんだと思う」
「嫌われるのがいやだって言ってたのと、矛盾しない?」
「それは、ミリンさんと喧嘩して仲直りできるか、わからないから……」
「仲直りできる保障なんて、誰とだってないでしょうよ」
美鈴はため息をついて、ベッドに寄りかかった。ずっと手に持ったままだったコップの中で、麦茶が揺れる。テーブルに置きたかったけれど、また体を起こすのが面倒だ。幽霊に、もしちゃんと体があったなら、ちょっと置いてよ、と手渡した。彼の腕の長さなら、簡単にできるだろう。
今は膝を抱いて丸くなっている半透明の体を眺めながら、もしも、を想像する。
「元気がなかった理由ね……。私にも、よくわからない」
「何かあったわけじゃないんだ?」
「彼氏と別れた。振られたっていうのが正しいんだけど。でも、私、そのこと自体は、嫌じゃなかったんだ」
「えっ……?」
「別れてほっとしたでしょって友だちに言われて、そうだったなって気づいた。振られたとき、これでもう、彼がしてほしいこととか、考えなくて済むんだ、って、思った……気がする」
自分を、ひどい人間だと思う。自分のことをそう思ってしまうのが苦くて、彼と別れたことより、ただ自分自身を受け入れたくないあまりに、気持ちが塞いでいた。
今は、それでもべつにいいかな、と思える。
情けないところがあっても、それを素直に口にできると、安心する。
「ひどい彼女でしょ」
「……」
幽霊は少しのあいだ、黙っていた。何かを考えているようだったので、美鈴も黙って待った。
喋らなければ物音ひとつ立てない幽霊の存在を、彼が黙っていて、美鈴が自分の手元を見下ろしていても感じるのは、気のせいなのだろうか。
すぐ隣にいるのに、体温も、呼吸の気配も、感じ取れるものはない。
さっき、今がずっと続けばいいのに、と思った。
けれどもしもそうなったら、いつか苦しくてたまらなくなるだろうことにも、気がついた。
話をするだけじゃなくて、もっと、やりたいことがある。
「ミリンさんの言うことだけだったら、ひどいのかもしれないって思う。けど、ミリンさんはそういう人じゃないって俺は知ってるから、たぶん、何かそれだけじゃないんだろう。違う?」
「……私には、よくわからない。何がダメだったか……元彼にはしてほしいと思うことがあって、私にはそれができなかった……。もしそういうことをやってたとして、それで自分がしんどかったら、それもどうかなって思うし」
「何か、嫌なことをしてほしいって言われたの!? ……っぁぅ」
幽霊が勢いよく美鈴を振り返る。ずっと薄着の美鈴を気にして下を向いていたのに、彼自身、そのことを忘れていたらしく、美鈴と目が合った、と思った瞬間、変な鳴き声をあげて声を詰まらせた。
「変なことは言われてないよ。たぶん、普通のこと。でも、普通のことを普通にやるのって、難しいなって、私は思うときが、けっこうあるの」
美鈴が少し身じろぎすると、幽霊は膝を抱えた腕にぎゅっと力を込めて小さくなり、なんとなく目をそらした、ようだった。本人はさりげなくしているつもりなのかもしれないが、目元が髪に隠されていても、なぜかわかってしまう。
目をそらしているから、美鈴が今、笑っていることを、彼は知らないだろう。
夜が更けてゆく。
徹夜明けの夜で、早く寝たほうがいいのはわかっていても、まだ寝たくない。この幽霊と過ごせる時間が、あとどのくらいあるのかわからない。
出会ってからしばらく経つのに、まだ恥じらう幽霊を横目に、美鈴は体を起こした。
「元彼ね、付き合っててもつまらない、って、言ったんだ」
「それはひどくない? 別れるにしても、言わずにおけばいいのに」
「ひどいかどうかは置いといて。なんでそう言ったのか、今ならわかる。だとしても、言われない付き合いは、できなかったんじゃないかな、私」
「……それって、ミリンさんが悪いの?」
「相性ってやつだと思う。……って、さっきからこっち見たり目をそらしたり、忙しいなあ」
美鈴が笑うと、幽霊は気まずそうに首を肩に埋め、ますます丸くなった。
「だって、そんな、薄着で……」
「言うほどじゃないでしょ、Tシャツだし。真夏になったらキャミソールで外歩く子たちだっているのに、こんなパジャマくらい、何だって言うのよ」
「……下も短くない?」
「短くない」
太ももの半ばほどの丈のズボンは、ゆとりがあるから、膝を立てている今はちょっとお腹側に下がってわだかまっている。だからといって下着が見えることはないし、自分の部屋にいるのに、おかしいほどではない。
美鈴がそういうふうに反論すると、いくらかのやり取りのあと、最終的に、幽霊は「努力はする」と言ってうなだれた。
元彼は美鈴のこんな姿なんておもしろくもなさそうにしていたのに、えらい違いだ。元彼とこの幽霊、どちらが男の子として普通なのか、美鈴は知らない。
どちらでもよかった。美鈴が今気にしたいのは、この幽霊だけだから。
少し落ち込んでいるらしい幽霊に、美鈴は、元彼の話を続けてみることにした。うまく気がそらせたらというのと、彼に聞いて欲しい気持ちがあった。
元彼が、美鈴に、夜中に電話してほしいと思っていたらしいこと。
美鈴は、何も話すことを思いつかなくて、電話しなかったこと。
話すことが思いつかないくらい、美鈴の気持ちは軽いものだった、ということ。
それに対して、幽霊は「俺なら、夜に話がしたかったら、自分から電話をかける」と言った。美鈴は思ったまま、「無理じゃない?」と返した。
そんなことができるタイプだったなら、片思いの未練で幽霊になったりは、きっとしない。
電話できないような幽霊だから、美鈴は、この幽霊が……。
自分の中にある気持ちに、気づかないふりをした。気づいてしまっても不毛だからだ。
それなのに幽霊は、彼の想いを言葉にするのを、ほとんどためらわなかった。
「もし俺が、誰かに片思いしてて、未練になってるとしたら……一番可能性が高いのは、君、じゃん」
形にされるのを避けてきたのに、自分から電話なんてできるタイプではないくせに、こんなところは図太い。でもそんな彼の遠慮のなさが、美鈴にとって楽なのも、たしかだ。
いつかは成仏してしまう。させなきゃいけない。それが互いの幸せのためだと、わかる。
交わした言葉のなかで、幽霊は、頑張ったり、気取らなくていい相手が彼氏ではないか、と言った。そういうひとがいてくれたらいいのに、と美鈴は思った。
できれば、透けてなくて、電話で話ができて、隣にいたら触れられるひとで。
そのうち、眠気が限界をむかえてベッドに入った美鈴を、幽霊は床に膝立ちになって、肘をマットレスについて、少し上から眺めた。
未練になって成仏できなくなるなら、告白すればよかったのに、と言った美鈴に、幽霊は、静かに、できるのならそうしていた、と答えた。
告白できなくて幽霊になってしまった幽霊が、美鈴には、とても、かわいかった。
おやすみ、と言われて目を閉じる。
美鈴が寝てしまったあと、眠ることもできずに独りで夜を過ごす幽霊に、本当なら、一晩中つきあってあげたい。けれど美鈴はただの人間だから、無理な話だ。
「……俺も、好きだって、言いたかったよ……。言えたならよかった。こんなふうになる前に……言えたら……。どうして、俺は何もしなかったんだろう……」
思わず飛び起きそうになった。
だけど、今美鈴が起きたところで、何にもならないと思って、じっと息をひそめた。幽霊は涙を流せないし、たとえ泣いていても、美鈴はその涙を拭ってやることもできない。
ここで美鈴が起きて話しかけても、互いにつらい思いをするだけ。
(そう思うなら、本当に、もっと早くに……)
どうして人には、どうしたらよかったのか、後になってからしかわからないのだろう、と、神さまに恨み言を言いたくなった。
幽霊にするくらいなら、ほんの少しだけでも、勇気を与えてくれたらよかったのに。
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