17.図書館の幽霊は大学につきものの噂話らしい

 息を切らして図書館へ駆け込んだ美鈴は、急ぎすぎてゲートの認証に引っかかりつつ、検索機へたどり着いた。ゲートで使ったチップ入りの学生証は、貸し出しカードにもなる。学生証を持ったままルーズリーフを引っ張り出して書籍名を打ち込み、『貸し出し可能』に丸がついているのを見て、やっと息をついた。


 書架番号をメモして、図書館の奥へ進む。出入りにチップ入りの学生証でゲートを開けないといけないところや、いくつもの検索機、パソコンブース、デパートにあるような半円形の案内カウンターに、広いバックスペースを持つ貸し出しカウンターと、エントランスこそ広々として現代的であるけれど、書庫へ入れば、可能な限り多くの本を詰め込むために通路は必要最低限の幅しか残されず、狭苦しい中を棚番号を確かめながら進むことになる。本が傷まないよう窓もなく、やや暗めの電灯のもと、床から天井までぎっしり本の詰まった棚のあいだを歩いていると、だんだん外の世界から遠ざかり、異次元に踏み込んでゆくようにも感じられた。


 書棚の奥に隠されるように存在する階段を上がったとたん、急に天井が低くなるのは、もともと二階だった部屋の真ん中に床を作り、二つの階にわけたからだ。だから、ひとつ上は中二階で、その上が三階である。ややこしいことに、もとが一階ぶんだから、中二階からは三階に上がる階段がなく、二階からしかさらに上の階には行けない。

 ほかにも、書棚で本来の出入り口や通路が塞がれていたり、増設のためにイレギュラーに横道があったりと造りが複雑で、おまけにどういうわけか携帯の電波が入りにくいところもあり、図書館で行方不明になった学生がいる、という噂が、まことしやかにささやかれている。


 大学によくある与太話なのだが、入り組んで先が見通せず、ひと気もなく天井の低い部屋で歩みにあわせて床が軋む音だけ聞いていると、書棚のあいだや、角を曲がったところに、死体があったらどうしよう、とつい怖くなってしまう。

 そうでなくても、迷ったら自分が行方不明になる、なんていう緊張もあった。


 そういうわけで、美鈴は本を読むのは好きなのに、大学図書館には滅多に来ない。馴染みのない場所だからか、たまに訪れると、利便性を捨てて無数の本を抱え込むこの場所は、大学の知性を肌で感じさせてくる。

 入学時のガイダンスで案内されたときに、江戸時代の和綴じ本なんていうものまで誰でも手に取れる棚に納められているのを見て、大学とはとんでもないところだ、と思ったりしたものだ。


「三階、生物学、基礎……三のC……」


 手元のメモと棚番号を確かめながら、細い通路を歩く。しんとして、だんだん心細くなってくる。

 ひとりぼっちなのに、無数の目に見つめられているかのような感覚。本の数だけ、それを選び、ここに収めた誰かの気配がある。それらが、美鈴がここの知性にふさわしいものか、見定めているかのようだった。


 資料が増えるたび、間に合わせの増築を繰り返してたくさんのものを飲み込んできた建物は、外から見ると何の変哲もない四角いコンクリートの建築物であるのに、内部は驚くほど有機的で、なんだか生き物めいてさえいた。


「私の部屋より、よっぽど『出そう』なのに……」


 あえてくだらないことを考えつつ、いよいよ目的の棚が近づいて、少し歩みをゆるめる。足音が小さくなったぶん、今まで美鈴のつま先に蹴飛ばされていた静けさが、ゆっくり迫ってきている気がした。


 この静けさに呑まれてしまう前に、ここを出なければならない。


 そんなことはないとわかっているにもかかわらず、時限付きの迷宮にいる気分になってくる。

 少しの息苦しささえ感じながら、目指す棚があとふたつ先ほどになったとき、急に前方で小さな悲鳴が上がり、次いでバタバタと本らしきものが床を叩く音がした。美鈴も驚いて肩が跳ねた。


「わあ……」


 美鈴を脅したわりに、今度は気の抜けた嘆息が聞こえる。息をひそめ、そっと音のしたところの棚のあいだを覗いてみると、男子学生がひとり、床に落とした本をゆっくり拾っていた。


「……佐藤先輩?」

「わあっ!?」

「あ、……すみません」


 せっかく拾っていた本を全部落とした彼は、美鈴を振り返って目を丸くした。


「ミ、海野さん」

「すみません、大丈夫ですか?」

「あ、うん。ごめんね、ありがとう」

「驚かせたのはこっちなので……」


 美鈴が足下に落ちていた本を拾って差し出すと、佐藤先輩は決まりが悪そうにしながら、両手で丁寧に受け取っていた。

 美鈴は、学内で噂になるような人に対しては総じて派手そうという印象を持っていたのだが、この先輩は、見た目こそ華やかであっても、表情や動きがなんとなく小動物を思わせた。ひとつとはいえ年上の男性に『かわいい』と思うのは失礼なのかもしれないけれど、つい心の内で呟かずにはいられないひとだ。

 偶然がなければ近寄らなかっただろうから、人は見かけによらないことを、はからずも学ばされた。


「海野さん、この本を探しにきた?」


 落とした本をひとつひとつ確かめながら棚に戻していた先輩が、そのうちの一冊を美鈴に見せる。まさに、岡田先輩が紹介してくれた本である。


「そうです。もしかして、先輩もですか?」

「うん。明日のレポート、すっかり忘れてて……」

「同じ講義取っていらしたんですね」

「うん」


 佐藤先輩は、こっくりとうなずいて、本を差し出してきた。


「俺がいてよかった。誰かがちゃんと戻さなかったみたいで、あそこの上に乗ってたんだ」


 彼が指さしたのは、天井まである本棚の一番上、そこに並ぶ本と棚の天板との隙間だった。天井が低いとはいえ、二メートルほどはある。美鈴より頭ひとつぶんくらい背の高い先輩なら手が届くところでも、美鈴だと踏み台を持ってこなければ、そこに本があることにさえ気づかないかもしれない。


「でも、先輩も必要なんじゃないですか?」

「大丈夫。近くの公立図書館にもあるって、調べてあるから」


 そう微笑まれたら、美鈴は強く断れない。遠慮がちに手を伸べると、先輩は嬉しそうに美鈴に本を手渡した。少し居心地が悪くて、美鈴は首をすくめる。


「すみません……先輩が先に見つけていたのに」

「ここでレポート書くのも、家で書くのも、あんまり変わらないしね」

「このあと、講義とか、ないんですか?」

「あるんだけど、今日は自主休講だな……。まったく手をつけてなくて……」

「私もです……」


 美鈴と先輩は、互いに気まずい顔を見合わせた。不真面目さを打ち明けあって、微妙な仲間意識が芽生えた気がする。


「最近、気候がいいからかなあ。なんだか夢見がいい感じがして、寝ちゃうんだよね」

「どんな夢なんですか?」

「憶えてないんだよ。でも起きたときに、いい夢見たなって、すごく気分がいいんだ。早く夜にならないかなって思うくらい」

「……そういう系のホラーありませんでしたっけ。いい夢を見ているうちに、眠っている時間が長くなって、目覚めなくなるっていう」

「こわ……。ううん、俺、ホラー映画には詳しくなくて」

「え……」


 つい最近、まったく同じことを聞いたような。

 でも、美鈴がこの先輩と話すのは二度目で、前回は夏期講習の話をしただけだ。

 こんなことを言っていたのは、誰だっけ。


「どうかした?」

「あ、いいえ。最近、誰かもホラー映画に詳しくないって言ってたな、と」

「好きな人は好きだよね。俺は怖いの苦手……」

「私も、あんまり得意じゃないです。お化け屋敷は入りたくないし」

「遊園地って行ったことないんだけど、あれってやっぱり怖いの?」

「えっ?」

「?」


 先輩が遊園地に行ったことがないというのが意外だった。

 彼のような人なら、仲間や女の子に誘われて、よく行くものだと思っていたのである。不思議そうに首をかしげられ、美鈴は笑ってごまかした。


「遊園地にもよるとは思うんですが……。行ったことはないんですけど、有名な廃病院のとかは、絶対怖いですよね」

「それ、動画見たことあるよ。俺は無理」

 そう言いつつ、彼はふと、気味悪そうに周囲を見回した。

「うちのキャンパスも、古いところはそれなりに怖いよな」


 白すぎる電灯は妙に寒々しく、加えて、紙が音を吸ってしんと静まりかえるこの場所は、心許なさを感じさせる。不安は、少しつつけば恐怖にもなる。


「あの奥の電気が順番に消えていって、暗くなって、またついたときには……なんて、ありえそうですよね」


 美鈴が何気なく言うと、先輩は通路の先からあからさまに顔を逸らした。それが美鈴の方向だったから、ぱちりと目が合う。丸みを帯びた大きめの目が、ゆるりと細められた。


「あはは……恥ずかしいな。この年になって、お化けが怖いなんて」


 生来の素直さか、処世術的なつくりものか、どちらにせよ、そうやって笑ってみせるのは、美鈴には真似できない芸当だと思った。

 美鈴が彼だったら、たいして親しくもない後輩の女子に、お化けが怖いと口にして笑ったりしない。

 顔がよくて、おしゃれで、人当たりもいい。なるほど学内で人気といわれるわけである。

 美鈴はといえば、そういう相手にどんな態度でいたらいいのか戸惑った。気安く接してもらっても、美鈴のほうは距離を取らずにいられない。


「えっと……みんなは、お化けが怖くないんですかね」

「俺のまわりは、なんだかんだ言って楽しそうだな。ホラー映画もわざわざ見に行って、笑って怖かったって言ってる」


 それを少し困ったように言う先輩が、美鈴には印象的だった。

 美鈴にとっては、先輩も楽しそうにする側に思えていた。そつなく人付き合いをして、みんなが盛り上がるところで同じようにはしゃぐことができて、集団から浮かないタイプ。


「まわりの友だちに、一緒に行こうって言われません?」

「言われて、困ってたよ。怖いからって正直に言ったところで、そんなことで付き合いが悪いと思われそうだし、でも見たくないし」

「どうしてるんですか、それ?」

「単発のバイト入れてる。その場でバイトがあるって断って、すぐ探す。おかげで俺は少し苦学生だと思われてる。そうじゃないから、ちょっと貯金ができたくらいには、バイトしたな……」


 思いがけず苦労しているらしい。こんなひとでもそうなんだ、と思うと、美鈴も少し、気分が軽くなる。同時に、今まで違う世界の住人みたいに感じていたのが、かなり身近になった。

 それでも、人の輪の中にいれば、やはり彼は美鈴とは全然違うひとなのだろう。彼のまわりいるのは、きっと男女問わず華やかで、にぎやかな人たちだ。

 図書館を出ようと、狭い通路を先輩の後ろにつき、その背中を眺めてぼんやり考える。


(でも、私、そういうとこ見たことないな、そういえば……)


 奈子に有名人だと聞かされたときから、美鈴は、食堂や講義室で目立つグループの中心近くにいる人とイメージしていた。けれど、食堂でも講義室でも、そういう集団の中にいるところを、実際に見かけたことはない。集まっている子たちをじっくり眺めたこともないから、気づかなかっただけかもしれないけれど。

 でもなんとなく、まわりに人を集めて、ひときわ賑やかに過ごしているのが、このひとには似合わないような気もした。


 貸し出し手続きをして図書館から出たとき、美鈴はまぶしさに目を細めた。

 暗い部屋でも電灯で明るく照らすことはできるけれど、自然光はもっとずっと強いのだと、こういうときにふと思う。


「最近、暑くなったね」

「そうですね……?」


 隣で、先輩はやけに嬉しそうに言った。何か、暑い季節に思い入れでもあるのだろうか。

 つい、出口で立ち止まってしまったせいで、何と言って別れようか悩む羽目になっている。彼が先に行ってくれたらよかったのに、なぜか美鈴に合わせて貸し出しに付き合い、さらに今も足を止めていた。


「……あの、本当に、ありがとうございます」

「気にしないで。どうせ、行こうと思ってる図書館も、帰り道の途中なんだから」

「あっ……。いえ、何でもないです」


 美鈴は、今さらになって自分も家の近所に図書館があることを思い出した。もしそこに本があれば、先輩に迷惑をかけることもなかった。

 けれどあとの祭りというものだ。


「先輩は、どっちの方向に行かれるんですか?」


 図書館の前から、三方向へそれぞれ伸びる道を見渡して問う。


「いったん食堂に戻るよ。友だちと話しててレポートのこと思い出して、荷物、預けっぱなしなんだ。海野さんは、講義?」

「いえ、私も自主休講で帰ります……。資料譲っていただいたぶん、しっかり仕上げます」

「がんばってね」

「先輩も……。では、私はこっちなので、失礼します」


 佐藤先輩は、軽くうなずいて、見送るように手を振ってくれた。美鈴は軽くお辞儀を返してから走りだす。

 早く美鈴が視界から消えないと、あのひとはずっと手を振っているんじゃないか、と、なんとなく思った。



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