16.幽霊と徹夜計画

「うああ……眠い……」

「寝不足?」

「そう~」


 昼休み。

 美鈴は開けていないサンドイッチの袋を横に放り、食堂のテーブルに肘をついて頭を支えた。眠すぎてあまり食欲もない。


「ここしばらく、ずっと眠そうじゃない? 何かあったの? 例の幽霊? 大丈夫?」

「ううん……それは別に……」


 奈子が本気で心配そうに質問を重ねてくるのに、美鈴は少しの罪悪感を抱きながら否定する。


 幽霊が出てから、一週間以上が過ぎた。

 彼とのことを、いったい何と説明すればいいものか。

 寝不足はたしかに幽霊が理由だが、原因そのものとは言い切れなかった。

 幽霊と話していると、時間が経つのが馬鹿みたいに早い。しかも翌日には、大半の時間で何を話していたのかあまり思い出せないありさまで、いったい何に時間を費やしたのか、不可解な夜ばかり。

 でも、無駄にしたとも思わないのだ。

 だから寝不足を嘆いても、反省はしない。そのせいで、また幽霊と夜更かしをする。


「……原くんのこと?」


 美鈴が幽霊のことを考えていたら、奈子がそっと訊いてきた。


「んえ? 違うよ」

「ホントに?」

「だってそれは、……うん」


 奈子の口から、元彼の名前を久しぶりに聞いた。前は、お互いの彼氏の話もよくしていたのに、美鈴が別れてから、奈子はずっと話題にしなかった。


「なんでだろうって、思ったけど、別れて悲しいとかは、あんまりなかったんだよね……」


 奈子に呆れられるかも、と思いつつ、打ち明けた。前は、振られたということが恥ずかしくて、奈子が何も言わずにいてくれたことがありがたかった。それが、少しの抵抗はあったけれど、なんとなく言えてしまった。

 別れてから、もうすぐ二ヶ月が経つ。


「美鈴はさ、別れてほっとしたんじゃない?」


 出し抜けに奈子は言った。

 奈子に言葉にされてから、美鈴は、それが正解なのだ、と気づいた。


「……そうかも。よくわかるね」


 美鈴が、奈子に恥ずかしいと思っていたことを言えたのも、奈子の言ったことをすぐに理解できたのも、ただ時間が経ったから、ではない。過ぎた時間の中に、新しい出会いがあったからだ。

 たいして記憶に残りもしない話を繰り返しただけなのに、ひとりではどれほど考えてもわからなかったことが、不意に理解できるようになった。

 ずっと滞っていた水が、堰を崩してふたたび流れはじめている。今までとは違う自分を感じる。


「美鈴って、よく『~しないといけない』って言ってたから。そのときは余計かなって言えなかったけど、そういうつき合いってしんどくないのかなとは思ってた」

「そんなこと言ってたっけ」

「うん」


 美鈴は、テーブルの上にある奈子のスマホに目を落とした。

 彼女の推したちと、イルカのストラップ。美鈴から見て、奈子はずいぶん変わった『彼女』だった。彼女の彼氏は特に大らかな男の子で、だから奈子みたいな子ともつき合っていられるのだと、思っていた。

 美鈴がそう思うのも、間違っているわけではないだろう。

 美鈴の元彼は、奈子の彼氏と学部が同じで、その彼氏づてに聞くらしい奈子について、苦笑しながら『彼女としては、自分には無理』と言ったことがある。


「結局、あんまり相性がよくなかったんだよ。大学生になって、彼氏ができるってことだけしか考えてなかったの。たぶん、向こうも同じ」

「なんか、珍しいね、美鈴がそういうふうに言うの?」

「なんで?」

「美鈴って、来るもの拒めず、なとこあるじゃん」

「新聞の勧誘に一時間捕まった話なら、もう身に染みてる……」


 ひとり暮らしをはじめたてのころだ。何気なくインターホンに出てしまって、美鈴のやんわりとした拒否にはまったく動じない勧誘を断るのに一時間ちょっとかかった。結果的には無事お帰りいただき、押しつけられた食器用洗剤だけが美鈴のもとに残っただけだが、べつにそこまで悪い人ではないのを、強く拒むことの難しさを感じた事件だった。

 奈子に言わせると、その人は『十分悪い』であるらしいけれど。


「それは美鈴の代表作だけど」

「作品じゃないんだけど……」

「美鈴の人柄を表すネタとしてはいいと思う。で、それもさ、美鈴は相手のことをあんまり悪くは言わないじゃん。自分が悪かったなって言う」

「それは……」

「人を嫌うのにもエネルギーがいるから、そう思うほうが楽ってときもあるよ。けど、自分にばっか悪いところを探そうとしたってネタ切れするって」


 美鈴には、奈子がそんなふうに言うのが意外だった。彼女は、イヤなことがあっても笑って吹き飛ばす勢いを持っているけれど、だからこそ、そういうことについて、思慮深いたちだとは思っていなかった。


「奈子は、ネタ切れしたことあるの?」

「わたしはネタ切れっていうか、趣味のことわかりあえないなら、どうしようもないなって思って、告白断ったりした。わたしの趣味ってちょっと難しいとこもあるのはわかってるけど、だからって趣味捨てられないし。どっちが悪いって言えないの、よくあるって、知ってる」


 奈子は、見た目がいかにも華やかな女子大生で、今でこそ落ち着いているものの、彼女を気にかけて近づいてくる男の子はたくさんいた。そのほとんどを諦めさせたのが、奈子の趣味である。

 ただ、今の彼氏が、奈子とつき合うために仕方なく奈子の趣味を受け入れている、というわけでもないのを、美鈴は知っていた。


「相性、あるよね。ミツくん……原くんも、私とは合わないなって思ったんだと思う」

「新しい彼女候補しっかり捕まえてから美鈴を振ったのはどうかと思うけどね」

「今の彼女と会って、私とは相性が悪いって気づいたんじゃないかな」

「だとしても外から見てだいぶ印象の悪いことしておきながら態度がデカい、彼」


 あんまりよくはないことだと思いつつ、奈子が元彼のことを悪く言うと、美鈴の気持ちは軽くなった。相性の問題だったと考えても、心のどこかでは、うまくやれている周りの人たちに比べて、自分は劣っているんじゃないか、と感じるみじめさは消えない。


「でもまあ、もう私には関係ないし」


 美鈴が思ったままを口にすると、奈子はちょっと黙って、不思議に思った美鈴が、どうかしたのかと聞く直前に言った。


「向こうはそうじゃないんじゃない? けっこう美鈴のこと気にしてるよ。講義のときとか、ちらっと見てくるし」

「あー、それは……。私がまだ原くんのこと好きだって、思われてるみたい」

「はあ? そうなの? 違うでしょ」

「そうなんだけど、講義でうっかり隣の席に座っちゃったりして。私はべつのことに気を取られて、周り見てなかったから、ほんと偶然なんだけど」


 奈子が嘆きのため息をついた。美鈴に対しても、元彼に対しても、嘆かわしいと思ったのだろう。美鈴は苦笑するしかない。


「かかわらなければ、そのうち気にしなくなってくれるよ」

「あの美鈴のことちらっと見てくるの、地味に苛立つから、さっさと諦めてほしい」

「新しい彼女いるんだし、すぐだよ」

「……だといいけど」


 奈子はやや胡乱な顔をして、また息をついた。




「ナコ~」


 美鈴が、どうにかサンドイッチを噛み、ことさら明るく推しの話をする奈子の声を聞いていたとき、少し遠くから奈子の名が呼ばれた。奈子とふたりで顔を向けると、食堂の入り口あたりから、男の子が手を振って近づいてくる。

 元気でよく通る声に、輝くような大きな笑顔。奈子の彼氏は、ちょっと大型犬っぽい。大声で呼ばれる気恥ずかしさも、彼の屈託のなさで消されるの、と奈子は言う。


「待たせてごめん」

「美鈴を見つけたから、全然待った感じじゃないよ」

「海野さん、こんにちは!」

「こんにちは、岡田先輩」


 奈子がつき合っているのは、ひとつ上の先輩である。でも、先輩であることを忘れそうになるくらい、美鈴にも親しげにしてくれて、普段はあまり学年の差を感じない。美鈴の元彼と同じ学部で、元彼ともそれなりに親しいようだった。


「海野さんがいてくれてよかった~」

「レポートの資料、借りられた?」

「うん。早いもの勝ちだからなあ、図書館まで走った甲斐があったよ」


 もともと、この火曜日は、奈子は岡田先輩と過ごす日だ。けれどその先輩に用事があって暇をしていた奈子が、たまたま食堂で美鈴を見つけ、彼氏と合流するまで一緒にいたのである。

 先輩の用事とは、レポートの資料の貸し出しだったらしい。


「図書館が遠いって、広いキャンパスの弊害よね」

「キャンパスの中だから、実はそんな遠くもない、はずなんだけど、私もレポートのとき以外、あんまり行かないな……って、レポート!?」

「どうしたの、美鈴」


 今日は、火曜日。明日が水曜。

 先週、美鈴が無理矢理出席した講義のある日だ。


「忘れてた! 私も明日提出のレポートがあるの!」

「えっ、ヤバいの?」

「めちゃくちゃヤバい! 何もしてない!」


 美鈴はスマホの画像フォルダを開き、先週写真に撮った講義の板書を探し出した。それと講義のルーズリーフ。出席した甲斐あって、写真では簡潔にしか書かれていないレポートのテーマも、ルーズリーフには詳細が書かれていた。

 しかし、資料のひとつも手に入れるどころか、探してさえいない。


「やっば……」


 慌てる美鈴を、奈子と岡田先輩が気の毒そうに見ている。同じ講義を取っていないから、彼らにできることはない。


「資料、まだあるかなあ」

「テーマ、何?」

「えっと、『死なない生物は存在するのか。アメーバやベニクラゲなど、死なないように見える生物は存在する。これらの例や、ほかに思い当たる生物について、それが死なない生物であるか否かを考え、そう思う理由を述べよ』」

「え、何、哲学?」

「生物学」


 美鈴は眉を寄せて写真の板書を睨んだ。

 先週の講義のときの、半分寝ぼけた頭では、これがどのくらい難しい問題かなんて、まったく考えなかった。

 だが、はたしてどんな資料を当たればいいのかさえ、すぐには思いつかない。


「それだったら、あんまり資料とかなくても、海野さんの考えをまとめたら大丈夫だよ。正解を求めてない問いだからね」


 レポートのテーマを凝視し、書かれてもいないヒントを見いだそうとしていた美鈴に、本物のヒントをくれたのは、岡田先輩だった。


「そうなんですか?」

「うん。それ、考え方によっては、存在するとも、しないとも言える。先生は、考えてもらうために出したやつだよ」

「そういえば、先輩は専攻こっちなんでしたね」

「そうそう。オレもやったことある。もし、資料がいるなら、……このへんとかどうだろ。図書館にあると思うよ。うちの図書館で借りられてても、市立とか、そのへんにもあるかも」


 先輩はそう言って、スマホに出したアマゾンの商品の画面を見せてくれた。タイトルからして専門書というより一般書籍に近く、その程度の資料で済むなら、きっとなんとかなるやつだ。


「ありがとうございます!」


 美鈴は書籍名をルーズリーフに罫線を無視して大きく書き留め、大急ぎで荷物をまとめて席を立った。


「がんばってね、美鈴」

「うん! またね、奈子。先輩、ありがとうございました」

「がんばれ~」


 奈子と先輩が揃って手を振ってくれる。美鈴はぺこっと頭を下げて、足早に食堂を抜け、外に出てからは図書館に向かって走った。

 次の講義は自主休講だ。


(あの幽霊、今夜はレポートにつきあってもらう……!)


 すっかり忘れていた美鈴も悪いが、毎晩毎晩やってきて、美鈴の頭からレポートのことを忘れさせた幽霊も同罪である。もしかしたら徹夜になるかもしれない夜に、美鈴が寝たら暇だとぬかしていた幽霊だって、よろこんでつきあってくれるだろう。

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