15.あの世に花を咲かせましょう
下から見上げる格好になった美鈴に、幽霊は正座の膝の上に乗せていた手を床について、目線を合わせるように前屈みになる。美鈴が身を乗り出したぶんと、幽霊が重心を前に動かしたぶんだけ、互いの頭が近づく。
ほんの少し近くなっただけなのに、部屋の空気がやわらかく、ひそやかになった。
「俺が話せるのは、ミリンさんが相手をしてくれるからだよ。それに、こんなふうになって、もう失うものなんてないから、いいかなって、思うのもある」
「たしかに、もう成仏する以外で、これ以上無くせるものなんてなさそうね」
美鈴も、相手が幽霊でなかったら、今みたいに打ち解けられていなかったと思う。気遣いが下手なところも、彼氏とこじれて情けないことになっているところも、この部屋の外では誰にも見せたくない。外では、ボロが出るたび恥ずかしさを味わいながら、美鈴なりに気を張って過ごしている。
けれど、そうやって気を抜けるのは、相手が幽霊で、都合のいい相手だからではないような気がした。
幽霊だからではなくて、彼だから……。
「……本当は、俺も、たぶんね、こうなる前に、ミリンさんと、話がしたかったと思う」
幽霊は、少し寂しそうにぽつりとつぶやいた。
幽霊の顔は、あいかわらず前髪に隠されていて、半分しか見えない。
顔が見たい、と思った。
どこもかしこも透けているくせに、大事なところを見せてくれないのは、神さまの意地悪だろうか。
そんなふうに言うなら、話しかけてくれたらよかったのだ。
生きて、美鈴がその髪を引っ張って、顔を見ることができたうちに、存在を教えてほしかった。
だけど、それではうまくいかなかっただろう。
「……でも、幽霊じゃなかったら、どうしてもできなかったんだろうな」
幽霊の言うことと、美鈴の気持ちは、同じだった。
もし、彼が生身のうちに話しかけてくれても、美鈴はきっと、今みたいに話せなかった。
うわべだけうまくいくような受け答えをして、たとえつき合ったとしたって、心から気を許すことはなかったように思う。
そこで、ふと腑に落ちた。
「……あ……。だから、ミツくん……」
一緒にいて、楽しいと感じることも多かったし、彼氏のために、おしゃれをしたり、喜ぶことを考えたり、それなりにちゃんとやっていたつもりだ。少し背伸びをしたり、がんばらないといけなくても、彼が楽しそうにしてくれると嬉しくて、一緒にいる時間も、それなりに好きだった。
全部、それなり、に。
「ミリンさん?」
「私、元彼のこと、ちゃんと好きじゃなかったんだな。そういうの、向こうにはわかってたんだろうなあ」
ゆっくりとため息をついた。
「ちゃんと好き、って?」
「……よくわからないけど、幽霊になるほどではないくらい」
ほかの男の子より親しかったし、好ましく思っていた。それは間違いないけれど、恋をする特別な気持ちには足りない気がする。つき合っていたとき、美鈴は、頭の中に思い描いた『彼女らしい』ことを、試験問題のようにこなしていた。
彼女としてうまくやるためにそれらしく振る舞われたって、おもしろくないことくらい、美鈴にも想像がつく。現実は、漫画やドラマほど華やかではないけれど、人の気持ちは、別物ではない。
「俺が言うのも何だけれど、幽霊になるほどって、普通じゃないんじゃない……」
「それはそうかも。……ふふ……」
最初に思わず笑い、そのあと三秒くらいしてから、とんちんかんなことを言った幽霊がおかしくなって、時間差で笑い声がこぼれた。
「だいぶヤバいやつなんだね、あなた」
「……これも俺が言うのも何なんだけど、今さら?」
「初めに会ったときには、ヤバいって、思ったんだけどな。うっかり慣れちゃって、忘れてた」
この幽霊がヤバいやつなのは、客観的には、間違いない。ひょっとするとストーカー一歩手前くらいだ。
でももう美鈴は、この幽霊のことを、客観的に見ることができないくらいには、知ってしまった。
「ねえ、幽霊になるほどの気持ちって、どんな感じ?」
「それ聞いちゃうの? 後悔しない?」
「……うん、今はまだいいや」
「えー」
自分から美鈴を思いとどまらせたくせに、幽霊は拗ねた。
「……またいつか、ね」
「また悪あがきしてる」
「私は案外信心深いみたい」
そうは言っても、言霊とか何だとか、今となっては、ただの建前だ。
本当は、言葉にされたら、答えなければならないのが嫌だったから。
想いを伝えられてしまえば、今まで通りではいられない。今は何とも言葉にできない自分たちの関係が、何かのかたちに収まる、それは、この穏やかな時間の終わりを意味するものだ。
「幽霊がいるなら、神も仏もいるのかもね」
「それ、あなたが言う?」
「いるかも、って思ってるほうが、可能性が広がるじゃん」
「何の可能性を広げるのよ」
「具体的にはわからないけど、狭いより広いほうが、何かになりそう」
「中途半端で、適当だなあ」
口ではそう言いながら、内心で、美鈴は納得していた。
今まで、あいまいなものはわかりにくくて、はっきりしているほうが、やりやすくていいなと思っていた。
大学の人間関係はうすぼんやりしていて、そのわかりにくさが苦手で、自分がうわ滑りしていると感じることも多い。
でもそのあいまいさは、もどかしさを引き換えに、ちゃんと居心地のいい時間も与えてくれていたのだ。微妙なバランスの上にはあるものだけれど、生まれ育ちや、今の境遇がそれぞれ違う人たちを、たしかに結びつけている。
そのゆるいつながりがあるから、ときどき、奈子みたいに、いつの間にか仲を深めることもあるのだろう。
理想であれば、すべての人と仲良くなれたらいいのかもしれない、だけれど、美鈴には、奈子やほかに何人かの友人たちくらいの、少しで十分だった。
その少しの中に、この幽霊もいる。
「ねえ、これは相手を誰とって決めないで、一般論として考えてほしいんだけど、恋人としてつき合うって、どんなことしたい?」
「予防線がすごい」
幽霊は、幽霊という存在に似つかわしくなく明るく笑って、それから、夢見るようにゆったりとした口ぶりで言った。
「一緒にご飯食べて、どっかに遊びに行って、レポートとか試験勉強も一緒にやりたいな。あと……うーん、何でもいいや。一緒に何かしたい。何かは、そのときどきで、何でも、いろんなこと、全部」
「それ、答えになってる? なってなくない?」
「だって、俺、具体的になんてわからないんだもん。何で俺に訊いたの?」
「……成仏の手がかりになるかなと思って」
一瞬、言葉に詰まった。返した答えは、嘘だ。
尋ねたとき、美鈴の頭には成仏のことは少しもなくて、ただ知りたかった。
この幽霊が、どんなことを望んで、どんな願いを持っているのか。
どんなことが好きで、どんなことを喜ぶのか。
「成仏か……」
幽霊は重心を後ろに動かして身を引き、またきれいに正座した。
「……あなたがどんな人間で、どこの誰なのか、わかったほうがいいじゃない」
「……うん。このままじゃいけないって、忘れちゃダメだな」
「……」
「ミリンさん?」
思うことがあって、けれど、それを口にしてもいいか、迷う。
言わないほうがいいんじゃないかと思うのは、幽霊が成仏できないままはよくないだろうから。
言ったほうがいいと思うわけは、彼が喜ぶだろうと思えるから。
「ミリンさんが暗い顔することないのに。そうだろ?」
「私にも人並みに情はあるから。これだけ一緒に過ごして、とっとと叩き出したいと思い続けるほど割り切りよくないよ」
「そうやって優しいから、俺みたいなのに化けて出られるんだ」
「普通でしょ」
または、普通以下。
元彼のことを思っても、美鈴ではよく見積もって人並みがギリギリだ。だからこそ、そうすることが人にとって優しいと感じるなら、その通りに行動したほうがいいんだろう。
「……あなたのこと、何も知らないままって、薄情じゃない」
「え」
「お墓参りくらいは行くよ」
「えっ」
「驚くこと?」
「いや、そういえば、お墓あるのかなって、……あるのかな」
「確実とは言えないけど、何かしらはあるんじゃない」
このままでいるのは、きっと良くない。たとえ美鈴がもうたいして困っていなくても、このままこの世に居続けることは、自由にどこかへ行くことも、何かに触れることさえできない存在にとって、たぶん、辛い時間が多くなる。
「この世で亡くなった人のことを思うと、あの世にいるその人のまわりに、花が咲くんだって」
「そうなの?」
「仏教ではそうらしいよ。おばあちゃんのお葬式のときに、お坊さんが言ってたから」
お坊さんの言ったことが本当なら、今ごろ、おばあちゃんのまわりには花が咲いているのだろう。
「今のままであなたが消えちゃったら、声とか顔とか、やっぱり忘れていっちゃうと思う。あなたのことは忘れないと思うけど、それでも……」
触れることさえできない幽霊の、思い出のよすがくらいは欲しい。できれば、美鈴のほかに彼を知る人とつながって、彼がいたあかしを確かめたい。
「ときどきは思い出してあげるから、ちゃんと知りたいよ。あなたがどこの誰か」
「……俺って、ものすごく欲張りなのかも」
いくらか感傷的になった美鈴のしんみりした気持ちをぶちこわすように、幽霊が俗なことを言った。そのせいで、気恥ずかしさと気楽さを同時に感じながら彼をじとっと見据えると、幽霊は、彼は彼ではにかんでいた。
唇は笑っている。
「こんなに嬉しいのに、成仏できそうな感じがしない。普通、満たされたら満足して成仏すると思うんだけどな」
「……さすが、幽霊になるだけある」
普通じゃないもんね、と美鈴が言えば、幽霊は嬉しそうに、大きくこくんとうなずいた。
美鈴は、喜んでいる様子がかわいい気がするやら、喜ばれても困るやら、複雑な気持ちでため息をつき、それをひと言、
「褒めてない」
と言い表した。
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