14.幽霊くんの青春について
「あれ?」
「どうしたの」
「うわっ」
「うわって何よ」
美鈴は、幽霊が部屋に現れる瞬間を見ていた。
例によって二十三時過ぎ。ベッドに背中を預けて床に座り、ぼんやりしながら、彼を待っていたのだ。
何もない空気の中から、ふと彼をかたち作るものが集まったみたいにすうっと浮かび上がってきた幽霊は、まず首を傾げ、それから声をかけた美鈴を見下ろして軽く飛び退いた。美鈴は踏まれそうな位置にいたわけでもないのに、足下を気にする幽霊は相変わらずなんとなくズレている。
「いつも真っ暗な部屋なのに、明るくて、しかもミリンさんが最初からいたから」
「私の部屋なのに、不在中に不法侵入するほうがよほど『うわ』なんだよね」
「不可抗力だってば」
「そうね、前科……何回目? 金曜の夜から、土曜に二回、日、月、火、水曜の今日で六回目。うわ」
幽霊に見せつけるように指折り数えて、美鈴は笑った。
美鈴が指を折っているあいだに美鈴の前に正座した幽霊は、突きつけた美鈴の手をスルーして、美鈴の顔をじっと見てくる。
「前科六犯」
「俺に貫禄がついてきたな」
「不良かよ」
鼻で笑う美鈴に、幽霊はまた首を傾げた。
「……ミリンさん、なんか元気ないね」
「そう? 今日バイトない日で、元気なんだけど」
「そういえばミリンさんって何のバイトしてるの?」
「庁舎の食堂。一般も入れるけど、基本職員向けのとこ」
「えっ、それなのに帰りあんなに遅いの?」
「公務員も案外定時退社じゃないのよ。うちはラストオーダー九時半、閉店十時。それでそのあとまだ残業する人もいるみたいだから、なかなかよね」
美鈴は、地下にある食堂で、長々とため息をつくおじさんを思い返していた。地下だから昼も夜も明るさは変わらないはずなのに、まだ活気のある昼時に比べ、夜は陰気さを肌に感じる。食堂がにぎわうのは昼、そして定時過ぎだ。
定時を過ぎると、まだ夜の早い時間にはこれから残業をする人たち、遅くなってくると残業のあいまにひと息つきにくる人たちが、一日の疲れを背負ってやってくる。彼らは、セルフサービスのカウンターで食事のトレイを受け取って席につくと、みな一様にまず長い息を吐く。ため息は地下に滞留し、退勤の解放感から取り残された食堂の空気を少しずつ重怠くしていく。
「十時でまだ残業するの? 公務員が?」
「部署によるみたいだけどね。うちの食堂、味が悪いわけじゃないけど、まあ安さがいいって感じだから、定時後にわざわざ利用するのは、庁舎内に残らないといけない残業組くらいよ」
「夜の役所って、電気が消えてて暗くてちょっと怖い印象があったのにな。外から見ると、建物が大きいから、こう、暗い中でもさらに真っ黒で威圧感があるっていうか」
「地上部分に電気がついてると、苦情が来るのよ」
「なんて?」
「電気の無駄遣い、税金の無駄」
「……わあ」
幽霊は棒読みの相づちを打った。美鈴も、初めてそれを聞いたときはコメントに困り、苦笑してごまかした。ただ、レシートを眺めて思うこともある。
「内側から話を聞くとドン引きしたくなるけど、ちまちま出費を計算してると、電気代も馬鹿にならないと思えるよ」
「へえ、ちゃんと家計簿とかつけてるんだね」
「一応ね。実家からの仕送りとバイトで生きてて、うっかり生活費がないなんてなったら大変だし」
「あ、わかる。学食が安いの助かるよね」
「そうそう。……って、あなたやっぱりうちの学生……元・学生?」
美鈴は、顔を上げて幽霊が透けているのをしっかり目に焼き付けた。普通に学内の友だちと喋っている感覚になりかけて、ギリギリで相手が人間じゃないのを思い出したのである。
幽霊は少し首を竦めながら、なぜか正座の姿勢を正した。
「……ミリンさんの言う学食って、奥の壁がガラス張りになってるところ? 入って右手に注文のカウンターがあって、左側は購買の店舗と繋がってる……」
「そう! 思い出した?」
「……」
身を乗り出す美鈴とは反対に、幽霊は居心地悪そうにもそもそ膝の上に置いた手を握ったり開いたりしている。
彼がそういうふうにしているのは、美鈴に関して何かやましいことがあるときだ、とわかってきた。
「とりあえず白状しなさいよ。成仏への手がかりだったら、怒らないから」
「手がかりじゃなかったら?」
「……怒らないから、言って」
「……あの……。俺に思い出せたのは、その食堂で、窓際に座ってるミリンさんなんだ。ミリンさんを憶えてて、食堂の光景はついでって感じで」
おずおず言う幽霊に、美鈴は一言、
「……不審者?」
と返した。冗談半分、可能性半分だ。
幽霊は震えるように首を横に振った。
「同じ学校の学生だったら、別におかしくないだろ!?」
「よく考えたら、大学って外部の人間も出入り自由なのよね。あれだけ人が多かったらわからないし」
「違うよ! いやっ、わかんないけど、たぶん違う! ミリンさんを見てたときの気持ち、なんとなく感じたのは、こっちを見てくれないかなあって。俺が本当はそこにいちゃいけない人間だったら、そうは思わないと思う」
「……」
美鈴は、もう少しからかってやろうと思ったのに、つい言葉に詰まってしまった。なんだか甘酸っぱそうな想いをからかうのがためらわれたのと、それをまっすぐぶつけられては、さすがに恥ずかしかった。
恥ずかしいのは幽霊も同じだったらしく、勢いを失ったあとは、うつむきぎみに呻いている。
美鈴は知らないところで、青春の一ページに巻き込まれていたらしい。
「……なんか、私の知らない大学生活なんですけど……」
「えっ? どういうこと?」
「そんな漫画かドラマみたいなさあ」
大学に入学する前、キャンパスライフに抱いた憧れが、目の前に現れたかのようだった。
現実としてそうそう起こらないと打ち消しつつも、新しい環境に期待をふくらませていた。
実際の大学生活には、劇的な出来事はなかったけれど、それなりには新しい刺激が多くあった。そういうものだと思っていたところを、目の前の幽霊に、かつての現実離れした期待通りを見せつけられたのである。世の中には、美鈴の知らない大学生活がちゃんと存在しているらしい。
「漫画とかドラマだったら、幽霊にならずにハッピーエンドだったんじゃないかな」
「幽霊っていうところが、漫画やドラマに近しい存在だって、わかってる?」
「でも俺は現実だし」
「だから困ってるのよね」
美鈴が茶化すと、今までは拗ねてみせることの多かった幽霊が、ふと唇をやわらかくたわめて微笑んだ。
「よかった、ミリンさん、ちょっと元気になったね」
いつもゆるゆるのんびりおっとりの頼りなさげな幽霊のくせに、急に、美鈴の気持ちをときほぐそうとしてくる。素直にほだされてやるには、なんだか意地を張りたくなるし、気恥ずかしさも拭えない。
「幽霊のくせに……。っていうか、よく考えたら原因の半分くらいはあなたよ」
「えっ……そう、だよね……。俺、調子に乗ったな」
「そうじゃなくて」
肩を落とし、うつむいて、しゅん、と一回り小さくなる幽霊に、美鈴は自分こそ調子に乗ったのを心底後悔した。もっと、彼の立場を考えるべきだったのに、自分の言葉の意味さえよく考えず、軽はずみなことを言った。
丸まった肩を撫でて慰めたくても、彼に触れられない。
「ごめん、違うの。本当は、大学で元彼とちょっと揉めて」
「え……」
幽霊は顔を上げ、何を言おうか迷うように、唇を薄くひらいては閉じた。
「まだ好きだって、勘違いされてるみたい。私が悪いんだけどね」
「……。どうして?」
美鈴の様子をうかがいながら、幽霊がおずおずと話をうながしてくる。彼の好奇心のためではなく、美鈴のために聞いてくれたのだと、わかった。
「別れたあと、元彼とよく一緒に過ごした場所に行って出くわしたり、講義でうっかり隣に座っちゃったり。このうっかりっていうのが、あなたと話して寝不足だったせいで周りに気をつけてなかったから、あなたのせいって言ったんだよ」
「そっか……」
幽霊は、美鈴以上に落ち込んだような声音で相づちを打って、そのまま黙ってしまった。今度は、言葉を探しているというより、じっと美鈴をうかがって、考えている様子がある。
自分もそういうことをするときがあるので、美鈴には、幽霊がどんな気持ちでいるのか、理解できた。だから自分から口をひらく。
「人とつき合うって、面倒だよね」
「そればっかりじゃ、ないとは思うけど……うん、そういうことは、あるよね」
「あなたは、苦手そうに見せかけて、逆に得意そうだけど」
「そんなことない、と思う。なんでそう思ったの?」
「だって、なんだかんだ言って、ほとんど初対面の私といろいろ話すじゃん。生前、未練を残したなんて言ってるけどさ、本当は違うんじゃない?」
美鈴は、床に投げ出していた足を引き寄せ、深く曲げた膝に両腕を乗せて、身を乗り出した。親しい友だちと泊まりで過ごすとき、夜が更けていくと、だいたいこういう体勢になる。さらに時間が経てば、寄りかかったり寄りかかられたり、床に転がったり、気が抜けていくごとに体から芯が抜けてゆく。
自然と取った姿勢で、自分が今、この幽霊に相当気を許していることに、不意に気づいた。
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