13.それを勘違いや思い込みと人は言う

「ホント誰なのよ……」


 大講義室の後ろのほうの席で、美鈴は机に突っ伏したいのをこらえていた。

 背中が痛い。

 背中だけじゃなく、肩も腰も首も頭も、とにかくあちこちが痛い。

 その痛い体をどうにか引きずり、日に日に眩しさを増す太陽に目から脳の奥を突かれている気分になりながら、やっと講義室にたどり着いた。そこまでで、だいぶ限界だった。


 美鈴の水曜日の講義は二限目から。一般教養課程の単位だ。これはたとえ落としたとしても、二年次後期や三年次でちょっと頑張ればどうとでもなるものだけれど、できれば落単はしたくない。

 さらに、本来は一回や二回自主休講にしたところで痛くもない講義だったのに、今日ばかりはタイミングが悪かった。

 中間の小レポートが予告されていて、そのテーマ発表が今日なのである。小レポートは翌週提出だから、この講義を受けている学生の中に頼れる知り合いがいない美鈴には、今日の出席が死活問題に近いのだ。

 つまり、寝落ちもできない。


「……」


 遠い板書が心なしかかすんで見える。眠気のせいで、耳から脳への接続もあやしい。

 知らない言語のように聞き取りづらい講師の声をルーズリーフにどうにか書きとめようとし、ところどころひしゃげたエナメル線みたいな模様を描きながら、美鈴は幽霊を恨むしかなかった。


 昨夜、誰、という疑問にたどり着いたところまでは確かに記憶がある。

 たどり着いたというか、原初の問題に立ち返ったというべきか。

 でもそのあと、どんな話を続けたのかが、どうにも思い出せなかった。床で目覚めたときにそばに落ちていたスマホのスリープを解除したら、ヴォイニッチ手稿のウィキペディアが表示された。何がどうなってそうなのかほとんどわからないものの、ヤタガラスから連想ゲームのように連なって、日本の古代文字の話をしたような、しなかったような。


 存在が噂されながらも、今のところは否定的な見解が公になっている日本の古代文字について、美鈴は少しオカルトっぽい印象を持っている。

 神代文字と言われるものだ。

 そうとされる文字のようなもの、はこの国のあちこちにあるらしく、漢字以前に使われていた文字だとも言われつつ、証拠はない。

 解明されていない謎は、少し不気味で、胡散臭くもあり、多少は興味もある。ちょっとわくわくもする。

 それでもあまり信じてもいなかったのに、幽霊なんてものが出現して以降、美鈴は価値観の更新を迫られている、気がする。


(夜更かしに付き合わせておいて、朝にはきれいさっぱりいないって、あの薄情者)


 普通ならそれなりに同情の余地があってもいいだろう恨み言も、幽霊相手だと暖簾に腕押し、糠に釘。的外れな思いを抱いているようで、むなしいことこの上ない。だからといって、朝までつきあってくれて、昼もずっとそばにいるのが幽霊だったら、もちろん困り果てる。

 幽霊のことを思い浮かべていたら、いつのまにか講師の声は美鈴の脳を素通りしていた。

 はっとして自分のノートと板書を見比べ、講義に追いつこうとしたものの、自分のノートが解読できない。講義内容は相変わらず頭に入ってこないままだ。

 美鈴はシャープペンシルを支えていた指から、ふと力を抜いた。倒れたシャープペンシルとルーズリーフがぶつかって、乾いた音がした。


(……もう、いいかな)


 たぶん、講義が始まってまだ十分も経っていない。でももう眠気も限界だし、そもそもそれほど興味があって取った講義でもないし、やる気も気力も、出てくる気がしない。


 ここ一ヵ月くらい、この講義に出席し続けていた理由の半分ほどは、意地からだった。

 彼氏と別れたことや、そもそも元彼の存在自体をもう気にしてはいないのだと示すため、たったそれだけの小さなプライドのために、少し気まずいこの講義室に来続けていた。


 プライドを手放せば、安らかな眠りが手に入る。


 美鈴が睡魔に抗うのをやめ、とろとろとまぶたを閉じようとしたとき、後ろから紙くずが飛んできた。

 一段高いところから美鈴の肩越しに投げ込まれて美鈴の手元に落ちたそれは、後ろの学生が手を滑らせたのではなく、意図的なものだった。軽く丸められたルーズリーフの切れ端を開いて、美鈴の眠気は吹き飛んだ。


『わざとらしいことすんなって言っただろ』


(最ッ悪)


 なんだって数百人いる大講義室で、よりによって前後の席になるのか。

 美鈴はほかの人から内容が見えないよう紙を四つ折りにたたみ、視界のすみっこまで除けた。

 紙に関する身動きを最小限に留め、黙殺をつらぬきながら、次からは絶対に前後左右の確認を怠らないようにしよう、と誓う。ついさっきまで講義を諦めようとしていたのに、そうするわけにはいかなくなった。

 もし美鈴が来週から来なくなったら、今美鈴のすぐ後ろにいるらしい元彼が何と思うか、想像に難くない。


 本当にめんどくさい。


 付き合っているころや、別れたときは、あとあとこんなに面倒なことになるなんて、思っていなかった。

 この講義は、まだ美鈴が彼と付き合っていた今学期の初め、示し合わせて取ったものだ。持ちかけてきたのは彼のほうだった。学部の違う彼とは、そうでもしないとキャンパス内で会う機会が少なく、彼は大学生で付き合うときはそういうことをするのだと言って美鈴を誘った。

 それでシラバスを突き合わせた結果、彼のほうの学部の基礎教育の講義を取った。教養課程の講義だから全学部の学生が受講可能だけれど、科目としては理系で、文系の美鈴と同じ学部の学生は少ない。

 別に、そのこと自体に不満はない。

 ただ、美鈴がたかだか彼氏の存在ひとつで講義を放棄するのも嫌で出席し続けていたことが、面倒ごとを引き起こしている。


 同じ講義を取るなんてことも、大学におけるお付き合いの醍醐味なのは確かだろう。だけど、それにこだわりすぎるのも馬鹿馬鹿しい。


 そう考えただけなのに、どうにも間が悪すぎる。

 講義を受けているのは単位のためで、彼にもう関心はない。

 一度でもきちんと納得してもらえたら、面倒な状況も終わるだろう。でも軽く話す程度ですんなりと事が済むとは思えず、大学のキャンパスで揉め事を起こしたくもないのだ。

 相変わらず頭に入ってこない教授の声を聞き流しながら、ちらりと隅にやった紙切れを見下ろす。


(ちゃんと、話をするべきなんだろうな)


 そもそも、別れるときか、そのあたりでもっとうまくやれていれば、こんな面倒な勘違いもされなかったのだろう。立ち回りの下手な自分にため息が出た。

 これ以上面倒になることなく、きちんと話をつけられるだろうか。

 正直、あまり自信はない。

 それでもこの状況から目をそらし続けたところで良いことはないと、不安と諦めの中で算段を立てることにした。


 話をするのに、できれば学内は避けたい。食堂は人が多いようでいて、知り合いだと案外見つけられる。彼の今の彼女に見つかるのは気まずいし、かといってひと気のないところでは余計な誤解を招く。けれど、人目がある場所では、こじれたときに嫌な目立ちかたをする。

 もしブロックされていないなら、メッセージを送るのが一番だろう。ひとまずそれで様子を見るか、と決着したころに、講義が終わった。


 結局、講義内容はほとんど頭に入っておらず、レポートテーマだけルーズリーフの真ん中に大きめの字でメモする。そして元彼を刺激しないよう、さっさと席を立ったところで、「おい」と呼び止められた。


「……」


 聞こえなかったふりをして講義室を出るか、応じるか、迷ったのは一瞬だ。その一瞬で横長の席の出口をふさぐように通路に立たれてしまえば逃げられない。


 帰りたい、と心底思った。


 そのとき真っ先に思い浮かんだのが、半透明に淡く光っている幽霊のことだった。

 夜の穏やかな時間にすうっと現れては、翌朝には忘れてしまうようなおしゃべりをして、だけど、なんとなく楽しかったな、と思い出せる。相手が幽霊だから、たまには口にする言葉に気を遣うこともあるけれど、楽な心持ちで話ができる相手。


 服装も表情も緩くて、気の抜ける幽霊の姿を、つい求めた。

 真夜中に守護霊の押し売りをするくらいなら、今ここに、現れてほしい。


 怒りまではいかないようだが、不機嫌でとげとげしい空気を発する元彼を直視したくはなく、斜め下に視線を落として、ままならない苛立ちを抑える。

 こんな場所で言い合うなんてごめんだ。

 向こうはそう思わないのだろうか。

 もし、あの幽霊だったら、こんなところで不機嫌に声をかけてこない。

 彼には無理だ。その前に、別れ話、以前、付き合うまでたどり着かないかもしれない。

 だから化けてでている。


(どっちが厄介なのかな、これ)


 つい、生身の人間をののしりたくなった。とはいえ、幽霊の件については美鈴がまったくの無罪であるのに対して、元彼については美鈴のほうにわりと大きめの過失がある。


『付き合っててもつまらない』


 別れ際に言われたことは、美鈴には何が悪かったのかいまだにピンときていないところだけれど、そう言わせてしまったなら、何かがあったのは確かなのだ。


「わざとじゃないから」


 はっきり言えたらいいのに、声は思い通りに出てくれなかった。

 ドラマなんかを見ていて、うじうじしているキャラクターは好きではないのに、美鈴自身も嫌いな彼らと同じことをしている。


「は?」

「変なとこに座ったのは、このあいだも、悪かったけど、たまたまだよ」


 付き合っていたときは、どんなふうに話していたっけ。

 そう昔のことではないのに、目の前の人と笑って会話していたのが、もう嘘みたいだった。そんな日々なんてなかったみたいに、一言を言うのにさえ胃が痛んだ。


「たまたま?」


 元彼は、美鈴の言うことを信じていない。嘘をつくなという罵りが声に含まれている。


「だって……」


 あなたのこと、もう気にしてない。

 そう言いたいのに、それはとてもひどいことのようで、美鈴をためらわせた。


「やましいことがないなら、はっきり言えよ」


 彼の言う通りだと思う。美鈴が口ごもる理由なんて、彼にわかるはずもなく、汲み取れと思うほうが理不尽だと、理解はする。

 でも、腹が立つ。

 こんなところで突っかかってくる彼にも、それを突っぱねられない自分にも。


「……関係ないから」

「何?」

「私は講義を受けに来ただけで、今日もこの間も、別れたときから、もう未練なんて、ない」


 無理矢理押し出すように言い、美鈴は長机の、彼が立ち塞いでいるのとは反対のほうから通路に出た。

 言いたいことは言えたけれど、口の中にはいやなものを食べたときみたいな不快感があった。早くこの場から逃れたい気持ちしかない。


「それって、お前、結局俺のことなんか、好きじゃなかったんじゃん」


 そうかもしれない、と美鈴は思った。

 誰かを好きであることの証明なんて、どうしたらできるのだろう。

 好きだと思っていた。でもその気持ちが本物だったのか、美鈴自身でさえも、確かめるすべを持たなかった。


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