12.深まるストーカー疑惑と愛着

「おかえり、ミリンさん」

「……ただいま」


 バイトから帰ると、玄関の明かりをつける前に、暗闇の中でほのかに光る幽霊から「おかえり」と言われる。慣れてはいけないのに、慣れつつある。

 廊下の真ん中に突っ立っている幽霊は、今夜はなんとなく軽くて弾みそうに見えた。たとえて言うなら空気のいっぱいに詰まった風船のようだ。


「……今日、なんだか機嫌がいいね?」

「え、そう? ミリンさんが帰ってきたからかな」


 明かりをつけて靴を脱いでいた美鈴に、たった数歩だけにもかかわらず、幽霊が歩いて寄ってくる。主人の帰りを待ちわびていた犬みたいだが、自分から積極的に寄ってくるところに、彼の気分のうわつきを感じた。


「私が帰ってくるのがそんなに嬉しいの?」

「夜遅いんだ。心配だし」

「お父さん?」

「え? 俺、お父さん?」


 美鈴のつっこみを、幽霊は素っ頓狂に解釈した。似ているところを探そうとするかのようにじっと見てくる幽霊を、美鈴は軽く手を払って下がらせる。


「私の父親を殺さないでくれる?」

「冗談だよ……」

「あなたの場合、ボケなのか素なのかわかんない」

「いくらなんでも」


 美鈴が廊下を歩きだすと、幽霊は少し先を行く。居室のドアは出かけるときにはいつも開けっ放しだから、彼は普通の人間のように居室に入り、少しわきによけて美鈴のために道をあけた。


 廊下を歩くときや、部屋の中へ入るときの幽霊に遠慮がなくなっている。ぎこちなくされるよりずっといいのだけれど、この場の穏やかさに、頭の片隅で、まずいなあ、と思う。


「でも、こんなに遅くまで外にいるのは、本当に心配だよ」

「今どき、そこまで遅くないでしょ。日付が変わる前だよ。車もたくさん通ってて歩いてる人も少なくないし、街灯でちゃんと明るいし、あなたのはいつの時代の感覚なの、それ?」

「現代だと思うけど」

「これ、何に見える? 何かの板?」

「スマホ」


 美鈴が冗談半分に掲げて見せたものに、幽霊は少し拗ねたように、だが生真面目に返してくる。

 テンポのいいやり取りだった。


「スマホの防犯ブザー機能、すぐ使える? それか鞄に鉄板を仕込むとか、あと何かこう、いざというときに武器になって、かつ正当防衛が通用するような凶器持ってる?」

「わけないでしょ」

「うう……俺がずっとついていけたらいいのに」

「それ、憑りつくって言うのよ」

「守護霊要りませんか。今なら入会費も年会費も永久に無料です」

「お引き取り下さい」

「そう言わずに、お試しで」

「そんなこと言って、クーリングオフきかないやつでしょ」


 緊張が取れ、ゆるい部屋着でくつろいだ幽霊の空気感を、居心地よく感じている自覚が美鈴にはある。


 透けていようと、前髪で顔の半分が見えなかろうと、わかることはあるものだ。

 幽霊はきっと、生前、人を和ませるタイプだった。たくさんの人に好かれていただろうと思える。

 その素直さが無防備で、つい警戒を解いてしまう。でも、そうやって生きられる人は多くない。自分を取り繕って見栄を張らないと、何かがダメになってしまうような気がする。

 何がダメなのか、わからないけれど。


「今日は突然の過保護モードなの?」

「ミリンさんが帰ってくると、安心する。よかった、無事だった、って」

「大げさすぎるでしょ」

「この暗い部屋で……ひとりでいると、悪いことを考えそうになるから」


 美鈴はそのときの幽霊の声を聞いて、適当に放り出そうとしかけた鞄を、そっと床に下ろした。ちょうど幽霊に背を向けていて、彼の様子が見えない。

 けれど振り向いて向き合ったら、幽霊は続きを言ってくれないような気がした。


「俺はどこにも行けないし、何もできない。俺はひとりでいるのは別にいいんだ。でも、ミリンさんに何かあったらって思ってしまうと怖い」

「……」


 幽霊の告白は唐突だった。

 でも美鈴は、急にそんなことを言い出した幽霊のことを、変だとは思わなかった。


 弱音とか、甘えとか。


 そういうものにより分けられる本音を口にするのには、勇気がいる。なのにそういうことは、前触れもなくふと言いたくなって――そのときに聞いてくれる相手がいるなら、言えるタイミングが来るのだ。

 さっき、美鈴は幽霊のいるこの部屋を心地よいと感じた。たぶん、幽霊の背中を押したのも、美鈴が感じたのと同じものだ。

 その勇気は、たった吐息ひとつぶんにでさえ散らされてしまうことがある。

 だから身構えたのもできるだけ悟られないようにして、鞄の中身を見るふりをしながら、幽霊が話すのを聞いた。


「だから、ミリンさんが帰ってきてくれるのを、ずっと待ってるんだ」

「……成仏しなきゃいけないのに、私を待ってたらだめじゃない」


 幽霊にどんな言葉を返したらいいのか、彼が話しているあいだに懸命に考えていた。返事は幽霊が何を言うか次第で、彼の言葉が途切れたときに適切なことを思いつけるか、不安だった。


「それはわかってるんだ。けどさ、わかっててもできないこと、いっぱいあるよね」

「よね、じゃないんだけどな、もう……」


 振り返ると、幽霊は唇を小さく笑わせていた。会話の内容を考えれば、全然、何も良くはないのに、ほっとしてしまう。

 成仏の妨げになることではなく、幽霊と気まずい空気になってしまうことのほうを、嫌だと思うようになってしまった。


「真っ暗な中だと、良くないことを考えちゃうっていうのはわかる。部屋の電気、つけておこうか……って」


 何を言っているんだ私は。


 美鈴が我に返るのと同時に、幽霊も思ったのだろう。おかしそうに笑いながら言う。


「居心地よくなっちゃったら、ますます未練がつのるよ」

「自分で言うな」

「今のはミリンさんが言い出したんだよ」


 美鈴がクローゼットへ向かうと、幽霊は部屋の隅のほうに寄っていく。美鈴が何をしようとしているのか、すっかりわかっているのだ。

 まるで、一緒に住みはじめて、最初はぎこちなかったのが、慣れてきたころのようだ、と思って、いやいや、と打ち消す。

 クローゼットの中の衣装ケースから下着と部屋着を取り出し、部屋着の間に下着を隠した。なんだか、これも当たり前みたいにやってしまった。

 さらに、シャワー行ってくる、と言いそうになったのをぐっと飲みこんで、わざと無言で部屋を横切ると、ドアに差しかかったところで、幽霊が笑いを含んだ声ながら、ぽつんとしずくを落とすように言った。


「俺のこと、あんまり気にかけなくていいよ」

「……」


 彼の言った通り、気にせず、黙ったまま浴室に行ってしまおうか、と一瞬思った。

 けれど、そうするのが普通なのだと考える理性を、憐れみか同情か、何かは美鈴にもわからないが、ともかく放っておけない気持ちが踏み越えていった。


「気にかけなくていいって、頭でわかってるからって、できないことのひとつだよ」

「……」


 幽霊が、ちょっと困ったように首を傾げる。そのくせ唇が微笑んでいるのを、美鈴は見逃さなかった。


「何にも気にかけないことができるんだったら、あなたが特に害があるものじゃないってわかった時点で、たぶん完全に無視してる」

「ミリンさんは、無視どころかすごく気にかけてくれてると思う。そこまでしなくていいよって、言いたかったんだけど……」


 幽霊がやっぱり微笑んだまま、言いかけて言葉を切った。その先を言うかどうか、いくらか迷っている気配がする。美鈴は目を逸らさないことで先をうながした。


「あのさ、俺ね、わかるな。俺にも記憶はないし、ミリンさんは俺のこと知らないみたいだけど、なんで俺がミリンさんのこと……」

「あっ、はい、そこまで。言いたいことわかったから」

「まだ粘るの? 意味なくない?」

「あ、る」


 幽霊を正面から見据えて一音ずつはっきりと突きつけ、美鈴は踵を返した。


 わかっていても、知らないふりをしたほうがいいこともある。幽霊に成仏してもらうためにも、それは秘めておいたほうがいいと思った。

 はっきりと形にしてしまったら、絶対に忘れることができない。

 それは幽霊にとっても、美鈴にとっても、成仏から遠ざける想いだ。

 やる気が大事。昨夜幽霊に言い含めたことを、美鈴は自分にも言い聞かせた。




 シャワーを浴びて戻ると、幽霊は床に座り、ローテーブルの天板をじっと見ていた。

 そこに何があっただろうか、と思いながら近づくと、幽霊が顔を上げる。


「何見てたの?」

「これ、ヤタガラス?」


 幽霊はローテーブルの上の小さな黒いものを指さして言った。

 美鈴が落として割れてしまったスマホのストラップの破片だ。けれど、幽霊の発言にはひとつ問題があった。


「えっ? 何でわかるの?」

「うん……なんとなく?」


 幽霊が見ていたのは、美鈴がスマホから外したストラップの上半分だった。そこにはデフォルメされた目やくちばしは描かれているが、決定的な三本足は当然ない。それは、美鈴が昼に佐藤先輩から渡されて、通学用の鞄の中に仕舞った下半分に描かれている。


「黒くて、鳥……っぽい、から、かな」

「まあたしかに、黒くて鳥っぽいもので、ストラップになると思えば、ただのカラスより別のものかも、って思う……のかな?」

「わからないんだけど、でもそれを見た瞬間、ヤタガラスだなって思ったんだ」


 美鈴はストラップの紐をつまんで、上半分だけのヤタガラスを目の前にぶら下げてみた。自分では最初から何であるかわかっているからそう思えるが、デフォルメされて円柱形に近い形に、白枠に縁どられたきょとんとした黒い目と、金泥っぽい色で嘴が描かれているだけのものを、すぐに何かわかるものだろうか。


「黒い鳥だと……ほかにツバメとか、何かペンギンとかいなかったっけ」

「それってどっちも喉とか頭とかに赤か黄色の模様入ってないかな」

「えー……と、あ、ツバメは首のところが赤っぽくて、ペンギン……これコウテイペンギンか、はやっぱり首が黄色いね」


 鳥の詳細がわかったところでたいした意味はなく、どうでもいいところではあったが、つい、スマホを取り出して検索してしまった。幽霊も同じ画面を見て「あ、ほんとだ」と気の抜ける相槌を打っている。


「こういうの全然思い浮かべないで、ヤタガラスだってわかったんだ?」

「うん、そう」

「ふうん……」


 何かのヒントであるような、ないような。


 美鈴は通学鞄の中から、先輩にもらった下半分のかけらを取り出した。

 それをテーブルに乗せたとたん、幽霊が「あっ」と声をあげる。


「これ、見たことある!」

「え? いつ、どこで?」

「……それはわからない。でも、絶対見たことあるよ。ミリンさん、これ、どこで手に入れたの?」

「えー、っと、どこだっけな。商店街か、神社あるでしょ、大きめの。あそこの参道にあるお土産物屋さんか……そのへんだとは思うんだけど」


 少なくとも何か由緒があるとか、格式高いとか、そういう場所ではない。だが、だからこそいまいち思い出せない。


「この三本足、なんだかすごく見覚えがあるんだ。なんでか、頭よりこっちのほうが……」

「ヤタガラスに何か思い入れでもあったの?」

「うーん……ヤタガラスって思い入れを持つようなものだっけ」


 幽霊が首を傾げるのにあわせて、美鈴もヤタガラスに思いを巡らせる。日本神話に由来する縁起のいい鳥だとは知っているが、具体的に何がどうまではよく憶えていないし、ストラップを買ったのも、たまたまスマホにひとつくらいストラップをつけようかと思っていたころあいに、たまたま何となく寄った店で見かけて、邪魔にならないしちょうどいいかと思ったからだ。

 あとは、間抜けにも見える顔立ちに愛嬌を感じたから。


「なんかこの子、あなたに似てる気がする」

「えっ? どこが?」

「……気が抜けるとこ」


 美鈴は通学鞄を探り、このために買ってきた接着剤を取り出した。断面に塗ろうと、割れた下半分をつまんだところで思い出す。


「サッカーが好きだったとか?」

「サッカー? ああそうか、日本代表の」

「知ってはいるけど、好きって感じじゃなさそうね」

「うん。俺も何かで調べて知ったんだった気がする……あー、えー、なんだ?」

「それもしかしてちょっと役に立つ情報かもしれなくない?」

「うーん……なんだっけな……何か、俺にとってそれなりに用事のあることで……」


 幽霊が右手をこめかみのあたりに当てて唸る。

 もし幽霊が何かを思い出せたら、やっとこの幽霊についての何かがわかる。美鈴は接着剤の蓋を開けようとした手を止め、幽霊の様子をうかがった。

 彼はひとしきり頭を抱えて、ふと、何か思いついたように顔を上げた。そして、美鈴をじっと見る。


「どうしたの?」

「うん……。なんで俺がヤタガラスについて調べたのか、思い出せはしないんだけど、ひとつ思い当たることがあって」

「何を?」


 前髪に隠された瞳から、いつになく真剣な視線を感じる。美鈴からは彼の目が見えないことを、もどかしく思った。


「俺がここにいることも、こんなふうになってることも、たぶん、全部ミリンさん絡みなんだ。だとしたら、ヤタガラスもミリンさんに関係があるんだと思う」


 美鈴はついまじまじと幽霊を見返し、次いで割れたストラップに目を落とした。


「……うなずきたくはないけど」


 話の流れを予想して、念のため、前置きは入れておく。


「一理はあるね。でも私、ヤタガラスとの関係なんてないよ」

「きっと、そのストラップだよ。ミリンさんが持ってたから、気になって調べたんだ」

「……。なるほど?」


 無かったことにしたり黙らせたり、悪あがきはしたが、なんだか意味が無くなってきているような気がする。

 ひとまずその問題からは目を逸らして、美鈴は気を取り直した。


「私の名前の読みも漢字も知ってて、このストラップを持ってるとこも見たことがあって、でも私は知らない。あなた誰よ?」


 幽霊はたっぷり三秒かけて首を右に傾け、それからまた三秒使ってその首を左に折ってから、最後に肩をすくめた。



「さあ?」


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