11.合縁奇縁?

 おやすみと挨拶しても、おはようを言い交わすことはない。

 そのことに寂しさを覚えはじめている。


「……ヤバい気がする……」


 当たり前だったはずのひとりきりの朝が、妙に肌寒く感じた。

 五月半ばは、もう初夏と言って差し支えない季節である。そろそろ過ごしやすさが暑苦しさに変わってくるころだ。梅雨に入ればまた日によっては冷えを感じることもあるけれど、今日みたいなぴかぴかのお天気で、肌寒いは、たぶん、ヤバい。


「早く成仏してもらわないと」


 美鈴は通学にはたいていいつも同じ靴を履く。服に合わせて違う靴を履くお洒落な子、たとえば奈子はそういうことをするが、美鈴の場合はどんな服装にもそれなりに合う飾り気の少ないショートブーツ一足をありがたがっていた。春秋、夏、冬用と三足あれば事足りる。長袖の服を着なくなった四月の終わりに、夏用のホワイトのものに変えた。


 靴を履き、上がり框に置いた鞄を取るのに体半分振り返れば、居室からの明かりだけの薄暗い廊下が見える。居室にはベランダに続く南の掃き出し窓と、東に面した腰高窓があって、レースのカーテンを閉じていてもかなり明るい。その光は、居室のドアを開け放っていても、廊下まではあまり届かない。

 それでも、夜の闇とは違う。


 夜になったら、あの幽霊がいる。


 きっとまた、少し困ったみたいな声で、なのに青白い輪郭からどことなく嬉しそうな感情を滲ませて、「おかえり」と言うんだろう。


「あれ、嬉しいの隠せてるつもりなのかな」


 彼は隠しごとがへたくそだ。言葉で何を言っても、全身から滲み出るものをちっとも抑えられていない。

 成仏するときが来たら、あの透き通った体から、どんな気持ちが伝わってくるのだろうか。


(未練を晴らして、満足して……だから悲しいなんてことは、絶対にナシだけど)


 幽霊がいなくなれば、元通りの生活に戻るだけだ。ちょっと初めての彼氏とはうまくいかなかったけれど、学業もバイトも順調で、大学生活は楽しいと感じているし、問題なんてない。


「……いってきます」


 いつもは声に出さない挨拶を誰もいない玄関に落として、美鈴はひとり暮らしの部屋を出た。



 昨夜こそはきちんと睡眠をとったおかげか、ずいぶん体が軽かった。

 金曜の夜から土日、月曜とどたばたしていたから、まだ火曜日だというのに、まるで週の後半であるかのような解放感がある。

 火曜日は奈子と講義が被らず、合流することがない。昼休みも、火曜日の奈子は彼氏と過ごすことになっていた。


 だから美鈴は一限目の講義を受けたあと、空きコマになっている二限目の時間帯に、学務課の掲示板を見に行くことにした。きのう奈子と話した夏休み中の夏季特別講義の一覧が掲示されるころだと思いついたのだ。大学のホームページ上にも掲載されるのだが、全学部全学科の講義情報があるシラバスの検索が面倒で、集中講義だけをまとめて眺めるなら、大きな掲示板のほうが見やすい。


 天気も良く、軽い足取りで学務課のある建物へ向かったまではよかった。

 だがその途中、近道をしようと整備された道を逸れ、植樹のあいまを縫って進み、植え込みをまたいで建物の裏手にまわったのが運の尽きだった。


「お前……」

「うぇ」


 忘れていた。美鈴がなぜ多少の近道にしかならないのに、わざわざ足元の悪い植え込みの中を通ろうとしたのか。


 答えは、癖になっていたからだ。


 学務課の建物の裏は、どういう意図なのか小さく開けており、木のベンチが置いてある。けれど建物の裏に回ったからといって何があるわけでもなく、たった今美鈴がまたいだ植え込みを越えるなんてことをしない限り、行き止まりだ。

 だからひと気がなくて、そのわりにベンチはきちんと手入れされてきれいだったから、この場所を見つけた元彼がよく空き時間に美鈴と使っていたのである。


 元彼には変にロマンチストなところがあり、こういうちょっとしたふたりきりを好んでいた。

 そして今は、今の彼女と使っているらしい。先に思い当たっていれば回避したのに。


「なんでここ来たの?」

「学務課に用事があっただけ」

「表から行けばよかっただろ」

「別にどこから行ったっていいでしょ」


 美鈴が素っ気なく言い返すと、元彼は不快そうに眉を寄せた。その隣に座っている今の彼女も、元彼ほどではないが、据わった目を美鈴へ向けている。


「裏道を使っただけで、この場所に用事があったわけじゃないから」


 元彼がいる可能性を失念していたのは美鈴の落ち度だ。けれど、元彼と遭遇したくてわざわざここに来たと思われたらたまらない。

 念を押してさっさと学務課へ向かおうとしたとき、元彼がため息をついて言った。


「迷惑だよ、こういうの」

「勘違いだから、それ」

「きのうもわざとらしく隣に来といて、そういう言い訳しないでいいよ」

「それも違うから」


 いくら否定しても、たぶん、元彼は美鈴の言うことに納得しない。美鈴も、状況的に疑われても仕方がないのかなとは思う。

 徹底的に言い合って誤解を解く気力は、美鈴にはなかった。

 この場を離れてしまうのが一番だと、元彼とその彼女のいるベンチの前を早足に横切る。前を通るのも嫌だったけれど、引き返したら、それはそれで彼氏の誤解を加速させそうだ。


「もうやめろよな」


 ベンチから数歩離れたとき、元彼がそう言い投げた。

 だから違うってば。

 内心では腹立たしく言い返しつつ、声に出して言い返すことはできないまま、後ろを振り返らず建物の角を曲がった。


 元彼の声が届く距離ではなくなっても、美鈴の気持ちは晴れない。

 嫌な誤解をされている。

 それは腹立たしく、また悔しくもあった。でも、美鈴にまだ未練があると思い込んでいるらしい元彼に、強く言えない自分にも苛立つ。


 別れぎわだって、そんなに未練が残るようなものではなかったはずなのだ。たしかに別れを切り出したのは向こうで、美鈴はうなずいた側だ。だからといって揉めたなんてこともなく、ひと言どころか一音さえ拒んでいない。

 別れようと言われて、美鈴も付き合い続ける意味を感じなかったから、シンプルに「わかった」と答えた。


 それでは何かいけなかったのだろうか。


 きのうと今日でよからぬ接近をしてしまったが、それより前は、別れて以降距離を置いていた。元彼が、美鈴がまだ未練を残していると思う要素はないはずだと、美鈴には思える。


「……わけわかんない」


 吐き捨てた言葉が元彼に届けば、まだこの苛立ちもおさまるかもしれない。喧嘩になるかもしれないとしても、本人の前できっちり言い返すことさえできたら、今よりはすっきりするだろう。

 ままならないもどかしさに気分が落ち込み、うつむいて歩いていたら、すれ違いかけた誰かとぶつかってしまった。


「あっ」


 バサバサとノートなどの紙類が地面に落ちる音がする。


「すっ、すみません!」


 美鈴は相手を見るより先に、下向いていた視界に入ってきたノートやレジュメを拾い集めた。


「大丈夫ですよ」


 相手も美鈴と同じように屈み、落ちたものを拾い集めていく。地面からものがなくなって立ち上がったときに、美鈴は初めて相手の顔を見た。


「えっ……。えっと、佐藤先輩」


 きのうも美鈴の不注意でぶつかってしまった相手だ。きのう荷物を落としたのは美鈴だったが、今日は彼だった。美鈴は拾った紙などの角を揃えようと抱えたものを軽く揺すってみたが、思うようにうまくいかない。


「俺のこと憶えててくれたんだ?」

「えっ? ええと、まあ、はい」


 芸能人が言いそうなセリフだな、と思った。面識のない学生に名を知られていることを気味悪がられるかとも思ったのに、かえって嬉しそうにされると美鈴のほうが戸惑う。

 もしかしたら、モデルか何かをしているのかもしれない。それなら認識されていて喜ぶのもうなずける。


 改めて見上げた彼は、太陽光では赤っぽく見えるダークブラウンの髪を巻き毛ふうにセットし、それが目が大きめでやや童顔ぎみの顔立ちをより柔らかく印象付けていた。

 目に快い整った容姿で、事務所に所属していると言われても納得できそうだ。


「あの、きのうに引き続き、本当に申し訳ありません」

「いや、俺も、ちゃんと前を見ていなかったから。気にしないで」


 雰囲気に似合う、ふんわりした口ぶりだった。昼ご飯のあとの予定のない昼下がり。そののどかさを思わせる口調で、おっとりした性格なのかと思う。

 美鈴は彼が差し出した手に拾ったものを受け渡した。


「み、……えっと、海野さん」

「え?」

「俺も憶えてるよ。去年の実習で一緒だったよね」

「あ、はい……」


 美鈴は虚をつかれ、気圧されるようにうなずいた。相手に威圧感などみじんもなかったが、彼が美鈴を知っていることは予想外すぎた。

 奈子が言うにはそこそこ有名人らしい先輩と違い、美鈴は数人の友人くらいにしか知られていない。

 まして、美鈴のほうは奈子に言われなければ思い出しもしなかったのだ。

 美鈴の驚きに気づいたのかどうか、佐藤先輩は少し間をあけて、ゆったりと訊いてきた。


「今年も、どれかに参加するの?」

「一応、そのつもりで……」


 彼が目をやった先には、学務課のある建物の前に設置された大きな掲示板がある。

 夏期講習が掲示されるのもそこだ。そうやって訊くということは、彼も掲示物を見てきたところなのだろうか。


「どれに興味ある?」

「まだ何があるのかも確かめていないので、今から見ようと思っていたところです」


 美鈴は、初対面や、それに近い相手とスムーズに話ができるタイプではない。落ち着けずに話の切り上げどころを探していると、天の助けかのように、彼のスマホが鳴った。ポケットから端末を取り出して画面を見た彼が、指を動かして何か文章を入力している。短い言葉だったのか、すぐにスマホから顔を上げた佐藤先輩は、もう一度美鈴と掲示板とに視線をやった。


「去年、面白かったね。今年も何日かかけて山でスキーしたり、何かの燻製を作ったり、植物の同定をするのとか、楽しそうなのがあったよ」

「面白かったですけど、けっこう、その、衝撃的でした……」

「ああ、あれね」


 佐藤先輩は少し目を細めて、ほろ苦さを含ませながら微笑した。その顔を見て、あのときの経験を美鈴もうまく言葉にできないが、彼も同じなのかもしれないと思った。


「何日かかけてって言いましたけど、先輩は今年も合宿タイプのにするんですか?」

「そのほうが普段はできないことが多くて面白そうなんだけど、今年は就活を考えないといけないから、検討中かな」

「そうか、就活。大変そうですね」

「うん、まあ……早すぎるよね。かといって来年だと、論文とぶつかってもっと大変だろうし。大学生活って案外あっという間だな」


 まだ三年生の前期にいる彼が、まるでもう終わりぎわであるかのように言う。

 だがそうやってスケジュールが見えていると、就活や卒業もすぐそこにあるかのように感じられた。

 嫌だなあ、と思う。

 でもそんなことを目の前の彼に言えるはずもなく、美鈴が言葉を探していると、またも彼のスマホが鳴った。


「食堂で友だちと待ち合わせてるんだ。俺、もう行くね」

「はい、本当にすみませんでした」

「大丈夫だよ」


 佐藤先輩が踵を返して、美鈴は内心ではほっとしていた。会話に詰まってできる沈黙は苦手だ。

 特に彼を見送る理由もなく、美鈴もまた掲示板のほうへ歩き出そうとした。そのとき、急に彼が振り返って、離れていた数歩分を足早に詰めてきた。


「忘れてた。これ、海野さんのだよね」

「えっ」


 彼が鞄の外ポケットを探って取り出したのは、小さなプラスチックのかけらだった。外側は黒く塗られているが、割れたらしい断面があり、樹脂の白色をさらしている。

 美鈴は、それに見覚えがあった。


「あ……ありがとうございます」


 手のひらを上に向けて差し出すと、ころん、と美鈴の手にそれが落ちる。

 美鈴のスマホについていたストラップの、割れてどこかへいったと思っていた半分だ。

 要するにゴミに等しいものである。


 拾った時点で捨ててもよかったはずなのに、そうせず持ち歩いて、こうして返してくれる先輩の妙な律儀さを、美鈴はなんとなく不可解に思った。美鈴にとっては、女子たちに顔の良さで騒がれる有名人のイメージとは一致しない。


「サッカーが好きなの?」

「え?」

「その三本足のヤタガラスって、日本代表のシンボルマークだから」


 佐藤先輩は、美鈴の手にある半欠け部分の模様だけで、ストラップの元の姿を言い当てた。

 黒地に金のインクで描かれた三本線を三本足と認識できたら、わかりやすい動物ではある。


「いえ、そういうわけじゃないんです。これ見かけたとき、なんとなく顔がかわいくて」

「そうなんだ」


 あいにく、欠けたストラップはスマホから外していて、顔を見せることができない。それでも彼は美鈴の言葉にうなずいて、同意するように少し笑ってみせた。


「それならやっぱり、渡せてよかった」

「あ……はい。ありがとうございます。くっつけてみます」

「うまく直るといいね」


 そう言ってから、先輩は今度こそ歩き去っていった。

 なんだかちょっと変わった人みたいだな、と、美鈴はぼんやり思った。

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