10.毛のない愛だというのに


「というわけで、あなたに足りないのはとにかく成仏へのやる気なのよ」


 その夜、またしてもバイト帰りの美鈴を出迎えた幽霊に、美鈴は昼間の奈子との会話をかいつまんで話して聞かせた。

 ただし、愛のくだりは丸ごと省いた。


「成仏へのやる気、って……」


 帰宅するなり幽霊を急かして座らせたせいか、彼はまだ面食らったようにそわついている。対して、美鈴はもう諦めがまさった。

 ドアを開けると、幽霊は当然のように暗い廊下に浮かび上がっていて、美鈴に「おかえり」と言った。彼が次に口にしたのは、「鍵をちゃんとかけてね」。

 美鈴は幽霊がそこにいたことについて何を言うでもなく、道をあけようとした彼を前に歩かせながら居室に入った。それから幽霊を床に座らせ、正座した彼に美鈴も同じ姿勢で向き合っている。


「成仏って言われると、俺……なんかちょっと、地味に脅されてる気がする」

「怖がることないよ。大丈夫。きっとあなたを幸せにする道だから」

「新手の宗教みたいだなあ……」


 オカルトが何か言ってやがる。美鈴はじとっと目を据わらせて、帰りがけにコンビニで買ってきたばかりのファブリーズを吹きかけた。

 飛沫は幽霊の体をないものとして通り抜け、部屋がちょっとさわやかになる。


「ファブリーズで除霊は都市伝説だよ」

「やってみなきゃわからないでしょ」

「……効かないねえ」


 幽霊は飛沫が通り抜けた自分の体を見下ろし、のんびりと言った。


「ちょっと得意げな顔しないで。やっぱりあなたに成仏する気合いがないのが問題なんでしょ」

「成仏って気合いでやるものかなあ」

「気合いでもなんでも、まずは成仏したいって思うのが大事なんじゃない?」

「俺、あんまり思わないな」

「思いなさい。誰の家に不法侵入してると思ってるの?」

「ハイ……」


 不承不承のようだが、言質は取った。ともかくやる気を出してもらって、成仏を達成するのだ。そのやる気を引き出すには相手を知ることが大事、と奈子が言っていたことを思い返しながら幽霊を見つめる。


「で、何か思いつくことある?」

「たとえばどんなこと?」

「この際、なんでもいいの。好きなものとか嫌いなものとか、趣味とか、誕生日とか、そういうなんでも」

「そんなこと?」


 しょぼくれていた幽霊は、意外そうに顔を上げた。ゆるくて気の抜ける部屋着に寝ぐせ。腹立たしくて認めたくないが、愛嬌がある。


「成仏って言っても、この世にもういたくないって思わせるのは私もいや。かといって、今のままじゃ何にも解決しないから、手がかりになりそうなものを見つけようよ」

「好きなものや嫌いなものが、成仏の手がかりになるの?」

「私の話聞いてた? 友だちと話したって言ったでしょ、ひとりひとりに合わせたやり方で、って。そのために子どもたちのことを知る必要があるのよ。それと同じ」

「ミリンさんは、俺のことを知ろうとしてくれてるんだね」

「成仏のためにね」


 ふわっと輪郭がほぐれた幽霊だったが、美鈴がぴしゃりと言えば、また引き締まる。

 嬉しくなってしまうのも理解できなくはないが、そういう状況じゃないのだ。こののんきな幽霊には、つくづく目的を肝に銘じていただきたいものである。


「で、何かある?」

「好きなもの?」

「でも何でも。何か思い出せそう?」

「うーん、そうだなあ……」


 幽霊は、緊迫感のかけらもない声で応え、考え込むように顎に指先を当てた。そのまま静止した彼を置いて、美鈴は立ち上がる。


「どこに行くの?」

「シャワー浴びてくるから、その間に考えておいて。覗こうとしたら今度こそ二度と化けて出ないほど殺してやる」

「怖っ。……って、絶対しないから! それくらいの良識は俺にもあるよ!」

「良識のある幽霊とは」

「お、俺に良識がなかったら、今ごろ……」

「何?」


 美鈴は間髪入れず鋭く訊き返した。怖いことを言わないでほしい。無害な幽霊だと思っているから、のんびり対話を試みようという気でいるのだ。有害ならばもっと、何か、本格的な対策を考えなければならない。

 顔をこわばらせた美鈴に、幽霊は慌てて首を振った。


「違う違う、何でもないです! 危害を加えようとか、そういうんじゃなくて! 寝顔をじっと見てたりとか、そういうの」

「え!? 見てたの!?」


 反射的に訊き返しはしたものの、内心では「その程度のこと?」という気持ちもあった。

 そんな美鈴の内心を置き去りに、幽霊は音がしないのが不思議なほど勢いよく首を横に振る。つられて髪が乱れたものの、前髪の下が見えるほどではなかったのが惜しい。


「見てない! そういうのマナー違反だってことくらい、わかってるから!」


 良識を説く幽霊は、美鈴の常識にはないのだが。

 寝顔程度のことでは良識があるのか、度胸がないのかの判断はつかないけれど、どちらにせよ、この幽霊にとって女性の風呂を覗くのは難しいだろうことはわかった。


「そう、よかった。ついでに不法侵入の件についてもよく考えて、もっと前向きに成仏を検討しておいてね」

「……はい……」


 美鈴は着替え一式を持って居室を出、ぬるめのシャワーを浴びた。普段の美鈴なら居室を出る時点で服を脱いでいるし、戻るときも下着しか身に着けず、あるいは下着さえないまま居室で着替えるのだが、幽霊のせいでそれがはばかられるのが少し面倒だった。

 こんな面倒なことをするのは、元彼が泊まりにきたとき以来だ。

 ただし、元彼と違って、下着姿で相当な慌てぶりを見せた幽霊である。美鈴が全裸で現れようものなら、それこそ魂消てしまうかもしれない。そうなれば美鈴にとっては都合がよくても、さすがに全裸ともなれば失敗したときのダメージが計り知れないので、実行はできなかった。


 風呂上りにパジャマ姿で部屋に戻ると、美鈴が出たときと同じ場所に座っていた幽霊は、ほんのり気まずそうに視線を床に向けた。


 乙女か、と突っ込みたくなる恥じらいようだ。


 美鈴が着ているのは、女子向けブランドの可愛いパジャマなどではない。ユニクロでセット売りされているトレーナーとゆったりしたズボンであり、襟や袖がそこまでくたびれていないという点を除けば、幽霊自身の格好と大差ないものである。

 これごときでそんな反応をされると、幽霊の内心はそれほどやましいのかと疑わしくなってくる。


 美鈴とて男性のことをそんなに知っているわけではないとはいえ、少なくとも前の彼氏は、美鈴のパジャマに興味はなさそうだった。むしろ、彼氏といるのにそんなもの色気がない、と鼻白んだくらいだ。

 そのときは、かわいい女子向けブランドのパジャマや部屋着の値段を教えてやった。

 元彼は男の憧れがどうのと言っていたが、その憧れは、とかく金がかかる。

 けれど、金額はともかく男の子とはそういうものかと思っていた美鈴には、今の美鈴にさえ落ち着かなそうにしている幽霊は目新しく見えた。


「……」


 キッチンでコップに汲んできた麦茶をひと口だけ飲んで、ローテーブルに置く。幽霊は飲食もできないから、ひとりぶん。同じ部屋にいるのに飲み物のひとつも出せないというのは、それはそれで絶妙に気まずい。


「それで、何か思い出せた?」


 美鈴はラグマットの毛の枚数か、フローリングの板の数でも数えていそうな幽霊に向けて問いかけた。彼は床を見たまま答える。


「……ごめん、何も……」

「じゃあ、今は何を考えてるの?」

「…………」


 幽霊はふと顔を上げて美鈴を見、すぐにまた床の木目を眺めはじめた。


「あのね、この木の模様、トトロのお腹に似てる」

「は? どこが? っていうか、誤魔化すの下手じゃん」


 美鈴が上体を傾けてわざと彼の視界に入るようにすると、幽霊の肩がびくっと跳ねる。


「……初心すぎない?」

「言わないで! きっと俺、女の子と付き合った経験なんてないんだ……!」


 幽霊は両手で顔を覆って、わっと嘆いた。美鈴は、何と言っていいかわからず、その仕草に注目して、透明な手で顔を覆う意味を考えていた。


「経験がないのが未練とか?」

「……」

「何か言いなさいよ」

「……。可能性はある、けど……」

「けど?」

「俺に、本当に経験がなかったとして……」


 幽霊が両手の間からちらりと美鈴を見る。機嫌をうかがうような視線だ。歯切れの悪い幽霊に、とっとと白状しろ、という圧を込めて見返すと、彼はまた両手に顔を埋めなおしてもごもごと言った。


「たぶん、そうなった原因はミリンさんじゃん……」

「え? 私が何かを妨害して、それで恨んでるってこと?」

「えっ? いや違っ、恨んでなんかない! それだけは絶対ない! 逆だよ、そうじゃなくて俺は……」

「あっ待った。わかった。もういい。それ以上を口に出さないで。嫌な予感がする」

「嫌な予感はひどくない!?」

「いや、普通に考えてよ。なんでどこの誰とも知れない幽霊に告白されようとしてるの、私」

「仕方ないじゃないか、だって、俺……」

「言うなってば! って、うっわ!?」


 思わず幽霊の口を塞ごうと動いて、美鈴の体は彼を通り抜けた。勢いあまって倒れこんだ床が冷たい。幽霊自体は、ひやりともせず、何の感触もなかった。きっと、目に見えていなければ、存在していることさえわからないだろう。


「わっ、大丈夫!?」

「あいたた……ひじ打った」

「ええっ、な、何か冷やすもの……」


 幽霊の手が美鈴のひじあたりを何度も往復している。体があれば撫でていたのだろうか。悲しいほどに何も感じない。触れて撫でているのか、触れずにうろたえているだけなのかさえわからない。


「そんなにひどくないから大丈夫。あーあ、うっかりしてた」

「なんか、ごめん。受け止めてあげられなくて」

「……腹立たしいところもあるけど、でも、こればっかりはあなたのせいじゃないでしょ」

「でも……」

「落ち込むのやめなさいって。それより成仏する方法を考えてよ。言っておくけど、私を道連れにするのはナシ」

「道連れになんかしないよ」


 幽霊は、それまでの気弱そうな雰囲気を一変させて、それだけはとても真面目な声で言った。美鈴の前にきっちり正座して、同じように床に座り込んでいる美鈴の目をじっと見ている。彼の目は見えないけれど、視線は痛いほどに感じた。


「ミリンさんに死んでほしいなんて、そんなことは絶対、思わない」


 真剣に言われて、美鈴は言葉に詰まる。死んでほしいと言われたら即座に断ればいいだけだったが、死んでほしくないと言われると、何と返したらいいものか。


 だって相手は幽霊で、死んでいるのだ。


 自分だけ生きててごめんなさいとはさすがに思わないけれど、だからといって、死んでしまった幽霊を前に、自分が生きていることは当たり前だと言うのはなんとなく心苦しいものがあった。


「……そう」

「死んだらダメだからね」

「……そうね」

「絶対ダメだから!」


 死んでしまった幽霊相手に強く言えず、なんとなくあいまいな発音をしていたら、今度は幽霊が身を乗り出してきた。ぶつかる心配はないのに、美鈴も思わず仰け反る。


「ちょっと、逆にそこまで念を押されるとなんで? って思う。私に死にそうな気配とかある? まさか、そういうの見える系?」

「違う違う違う……ただ、なんとなく、ミリンさんは最近元気がないんだってわかるから」

「え」


 幽霊の発言は、美鈴の意表を突くものだった。

 突拍子もなかったから、ではない。

 それが事実だったからだ。

 でも、幽霊の前でわかりやすく落ち込んでみせたことはなかったと思う。そもそも、幽霊が出てからこちら、彼のことで手一杯で、落ち込む暇なんてなかった。


「……それ、どういう能力?」


 美鈴は幽霊の上から下までをあらためて観察しながら尋ねた。

 どんなに眺めても透けているだけの幽霊である。床以外のいろんなものを透過するが、ポルターガイスト現象はかけらもない。もし彼にものを動かすような力があるのなら、真っ先に玄関の鍵をかけそうだ、と思った。


「べつに何かが見えてるとか読み取ってるとかじゃなくて……」


 つい一昨日、美鈴が彼の不自然な態度に怯えたところを見せたので、幽霊は美鈴の怪訝なまなざしに敏感だった。食い気味の早口で否定して、そのあとにそっと美鈴をうかがうようにしながら、ゆっくりと言葉を使う。


「俺、たぶん、ミリンさんが元気ないの、最初から知ってた」

「なんで? あなた、私の何なのよ」

「うーん……守護霊?」

「却下」


 こんな、得体のしれない、おまけに初心で頼りなさそうな守護霊がいてたまるか。

 守護するどころかされる側だろう、と美鈴は幽霊を上から下まで眺めて思う。

 今も、幽霊はすげなく切り捨てられていつか見たCMの犬みたいに美鈴を見ている。前髪に隠れて見えない目さえ、潤んでいるのがわかりそうだった。

 ご利用は計画的に、だったか。

 守護霊のご利用を申し込んだ覚えもなければ、やはりこの幽霊にも見覚えはない。

 計画も何もあるか。


「もしかして俺、ミリンさんに元気になってもらいたくて」

「とり憑いたって?」

「言い方は悪いけど……」

「悪いも何も他の言い方なんてないでしょ」


 美鈴は目の奥あたりが痛くなってくるのを自覚した。

 幽霊が暴いた美鈴の気持ち。でも、美鈴は知らないふりを貫き通していつか気にせずいられるようになる日を待つつもりでいた。それなのに、目の前に突き付けられた心地だ。

 余計なお世話である。放っておいてくれたら、きっとそのうち、忘れられるはずだった。

 完全に記憶から消えることはなくて、他の失敗と同じように、『うまくやれなかった』苦い思い出として頭の片隅に残り続けるのだろうけれど、だとしても今まで美鈴はそうやってやり過ごしてきた。


「……逆効果よ」


 美鈴はため息とともにつぶやいた。幽霊を責めるつもりはなかった。自分へのやるせなさだけがあった。


「俺……」


 視線を上げられなくなった美鈴の視界の端で、幽霊がおろおろと手を上下させているのが見える。彼がどれだけ動こうと、その手は美鈴に触れることも、美鈴が触れられたことを感じることもない。


「俺、何ができる?」

「……」

「何でもやるよ! 俺にできることなら、……なんでも……」


 幽霊は無理をして明るい声を出しているようだった。彼にも、自分にできることがほとんどないのはわかっているのだ。


「……話をしてよ。何でもいいよ。俺、何でも聞くから。どうせこんなんなんだし、何を聞かされたって大丈夫だから」


 半透明で何にもぶつかることのない両手を振って、幽霊は主張した。彼の動きは微風さえ生まなかったが、必死な思いだけは伝わってきた。

 体はもう無く、むきだしの魂だけ残された男の子。そこから発されるのは、混じりけのない思いであるように感じられた。


「……話、か」


 ことの顛末を知っている奈子にも話せていないことは、確かにある。他にも、人に聞かせるにははばかられる気持ちも、たくさん。


「聞かせて。ミリンさんの話」


 おかしい。奈子と話したときには、美鈴が幽霊の話を聞くはずだった。それがなぜか、逆転しつつある。

 けれど美鈴も、話してもいいかな、と、思ってしまったのだ。

 口に出すのさえ苦痛だと感じたあれこれを、今みたいな夜、この幽霊相手に話すなら、そこまで痛くないんじゃないかと、思えた。


「それって下心あり?」

「いや、ない……っ、ある、けど、それは、その」

「どっちよ」

「誓って、話を聞くことで少しでもミリンさんの役に立てたらって思っただけだけど、ミリンさんの役に立つのは俺にとっても嬉しいことだから……べつにおかしくないだろ、すきな」

「はいストップ。言うなってば」

「ねえ、これもう意味ある?」

「ある」

「ないよ」

「あるって言ったらあるの」

「ない」

「ある! もう、馬鹿、不毛じゃん。私があるって言ったらこの場ではあるってこと!」


 美鈴は呆れて、半分笑いながら幽霊をののしった。

 幽霊のくせに不毛な想いを抱いて、どうするつもりなのだろう。そうやって不毛なものを形にしてしまうことを、ためらわないのはなぜだろう。


 いつか苦しむことになるのは、自分だろうに。


「気が向いたら、話してあげる」

「うん」

「でも、今日は寝る」

「……え?」

「もう夜中の一時過ぎたのよ。いつもなら少しは平気だけど、昨日に一昨日、で、私、明日も一限から講義があるのよ……」

「あっ!」


 いかにも、しまった、という顔をして、幽霊がベッドを見やる。美鈴をベッドに入れたいけれど、触れることもできない彼にはなすすべがない、そういう内心が伝わってくるようだった。

 美鈴はあくびをしながら笑って、赤ちゃんじゃないんだから、自分でベッドに入れるよ、と思った。

 ベッドに横たわって掛布を引き上げると、幽霊が遠慮がちにベッドわきから顔を覗き込んでくる。部屋の明かりを消しても、幽霊だからか、ぼうっと薄青っぽく浮き上がって、表情までよく見えた。


「おやすみ、ミリンさん」

「……おやすみ」


 幽霊におやすみ、と返すのが正しいのかどうか、少しだけ迷った。でも幽霊がうれしそうにほほ笑んだのだから、まあ、よかったのだろう。


 馬鹿だな。


 美鈴は目を閉じて、そばにいるだろう幽霊の気配も掴めないまま、心の中だけでつぶやく。


 私も、あなたも。



 今、どんなに嬉しくなったって、全部、終わりに向かうためだけのものなのに。

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