後編・美琴サイド
青埜美琴には、幸花と出会う前に、十年間付き合っていた男性がいた。
当時放送されていた魔法少女アニメが好きなことをからかわれ、男子の輪に入りづらそうにしていた彼を、美琴は家に引っ張ってきた。美琴が幼稚園の頃から集めてきたコレクションに、宏嗣は大喜びだったし、彼が語るキャラは美琴の好みとも被っていた。そして、美琴が作品グッズでポーズを取ったりすると、彼は熱烈に褒めてくれたのだ。
宏嗣にとって自分が特別であることは、すぐに分かった。
けど、彼を恋人にしたいという感情は全くなかった――性愛は分からないなりに、彼とキスしたり手をつなぎたいとは思わなかった。
美琴はただ、宏嗣と遊びたいだけだった。アニメやマンガで一緒に盛り上がって、一緒に絵を描いて、可愛いと褒められたいだけだった。彼がどうして褒めてくれるのか、それを深く考えることもなく。
学年が上がって、遊び方が少しずつ変わっても、一緒に遊ぶ習慣は続いていた。中学も近くなると、多くの男子には近寄り難くなるし、女子の人間関係は複雑にもなってくる。宏嗣といるのが一番気楽だったし、自分らしく過ごせる気がした。
中学に上がり、宏嗣の声がすっかり低くなった頃になると、さすがに距離感は変わってきたが交友は続いた。一緒に入った美術部は、何を描いても許される雰囲気だったので、二人とも好きなキャラを描いてばかりだった。その頃になると、二人が好きなのは「変身ヒロイン」や「美少女」よりも「百合」であることが分かってきた。
いつか推しカプの同人誌とか作ろうよ、なんて話で盛り上がっていた。この友情が、友情のまま、ずっと続くと信じていた。宏嗣から寄せられる好意は、美琴にとってあまりにも当たり前すぎて、真剣に恋愛として考えることもなかった。
転機は高校二年目、美琴はクラスメイトの男子に告白された。中学のときに告白してきたのは迷わず断れる男子だったけど、今回の男子には魅力も感じていたのだ。
「ツグはさ、私がアイツと付き合ったら嫌だ?」
返事を保留にして、美琴は真っ先に宏嗣に相談していた。
「別に、嫌とかねえよ。そもそも俺が美琴の恋愛に口出す権利とかないし」
「だけど……じゃあツグはアイツのことどう思う?」
「好きじゃねえな、ああいう陽キャ男とはそもそも交流ないし。ただ、俺よりは女子の彼氏に向いてるだろ」
宏嗣の卑下をフォローできないくらいに、男子のカーストは明確だった。宏嗣と積極的に関わっている女子なんて、美琴くらいしかいない。
「けど。美琴が付き合ったら、俺らがこうやって家で会うのは無くなるんだろうな。それは不便っちゃ不便」
「不便? 寂しいじゃなくて」
「スマホありゃいくらでも話せるし、絵の見せ合いもデータでいいし、ゲームだって会わなくてもマルチできるじゃん。けどそういうの、顔合わせてた方が楽ってだけ」
そのときの美琴は、宏嗣に応援してほしかったのか、止めてほしかったのか、今でも分からない
ただ結局、美琴は告白にイエスを返して、その後は散々だった。
彼氏は美琴を家に呼んで、強引にセックスに持ち込んだ。美琴は断る理由も思いつかず、始まってしまえば気持ちいいだろうと高を括っていたが、ただ苦しいだけだった。
こちらの感覚なんてまるで気にせず、ひたすら欲を押しつけてくる彼氏のおかげでやっと分かった。美琴が嫌な思いをしないために、宏嗣はずっと気を払ってきたのだ。
その体験が尾を引いて、彼氏とはすぐに別れた。きっと彼が欲しかったのは、対等に支え合える人じゃなくて、欲望を発散できる都合いい女なのだろう。
顛末を宏嗣に話しながら泣きじゃくっていると、憤慨していた彼も泣きだした。久しぶりに抱きしめあいながら、疲れ果てるまで二人で泣いた。
そして、宏嗣に提案された。
「美琴さ。俺と付き合ってることにしない?」
「話聞いてた? 男と付き合うの懲り懲りだって言ったじゃん」
「だから本当の彼氏じゃなくてさ。表面上、付き合ってることにしようぜって話。それなら、美琴が他の男に狙われることも減るじゃんか……別に、美琴が俺の彼女って思われるの嫌なら」
「それは嫌じゃないよ、けど……だって、それじゃツグが、他の子の本当の彼氏になれないじゃん」
「なれねえよ、元々」
宏嗣の苦々しい断言。そんなことない、とか美琴には言えない――他の女子の彼への評価なら、彼よりよく知っているから。
宏嗣は美琴の背中をさすりながら、低い声でゆっくりと語りかける。
「キスもセックスも、美琴が嫌なら無しでいい。二人でやること、今までと何も変わらなくていい。ただ、美琴が他の男に言い寄られたとき、はっきり断れる名分がほしい……俺じゃ、ダメかな」
美琴はしばらく考えてから、宏嗣の背に腕を回す。体温が伝わるくらいには深いけど、胸のふくらみが伝わらないくらいには浅い抱擁。
「これが、私がツグに許せる距離の限界。それでも、彼氏役、なってくれる?」
宏嗣の手が、美琴の背を軽く叩く。
「任せろ」
こうして、美琴と宏嗣は恋人のフリを始めることになった。
けど、実際は恋人のフリとかじゃなく、肉体関係のない恋人関係だったと、美琴は思う。ずっと宏嗣のことは好きだった、大切だった。
けど、宏嗣はずっと、一番強い望みを隠してきた。美琴が、隠させてきた。
*
二人の大学は別だったが、変わらず実家から通っていたので、付き合いは無事に続いた。バイトで金にも余裕ができて、ライブやイベントにも気軽に行けるようになったし、百合の同人誌も作り始めた。家族ぐるみの付き合いで親も公認の仲だったので、二人で遠出することにも何も言われなかった。
百合を描きながら、何度も、二人で悩んできた。
「やっぱ男が描く百合って嘘っぽくないかね」
「ううん……ツグの愛情とセンスは本物だと思うよ?」
「美琴が言うならいいけど……そもそも本当に百合を推したいならさ、俺が美琴と付き合ってることにするのも、やっぱり妙なんだよな」
「それは……私は女と付き合うべきって話?」
「べき、じゃないけど。少なくとも俺が、美琴が女性と付き合うチャンスを奪ってたら、ダメじゃん」
「そうかもだけど。リアルに女どうしって、まあ難しいじゃん」
「悲しいことにな」
「だから私はせめて、創作で幸せな百合を描きたいし、そうなるとツグと一緒が一番楽なの」
「なるほどね……よし、描くか」
そうした関係にも、転機が訪れる。
ライブで地方に遠征した夜、二人で泊まったホテルの部屋。
打ち上げで酒を飲みすぎた後だからか、ファン仲間に「お似合いですね」と口々に言われたからなのか。普段なら絶対に言わなかった、言ってはいけなかったことを、美琴は口にした。
「ねえ、ツグはさ」
「うん?」
「私のこと、本気で好きなんだよね。女として」
「……今更。それ聞いてどうすんの」
「だってツグの本音、ずっと聞いてなかったから」
宏嗣は徹底的に百合オタクで、つまりは男が恋愛に絡むことに否定的だ。しかし同時に、女に欲情する男でもある――それくらい、隣で見ていれば分かる。その欲望が美琴に向かないように、宏嗣がずっと耐えていることも分かる。
「……出会ったときから、ずっと。美琴は俺にとって、誰より可愛い女の子だよ」
彼に可愛いと言われるのは、とても久しぶりだった。その感情の先にある行為を自覚してから、彼はずっとその言葉を封じてきたのだろう。
「だから触れたい、全部が欲しい。けど、それ以上に、美琴には美琴らしく生きていてほしい」
ベッドに仰向けで、腕を顔で覆ったまま、宏嗣は語る。
「こんな言い方で信じてくれるか分からないけどさ。美琴と一緒にいられるだけで良いんだよ、俺は」
美琴は彼の隣に寝転がって、体の線を押しつけるように抱きつく。
「私ばっかりもらいすぎなんだよ、それじゃ。ツグが損してばっかりは嫌なんだよ、私にできることは返したいんだよ。
それにさ。最後に私の中に入れたのがアイツなの、やっぱり気持ち悪いんだよ。結局ダメかもしれないけど、せめて最後はツグがいい」
「……嫌だったらすぐに言え?」
「うん。あ、でもゴムないか」
「持つようにしてた、一応」
「やっぱツグもやる気あったじゃん」
宏嗣の抱き方は、どこまでも優しかった。彼は初めてでテクニックもクソもなかったけど、美琴を気遣う姿勢だけは一貫していた。
全然苦しくなかった。大事にされている実感も、行為の快感もちゃんとあった。
けど、気づいてしまった。
「……美琴、痛くなかった?」
「それは大丈夫、なんだけど……あのさ、ツグをすごく傷つけること、言っていい?」
「言えよ、何もかも今更だろ」
「うん。私と抱き合ってるのが女の子なら良いなって、ずっと思ってた」
彼のプライドをズタズタにする発言だ、怒鳴られても仕方ないと美琴は思っていたのに。
「……そんな気はしてたよ」
「何その納得顔」
「お前がオタクやってるの、何年見てると思ってんだよ。夢中になってた女性陣、性愛込みでの推しだって察しつくよ……じゃあビアンか?」
「バイじゃね? さっきも気持ちよくはあったし」
沈黙の後、宏嗣が呟く。
「俺たち、終わりにする?」
「別に、ツグのこと嫌いになった訳じゃ」
「本当に付き合いたいのは女なんだろ」
「なんだけどさ」
宏嗣と目を合わせないまま、横になってまとめた考えは、自分でも笑えるくらいにダサかった。
「自信ないんだよ。女どうしで真剣に付き合って、相手に責任持つの……そもそも、私は女が好きですって周りに言うところから、自信ない。ツグと付き合って……ああ、フリってことにしてたっけ? とにかく、こうしているのが一番楽」
少しの沈黙の後、宏嗣は答える。
「もしこれがフィクションで、俺が読者なら。美琴が他の女性と付き合うために背中を押すのが、ここにいる男の役目だろうって思う」
「だよね」
「けど、現実だからさ。美琴が挑戦した先に待ってるのがハッピーエンドとは限らないし、美琴の苦労が報われる保証もない。だから、美琴が妥協したいって言うなら、俺は協力するしかないわな」
「……いいの? ツグが女の子だったら良いなってずっと考えてる私だけど」
「それは俺も同感だよ」
「子供作ろうって決めない限りはセックスも付き合えない」
「今までだってそうだったろ、俺の欲は一人でなんとかするし」
「それでツグは幸せ?」
「俺にとっては幸せだよ」
宏嗣にとっては――美琴以外の女子とはまず縁がないし、男子の間にも馴染めない彼にとっては。
「俺は元々、人と一緒にいる幸せには向いてないんだよ。だから美琴が必要としてくれるだけで救われるんだよ……本当は、美琴が俺なんか必要としないで、女どうしで不自由なく幸せになれるのが理想なんだけどさ」
宏嗣の世界観は、自己嫌悪と深く結びついている。女どうしで不自由なく幸せになれる理想の社会なら、美琴が彼を求める理由はずっと少ない。
けど、今、ここで、美琴に必要なのは彼だったから。
「私は。ツグと一緒にいられて、幸せだよ。
だから、この先も、一緒にいようよ」
いずれ結婚して、夫婦を名乗りながら、私たちだけのベストな関係を続けていくのだと。あの夜の美琴は本気で思っていた。
*
就職先も別だったが、近いエリアの二社だった。実家からはやや遠かったので、通いやすいところに部屋を借りて同棲を始めた。感染症騒ぎも長かったけど、なんとか二人で乗り切ってきた。
感染の落ち着いた頃を狙って、美琴は女性間風俗――いわゆるレズ風俗に通うようになった。勿論、宏嗣も承知の上で。
キャストの女性たちと過ごす時間は楽しかったが、あくまで客だという意識は忘れなかった。料金ありきの関係、愛想の含めてサービス、ビジネス抜きの交流は求めない。
そう思いつつ三年間、宏嗣との暮らしも平和に続き、百合創作にも精を出し、口座の残高も順調に増えていった、はずなのに。
とある新人のキャストと過ごしたときに、意識が揺らいだ。
美琴と抱き合いながら、その子は嬉し涙を流していたのだ。
女性を愛する自分で良いなんて、ずっと思えなかったと。
たとえバイトでも、女性と愛し合える時間が幸せだと。不細工な自分を指名してくれて、本当に嬉しかったと。
「こんなことお客様に言ったらダメかもですけど。ミコさんも、心細くしてるビアンの子を助けてあげてほしいです」
その言葉をきっかけに、もう一度、女どうしで生きていく可能性を考え始めた。
行政は、メディアは、民間サービスは、どう変わった?
出会いを求める声が、どれだけ響いている?
数ヶ月かけて悩んでから、宏嗣に打ち明けた。
*
「やっぱり私、女と付き合いたい」
二十六歳、付き合って九年目。
そろそろ結婚か、という話が家族の間でも盛り上がっていた頃だった。
美琴の告白を聞いた宏嗣は、長い長い溜息をつく。
「……言うの遅えよ」
「ごめん」
「それ言うチャンス今までに何度もあっただろ」
「ごめん」
「謝ってないで、どうすんだよこれから。このまま相手探す? 先に別れる? 親にどう説明する? 結婚資金はどう分けんの? とっくに俺らは子供じゃねえんだよ?」
宏嗣の声音は棘だらけだった。普段、どれだけ柔らかい声にしているのか、やっと分かった。
待ってよ、と言おうとして。言葉にならず、涙が溢れていく。
「……悪い、頭冷やしてくる」
みっともなく泣き出す美琴を置いて、宏嗣は部屋を出ていった。初めて、宏嗣は美琴を待たなかった。
一時間近くしてから、彼は書店の袋を手に戻ってきた。
「とりあえず読んで落ち着け」
二人が好きな百合マンガ家の画集である、そういえば発売は今月だった。
並んでページをめくり、ぽつぽつと感想を交わしながら、少しずつ気持ちを話していく。
「ツグなら知ってるだろうけど、同性カップルでも過ごしやすいようにって動きも増えてるじゃん?」
「ウチも条例通ったしな」
「けどさ、そもそも出会いがなくて、マッチングとかもハードル高くて悩んでる人も多いじゃん」
「だから美琴は、悩んでる人のパートナーになって救いたいし、アライ的なムーブにも応えたい」
「そういうこと」
「で、俺は一人でリスタート」
「……うん、そうなるよね」
付き合っているフリ、だったかもしれない。けど、一緒に過ごした時間の密度は本物だった。交わした絆は、どうしようもなく嘘じゃなかった。十年近い重みを裏切る、それはどれだけ身勝手なことだろう。
「けど、ツグはさ。顔はともかく、雰囲気は年相応に洗練されてきたし、仕事だって相当いい線いってるじゃん。今からだって、きっといい相手が」
「そりゃ無理だよ」
宏嗣は断言する。ムキで言ってるんじゃない、彼なりに根拠のある声だ。
「年相応の男女の付き合い方とか、全然知らねえもん。元から女性と縁なくて、美琴といるから必要もなくて。今の俺がどう女性にアプローチかけても、相手からしたらハラスメントにしかならねえよ……だって今、マッチングだろうと曝されるんだぞ?」
「それは、世の女性のこと悪く思いすぎだよ」
「女の迷惑になる行動したくないって言えば分かる?」
「私はツグに幸せになってほしいんだよ!」
「自分のせいで不幸にしたくない、だろ」
宏嗣の指摘に、美琴は唇を噛む。彼の言うとおりだ、美琴は責任から逃げたいだけだ。彼の幸福を犠牲にしたと、思いたくないだけだ。
「安心しろ、好きな人と生きてけなくても死なねえよ。一人でもなんとか生きていくさ。どうせ俺は、誰かと幸せになる道なんて生まれたときから詰んでるんだ。いつか捨てられる覚悟くらい、俺はとっくにできてたよ。美琴は?」
選ぶ重さから、切り捨てる痛みから、逃げるな。彼にそう言われている気がした。
「宏嗣」
「ああ」
「私は、あなたを捨てて、新しい生き方を探します」
「分かった。じゃあ話し合うぞ、これからのこと」
「……なんで、私のこと許してくれるの」
怒られたかった、とかじゃない。
ただ、あまりにも宏嗣は、美琴の思うままだ。今になって、それが怖い。
「美琴は、ずっとさ。女と愛し合う女でいたいって、夢見てたんでしょ?」
「うん。夢でしかないって、ずっと思ってきたけど」
「夢で終わってほしくないんだよ、それ。誰より好きな人が、一番綺麗な愛の形を目指すって言ってるんだ、邪魔できるわけないじゃん」
*
それから、ゆっくりと、新生活への準備が始まった。
まずは宏嗣の転職活動。宏嗣が本当にやりたい仕事は海外にあったのだが、美琴を日本に置いていくわけにもいかず、キャリア的にも不利なので諦めていたらしい。それに、最近までは感染症の影響で海外に行きづらかったのだ。今の会社での経験があれば可能性も広がると意気込んで、勉強に面談に忙しそうにしていた。
一方の美琴は相手探しである。マッチングサイトやパーティーなどで知り合いは増えたが、真剣に女性と付き合うのは初めてである。みんな魅力的に映るが、どうも決め手がない。
幸花と出会ったのは、そんな頃だった。
ある日、宏嗣は「電車で気になる女の子がいた」と知らせてきた。
その子が落としたスマホを拾ったら、映っていたSNSの文面が目に入ってしまったのだという。検索をかけてアカウントを探すと、深刻に悩んでいるレズビアンの高校生であることが分かる。
「美琴さ、その子に会ってみてくれない?」
「確かに力にはなりたいけど……なんでツグがそこまで」
「前から顔は知ってたんだけど、いつ見ても辛そうだったから。けど俺が声かけても不審者じゃん」
「私ならマシかもだけど、それでも怪しいでしょ」
「うん。だから一芝居うって、美琴を信頼させる」
宏嗣が彼女に声をかけ、困っているところを美琴が颯爽と助ける――という筋書きを、彼は提案してきた。
「確かに私は格好よく映るだろうけど、ツグが悪役で本当にいいの?」
「俺にできることなんて悪役くらいだろ」
「その子にとってはずっと、嫌な男のままになるんだよ?」
「どうせ縁なんかねえよ。美琴が良い思い出に変えてくれれば問題なし」
交替でその子の行動パターンを調べ、休日に作戦決行。
結果、狙い通りに美琴は彼女――幸花と仲良くなれた。
その夜、打ち上げと称して美琴は宏嗣と飲む。
「本当に良かったのかな、私が自演でヒーロー役なんて」
「ここから本気でやればいいだろ。それに美琴は、自演じゃなくたってああいう子は助けるじゃん。今までだって声かけてきたし」
「それはツグと一緒にいたからだよ」
「あっそ……どっちにしろ、次は美琴が守る番」
「うん、頑張る。ありがとね、ずっと守ってくれて」
美琴が幸花と付き合う頃には、宏嗣の転職も決まっていた。「宏嗣は海外で働くと決めたから、ここで別れることにした」と、お互いの家族にも伝えた。めちゃくちゃ反対されたし、人生最悪の家族会議にもなったけど、二人で押し通した。
「それで美琴、幸花ちゃんとはどうなの」
「めちゃくちゃ幸せだよ」
「そりゃ重畳、運命で確定だな」
「運命って……最初に幸花ちゃんを見つけたのはツグでしょ」
「美琴だからフォーチュンなんだよ、俺が近づいたらドゥームだろ」
悲しいけど、それが事実なのだろう。結末を決めるのは、行動じゃなくて配役だ。何をじゃなくて、誰かが問題だ。
「……けどさ。ツグを犠牲にして、私だけこんな幸せでいいのかな」
「いいんだよ。俺が美琴に幸せにしてもらうより、美琴たちが女どうしで幸せになることの方が、今の世界にはよっぽど大事だろ」
社会は美琴や幸花に冷たい、のかもしれない。否定はしない。
けど美琴の目には、宏嗣の方がよほど、冷たさに直面しているように見えた。
二人で部屋を出て行くまでの数ヶ月で、ギャラガル百合で最後の同人誌を作った。最高傑作ができたと思えたのは、きっと感傷のせいだけじゃない。
そして、宏嗣が日本を出る日が来た。
美琴は空港まで見送りにいった。多分、もう彼が会いに来ることはない気がしていた。
「じゃあ、ツグ、」
またね、と意地でも言おうとしていたけど、やっぱり言えなかった。
「元気でね」
「ん、美琴も達者で」
短い挨拶を交わして、彼は歩き出す。
もう、二人の距離が縮まることはない。それでも、せめて、最後に。
「宏嗣!」
駆け寄って、背中から抱きしめる。
「十年間。本当に私は、幸せな彼女だったよ」
「俺こそ」
人生で一番、親しんだ声。聴くのが最後になってもいいように、しっかりと鼓膜に焼き付ける。
「二十年間。幸せな夢をありがとう。俺はもう十分だよ」
*
そして今。
男と付き合っていたことなんて遠い過去みたいな顔をして、美琴は幸花と過ごしている。幸花の就職を機にパートナーシップ制度に申請し、二人暮らしも始めた。十歳下の恋人は、いつもビックリするくらい可愛いけど、考えや文化の違いに行き当たることもある。美琴もジェネレーションギャップを感じる年になってしまったのだろう。
正直、宏嗣と暮らしていた頃の方が楽だった。小学校から積み重ねてきたお互いへの理解のおかげで、あまりにも息がしやすかった。自分がどれだけ彼からの好意に甘えて、彼がどう気遣ってくれたのか、思い知るばかりだ。
それでも、不便は増えたとしても。やっぱり今の方が、ずっと幸せだ――じゃないと、嘘だ。
美琴は、宏嗣の願いを、好きな人と生きていきたいという夢を、夢のままで終わらせてしまったのだ。彼の幸せな夢を踏みつけて、ここに立っているんだ。
だから、幸花との今を手放さない。夢なんかじゃ終わらせない。
誓いながら、幸花とともに歩いていく。
美琴はもう、イラストやマンガは描いていないし、描いていたことも幸花に話していない。宏嗣と一緒に描いていた頃を超えられないと、もう分かっていた。今でも惜しんでくれている読者さんには申し訳ないけれど、一人で描く気にはなれない。
けど時々、二人で作った同人誌を、イベントで買ったことにして幸花に見せる。とっくに旬の過ぎたジャンルだけど、幸花は喜んで読んでいた。
「やっぱりさ、百合でこういう台詞を書いてくれる人、いいよね元気出るよね」
かつて宏嗣が紡いだ台詞を、幸花は愛おしそうになぞる。
――ねえツグ、君の夢はまだ咲いているよ。
私が踏み潰してしまった、君の夢の跡が。今日だって、誰かの心に咲いているんだ。
幸せな夢が踏まれたあとから いち亀 @ichikame
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