幸せな夢が踏まれたあとから

市亀

前編・幸花サイド

「だってどうせ、百合とか夢でしかないじゃん」

「男とヤれない女とか、意味ある?」


 自分に向けられた言葉じゃないと、理屈では分かっているけれど。

 知ってしまった一昨日からずっと、幸花さちかの脳内にはその言葉の反響が止まらなかった。反響するたび、針山に押しつけられたように胸が痛む。


 前から好きだった映画監督の、プライベートの飲み会での発言である。同席していた誰かがネットに動画を流出させ、すぐに複数のメディアが記事にして拡散。いわゆる炎上に発展していた。


 彼は、同性愛を描いた映画を次々と発表し、テーマ性もクオリティも高く評価されてきた監督だ。異性愛ばかりの邦画にうんざりしていた幸花にとっては、女性どうしの恋愛映画を送りだしてくれたヒーローである。インタビューでの、セクマイを真摯に応援するような発言にも支えられてきた。レズビアンで、リアルな男性にはトラウマも濃くて、けど芸能人なら男女を問わず好きになれる……そんな幸花にとっては、久しぶりに本気で応援できる男性クリエイターだった。


 その彼が、である。

 女なんか所詮、俺たちの欲を満たすための存在なんだと。

 女どうしの恋愛関係なんて、リアルじゃないんだと。

 隙あらば幸花に触れようとしてきた男たちと、同性愛を嗤ってきた人たちと、なんら変わらない姿勢を丸出しにしていた。


 隠し撮りされた彼も被害者、なのかもしれない。幸花だって、プライバシーを侵害されていく推したちには胸を痛めてきた。

 しかしこんな一面を知ってしまうと、その印象しか残らない。


 女どうしの温かな愛の物語は、幸花に幸せな夢を見せてくれた。

 その夢を、作り手が自ら踏みにじっていった。


 ――やっぱり、男を信じちゃ、ダメだ。

 高校三年目にして、その観念が決定的になっていた。

 いなくなれとかじゃない、至るところで社会を支える人のことは忘れたくない、けど個人的な関わりは持ちたくない。


 それなのに、今の幸花は女相手にも気を許せない。レズビアンであることがバレたら迫害される、その不安がいつも付きまとう。


 世間とは関係なく愛し合っています、とか。

 悩んでいるあなたは独りじゃないよ、とか。


 画面の向こうで、誇らしげに語る同性愛者の人たちのことも知っている。

 けど、画面の向こうの人たちでしかないのだ。幸花の隣に来て、一緒に現実を歩いてくれる人はいない。


 ――揺れる電車の中、人混みの中で必死にパーソナルスペースを守りながら。守らなきゃいけないストレスも乗せて、裏アカに文字を打ち込んでいく。


「監督のアレ、やっぱ許せない」

「そもそも男が作る百合とか信用しちゃダメなんだよ」

「やっと信じられる男に会えたって、思ってたウチがバカ」

「やっぱ女子高にしてよかった」

「けど学校しんどいな、女子に興味もつ人間がいない前提だし」

「やっぱ希望ないわ世界、4にたい」

「ウチの前にビアンの美少女ふってこないかな、もう男にはそういうの要らんから」


 一通り吐き出したところで、降りる駅が近づく。

 ドアに急ぐ途中、すれ違う人にぶつかり、スマホを取り落としてしまった。踏まれるかと肝が冷えた瞬間、スーツの男性に拾われる。

 幸花が降りようとしているのを分かってか、すぐに手渡してくれた。お礼を言うべく目線を合わせようとして、首が拒否する――バイト先のレジでわざと手に触れてくる客と似ていた、別人だと分かってもキツい。


 幸花が迷う一瞬のうちに、彼はすぐ背を向けていた。

「――ざいます、」

 背中へモゴモゴと声をかけ、ドアをすり抜ける。ホームの脇に寄ってからスマホを確認、幸い割れたりはしていない。ただ、画面には裏アカが残ったままだった。学校でうっかり見られたらマズい、学校用にアカウントを切り替える。


「やっほー、サチ!」

 背後から声をかけられる。親友、ということになっているクラスメイトの女子だ。女子高を選んだ理由は「恋愛に発展する人が周りにいないの楽」とのこと、その発言にモヤる人間が隣にいることなんて考えもしないのだろう。

「おつ~!」

 作った笑顔で答える。本当の自分で生きることより、この居場所を失わないことの方が優先だ。



 それからしばらく経った、休日。

 家の最寄りで電車を待っていると、近くにいた男性の視線を感じた。目の端で確認すると、体というよりバッグを見られているようだった……スリでもする気か? こんなバレバレの状況から?


「あの、すみません」

 声をかけられ、半歩下がりつつ目を合わせる。二十代くらいの男性、そこまで大柄ではない。かける声もオドオドしていた――微妙に見覚えがある気もしたが、この駅でたまに見ているからかもしれない。

「なんですか」

「そのアクキー、ギャラガルのですよね」


 ギャラガル――ギャラクシアター・ガールズ。宇宙とアイドルをテーマにした女性声優コンテンツである、今年はアニメも始まって人気急上昇中、知名度は低くないだろう。幸花は三年前のグループ結成時から応援していたが。


「ですけど何か」

 知ってるくらいで声かけられても困るぞ、という反抗を滲ませつつ、幸花が短文で答えると。

「それ初回ライブのグッズだから、昔から推してたんだなって驚いたんです。しかもドロペルだから、星座カプ好きなんだなって」


 ……ちょっと感心してしまった。

 初回ライブのグッズだと分かるなら、彼もそれなりに熱心なファンだ。そして、決してメジャーなキャラではないドロメとペルルの百合解釈まで把握している。SNSだったら「よくぞ!!」となるタイミングだ。


 しかし、今は困る。だって「いいですよね~、それでは」で終わる気配じゃない!


「……よくご存知で」

 幸花が肯定すると、案の定。

「ですよね! 俺も星座カプ大好きなんですけど、やっぱり埋もれがちで悔しくて……そうだ、連絡先とか聞いていいですか? 周りにこの話できる人がいなくて」


 やっぱりナンパじゃないか!

 しかも距離詰まってるし、ニヤついてるし、気持ち悪!


 すぐに追い払いたかったが、聞かれただけで人を呼ぶのは大げさすぎる気もする。無視して逃げる勇気もなく悩んでいると。


「あれ、イイカワくん?」

 女性の声。二十代半ばくらいのお姉さんが、彼に声をかけていた。

「えっと……アオノさん?」

 声をかけられた彼は、顔をひきつらせる。

「やっぱり、久しぶり……ところでその子、知り合い?」


 彼が答えるより早く、幸花はお姉さんへと首を振った。その仕草と表情で、お姉さんは察したらしい。

「ちょっとイイカワくん、こっち」

 お姉さんは彼を連れて離れ、しばらく話し込む。内容はハッキリ聞こえないが、彼が怒られているのは分かった。やがて彼は立ち去り、お姉さんが戻ってくる。


「やだかったね~! あいつナンパしてたんでしょ?」

「ありがとうございます! はい、困ってたので助かりました……あの、お姉さんのお知り合いなんですか?」

「知り合いっていうか、高校で一瞬クラスが被ってただけ。アニメ好きな女子にすぐ言い寄る奴だったから、悪い意味で印象が残っててね。十年経って悪化してるし」


 電車が来たので、お姉さんと一緒に乗り込む。二人とも降りる駅がしばらく先だったので、もう少し話していくことにした。お礼を言いたかったし、正直、雰囲気もすごく好みだった。お姉さん――ミコトさんもアニメ好きらしく、ギャラガルのこともよく知っていた。


「けどさあ、本当に百合アニメが好きなら男なら、女の子を怖がらせたらダメじゃん?」

「ですよね! ギャラガルをちゃんと観てる人なら、ああいうの地雷になるはずですよ」

「そーそー。だから幸花ちゃんも、今日はトラウマになったかもだけどさ。ギャラガルのことは嫌いにならないでほしいな」


 ミコトさんの表情があまりに真剣だったので、思わず聞いてしまう。

「ミコトさん、ギャラガルに特別な思い入れとかあるんですか?」

「特別だねえ。あのシリーズ、女の子どうしの好意の中に恋愛があるんだって、自然に描いてるじゃん?」


 それは幸花にとっても大好きなポイントである。女性どうしの愛について、否定は勿論しないし、ドラマの盛り上げに使うこともない。そういう子もいる、というナチュラルな描き方がとても心地よかった。

 しかし、ミコトさんの次の言葉は。


「そういうところがさ、リアルに女が好きな女としてはね、嬉しくて」


 ずっと、ずっと、幸花が待っていた人が彼女なんだと表していた。


「――ええっ!? ……あ、ごめんなさい!」

 幸花は驚きの声を上げてしまい、すぐに謝る。カムアウトへの反応としてダメだ、これは。


「いいの、ビックリした?」

「というか……あの、実は」

 これまでリアルでは誰にも言ってこなかったことを、恩人とはいえ初対面の人に打ち明けていいのか迷ったが。

「ウチもです。ビアンなんです」


「え、ほんと!?」

 ミコトさんの返事。声の色も表情も明るかった、同じ立場の人を見つけた喜びで滲んでいた。

 深呼吸をしてから、幸花はお願いする。

「あの、よければ、お友達になってくれませんか」



 ミコトさん――青埜あおの美琴みことさんは二十七歳の会社員。幸花とは十歳差だ。幸花と近所というほどではないが、会おうと思えば会えるところに住んでいる。

 厳密にはレズビアンではなくバイセクシャルとのことだが、本人曰く「女が好きって感情の方がずっと強い」とのことで、男性と交際しても長続きしなかったらしい。

 

 美琴さんと連絡先を交換して、改めて二人で会うことになって。そのときはもう、幸花は美琴さんに恋していた。明るくてお喋りは楽しいし、悩みを話せば真剣に聞いてくれる。小柄でガーリーな雰囲気なのに態度は堂々としているから、ずっと隣にいたくなる。


 とはいえ、女を愛する同士だからといってすぐに付き合いに持ち込むのは違う。本当にこの人と真剣に付き合えるのか、何度も自問を重ねた。そのたびに、見つかる答えはイエスだった。

 月に一、二回のペースで会い、半年が過ぎた頃。受験が目前となり、そろそろ会うのも控えようかという話になりかけたとき。


「美琴さん。ウチの受験が終わったら、付き合ってくれませんか」

 幸花の告白を、たぶん彼女は予想していた。

「ありがとう、嬉しい。私も幸花ちゃんのこと、女の子としてすごく好き……けどね」


 美琴さんの真剣な答え、幸花が大好きなまっすぐな眼差し。

「もし付き合っても。幸花ちゃんが成人するまで、私はカラダに手は出せません。これは大人として譲れない一線。それでもいい?」

 張り切って答えようとしたけど、涙で声が出なかった。どんなときも幸花を思いやってくれる、そんな美琴さんだから大好きだった。

 誓いのように交わしたキスは、幸花の人生で一番幸せな瞬間だった。生まれてからずっと、この温もりを探していた気がした。


 受験が終わって、晴れて大学生になってからは、美琴さんの家に入り浸るようになった。お泊まりも頻繁にしていたし、同じベッドで寝ることもあったけど、裸に触れることはずっとなかった。カラダだけじゃない、美琴さんは幸花に酒を許すこともなかった。幸花にとっては不満もあったけど、そうやって筋を通すところも好きだから、美琴さんの言いつけを守った。


 そして二十歳を迎えてから、お酒を酌み交わして、初めてカラダを重ねた。美琴さんの愛し方はあまりに情熱的で、一晩かけてじっくりと、幸花は全身くまなく貪られた。頭から爪先まで、全部に美琴さんが刻まれている、それが誇らしかった。

 裸で抱き合ったまま、二人で泥のように眠って、お昼すぎに目が覚めて。


「美琴さん、がっつき過ぎじゃない?」

「いいでしょ、二年も我慢してたんだから」

「待った甲斐あった?」

「自分でも引くくらい気持ちよかった……やっぱ幸花は可愛すぎるわ」

「えへへ、美琴さんも可愛いよ」

 

 美琴さんを抱きしめながら、幸花は囁く。

「ウチね。美琴さんの彼女になるために、この時代に生まれて、ビアンであることに悩んで、それでも生きてきたんだよ。全部が運命だったんだよ」


「……運命、か」

 その言葉を味わうように、美琴さんは繰り返してから。


「見つけてくれて、ありがとうね」

 美琴さんの涙混じりの声が、幸花の胸に優しく響いた。


「ウチこそ、本当にありがとう。美琴さんが見つけてくれたから、夢みたいな今日に逢えたよ」

 美琴さんは頷いて、幸花と額を合わせる。


「大丈夫。幸せな夢なんかじゃないよ、私たちは。確かにずっと続く、幸せな現実なんだよ」


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