崩壊が福音に変わるなら

 法的実体を制度設計の倫理と考えている人とエンティティの実体を単なるプログラムの駆動論理だと考えている人がいて、そして両者に技術の思想的な意味を教えるためにどうすればいいのかということを考える場合、もし法的な倫理がデジタル技術の設計を単なる物質的意味に還元してしまえば、その技術の根幹となる駆動的な論理が失われてしまうし、もしプログラムの仕様をコード化するための設計がアーキテクチャという特定のソフトウェアの商品開発のオブジェクトでしかないとしたら、法律家の仕事を把握するのに憲法としての意味とプログラムの意味は話は別でそこに相互の関わり合いはないということになってしまうだろう。確かに法的な制度設計とプログラムとしてのアーキテクチャの設計は違う。しかし個人の主体性の表現としてアーキテクチャの思考というものはあり得るのであり、それをどちらか一方に分離して機械技術的な人格を物質的にコード化したものが倫理的な憲法制度の生物型オブジェクトなんだ、と主張し始めたりしたらどうだろうか。それはフィクションとしてのナンセンスさを表現しているのだが、しかしそこで近代の制度が抱えている技術と自然の関わり合いが矛盾を含んだものであることを侵略の正当化という言葉で隠してしまうとしたらデジタル化が新しく提起した主体の意味を無視することになってしまうだろう。確かにコンテンツクリエイターとしてキャラクターの側面をオブジェクトのモデルとして利用することができるけども、それだけではそれが単なる消費財としてのクラスであり、社会制度的な側面に対しての金銭的な価値しか代表象しないことによって、労働の現実に対する現実逃避にしかならないとしたら、それは大衆が表現する思考の価値を見逃してしまうし、だからといって大衆的なものがそれだけで芸術的な価値観なんだ、と認めるだけならそれは収益化という名目でお互いの価値観の尊重を政治的な無関心に加担することになるだろう。それでもネットワークのプラットフォームにおける交流の価値というものはあり、配信の相互利用から多くの情報をインタラクティブな設計としてフィードバックできるが、それだけでは社会参加としてはやや弱い。しかしその中でも特にカードゲームはアーキテクチャの思考を確率的に考察できるアーキタイプとしてとても優れたコンテンツであり、双方の価値観を尊重しつつ対戦形式でお互いの思考の型を理解し合うための制度設計としての価値を有する可能性があるのであり、それはゲーム性が崩壊しない程度の制約とプロセスによって個人の判断を法的に召喚するための技術になるだろう。しかしカードゲームといえどもしょせんは商売であり、その価値観の中で投機的価値の確率性や世界観のすれ違いを政治差別に持ち込むような発言の温床になるとしたら崩壊は壊変のプロセスとしての駆動をキャラクターのモデルにトリガーさせることでその社会的な制度の問題点をクロックする仕様を設計することができる。その崩壊はオープンワールドで表されるようなナビゲーション探索の機能をパッケージの公共投資として情報的代数の確率分散で封入され、次元性に対する一定の留保を示しつつ、それを一般意思のシナリオにうまくあてはめることができるような合意を生成できる条件となり、そのモチーフを用いて社会参加と投資を豊かにすることができる世界が開かれうる。でもそれなら物理的現実はどうなるのだろうか。それは単なる環境の確率的な主観表象にすぎないのだろうか。そんなことはない。むしろオープンワールドで得られたアーキテクチャの思考からキャラクターの分岐を生成する効果の条件と行動の選択肢を単位化することで、次元的に拡張されたレイヤーの分割にその身体を多重化することがコミュニケーションの広がりを拡張する。それはバーチャルリアリティの視野と説話論的な知覚サンプリングの束をデータベースとして格納するデバイスのカードを表現の生成条件と呼び出しの履歴として集約する購入価値の紐づけをマッピングすることができる。しかし社会的な差別をフィルタリングにすることで購入の動機を偏ったものにすることができる政治上の配置があり、そのようなパターンが認識されることで表現と配信の価値が双方向的でなくなるように分断されるのなら、そのような境界の分布を破壊するようなサイクルの構築が性的な愛の論理として創造されなければならない。その際、性は感触的な侵犯の視線からその存在の奥深さを主張するが、それが単なる男女間の欲望同士の取り違えにすぎないのなら、排他的論理和のゲートを近親相姦のように構築することで象徴的なものの意味の解釈を論理セットの召喚的な記述に変換することができる。だがこのような記述は植民地主義的な占領に対抗できるのだろうか。単なるコンテンツ消費の愛によって承認されてしまうのではないか。それゆえ愛は律動性の強さを持たなければならない。ただの抒情性の愛では変調のリーダーが入れ替わっただけでそれの愛は周波数のようなチャンネルの噛み合わなさにされてしまい、その思い出は歴史的な物語のように因果的に接続されてしまう。愛が単なる当て馬にすぎないのなら植民地主義もまた金融資本という当て馬を疾駆させるだけになる。それは人々の些細な願いという元本を利用して国家的な占有の文体を制度的倫理の格率のように発動させるだろう。だが放射性崩壊とはそのような確率的信念を致命的に矛盾させる技術の外部性として君臨する。この暴力は占領の道具として兵器の資本のように表象されており本来のデジタル技術の有するアーキテクチャの思考の勇気を兼ね備えてはいない。だから私の存在はこの崩壊をも壊変サイクルの律動性として愛しうるようなキャラクターを構築するように練習することで、その存在の創造に数学的な分割の正確さをもってあらゆる戦争の正当化を無効化するような召喚の法を打ち建てることを家族の自然性と呼ぼう。この権利の音楽の流入がアーキテクチャの思考を福音の誕生として生物的連鎖の領土の感染に負けない子を生み出す恩寵を授けるだろう。

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ゴスペルキャットのシスターズサモンプラクティス オドラデク @qwert

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