「練習された生成」の壊変サイクル

吉本隆明の柳田国男と丸山真男に対する批判は充分であったのか。いったい何が不徹底であったのか。「大衆の原像」の消費主義的な「生成」と知識人の「進歩主義的前衛」の「生成」は実は表裏一体なのではないか。これらの生成とアメリカの「爆撃攻撃」の「生成」はどのようにかかわるのか。それは自衛隊の平和戦略の憲法的広がりの空想的な領土にどのような影響を与えるのか。これらの組み合わせは国体の維持にどのように介入しているのか。これらを壊変サイクルでどのように崩壊させられるのか。一つ一つ考えていこう。


 今回は吉本隆明の「柳田国男論」と「丸山真男論」を使う。問題の初めは柳田国男の「日本人」概念の起源性にまつわる解釈である。もちろん柳田も吉本も「日本人」という概念をアプリオリに定められるとは考えていない。ここで問題になっているのは共同体としての「日本人」の在り方がどのようなものとして把握されるかということである。その水準で云うと吉本は柳田の文体に照らして婚姻の納期の娘の寂滅に流線と聴こえてくるものの交錯が海を情景として生み出すような荒々しい門出から、風を伴って漂泊する島々の断崖を漂着するような微粒性から篠付く砂浜の足音を歌詠みに漕ぐ船に進展の記憶を読み取るという配慮から東征の船舶の配置に表される記紀神話に参照されるような制度的王権を確立するような騎馬民族の「日本人」に不信を表明したと書いている。吉本の把握では柳田の言う「日本人」は「宝貝」や「稲籾」を通して物欲や食欲に貨幣としての交換価値を保ちつつ、しかしそれを商業流通一般に拡充することを否定するために生活の生物的な側面を表す何らかのシンボル的な啓示で定住性に対する信仰を確立する深層意識だ、ということである。しかし「日本人」を定住的な交換性の側面で把握するためにはそれと異質なものとの交わりを稲作や耕作の村落共同性が維持する秩序とは別に山の「縄文人」とか「アイヌ人」とかの混合として起源性を分布させなければならない。ここで定住性の信仰は不安に苛まされる。というのはもし定住性の信仰の確立がまったく村落共同体で閉じてしまえば物欲や食欲などの交換を商業流通にするしかないが、そうすると「宝貝」や「稲籾」の価値はそれ自体の性能として測られることになるからそれを否定するためには山人の特殊な知恵や創意工夫によって市場には出回らない価値が暗示されて信仰の憑代として祀られるということが必要になる。しかし山人の表象とはあくまで定住者の視点から見られたものでその文化的な起源性に同一の烙印を押すことは同一化の技術的側面を類推させることになる。だから両者の差異を深層意識の同一性として規定することで両者の民族としての起源性を霊的に交流させるための儀式が垂直的に統合されなくてはならない。ただしこれは起源性の差異を歴史の時間軸として重ね合わせるやり方から意図的に言葉の問題に置換してそれぞれの「深層」に意識的に変換するための措定であるから、空間的な次元では拡張と包括の区別は曖昧になる。むしろ積極的に自分たちは数学的な概念の把握を受け付けないのだ、と宣言するのだといっていい。これは数学的概念が民族的記述に無力だという意味ではなく、「日本人」という概念の把握に数学的概念を持ち込むことは一般的な技術流通を持ち込むことと同義だ、と判断されるということである。逆に言うと法的な普遍性の自然権を実定法の深層意識だとみなした時には「日本人」の概念はうまく微分的にマッチするということである。


 次に吉本は柳田の文学的な資質について論じている。柳田の文学的モチーフは法的な秩序の社会的な規範性が実体法としての深層意識に矛盾する悲劇に強調点を置くのであって、単なる人間関係の痴情のもつれに類型としての価値を認めない。これは現代風に言うと、人間が社会関係の網の目から政治的な不平等や腐敗によって必然的に駆り立てられる欲望の本性は動かし難い生理的本能しての血筋にまつわる哀切極まる宿命だが、それを単なる覇気の有無、狡知や制度設計上の計算で乗り越えられるのだとしたら都合がいいにもほどがあるということである。しかしもし文学的なモチーフがそれだとしたら実際の社会的な制度の不全性は体制の救済的な理念性で確保されなければならないという点に曖昧さがある。個人の動機の説明はその時の社会状況の深刻さに対応したなんらかの切迫感でなければならず、それとは別の個人的問題の葛藤は浅慮だとして平坦化される。だから問題は天災とか事故とかとかになるのである。ただ家の問題だけは家族関係の継承が村落共同性の維持と直接に繋がっているために、法秩序と深層意識の個人的葛藤はその心情の自然権の系譜に重ね合わせられる。そのため生産物を家という実体から引きはがして貨幣経済を流通の一般性に置き換えるように改革しても共同体の起源の分解を引き起こすだけということになる。そこから国家が生産物としての価格をできる限り低く抑えつつ、しかし富の増加に対する生産を推奨するのではなく生活の維持と改良に対する個人的な手段の生産関係の一致が技術的課題と分離した共同性として補助金で管理されるという自在な権限の承認をもたらす。しかし少し考えれば国家が生産としての市場を管理しつつ国民には生活の維持と改良しか命じないのであれば金融資本の利潤を上げるための投資信用しか行えないのは明白である。これを教育で覆すことはできない。そうなると何らかの階級が窮乏したり権力の要求を持たなければ実質的な権利が奪われるときには一般意思の権利から国家の占有を行うしかないということになる。ここで吉本と柳田の視線は重なる。というのは二人とも財産の可処分所得が自然的起源の体験性と一致する場合にのみ国家なり制度なりの介入が正当化され、それ以外の方法はすべて官僚や企業領主による強制収奪だ、と考えているからである。これは旧来の日本では小規模規格に沿った土地を利用して自給自足経済に近い形でしか農業が営まれず、自然と自然との作為の挿入の反復から共同体の禁忌と部族身分としての差異を即自的に展開しており、厳密な自然と農家の関係に対する分業が起こらなかったことを考慮した見解だと言える。農民の土地所有の執着に照らして彼らの名君に対する感覚は何もしないが貧困や飢饉が起こったときにだけその援助を行うという基準に沿っている。もちろん吉本は当時の日本のマルクス主義やスターリン主義の施策のことを考えているのであって、西洋的な方法が間違っていると言ってはいない。しかしそこから何らかの停滞ではない施策があるとも言ってない。単に因果応報の処世術が西洋的な自然契約に対応する原理として、というだけだ。自然権としての「家」の問題で見た時、明治政府が産業資本主義的な過程を分割地農民を基礎として建てるのかそれとも平等と自由の理想的な農耕世界の秩序の救済者として国家の法治主義的な側面が現れるかで農村のイメージが変わるとしたら、どちらにしても都市住民の労働者は慣習の違反者として「家」の秩序のアウトサイダーに位置することになる。もしこの把握の観点が農業的な生産従事者の視線だけにあてはまる基底であるとすればこれはそれなりの説得力がある。問題は吉本が生産力の技術的な課題について何も積極的なことを言っていないという点にある。吉本の科学に対する理解はマルクス主義的な理解からの距離でしか測られないからである。技術的課題の改革原理がマルクス主義的か「アジア主義的」な補助しか選択されないというのは当時の時代状況の限界なのだろうか?おそらく日本のマルクス主義は当時唯一の技術的課題を設定した政治改革勢力だった。ただし彼らにまるで技術的把握能力がなかったことを前提にしてだが。なぜなら日本的な意味での技術化とは集団化か平坦化しかないからだ。それを文学的モチーフで埋め合わせていこうとするしか大衆の心情に沿った改革原理が可処分所得として提示されないという点に問題があるのであった。おそらくそれが「旅」の問題なのである。


 旅人としての自分を風景の中に補足し、その風景に人為としての自然や人々の営為の干渉を植えることで風景の構成的なモチーフを多様化し、その生物の多種性を増殖させるという視線は確かに単なる観察言明には縮減されない。畳み込まれた山脈の俯瞰や田園地帯に段を伴って水源の線を斜面からの比率で広げていく力能は単純な機械原理では推論されない。それは信仰の交通路としての斜面であり、山と田園を結び付ける流水の均衡に垂直と登山の力を拮抗させる境界を神々の循環的な遊行として回流させる「眼」こそ季節の巡航と結婚のシンボルを共同化するものであるはずなのだ。だが一致するのは祭儀を行わなければならないというスケジュールだけだ。だから結婚と性の関係は娼婦や「狂気的な」巫女の憑依からその亀裂が山の負荷に反映されることで背景として兄弟姉妹神の説話論的な分岐路が構成される。これが起源の融和と習俗の同調を作り出すという幻想から存在のスケールが確保される。明らかにこれは操作がそれぞれで独立に行われなければ共同体のおさ同士の合意がありえないが、しかし定住者の信仰という位相からは村落共同性の視線と同化する位置から演出に対する贈り物を残余として考え出さなければならないということでもある。この残余は贈り物を通して季節の豊穣の実りに帰属する契りの必然性を約束するものとなる。もちろん実際の人間にはそうでなければならない必然性はない。だから個人的な痴情のもつれが深刻な葛藤になるのだと言っていい。単に村落共同体の信仰上の脅迫では山人の復讐や凶暴化した動物の脅威を抑えることができない。それを禁止するために天皇陛下という国民性の統合が必要なのだ。つまり変換の対称性は「王朝の」天皇の歌の位相からしかありえない。もし天皇が実際に歌っていないが、とにかくそうでなければならないとなると対称性は歴史的な神々のスケジュールの問題に責任転嫁される。これは気象を説明する原理として抒情化された文体になる。この文体こそ旅人が芸術表現として与えられていた位置に思いをはせる方法なのだ。屈折の心情的配置を制度の文体的な連接関係と結び付ける旅はそれ自体外部にいる人間の表現ではなく、あくまで制度内部から自分達の心情が実はこうではなかったという自然の情景の畳み込みが年月の自然として表される駆動にその微分的な含みの技術的記憶が刻み込まれている。それは国家の近代性としての理念的性格における技術が定住者の信仰を奪い去り、それとは別の空間的実在に連れ去ってしまうという歴史的統合としての性格を自分たちの職業的管理の権力から引き離して極限の普遍的形式の外部化されたモデルからのみ閲覧するという政治生活の二重性を覆い隠すものとして有用な眺望になるのである。


 

 吉本隆明が丸山真男について述べるときの出発点は柳田国男の時と同じではない。なぜなら吉本はここでヘーゲルの文学的モチーフに対して丸山が普遍的な図式を歴史哲学に見いだした時の「体験性」が当時の戦争体験の強度に拮抗するかどうかで丸山の奇異さの学問的価値を見積もろうとしているからである。その問題の本質は「日本人」は「思想」によって「知識人」になるのか「生活の体験」から「思想」を大衆的に持たざるを得なくなるのかということである。ここでの知識人と大衆の対比は思想的な教養をより多く持っているかどうかではなく、その思想が現実に対して有意義な事態を何らかの弊害を伴うのであれ人々に対して引き起こすことができるかということにある。もし思想についての知識だけがあって世論に通じている顔をしている文士がいても、そいつらは単に意見を述べているジャーナリストとか「自称革命家」とかにすぎないということだ。そして吉本にとって丸山は確かに「思想家」ではあるのである。そしてそれは奇妙にも大衆にいかなる影響も与えない「思想家」なのである。ここに吉本は断絶と隔離を見て取っている。それは丸山が個人として優れているのはまさに大衆的な価値から隔離され断絶しているという意識を単なる教条主義とは画するやり方で持っていたからという点において日本の社会の悲劇性を凝縮しているからなのである。それが服従と背面を使い分ける「戦争体験」の意味であった。つまり戦争の体験で日本の知識人が兵士としての大衆から生殺与奪の権利を奪われるという事態まで発展した状況にしか日本の知識人の「思想」が存在しないということである。つまり戦争以前には大衆と知識人との間に思想的な発展を引き起こすような歴史的要因がないのだ。日本政治思想史というような江戸時代の思想史を体系的に研究することで、その制度的な倫理性の理念を「発見」することが、丸山の戦争体験における大衆との接触的な付き合いを緩和するうえで重要なのだ。日本兵の残虐さや蛮行を「日本の」思想史的発展からとらえ直すことで彼らの非倫理的な格率が普遍的に導き出されるのだ、というような手法で導かれた野蛮さは、「日本人」の概念の様式をはみ出したときに起きる生活感覚の表象の矛盾を外部の身体に暴力の伝播して放出するとしての存在体系だ、という問題を完全に追放して、図式化された戦争体験のイメージから知識人の「思想」の野蛮さを大衆の文化様式に対して起動させるトリガーになっている。大衆が普段の生活の抑圧を通じて体制からどんな苦難や弾圧を受けたかということは全く考慮されない。だから大衆運動としての消費性が文化的な技術を組み合わせて派生した生産体系について、戦争体験の思想からそれは天皇制の実体様式のイデオロギー的形態だという拡張を行うことでしか「知識人」として対抗できないのである。吉本はそれをと言っているが、それは普遍的に共同幻想という様式が当てはまると言っているのではなく日本的な存在様式の抽象的な曖昧さを歴史的実体から区別するために使っている用語なのは間違いない。ただしこの吉本の共同幻想をデジタル技術的なプラットフォームにまで拡張できるかという問題は、と付け加えておこう。吉本の大衆の生成的意義が儒教や朱子学的な思想連関まで拡張されているのは丸山の方法の補填としてにすぎないということは批判内容から見て重要である。吉本もまた思想史的意義に照らして日本の大衆と知識人の関わりを探究していることには違いないからだ。それは大衆の存在様式を思想的な支配体制の変遷として視るという方法である。そしてこの方法の矛盾としてファシズムやスターリン主義の問題があるのである。


 知識人の服従と背面の二重操作は自分たちの思想探求の方法にも適用されている。つまり現行の政治体制にはとりあえず制度的な維持を考え内面的な学問的発展としての教養を拡充することで権力に対抗するための基底を獲得する、というようなものである。しかしこれはただの日和見主義と何ら変わりがない。現行の体制に対してどう関われば制度としての主体性を確立することができるのかという考察は理念的には建てられない。そこで党派的理念としての立場からものをいうことが現実的な立場だという規定を持ち出すのである。これはファシズムやスターリン主義には当てはまらない。なぜならファシズムの党派などというものは単なる形式にすぎないし、スターリン主義の党派とはただの独裁だからである。これに民主主義の二大政党制と比べればファシズムやスターリン主義は悪だ、といっても何にもならない。それはそうであるだけだからだ。むしろ問題の核心はファシズムもスターリン主義も体制としての維持だけを考え、思想的には理念や文化としての表象を押し出すことだけを考えているという点に関して進歩派知識人の形骸と一致するから感情的な嫌悪反応が独裁者の邪悪さの非難や大衆蔑視として現れるということである。もちろんそれはそれに対抗するということと何の関係もない。歴史的に考えてファシズムもスターリン主義も学問的教養の発展などで倒されたわけではないからだ。吉本はスターリン主義の前衛党派運動に対しては腐敗した上部層から中間層への権力の委譲という個人責任の軋轢を逃れるために中間層が個人崇拝としてのシンボルを下層大衆に対する管理的暴力の正当化として行使するからだという正しい洞察を示しているが、ファシズムに対してはそうは言えない。吉本はファシズムが大衆的前衛運動としての革命的前衛を支えきれなくなったことの構造的腐敗として生じると考えている。それは日本的ファシズムには当てはまるかもしれないが、ナチの問題をそう捉えるとなぜ歴史的な意図に対してあれだけの拒否反応が起こるのかわからなくなる。ファシズムとはまず理念としての革命運動を信じないことから出発して、その理念的なエネルギーの解放をナショナリズムと結び付ける手段だけを方法論として理念的形式にするということが普遍性の世界観として定義されるが、個人的な指導者としての人格としては実体に対してうまく帰属できないことから生じる欠如を特定の差別対象に押し付ける制度的原則だということを全く自覚的に行使するという点にあるのである。つまりファシズムの理解としては丸山の方が明らかに正しいがそれがなぜ知識人を脅かすのかの動機付けは戦争体験で隠されているということが問題なのだ。なぜならファシズムの理論的源泉は進歩主義的知識人や共産主義者の党派活動の二重性の原則そのものだからである。ここでのつまずきの石はもちろんニーチェである。なぜなら進歩主義的知識人が理念的原則を制度化する際のプラグマティズムを道徳的に批判したのがまさにニーチェであるという理由から、共同体のナショナリズム的な共感性に非道徳的な魅力を付け加えるその宣伝の技術性までもニーチェ的な「理念性」だと判断するからだ。これをマルクス的な体験性の把握で原理的に再構成するという理解ではハイデガーが政治利用されたことの意味をナチへの批判として再構築することで無罪を勝ち取り、ニーチェはナチに利用されたことの原罪を本源的に形作っているのだという存在論の古典的記述の探究にまたしても還元されるからである。そして吉本は明らかにこの点であまりにも素朴な体験主義者なのである。


 大本営という言論機関の問題を考えるとき、それを軍人たちが言論に対して好き勝手に報道の自由を侵害して大衆に対する支配権力を行使したのだと考えたくなるが、言論に対する信用と大衆的な水準にある言説上の構造が全く分離されているということが知識人の問題であったはずである。ということは仮に報道機関が軍部にいいようにされ、それに対して知識人が生殺与奪の権を握られていたと考えるのだとしても、報道の言説性に対する構造は知識人の大衆感化に有利なように働いていたのでなければならない。実際この点で知識人は戦争の大衆的動員に対する一定の役割を担っていたのだと考えるしかない。むろん丸山は兵士として徴兵された知識人の典型であったわけだが動員された知識人のすべてが徴兵されたわけではなく、多くの知識人が国民的な様式の管理に一定の文化水準を機能させるための宣伝工作を学術的な権威として果たしていたはずである。この点に関してまともな教養を持っていた学者なら軍部の宣伝に無関心なり軽蔑をもって黙殺したと反応するとしたら、彼らが戦争に対する反対をどのように戦略として抱いていたのかを無視することになる。もちろんそれはアメリカに負けて、日本の文化としての制度を否定され西洋的な近代性として占領されるというものであったはずだ。丸山が優れていたのは占領が日本の独裁を否定するのに必ずしも天皇をどうこうする必然はないということを見抜いていたことであると言える。この先見の明は個人としては優れたものであるが制度としての社会的な関与の立場としてははっきりと無責任であると言える。もちろん旧帝国日本の政治を考えるとき、軍閥に議会を否定され、反抗は官憲に暴力的に鎮圧されたという事実があるのだとしても彼らが政治的な戦略として国家をどうこうするという視線はほとんどないのだと考えるしかない。ただ社会の宿命として粛々と諦念を抱いているだけである。こう考えるとき、現在においても大本営と同じような機能が報道として働いているのだというのは知識人に対して言論の構造としての分離性に反省を促すものでなければならない。単にジャーナリズムや海外研究の先端性から蒙を開くというのでは人々に対してどう言論が働きかけるのかという立場を見落とすことになる。これはメディア的な媒体の変化に応じて必ず考えなければならない問題だ。にもかかわらず行われているのは国際政治の情報戦略によるリテラシーでしかない。ここで大本営というシステムを具体的に考える必要がある。大本営の本質とはきわめて人間的であり、その手法は自分たちにとって有利なことは積極的に発信し、不利なことは暗喩やイメージを多用して誤魔化し、それが通じなくなると話題を逸らして沈黙するという連携で成立している。このサイクルはまず国民に徹底的に嘘をつき、その嘘を繰り返し報道部員が説明し、仮想敵国が嘘をつくとその嘘に飛びついて反論し、現地での情報の発信を制圧して、それを報道したらどうなるかと脅迫し、そこから自国での省庁同士の連絡もおろそかにすることで正確な情報を曖昧にし、最後に現地で頑張っている人間を褒めたたえるというシステムで機能する。このサイクルは理念的な発信と極めて相性がいい。何をどう具体的に分析するのかには踏み込まなくて済むからだ。しかしこのシステムはネット上ではどう機能するのだろうか?


 この構造はパッケージツーリズムと同じ要素で機能するのである。なぜなら航空爆撃の宣伝性と違って外部との距離を観光的な遊覧性の説話論で補完する微分的な視線として技術的一般性からの隔離を制度的な補填の現地性として報道するからである。航空爆撃の宣伝性はネットでは完全にアルゴリズム的な挿入からその欲望の配置を割り出すという数学的操作に依っているので、ネットで政治的分断を検索するという試行を繰り返すほど政治的イデオロギーとしての党派性は薄まっていくしかない。ネットが政治的分断を生み出すというのは統計的に否定されているが、一定の年代の党派的信念としてのデマゴギーを増幅するという分断の役割は確かにネットには存在するのである。それは国外の外部的モデルを理想的モデルの実現性として拡大解釈してその国の制度的な事情と民衆との問題を問わないままその制度設計の見事さだけを称えるという配置でもたらされる。これは武器技術のシステム設計でも本質的に変わらない。しかしだからといって技術的設計の問題がこのような配置と同じであるわけではない。だから配信者がサブカルチャーで政治的に過激なことを言っても(もちろん炎上のリスクを考えれば言わない方が賢明だが)、それが何らかの煽動だということにはならず、あいもかわらずマスコミのリークからそのような煽動を探し出すということになるのである。問題はメディアから国民が何を考えていそうかを推測して、その反応を基に政策宣伝を作成してもネットでは最も目立つ意見が多数派の意見でもあることにはならないし、それが何らかの個人的信念として表現されているということすら確かではないということだ。何らかの提灯持ちの言論人をいくつか用意しておいて、その発言の反響で個々人の影響を測るというやり方は利用できるかもしれないが、それでわかるのはそれでつられる人間の心性だけで、他のまともな判断を持っている人間は無視するからである。しかしネットがそういうことを利用する人間だらけで書き込みが埋め尽くされるという状況は客観的に良くないことであるのはまちがいない。そしてそのことで増幅された意見だけがピックアップされて表示されるというインターフェースの状況もネットの利用に大きな制限を課している。この状況をどう改善すべきなのだろうか。それは言説の生成される状況を練習的配置として捉えることで、そのサイクルの崩壊要因を大本営の仕組みと比較することで確率的な記憶の配置を割り出すことである。つまりデータモデルとしての実体、値オブジェクト、生成の開始点、生成の呼出し点、を共通の駆動要素でイベントとして割り当てることでキャラクターとしてのフレームワークをサービスとして構築することを対戦形式で練習するのだ。そうすることで言説のネットワーク上の配置のカプセル化を実体化された概念から取り出して、それを具体的な人間の生産的な消費の要求に対して分岐的な起点性の問いかけとして学習の技術的目標に対するモデルの簡潔さを稠密にしていくアーキテクチャを創造できる。それは国体の概念的実体の二重性を崩壊させる駆動設計を壊変サイクルの領域としての属性が次元化される各々のキャラクターが実装される召喚になるのだ。

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