律動性のシスターズサモンプラクティス

 壊変召喚の律動性とは何か。それは実体破壊の創造性の音楽的流入ということになるだろう。今回のこの答えは今までの明確な定義の応答とは全く違う種類の認識なので注意を要する。説明の形式を取ってはいるが説明の定義にはならないのだということはあらかじめ断っておく。さて私が考えているのは微積分におけるフーリエ変換のでデジタル技術での操作主体のことである。なぜフーリエ変換は可能なのか。これは数学的な問題ではなくライプニッツの「単子としての無限」がスピノザの「実体としての無限」を有限等差級列に分割できるという点から「極限の無限」を数学的操作の周期性に「変換」できる主体を仮定できるから、だと私は見なしている。カントールの全体集合と部分集合は等しいパワーを持ちうるとかすべての有限加算集合とは別に超限数が無数に多く存在するとかはこのことを主張している。それゆえ無限が形式的な実体操作の有限等差級列として発散しない限りにおいてその項目別な微積分が複素数領域を含む多数列の集合時間軸の分割からベクトル解析される。しかしここにはある重要な点が欠けている。それはデカルトの解析である。それはある特定の座標空間上の任意の二点を用いてその数を表すことができ、それを操作の主体性として記述できるというである。ここでデカルトの主体は求積をその本質としているわけではないということに注意する必要がある。なぜなら実体と世界性が同じ演算空間上の無限に含まれる等差級列であるとしたらそのパワーの解析がどのようなベクトルをもつのであれ、それはある特定の物理的実在性に対応する点を0以下でも保存された質量の観測として有さなければならないからである。この前提を試行という形で補うことができるだろうか。それはできない。なぜなら試行がとして確率的な集合になるにはある質量的なパワーというものを仮定せざる得ないからだ。コイントスを無限回行える試行には決して壊れないコインが正確に全回転するための理想的な物理空間の質量性を偏差として引いておかなければならない。だがそうすると確率はある自然の斉一性という経験的な信念に依拠せざるを得なくなり、数学的な極限というものを個人的な事象の起こりやすさに対応する一意性という記述の複雑性でしか表現できなくなるのである。もちろんこれを表現する手段が量子力学であるのだがそれを複数の世界仮説として観測される確率的状態の重ね合わせだと把握するような社会的領域が因果論的な解釈を強弱の問題に収束させるのである。


 私が主張しているのは量子力学が物理の演算法則として信用できないと言っているのではなく、量子力学が世界の記述としての実体性としてはそれほど信用できるものでないということを言っている。それはつまりエネルギー保存則における光速の問題と量子力学の解析の問題では分割における方法が対蹠的だということである。というのも光速を求める方法は観測の単位を形式の無限とは別に定めるものであるのに対して量子力学はあくまで観測の試行を質量的に収束する範囲で無限に拡張したものであるからだ。この問題を具体的に言うと、あるくじを引くのにそれが光速で観測されるからと言って別にそれが世界に対して確実な当たりを引くための事象に変換されるわけではないということである。もちろん時間計算の形式としては光速でどれほどのくじが引けるかの確率を求めることは有意義であることは間違いない。だがこれを可能性の形式の試行として世界の記述を求めるとなると話は変わる。というのも量子力学の確率計算が世界に対して有意義な記述になるのはその試行が世界に対してではなく独立に有意義な命題を持っているのでなければならないからだ。量子力学を可能性の探索という理念として利用することは前提条件が間違っている。どうしてそのような間違いが生じるかというとからである。これを数学的な意味であると錯覚するからこそ量子力学が世界の複数性の記述を微積分の方程式に変換できるという実体の無限の形式を維持できるのだ。コンピュータが熱力学的な電気のエネルギー効率で動いていることはコンピュータが熱力学的な空間性を電気で演算しているという意味ではない。もちろんコンピュータは「そうする」こともできるがそれはそのような次元空間の測度をシミュレーションできるからそう言えるのであって、その伝送的なパワーがフーリエ変換のグラフで視覚化される領域からインターフェースの接続を構成しているのではない。それは音楽の周波数を検知できるからといってその音楽の演奏を直接に模倣できるわけではないという意味に似ている。ここには三つの混同されやすい意味がある。一つ目は音楽の周波数をアナログ的に録音すること、二つ目は音楽の周波数をデジタル的に録音すること、三つめは音楽の周波数という概念を用いて音階のスケールを自分の記憶として覚えておくこと。絶対音感という概念は音階の標準平均率の基底を自身の記憶から正確に等分する能力であってある音自体を記憶保存する能力ではない。それゆえある音と物理的な質量が一対一対応しているのだと考えるのもそれらの音が確率的な試行から量子的に収束されると考えるのもどちらも間違っていることになる。実際にはある国際的に標準化された音階の基底に対して周波数の単位を設定し、その単位のスケールから来る振動に物理的な数量を合わせているだけだからだ。この音をブロックに対応した信号周波数でクロックして、その可能なスケールの再現的配置を分岐回路の組み合わせで実行するというデジタル技術は、ある周波数の等差級列を四角形のブロックを積み上げた次元性の面積に収束するようなスケールとして対応させるアナログ技術の計算方式とは全くの別物であるということを聴覚で区別することはまず不可能である。このは実際の物理的原因をあらかじめ知っているかどうか、という差異であって感覚的な帯域幅の検知がごく一部の人間には可能であるという意味ではない。それゆえデジタル技術のリアリティというものを考えるうえで音楽に物理的な没入感があるかどうかという言説的配置が五感に対してきわめて重要な意味を持ってくるのである。


 ある楽譜には四つの小節があると仮定しよう。そしてそれらの小節に対してそれぞれ別の振動周波数のスケールを割り当てるとする。ただしここですべての音程に対して物理的なスケールは同一だとする。さてこの楽譜を演奏するにはどうした良いのだろうか。これの答えはどう考えてもそれら四つの楽譜の振動周波数のベクトルを解析することではない。むしろ楽譜を読んで楽器を練習することだ(それに対応した楽器があるかは別として)。それが周波数のスケールを計算することで可能になるためには周波数に対応するベクトルのスペクトルに変換した伝送通信の符号が楽譜の演奏に必要なスイッチ回路の音程を意味しており、その符号を受信するたびに特定の符号化された信号がスイッチ回路をクロックさせ周波数に対応するシーケンスのステップをそれぞれの音程に実時間としては0に近い技術的な記憶として割り当てることが必要である。この場合、すべての音程に対して物理的なスケールが同一であるというのは、計算の結果がそうなるからそれが前提とされているのではなくて利便性の観点からそうでないと手間がかかりすぎるからだというのがわかる。もし自分が何らかの振動周波数に一致した音源を帯域幅から量子的に計算して探すとなればそれが国際的に標準化された規格でない限り何の意味もないからだ。もちろんここである特定の粒子が特定の振動数を有すると仮定でき、それを発見するために周波数の領域を計算して実験的にその粒子を分離するための別の振動周波数を加える、という手法が否定されているわけではない。ただそれはそれ自体ではいかなる物理空間性のリアリティでもないというだけなのだ。もし海のさざ波の周波数が人間の耳に届く領域を計算して、それを貝殻などの物質にかすかに反響させるという演出を作りたいのなら、そのような物理的スケールを仮想記憶のレイヤーに分割して別個に保存しておき、それぞれの次元性の周波数として耳に響く音程をデジタル空間でデータ化された記憶領域から探し出すことができるということなのだ。これがフーリエ変換のような形式で再現されるとしてもその技術は本質的にアナログ的ではない。なぜなら操作の実行主体が自然的な世界法則の実体性ではないからだ。それの操作の主体はある信号を入力すればその出力の計算としての帰納が、特定の結果として再現されるということを空間的な分割の言説配置として認識する存在だからである。


 バーチャルリアリティにおいてある空間性を複数人で共有するにはある一台のモーションカメラを世界の固定軸として定義して、ほかのナビゲーションのカメラにはプレイヤーの個人的な視点を反映させるという手法が取られる。これはそのまま実体性の世界記述の形式になっている。それゆえこの世界に現実感の意味を共有させるには事象に対応する効果音を同時に聞かせることで空間の全体性を補完するという配置から位置関係の確認が行われる。そしてそれとは別に室内楽の雰囲気をオブジェクトしてしてのレコードなり音響装置なりで調節するという手順をあえて操作の余地として残しておくことで、音源の表層的なレイヤーを管理することができる。当然だがプレイヤーの入力された声が、効果音や室内楽の音とは区別されるためのレイヤーとして鼓膜の反響を計算しなければならない。ここで我々は苦痛と快楽の問題に出会うと言ってもいい。というのも物理空間上で苦痛の把握を決して行わないという共有前提から視覚表象の快楽が労力の苦痛として差し引かれる計算が個人的なこだわりの嗜好として代表象されることが必要だからだ。もし労力に対応する報酬が脳内回路だけで完結した快楽表象の実態を構成できるのならそれが「技術的な回路だ」という認識はそれなりに有意義な記憶を持つ。それゆえ、他者の嫌がらせが個人的な嗜好を妨害するという空間性の侵犯は物理的な記憶保存スペースの確保という仮想性で補われる。苦悩とは逆に人間的な記憶が決して物理演算の代表象では補われないということの認識であると言える。なぜなら世界性の記述の全体性と操作の主体的な空間配置の分割は完全に独立だからである。この両者を快楽で接続することは身体的な性を部分的な集合から全体性の無限に高めることで埋め合わせるしかないが、苦痛はその両者の報酬回路の差し引きとして与えられるわけではない。それは声と快楽の音源が一致しないからである。もし世界の記述の全体性を性の物理的な接続の報酬回路の操作で代表象するとしたら触覚に対応する人間の意志を否定することになり、それは一方的な侵害の体験と技術的な記憶とリアリティの空間性の際限のないズレを引き起こし視点的な統合性はスケール的に分散せざる得なくなる。だからこそ乳房とペニスの双方性の視覚性は世界の統合的な記述に対して分散的で、その空間的な偏差を触覚の快楽で埋め合わせることができないのである。


 ペニスを持っている男性が快楽に対して自己充足的で乳房を身体に宿している女性は視覚空間の内在性を「自然的に」宿しているという錯覚が起こるのはここである。だから確率的な信念の割合は世界の形式性に対して侵犯的であるか記憶保存的であるかどうかで測られることになっているのである。もちろん空間の分割に対して視点の分散がデジタル的に常に行われているというデータブロックの認識を共有する場合にはこれは成り立たない。声の侵犯的な調子が視点の統合性を乱すのは快楽が性的な回路に結びつくからではなく視点の内在性に関する苦痛の分割を生物的な性差の経験からしか記憶できないという理由に依っているのだ。それが声が貫くものであるという比喩の基底にある周波数の源泉である。近代における政治的な性差が統合的でないのは声が権利の主体性を代表象するからで、技術的な記憶の保存に表象される身体の性化が操作の空間から分離されていないからだ。だから被害の記憶というものを保存することが世界性に対する侵犯と区別がつかないということになるのである。確かに記憶の保存が人間身体の暴力に直接帰属する場合(例えばレイプの現場が直接記録されているような合成映像)においてはその権利を代表象することは文句なく当てはまるのだが、キャラクターの仮想化された身体がレイプされているような「実写映像」を考える場合、ここで問題にされているのはモーションカメラの接続に対して空間的分割の操作主体にその介入を行わせるものは表象的な説話性に対する挿入であって、レイプが物理的に演算されているわけではないという区別が確実につけられるには声の響きが切迫性を帯びているかどうかに依拠するしかないということである。たとえばキャラクターがレイプされている漫画がある非常に残酷なシーンを描く場合、それに快楽を感じるのであれ気持ち悪さを感じるのであれ現実的な距離というものは明らかに維持されている。一方で声に対してたとえキャラクターであってもレイプに対する切迫感が示されている作品が仮にあったとすればそれは間違いなく規制されるべきであり、それは文句のない事実であるというのがそれである。この種の演出に声があてがわれる場合、声優のわざとらしさあるいは技巧性が安心できるものであることが絶対条件であり、この点からレイプが安心できるものであるという回路はということがかなり重要である。なぜなら聴覚の切迫性に対する脅威は空間に対する視覚の優位のイメージを安全性の距離としては失わせるからである。そして問題なのはこの優位性に対するイメージの投影が被害感情の仮想化された視線の性的な由来になっているということにある。というのも空間性の優位が乳房に対するペニスの騎乗になっているというイメージこそ侵犯の時間軸がアナログ的ではありえないことを代表象してしまっているからである。ナビゲーションのカメラがプロポーションの視線としてペニスと同時に視線のカットをリアリティとして構成することができないことが声の全体性の優位で構築されることに体験性の記憶の脅威を呼び覚ます「自然性」が存在するからだ。


 この水準は説話的言説ではどのように表現されるのか。それは交叉イトコ婚の「卑猥な」掛け合いの身振りを交互に行うことで双子の生物的な共感性を表象的に交換するために外部的な脅威を見立てることで、その脅威に対応する儀式を秩序の儀礼空間に位置付ける結婚として生殖を祝祭化することである。この説話空間では複数の女と姦計を持つ荒々しい男性と一人一人の女性にまめに世話をする子だくさんの穏やかな男性という系列の対比が「熱きもの」と「冷たきもの」の交配から自然の豊穣さのスケールを拡大するものとして病気や不幸を洗い清めるというペニスのシンボルから乳房が双数化される。この考えは厳密な意味でスケールの縮尺におけるデジタル技術の双方向性に合っていない。というのもある一つのペニスから複数の乳房が双数として倍加されるという形式は、分散の規模に見合っているとは思えないし、その縮退の比率も一定であるということにはならないからである。論理的に言えば一つのペニスの出力ではなく無限に増殖するペニスから階乗される乳房の分岐起点を平方根で出力し、それを±から並列化される回路で交互に加法と乗法的減算を繰り返す位相差の回折ということになるだろう。そこではフィードバックは子宮的な回帰の体験を心臓の鼓動の再開的なリズムとして仮面の中身が入れ替わる置換性の憑依として機能する。なのでこれは完全に意味不明な外部の神々によって支配されていることになる。もちろん問題が存在している。というのもこの「外部の神々」が政治的に出力される場合には明らかにオーバーテクノロジーの投影的な観点から「どうすることもできない」不条理な結果が解釈されるからである。ここでの確率は事前分布と事後分布の標準偏差の信念の位置取りに正確に対応した対称性を経験的に基礎づける生物的な多種性に依拠している。たとえばあるAの事象が起きたらそれはドラゴンのカテゴリーだし、あるBの事象が起きたらそれはライオンのカテゴリーだという風に分類される。もちろん説話論的な意味はその経験的表象に応じた位相を取るが、それが説明の形式に共通の条件を差異として与えているのではなく、分節的構造に依拠した説明方式の種類からその内容が決定されていることが意味論的に統合されているということである。つまりそれがどんな意味であるかを問うことはは秩序の侵犯と同義であることになる。もちろん技術的条件においてそれがそうなっているかを意味論的に問うことはナンセンスである。しかし技術が説話論的表象で説明されているときはそれがどんな意味論で構成されているのかを問うことは技術がどのように秩序の管理方式を決定しているかを把握するうえできわめて有意義な命題を構築する。それは操作の主体性が意味論的な外部から分割されている技術条件のを提示するからだ。


 この否定された分岐とは正しい歴史的位置づけを否定する別の歴史的位置づけのことではなく排他的論理和や否定演算子のゲートのことである。というのも否定された分岐を含むすべての論理ゲートをスイッチ回路として設計することは意味論的な外部にありかつ意味論的な表象を定義する位置づけを入出力する包絡も定義することができるからだ。ただしこの主張は意味論的な定義に技術的標準化のための表現規格を操作の主体に与えるという前提がなければ価値がない。それゆえ意味論的な外部をスイッチ回路の入出力の規模でためにはそれは単に符号伝達のためのシンボルであるのではないという意味で召喚という機能を持つ必要がある。たとえばキリンという名称で黄色を意味するとしたら、黄色のキリンをスイッチ回路にすることはできないからそれらは符号伝達のためのシンボルでしかないとわかる。一方で絵具という名称で黄色を意味するとしたら、黄色の絵具は赤色の絵具や青色の絵具にもスイッチできるからそれは象徴的に何を意味しているのかを召喚する必要がある。例えば(黄色の絵の具で描いたレモンは酸っぱい)とか(黄色の絵の具で描いたバナナはおいしい)とかである。重要なことは(黄色の絵具で描いたスイカは丸い)とかいう形式も可能であるということにある。(黄色の絵具で描いたスイカは丸い)のは明らかにである。一方で(緑色と黒色の絵の具で描いたスイカは丸い)というである。直観に反しているように見えるがそうでない場合を想像できるからだ。例えば四角形のスイカを緑色と黒色の絵具で描いた場面を想像したりすればいい。それゆえ論理ゲートの召喚は文章の内容が意味に対してマッチングしているかどうかには関係ないという前提を共有する必要がある。これが重要なのは(男と女が結婚をして子供を作る)の命題は偽だからだ。もし論理ゲートの召喚において(男と女が結婚をして子供を作る)という内容を出力するとしたら、(男と女)が(結婚をして)、(子供を作る)のそれぞれに象徴的な意味を割り当てなければならない。そして私が主張していることは、このデジタル技術の分散的な双方向結合において男と女の結合が象徴的に意味づけられるのは兄弟姉妹の近親相姦だけだということである。なぜなら(兄弟姉妹という男と女)が(結婚するには近親相姦しかなく)、(それは子供を作ることでしか他の兄弟姉妹の差異にならないから)である。ここでの前提はもし(男と女が結婚をして子供を作る)がのなら、デジタル技術での分散回路の接続はキャラクターを母子相姦か父娘相関でしか象徴的に意味づけられないという記憶系列の複製の連続性に基づいている。というのも(父と母である男と女)が(それぞれに愛人を作って)、(それぞれの子供と同居する)でも意味が成り立つからである。明らかにこれの例外が双子の同時性だからそれは外部の脅威と関連付けられなければならないのだ。それゆえ問題なのは複製された兄弟姉妹の血筋と異なる位相差を生み出す近親相姦の召喚とは何かということにある。そしてそれがなのである。


 悪魔を召喚するための儀式として親しい兄弟姉妹を生贄に捧げるというタイプの説話は血筋としての兄弟姉妹の複製を象徴的に復活させないようにするための外部性なのだが、ハーモニーの記憶と近親相姦の継承性は外部化できない異質さとして残ってしまう。というのもこれらは空間的に分割された操作の主体を機械的な連続性とは別に要請してしまうからである。交叉イトコ婚では基本的に共同体の外部を意味する外国人や異端者の血筋を兄弟姉妹として紐づける様式から例外が構成されるようになっているのだが、この方法は一代でしか可能でない。なぜなら例外を意味する外部性を同じ外国人や異質性の血筋として迎え入れるためにはその外部性に対する差別を行い続けることで共同性に対する排除を例外にするための儀式の特権性として保持しなければならないからだ。だから異質性についての差別があることは異質性に対する寛容と矛盾しないのである。それゆえ外部性は何らかの特異体質や文化的な継承性ではなく技術的な記憶保存が生物的な領域の分割に介入してしまう領域において構築されなければならない。しかし技術的に外部化したはずの領域が自分たちの身近なものを介して記憶の保存領域にその空間的な分割を要請してしまうとすればタブー反応が起きるしかない。しかしそれは自分たちが科学的な認識の公正さを謳っている場合には致命的な矛盾としてどこまでも破壊の外部化を行うしかない。それはいまではと呼ばれる領域に存在している。それは戦争における原子力の生物的攻撃に関する応報の論理にある。しかしのソフトパワーの開発が全体に対して部分的に優位を構築するというのは単に間違っている。なぜなら全体の統合的な視野が分散することは核兵器の放射能汚染と特に関係があるわけではないからである。むしろ領土のフラクタルな生成が島々の創造のネットワークに生殖の結合子を切断するものとして次元性の浸食が残存することが問題なのだ。故にネットワークのソフトパワーの問題とは、意志決定の双方向性を象徴的な意味内容の伝達として分散的な多重分割の次元性からキャラクターの性の実行サイクルの単位として構築することができるかどうかにある。だから壊変サイクルをアーキテクチャとして構築することは核兵器に対するソフトパワーの優位を証明することになる。ここで壊変サイクルとは物理学と生物学が混合した理念的な文化表象がデジタル化された技術表象で崩壊する定数が何らかの確率的な信念で表される原子結合的な微分方程式として想定されている極限連鎖の一時近似である。それに対して核兵器に対して核兵器で挑むというのは物理的空間性の破壊という視野しか持たないこと、つまりデジタル技術上の劣位を軍事的誇示で隠しているということを示しているのだ。核兵器が撃たれた後も秩序を再建する能力があるということは核抑止の相互性を軍事能力で測定する根拠を失わせることになる。なぜか核抑止では核を撃たれた後に秩序を再建する能力がことを証明することが核兵器を撃たれないための努力だと考えれらているかが、どう考えてもプロパガンダである。それは確率的な信念から核兵器を撃っても人類が滅亡しないのなら核兵器を撃っても大丈夫という荒唐無稽な論理から成り立っている。しかし核兵器が撃たれても人類は滅亡して。ただ単に核に対して武装することだけが脅威に立ち向かうことだという前提を維持するためだけに捏造されている神話うそである。それゆえ壊変サイクルを律動的な論理ゲート召喚の周波数として破壊を内部化する象徴的分割を取り出すことは核兵器が変調のリーダーとしての性質を持つことを否定する非生物的なコードを性の近親相姦の論理として構築することを可能にする。これこそ憲法の正当性を核攻撃の降伏の無条件性に位置付ける象徴的な承認を無効化する創造性にほかならない。

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