「文化・配信」パッケージ2

 現代における文化と配信との関係は何か?それは分散した排他的論理和で構築される論理ゲートのネットワークリンクを通じてプレイヤー視点からのコンテンツの探索的ナビゲーションやキャラクターの魅力の記憶の攻略を行うことにある。これはとても狭いプラットフォームの使い方ではないか、少なくとも政治参加や社会参加による収益性や権利問題の解決の意義を持っていないのではないか。私が言いたいことはそうではない、ということである。なぜなら現代の社会問題の起点は政治的統合を建築的残響の文化記憶に連続する歴史的深層性の歪みの探究として都市空間の参加の連帯性を構築し、その市民秩序に物質化された倫理的身振りの表層で人口の流動性や再生産を数学的分割とは両立しない象徴シンボル化された支配技術の原理からコントロールするという社会的功利性の神話的置換にあるからである。そして現在のデジタル技術がアーキテクチャという言葉で表現している物とは、建築的設計と数学的分割の違いは表象的差異ではなく空間の構築に関する連続性をシンボルの階層記憶という概念の遅延に対して異質な差異エッジ条件トリガーごとに正確にクロックしつつスイッチ(フリップフロップ)する回路に依存し、その標準化の規格に沿った生産性を再現された表象に依存させないように設計するという探索の身体性を現在の時間軸に合わせるということである。そして統合を過去の歴史遺産に合わせるのではなく現在のリアルタイムのインタラクティブに合わせるということは、社会参加の条件が倫理的一貫性にではなくナビゲーションにおけるキャラクターという人格化された記憶表象の魅力を論理ゲートの入力で分散することで政治的条件の主体的な変更をレイヤーのリンクから出力することができるということにほかならない。ではそれを説明していこう。


 政治的統合を建築的残響の文化記憶で連続する歴史的深層の歪みとは何か。それは建築でイメージされる宇宙の統合的神秘と科学的に演繹される宇宙の計算法則が違うということである。なぜそれが違うと困るのか。それは時間の周期性に対する規則が一定でなくなってしまうという点にある。歴史的連続性とはつまるところ季節の周期と天体観測から眺望できる星座の位置が同期するということにほかならないからである。だからそのズレを埋め合わせるために祝祭が催される。しかし宇宙の観測が星座ではなく惑星運動の周期性とその光から受信する天体の輝度の時間的帰属ということになってしまうと宇宙の誕生という規模は統合的表象にはならなくなる。というのも宇宙は銀河のスケールの次元に沿って拡大したり縮小したりする分散的な展望の空間的分割になってしまうからである。そうなると歴史的連続性というものを文化的表象の記憶で埋め合わせるために周期的であった時代の文化遺産というものをスケールを固定するための紀層的記念碑として政治的に利用するしかなくなる。しかしそれはあくまで想像的なものであり、どれだけ歴史的な検証を行っても現代の必要に応じた要請が社会的秩序の亀裂として代表象されるしかない。それは調和的理念の祝祭性に応じた律動性の文化価値という逆転の身振りで歴史から眺望されるのである。しかし音楽と踊りがリズムとして一体になることを文化的に記憶するのに周波数の記憶の技術的な分離が可能であるというシステムを導入すると祝祭の性格は一変する。それは単に倫理的な身振りを高めるための感情的な変調の儀式に過ぎなくなるのだ。それを権力に対する抵抗だ、というのは宇宙の統合的表象に対して科学の分割が亀裂を入れることに反対するという意味での技術的コントロールに対する抵抗なのである。これをとは言えない。むしろ気分よく酔っぱらっているのに冷や水を浴びせかけられる感情の害し方に抵抗しているに過ぎない。そこで科学的分割を政治的分断と定義しなおすことで西洋と東洋の文化が植民地主義同士の争いで生活に介入しているという表象を「探究する」のである。


 「いやいや、あなたこそ植民地主義的な介入言説に反対してきたんじゃないんですか。それなのにどうして植民主義に対抗するための言説的構築に反対するんですか?」それは文化・民族的な基層に技術的原理が「侵入」することで大地に亀裂が生じたという混乱した秩序の歴史的記憶に対処するために現代化した西洋と異質な東洋的イメージを使って芸術の象徴シンボル的遺産を再創造するという言説こそ都市空間の参加の連帯性だからである。この問題が厄介なのは植民地的介入の政治的手段が現地住民の安定した制度に対して悪質であっても科学的な技術の再定式化そのものは近代的な文化空間の表象として利用されなければならないという矛盾として物質的利害関係を構成するからである。それゆえ植民地主義を単に西洋が東洋を自分たちの経済的利害関係を貫徹するための資本主義的な政治政策であるなどと考えてはならない。それは問題の一面でしかない。この問題の本質は資本を技術化するとは歴史的世界観の統一的な表象から技術的な標準化の物質的時間単位を創造しそれを貨幣の分配を通じて拡大再生産していくことができるということにある。しかしその影響は西洋的な本国の方にも当然派生するから、その影響を革命的観念にならないように防衛するために文化的な統一的表象という歴史的イメージを仮想化された異世界の「東洋」から取り出して、それを統合するための「西洋的空間」が自分たちの都市空間の倫理的身振りに沿った政治参加だという風に再定式化することが重要なのである。だから二つの世界のイメージに入らない人々の構造的排除が存在するのだ。したがって資本的再生産の問題からは住居と金融資産の分離が現実住民に対して不安的な相場を提供するということが都市空間の政治参加の倫理的身振りを構成し、その再秩序化を制度的に実現するかもしれない公共的な技術的介入が排除の現実的規定をという言説として再構築される。これが人口構造の統計的調査管理による技術的監視のパノプティコン設計である。でもそれだと、人々が自身の携帯端末で都市空間でない自分たちの表現の身振りを「監視的に」撮影してしまうことは歴史的な人口構造の統計的な功利性の枠をはみ出してしまうことになるのではないかという疑問が生じる。。だから外部的な撮影の準拠を企業が提出するお題として囲い込むことで社会的な都市空間の神話的な功利性を維持する必要があるのだ。


 技術的コントロールとは技術の仕組みについて理解しないまま、その原理を文化的統合性の理念として再制度化する言説配置であると言える。技術そのものが支配するというのはフィクションの中でしか表現されたことがなかった。技術が「実は」人間を支配すべく虎視眈々とその機会を窺っているというのは技術的設計についての無知が人間的な意志でいつか覆されるかもしれないということしか言ってない。にもかかわらず技術的設計について理解するとは単に数学的な分割の把握をするだけなので一体何がそのイメージのズレを生み出しているのかは教養のなさというものに委託され、それが教育格差を生み出す原因だという風に統計的に説明される。ここで問題なのは技術のインターフェースと機能的デザインの区別が建築的アーキテクチャにおいてはできないという構造的欠陥の方にある。それは図面的表象の深層配置に関わる問題だからだ。このが3Dデジタル技術では再現可能であるということは何を意味するのか。それは知的財産権の意味を考え直さなければならないということである。というのも知的財産権が一つの歴史的、という建築的な理念性が疑わしくなってきたからだ。実際は守秘義務を通して技術的な内容を隠蔽することだけを法律的に画策しているだけではないのか。個人のプライバシーにかかわる問題と政治的問題にかかわる私秘性を区別できないだけではないのか。それがデジタル技術でブレイクスルーされてしまった結果、すべてをプライバシーの問題に還元することで情報の非対称性が維持できるはずだということになっていないか。ここで問題なのは世界観の複製である。あるキャラクターを制作した時に、そのキャラクターの帰属は特定企業の世界観の所有権として法律的に管理されるのか、それともキャラクターの二次使用の使用料を受け取る権利を世界観の所有権と法律的に呼んでいるだけなのか、ということである。この二つは矛盾せず相互に補い合う関係にあるのだといえるのだろうか。そうは言えない。というのも世界観の複製を禁じるというとき、社会的な世界観とは何を意味するのかという政策の原理の相対化を禁止する規定もまた暗黙の裡に含まれてしまっているからである。いうなれば世界観が偽物であるという規定と世界観が複製であるという規定が同じ形式原理から派生してしまっているのである。これを並行世界の複数性というのでは意味が通らない。なぜなら「本物の」世界観というのは人間の情緒により当てはまる世界観とそのでしかないからである。結局禁止されるべきなのは、ある個人の使用していると全く同一の表象をその個人または法人の権利を無視して商業利用することにあるのだから、その世界観の表象と同一のを利用して、個人的な商業利用を禁止することはできないはずなのである。なぜなら同じ名称設定を利用してアーキテクチャを構築することに経済的な意味がないからだ。それが意味があるのは世界観をキャラクター帰属の所有権と全く同じだと措定する場合だけだ。医薬品などの分野ではこの点に関する融通はある程度効くが、文化表象においてはそれは不可能である。だから一旦非正規の複製を広めてから、そのあとより品質の良いデザインが偽物を駆逐していくというマーケティングで認知を集めることができるのだ。


 キャラクターの技術記憶的設計とは何か。それはキャラクターの魅力のデーターベース集合であると言える。キャラクターの魅力を歴史的遺産の文化的継承性だと定義する場合でも、この定義は集合論的に有効になる。だから単にキャラクターの理念的表象を複製するだけでは「世界観の記憶」の背景を埋めるのに充分ではないのだ。しかし世界観と違ってデータベース集合では時間的な蓄積は相対的な概念であり、年代記というものが一年はおろか数か月単位で記述されていってしまう場合がありうる。というのも、キャラクターの魅力の蓄積は消費された情報のネットワークリンクから波及したトラフィックの量に左右されるからだ。しかし大量のネットワーク接続が言説体系として置換されているのに、どのようにして人格的な統合性を維持しているのだろうか。その答えは階層記憶のレイヤーを分割して、その言説体系ごとの記憶に対してその都度別のコミットメントを行う身体性を仮想空間上のアバターとして操作の主体性にするということにある。これを歴史的連続性の記憶断層として言説的に主体を構築するというのではあっというまに記憶可能な情報の許容量が埋まってしまうからである。状態の変遷を様式の変化に対して逐次的に記憶していくのではなく状態変遷の記憶回路を揮発性のクロック付き信号で標準化し、そのアクセス可能な伝達入力の組み合わせから出力可能なその状況に最も適したパターンの様式をあらかじめ受信器の技術記憶に置換しておくことが人間の記憶容量をソートするのに確実な時間的優位を構築する。当然だがこの伝達信号と表象性の個人的な制作の位相は完全に独立しているので、それを人格的な操作主体として記憶しておき、コミュニケーションの配置をそれぞれの言説空間に対して応答可能にしておくというオープン性のプライバシーが構築できる。文化的継承性の記憶がデータベース集合の組み合わせ可能な揮発性の記憶回路から階層化されているからこそ人格的な記憶のアクセスに対して一定の空間的間隔を空けることができるのである。つまりネットワーク分散の回路を技術的に把握するということはプライバシーに関する個人認証の個人的暴露に対する抵抗をあらかじめ含んでいるのでなければならないということである。これは意図的に閉じられたコミュニティを構築する場合でも同じように当てはまる。逆にデジタル回路の接続を利用して意図的に個人のプライバシーを盗み出し、それを大勢の人間に暴露するような利用主体を仮定しよう。その場合、管理者が取る行動はどのような場合でも意図的に個人情報を暴露するような接続を切断するということになるはずだ。なぜならそれはネットワークの階層的記憶と文化的身分の記憶を短絡するという結果になるしかないからだ。意図的にそういう主体を「泳がせておく」ことは閉じられたコミュニティの内部でのみ個人情報を暴露をするという身分関係の帰属を参照する場合しかない。それに意味があるためには身体的な表象的理念のイメージがキャラクターの内在的性格と相反するから矛盾するのだという人格統合を仮定する場合しかない。それはレイヤー分割では必然的ではない。一方で政治的不正とはシステム管理の短絡を文化記憶で埋め合わせるという場合しか可能ではない。個人的な記憶の不正を技術記憶の改正で埋め合わせることはできないのだ。それは単なる履歴にすぎないからである。だから法律的な改正を行えば問題を解決できるかのように錯覚するのだ。


 キャラクターの魅力を設計するための配信は炎上を起こさない配信であるというわけではない、という点について考えよう。というのも炎上が起こるのはキャラクターの魅力に対するデータベース消費を配置してきた主体が別の言説体系ではその消費を継続できないという限界に対してそのキャラクターが起こしたリアクションが有効でないということを証明するものだからだ。いったいどうしてそのようなことが起こるのか。それは我々が仮想世界の住人ではなく実際的な社会的条件の物質的利害関係からコミュニケーションの規格を選択することしかできないという条件付けに起因する。それにもかかわらず、キャラクターが配信する言説的な置換はその条件を通りすぎてもデータベースの消費を持続してしまうという点に政治的な矛盾が存在しているのである。これは同時に我々がキャラクターを選択するとはリアルタイムでの物質的社会的条件を代表象するための接続的同期を構築するということでもある。なぜならキャラクターの文化表象に関する統合的理念を参照してもそのアーカイブに対する記憶の集団的同期の並列性を構成することにはならないからである。それを行うためにはアーキテクチャの構築という技術的展開の分岐条件を再現するやり方で表象的な組み合わせのスコア計算をシミュレーションしなければならない。この代替的なスコア計算はどのように行われるのか。それは社会的物質条件からデジタル技術のデータベース消費に移行するための入力を再び逆方向に流入することを防ぐための論理ゲートの抵抗として収益性の回路を視聴者のデータベース消費の集積から再構築することにほかならない。ここでの視聴者とは自分自身の好みの入力を含んでいる。というのも自分の視聴内容の好みと自分の配信内容の好みが論理的排他和の出力から重複することをデータベースとして消費することを「視聴者」が望んでいるからである。だからこのことは配信の内容が必ずしも万人受けする性格だというわけではない。消費者が平均化された統計量でそれを望んでいるから、その統計的な構築をデータベースの時間性に合わせているわけではなく、視聴者がこの回路の分岐では揮発性の記憶として比較的に優先順位の高い組み合わせを消費しているという条件のクロックから、その情報の統計的な組み合わせ回路の表象を自分自身の好みのサイクルと同期させることが物質的な社会条件の身分制と立場を同期させる構造的な要素から自身のキャラクターのレイヤーを分割する方法だということである。配信の信頼性が低い間は視聴者の好みに合わせたやり方を取る方が賢いが、配信の信頼性が高くなってきた場合には自分の好みの優先度を他の視聴者との不和から絶対確実に修正していくべきではないということである。むしろあまりにも多数が反対する場合や自分の好みの優先度を多数派に合わせることがつらくなってきた場合を除いて自分の好みの軌道を確実なものにしていく方が正しい。もしこの方法がうまくいかない場合は社会的物質条件の政治的表象の方が伝達遅延から技術的構築に対する変動を制御できていないことを意味している。それゆえ技術的構築の表象に対する既存コンテンツの配信ではなく、コンテンツの創造を技術的設計ではないレイヤーに準拠させるにはどうしたらいいのかを考えよう。


 あるキャラクターをグッズ化するような商品系列はネットワークのリンクにいかなる影響を与えるのだろうか。これを単なる収益性の物質的対象の確保という風に考えていいのだろうか。グッズの流通をリンク農場のリコメンダシステムのフィルタリングを構築するような統計的情報の一つとして計量化するための単位と規定すべきなのだろうか。それは間違っているわけではないが十分であるわけではない。なぜならキャラクターをバーチャルアイテムのパッケージ封入単位の価値体系として考えることではじめて信用創造という決済の流通経路を設定できるというアーキテクチャの構築を考慮に入れていないからである。キャラクターをグッズ商品の理念的模型性の原価単位として構想するだけだとそれを広報するための配信とキャラクターをどのように使用すべきかという構築の基準をシナリオ的な記述の文化表象として物語化することしかできなくなる。それが十分ではないのはキャラクターを登場人物の地位においても説話論的な生成をすでに著名な別のキャラクターと紐づける場合にしかそのレイヤーの社会的条件を十分に開示することができないからである。それはすでにある社会的条件に対して相補的な集合しか扱うことができない。つまりそれは階層記憶に対して常に一段低い場所のマーケットを対象として宣伝を行っていることの代価として著名なキャラクターのデータベースを集合として借りていることになるからである。ネットワークのリンクとしてそれは有効ではない。商品のマーケティングは著名度を上げて単に話題作りをしたい場合の広報とデータベース集合を利用してそのインタラクティブな発話行為のトラフィックから価値創造のプラットフォームを利用して収益性を稼ぐというプロモーションでは異なるエッジの判定を持たなければならない。そしてキャラクターの理念的モデルの原価単位の配信はエッジにならないのである。人形的なものを操作してもその対象は双方向的ではないからだ。ただその配信が優れているだけになってしまうのである。ではなぜバーチャルアイテムのパッケージ封入単位がキャラクターのエッジになるのだろうか。それは物理的なキャラクターグッズの販売と相反するのではないか。そうでない理由はキャラクターに対するエッジトリガーの技術的標準化を収益性として紐づけることは、そのキャラクターの人格的な統合性を損なうことなく複数の次元のレイヤーに対応したリコメンダシステムのフィルタリングとして検索列を利用できるということにある。この検索列を利用してキャラクタ-のレイヤーを分割できるという特性こそまさにシナリオ的な記述の登場人物に欠けている要素なのだ。シナリオの登場人物を別の位相に登場させるにはシナリオに対するサブシナリオの配置としてさらなるサブシナリオをプロットするというやり方でしか可能でないからだ。もしキャラクターがあるエッジに対してトリガーするのならその記憶の再現をするのにその技術的組み合わせに対応する揮発性の記憶を読み込むだけでその状況に関する人格の記憶を組み合わせ回路として優先的に設計するだけで販売と決済を紐づけられるからである。


 そうはいってもキャラクターのエッジとその魅力を決済としてトリガーするようなバーチャルな社会的条件を構築するのにはさらなる費用がかさむのではないか。そういうのを大企業はともかく一個人が手が届く範囲にあるものなのだろうか。私がカードを技術的標準化の基幹として利用すべきだと提案している理由はそこにある。ここでカードというのはトランプやタロットカードのようにあるシンボルと数字の関係性が一意的(あるいは複数の語源的体系)に決定されるような種類のカードのことではなく、エッジをトリガーとしてクロックする条件を一時的に記憶するようなデバイスの理念的モデルである。つまりキャラクターを検索列に入れるためにキャラクター自身を理念系のモデルにするのではなく検索列を利用可能にするデバイスの方をモデルにすることで潜在的なバーチャル空間を代表象するような保存場所を仮想記憶のレイヤーとしてリンクさせるということである。このキャラクターの人格記憶をデータベース集合の表象的分岐条件として機能させるには社会的条件の分割をカードとして一枚一枚構想して技術的なアーキテクチャの構築を作るというデッキ単位の創造が要求される。ただしこのカードに多くの人が利用可能な汎用的な分割単位というものが存在するというのは明らかである。例えば交通信号が青ならわたってよく、赤なら止まるなど。もちろんそれと逆の条件でトリガーしてもよいが大半の場合は不便であることは確実であると思われる。それゆえキャラクターが他のキャラクターとのリンクをするのは汎用的な分割条件というよりはそのキャラクターの表象的差異が現れるトリガーのクロックを提示するエッジにおいてである。もちろん汎用的な条件を他人よりより有効に生かすことができるということも十分有用な分割条件になりうる。この機能を提示することが配信が行われる目的であると言えよう。ここでは配信者の個人的気分の問題を語っているわけではない。基本的に配信者がこの問題を考えるときの支柱になっているのは既存のコンテンツのバーチャルアイテムの課金購入またはパッケージ封入単位の開封を共有する場合であり、そのシステムに配信者自身が入るかどうかはそのキャラクター的な特典を動画のメンバー記念として優遇する場合になると思われる。ただしこれらの条件には政治的なデジタル技術の戦略規定が入っているわけではなくコンテンツの盛り上がりに対応する社会的収益性の効果に対して意見を述べているだけに留まる。確かに動画配信者が政治的意見についてコメントしていくのはそれ専用の場所でやれとしか言いようがないが、ゲームのシステム的な利用方法において意見を視聴者と共有的に提出できるのは配信だけであるという問題がある。つまり政治参加の主体的表象に関する知見を全面的に更新する必要があるのだ。


 カードをゲームの探索的ナビゲーションとして政治参加のエッジトリガーにするためにはデッキの構築単位が社会的物質的条件を収益性の観点から改善し、その技術的保存記憶のデータベース集積が消費のコミュニケーションのインタラクティブを正のの相関性から増加させてそのスイッチ回路の優先的な組み合わせに対するクロックのサイクルが自分にとってもキャラクターの使用料のパッケージ封入単位の決済を払ってくれる視聴者にとっても有益なものでなければならない。この条件を満たすにはデータベースの消費条件の表象的な組み合わせが視聴者の物質的社会条件を身分社会の利権や形式に逆流しないような分割規定をキャラクターの魅力として設計しなければならない。そのためのリコメンドシステムのフィルタリングはキャラクターグッズの物的対象の販売流通における統計として計量されるがそれは同時にキャラクターのコメントがリアクションとして有効なフィードバックを持つレイヤー的な言説空間にリンクしていなければならず、そのための社会的物質的条件の限界を単に金銭的消費として構想するだけではなく技術的な標準化に対する配信の役割も考慮にいれていなければならない。そうでなければ単に有名どころとコラボをするというデータベースの集合を借りて一時的な検索列の増加を構成するだけになり、そのあとは単なるシナリオ的な追加の連続でしかその人気を維持することができなくなる。確かに既存のコンテンツのシナリオの追加やシステムの拡張などで話題を繋ぐことはできるが集金のための信用創造の体系は配信を見ている視聴者の反応や実況者の意見などから性能評価の判断がなされるのであってそのコンテンツのキャラクターが魅力的な役割を保存しているわけではない。でもこれだとカードはあくまで理念的モデルのデバイスなのだからそれが技術的標準化として実現されるのはフィクションの中だけだと言っていることになる。もちろんオープンワールドでキャラクターを動かして遊ぶことはできるがそれと社会的物質的条件をアーキテクチャのデッキ構築としてエッジの差異にするのはTCGの価格販売モデルやアプリなどのカード単位のキャラクターを課金して利用するということになる。それでは現実のカード的な政治条件は文化的な衣装を纏っているとはいえ国際政治や政治的公正さの倫理と大して変わらないのではないか。カードの社会的物質的な信用創造の条件とは何なのか?それはもちろんである。なぜならカードの記憶保存の情報が人間の生物的文化的継承性の崩壊から振動周波数の音源として分割され、表象できない建築イメージの象徴的な再生産が次世代の生命の空隙の悪循環として歪んでいくという単なる科学的計算の半減性がデジタル回路の悪無限として停止できない暴走をという歴史的連続性の再帰として再領土化の統合を壊変するからである。

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