魔女とハサミと骸骨紳士

文遠ぶん

魔女とハサミと骸骨紳士

 私の母は魔法の杖よりもハサミを選んだ、変わり者の魔女だった。


 人ならざる者たちが平気で暮らすこの街に、小さな床屋バーバーを開いて100年以上。ついに母の手は鈍色に光るハサミを取り落とし、古ぼけたその道具は娘である私へと受け継がれた。


 都会の店で修行を積んでいた私は、小さくても自分の店が持てるという期待に胸をおどらせ、この街に戻ってきた。


 緑とピンクと白のサインポール――この街では床屋を示す色らしい――がふたたび店の前でくるくる回りはじめたのを見、街の住人たちは何人かドアベルを鳴らしてくれた。けれどそこに見知った魔女の顔がないとわかるとすぐに、毛や針に覆われた顔を引っ込めてしまう。


 小学校に入るまでは私もこのお店の上で暮らしていたから、魔女に娘がいたことはみんな知っているはずなのに。それでも閑古鳥は几帳面に鳴き続け、1週間もすれば私は店の静けさにすっかり慣れてしまっていた。


「ああ、今日は雨か……」


 予約も入っていないこの状況では、気まぐれな当日客だけが希望の光だというのに。狼男だろうが吸血鬼だろうが、せっかく整えた髪を雨に濡らしたいと思う者は少ないだろう。今日の夕飯代も貯金から切り崩さねばなるまいと、私が飴色のドアを閉めようとした瞬間。


「おや、ついているな!」


 深くよく響くバリトンに、私は業務用エプロンの紐先まで飛び上がった。そのままの体勢で、入り口を塞ぐように立つ男に見入る。


「見てのとおりの雨で困っていたんだ。入っても構わないね?」

「あっ……は、はい!」


 他人と会話したのが久しぶりすぎて、接客業を営む者としては情けない声が出る。入り口よりもずっと背の高い紳士は、上等な燕尾服をまとった身体を折って入店してきた。


 いや、入店とは言えないか。きっと雨宿りだろう。


「助かったよ、この服は濡らせないものなんでね」

「は、はあ……あぅあっ⁉︎」


 自分のものとは思えない素っ頓狂な声を出してしまい、私は慌てて口を押さえる。ずいぶん細身のひとだとは思っていたが、なるほどこの紳士に勝るスリムボディの持ち主はいないだろう。


「おや、骸骨が珍しいかね?」


 面白がるような声とは反対に、彼の真っ白な顔には表情ひとつ浮かんではいない。紳士は名乗ったとおりの骸骨男だった。よく見れば、ツヤのある燕尾服は骨の各部に持ち上げられて角ばっている。


 客にじろじろと見入っていた自分に気づき、私は急いで謝罪する。


「し、失礼しました……。まだこの街に来て、間もないもので」

「わかるよ、この街は実にユニークだ。私も昨日、はじめて雪女と酒を飲んだのだがね。酔うと彼女たちが溶けるだなんて、はじめて知ったよ」


 カタカタと顎を鳴らして語る骸骨紳士の声は明るい。そう悪く思われなかったことに安堵したが、これから何を話そうという悩みが湧いてきた。雨で冷えただろうから、紅茶でも出すべきだろうか?


「さて。予約がなければ、急ぎで切ってもらいたいのだが」

「え」


 もう失礼はしないと誓って3秒。私は母譲りの緑目を見開き、またしても紳士を見上げてしまった。


「あの……」


 あたま、ツッルツルじゃないですか。どんな剃刀の追随も許さぬほどに。


 素直にもの申す癖もかあさん譲りだ、と亡き父に笑われたのを思い出す。私は大きく息を吸い、皮張りの椅子へと紳士を――“お客様”を導いた。優雅な所作で椅子に腰かけた彼を確認し、ついに念願の文句を口にする。


「ご来店ありがとうございます。本日は、いかがいたしましょう?」

「このあと舞台に上がるのだが、メイク係が遅れていてね。髪を整えてくれるひとを探していたところなんだ」

「それは災難でしたね」

幸運ラッキーだとも。こうして街一番の床屋に、予約なしで入れたのだし」


 素直に礼は述べられなかった。その評判を築いたのは母だ。けれどきっと、娘もなかなかの腕なのだと広めてみせる。腰の道具入れから櫛を取り出して構えると、紳士は思い出したように丸いハットを取った。


「……」


 ううん、やっぱり挫けそうかも。


 何度またたいてみても、そこにあるのは白亜の丘のみ。ちらと客の顔を見るも、骸骨頭はひたすらにノーヒントを突きつけてくる。


「とくに指定はないんだ。君の感性で頼む」

「わ……わかりました。最近、髪でお悩みのことはないですか?」

「ふむ、そうだなあ」


 声帯が存在しない喉を鳴らし、紳士はわずかに首を傾げる。


「後頭部の髪が跳ねやすくてね。毎朝セットに時間をとられてしまう」

「なるほど」

「毎日の整髪剤の影響かな。なんだか毛先も痛んでしまって」

「なるほどおお?」


 うずくツッコみ心を必死に御し、私はカッと目を開いて櫛を動かした。引っかからないように下方部から、そこに見えざる髪を視て梳いていく。


「とても綺麗な御髪ですよ」  

「ははは、そうかい? 嬉しいな」


 抑揚の効いた声はやはり、この紳士が舞台役者であることを想像させる。眩い照明を浴びて輝くのは、きっと月のような銀灰色の髪。跳ねやすいというから、常の髪型は襟首まで伸ばしたオールバック。


「今日はどんな舞台なんですか?」

「男と女の、滑稽なコメディさ。僕はどうしようもなく忘れっぽい男役なんだ」


 気楽な雰囲気のある彼にぴったりの役だと思った。けれどそれでは、さきほどの髪型ではイメージが合わない。忘れっぽい男がしていそうな頭は、きっと。


「少し切ってもいいですか?」

「どうぞ。役のためなら、なんだって構わないさ」


 骸骨の眼窩には何もなかったけれど、その言葉に偽りはなさそうだった。私は母の秘伝のハサミに指を通し、涼やかな音を立てて刃を開く。冷たくて少し重いが、やはり初仕事の相棒はこの子でなければ。


 しゃき、しゃき。


 ほどいた髪の束を指で挟んで、少しずつ丁寧に切っていく。宙を切るしかないハサミには大変申し訳なかったが、私は真剣に想像上の髪と向き合った。


 タン、タタン。


 ハサミの音の合間に、紳士が靴のかかとを鳴らす音が混じる。タップダンスもやるのだろうか、そのリズムには迷いがない。上半身も微動だにしなかったので、私はそのまま作業を続行した。


 しゃきしゃき、タン、しゃき、タタン。


 軽快なリズムに合わせて、いや、巻き込まれるようにして私の手は動いていく。BGMのひとつも流していない店内に、その音は小気味よく響いた。いつの間にかそこに、店の隅にある雨漏り用のバケツへ落ちる水滴が参加する。


 しゃきしゃきタン、ぽた、しゃきん。タタンしゃきしゃき、ぽたぽたり。


 私は想像した。鮮やかな緞帳どんちょうが上がって登場した紳士、そして沸き立つ観客たちを。あちこち髪を爆発させた男に拍手を送り、彼の謳う滑稽な愛に腹を抱えて笑うのだ。


「……できました!」

「ああ、ありがとう! 素敵な頭だ」


 骨だけの手で手鏡を持ち、紳士は破顔――したように見えた。髪の毛ひとつ絡んでいないハサミを腰にしまい、私は紳士をすっぽりと包む散髪カバーを取る。


「自分の身なりに気が回らない男の、でもすこし憎めない跳ねっ毛の頭にしてみました。乱れているように見えますが、舞台が終われば手櫛で元に戻ります」

「ほほう! やはり母君に似て、良い腕をしている」

「!」


 私が驚いて見ると、骸骨紳士はうなずいて続けた。


「君のハサミが奏でる音色は、母君そっくりだ。彼女の赤毛と可愛らしいそばかすまで思い出してしまって、胸が痛いよ」


 芝居がかった仕草で胸を押さえる紳士に、私の口元はすこし緩んだ。仕事を終えて緊張の糸が切れてしまったのだろう。


「ああ、まだ少し時間がある。もうひとつ仕事を頼んでいいかい?」

「え?」

「できれば、ひげも整えてほしいんだ。こう、鼻下にチョコンと寄せる感じで」

「ひげって、ち、ちょっと待っ……ぷ」


 穴だけしかない鼻の下を指差す客に、ついに私のお笑い心が張り裂ける。


「ぷっ、あははは! す、すみませ……あははっ、あは! もうだめ」


 決壊したからには止まらない。私はお腹を抱えて笑い転げた。鏡の中、宙でハサミを振るう自分だけでも何度も吹き出しそうになったのに。


「はー……」


 でも、やってしまった。

 すぐに荷物をまとめて、街から去ろう――私が涙目でそう決意した瞬間、柔らかなバリトンが耳を打つ。


「やっと笑ったね」

「は、はい?」

「大きくて伸びやかな笑い声も、彼女そっくりだ」


 小さな店の天井に気をつけながら、紳士はすっと立ち上がる。呆然とする私を見下ろした彼は、白い頬骨をたしかに上げて笑んだ。


「暗い顔のひとを見ると、どうしても笑わせたくなるのさ。喜劇俳優コメディアンの性かな」

「!」


 そういえば、こんなに笑ったのははじめてだった。店を繁盛させなければというプレッシャーと、見慣れぬ奇特な住人たちへの緊張が絶えなかったから。


「この街の人々はみんな、笑うことが好きなんだ。君が笑顔でハサミを握っていればきっと、毎日ドアベルの音が絶えない店になるとも」

「あ、あなたは一体」


 ひとつもつかえることなくそう言い切り、私のはじめての客は壁にかけていた丸いハットを手に取った。


「一介のコメディアン――または、君の新たな常連ファンさ」

「あ……」

「大丈夫、自信を持って。亡き母君もきっと、誇らしく思うだろう」


 遠い昔に思いを馳せるような声で、骸骨はそう締めくくる。しかし降りかけた緞帳を押し上げたのは、他ならぬ私だった。


「あの。母、死んでませんけど」

「ええっ!? 話の流れからそういうやつかと思ってたよ!」

「腱鞘炎がひどくなったので引退して、今はテコンドーの師範をしています」

「お元気そうで何よりだけども!?」


 カターンと大きな音がして、骸骨の下顎が文字通り外れる。私はふたたび込み上がってきたその衝動を、今度は抑えつけることなく放出した。


「あははっ!」


 笑おう。


 この街の日常はきっと、どんな喜劇コメディにも負けないから。


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魔女とハサミと骸骨紳士 文遠ぶん @fumitobun

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