断章ー壱

透峰 零

いつか桜の樹の下で

 風に吹かれて、親友の身体から力なく垂れた足が揺れる。

 親友――莉子りこの身体を前にして、神坂かんざか真由美まゆみは頭の片隅で「ああ、やっぱり」と考えていた。

 白い首から伸びた縄が、大樹の枝をキィと軋ませる。


 ***


 真由美は、いわゆる第六感というものが優れていた。


 どうも生まれつきのようで、両親の話によれば言葉を話しはじめる時分にはすでに片鱗があったらしい。

 例えば一歳ごろのことである。その日、遊んでいた真由美は突然「ばちゃん!」と叫んだ。ばちゃん、というのは「お祖母ちゃん」という意味で、当時すでに他界していた母方の祖母ではなく、よく遊びにきてくれていた父方の祖母だろうと、真由美の母親は考えていた。

 わからないのはなぜ真由美が突然そんなことを言い出したかだ。

 義両親は三日前に遊びにきてくれたばかりだし、そう連続してくるはずもない。首を捻っていると、しばらくして宅配便が届いた。その送り主が、義母からだったのだ。


 真由美自身は覚えていないが、そんなことが頻繁にあったらしい。

 だが、真由美にすれば不思議なのは周囲の方だ。


 ――なぜ皆はわからないのか


 目で見る、耳で聞く。それらと同じで、真由美にすれば『だってわかるじゃない』としか言えないのだ。

 この感覚を言葉にするのは難しい。

『嗅覚』というものを『鼻』という器官や『匂う』といった動詞を使わずに表すのが不可能なのと同じで、真由美には説明することが出来ない。

 既存の感覚を使って言い換えようと試みたこともあるが、無理だった。

 先の例で言えば『もうすぐ祖母から荷物が届く』ということが『浮かぶ』のだ。それは文字でも映像でも音でもないのだが――とにかく、わかる。

 予知というと少し違うのかもしれない。

 なぜならこの感覚は、変えることが可能なのだ。しかし、それとて真由美には不思議ではない。


 緑色を『見たい』なら、緑の絵具で画用紙を塗るように。

 優しい音楽を『聴きたい』ならバラードを選ぶように。

 冷たいものを『触りたくない』のなら手袋をつけるように。


 嫌だと思った感覚は、こちらの意志である程度ならば変えることが可能なのだ。


 ――けれど、これは変えられなかった。


 真由美は再び目の前で揺れる友人を見やる。

 莉子と真由美は幼馴染だった。子供の少ない団地だったから、同じ年の女の子というだけで二人が遊ぶ理由は十分だったのだ。

 もっとも、理由はそれだけではない。

 莉子は、真由美の第六感が理解できる唯一の存在だったのだ。

「みんな、わからないからウソだらけの世界で生きていけるのね」

 彼女は頭のいい子供だった。

 幼稚園の頃には既に漢字混じりの本を読んでいたし、教師や親とも如才なく話していたのを覚えている。頭が良くて、美人で、その上スポーツ万能。

 そんな彼女は当然のように、どこにいても人気者だった。運動こそ人並には出来るが、頭もそんなに良くないし、見た目も地味な真由美とは正反対。

「でも、あたしの友達は真由美ちゃんだけなの」

 小学校でも、中学校でも――そして、高校生となった今でも莉子はいつもそう言っていた。

 その言葉に真由美が安心していたのも事実だ。

 彼女と『第六感』を共有できるのは自分だけなのだ、という優越感に浸ることもしばしばあった。


 けれど。

 この樹に対してだけは、最初から二人の感じ方は違っていたのだ。



 ***


 初めて訪れたのは、小学六年生の時である。

 郊外にあるその木は、ぽつりと道の端に一本だけ立っていた。素人目にも立派な木だったが、近づくと妙に胸騒ぎがしたのを覚えている。

 ちょうど桜の季節で、その樹も今を盛りと真っ赤な夕日の中で白い花を揺らしていた。


 美しい景色だったが、真由美にはひどく禍々しく感じられたのだ。

 顔を歪める真由美とは対照的に、莉子は「素敵!」と手を打ちあわせた。

「穴場だって聞いてはいたけど、本当だったのね! とっても綺麗!」

 カナちゃんにも見せてあげたいなぁ、と莉子はうっとりと桜を見つめた。

 カナちゃん、というのは一昨年生まれたばかりの莉子の妹だ。

 真由美は曖昧な苦笑を浮かべ、答えることを避ける。

 彼女の脳には障害があるらしい、ということを両親が話しているのを聞いていたからだった。

 もう二歳を迎えるのに、未だに一言も言葉を発していないらしい。

 真由美の憂いを助長するように、桜の樹が大きくざぁっと揺らめく。

「……ねぇ、莉子。もう帰ろうよ」

 莉子は答えない。

 夕焼けの色を吸い上げ、白い花が赤く滲んでいる。黒々とした大きな幹と、赤い空に幾重にも広がる立派な枝。そこに浮かび上がり、雪のように視界をよぎる真っ白な花びら。

 その幹に頬を摺り寄せ、莉子は恍惚とした表情で見上げていた。


「……ほら、暗くなってきたし。そろそろ帰らないと、バス無くなっちゃうよ?」


 再び、声をかける。

 だが、別世界のように狂い咲いた色彩の中では、真由美のか細い声はあまりにも非力だった。

「――どうして帰る必要があるの?」

 ざわざわ、ざわざわと。

 まるで囁き声のように樹が揺れる。風もないのに。

 舞い落ちる白に半ば顔を隠された少女が微笑む。

「あたしは、この樹と一緒でも構わない。ずぅっと、ずぅっと――そうだ。真由美ちゃんも一緒にいよう」

「何、言って……」

「どうしたら良いのかなあ。どうしたら喜んでもらえるかなあ。ああ、そうか。そうなのね」

 恐ろしいほどの静寂の中ではっきりと響いた声は、今でも真由美の脳裏に鮮やかに甦る。


 ――あなたは仲間がほしいんだね


 ぞっとした。

 を愛撫するように、手を宙に滑らせる親友の姿に。

 ここではないどこかに焦点をあわせているその瞳に。

 恐怖した。 

 莉子が振り返る。呼応するように白い吹雪が渦を巻き――


「そこで何をしている?」

 静かで厳しい声に、膜が溶け落ちるようにべろりと現実世界が戻ってくる。

 激しく脈打つ心臓に手を当てて声がした方を振り返ると、一人の女性が立っていた。

 長い茶の髪に白いマフラー。息を呑むような美しさをたたえた相貌は、まだ若い。

「あなた、何?」

 首を傾げる莉子は、きょとんと眼を瞬かせた。女性が苦笑する。そうすると、途端に人懐っこい顔になった。

「何、ときたか。……そうだな、警察みたいなものだよ」

 前髪をかき上げた左手が、きらりと光る。


 ――あ、お嫁さんなんだ。


 良いなぁ、と真由美は女性を見つめた。女の子にとって「花嫁さん」は、憧れの存在なのだ。

「さ、もう遅い。早くここから帰りなさい。それから」

 もう、この樹に近づいてはいけないよ。

 女性が険しい目つきで桜の大樹を振り仰ぐ。そこは、先ほど莉子が撫でていた空間だ。


 ああ、この人もを持っているんだ。


 常人にはわからない感覚。

 天よりの才能ギフト。あるいは呪縛カース


「あの、ありがとうございました」

「……気を付けて帰りなさい」


 手を振る女性に手を振り返し、二人は元来た道を駆け戻った。

 あの樹から離れられることに、真由美は心の底から安堵していた。


 ――だが、莉子はそうでなかったらしい。


 中学に上がった後も、莉子は度々「あの樹へ行こう」と誘ってきたのだ。

 もしかしたら、真由美が知らないだけで一人で行っていたのかもしれない。


 時は流れ、高校に進学して二回目の春。

 突然、莉子は行方不明になった。二日前のことだ。

 莉子の両親は警察に捜索願を出したそうだが、見つかる気配はなかった。

 けれど真由美にはわかった。


 ――きっとあの樹に莉子はいる


 予感ではなく、感覚としてそれを理解していた。

 もう手遅れだろうということも、また同時に。


 そうして今、真由美は揺れている親友の身体を見上げている。

 全部、わかっていたことだ。


 ***


 捜査の結果、莉子は自殺だと断定された。

 遺書らしきものが見つかったらしい。

『桜の声が聞こえる』『仲間を呼んであげたい』『この世界は息苦しい』。支離滅裂に書かれた文章を遺書と呼んで良いのかは、今でもわからない。

『――たった一人の親友へ。また、会いに行くね』

 その言葉が、何を意味するのかも。


 事件の後、不可解なことが二つほどできた。

 一つは、真由美の第六感が薄れたこと。

 今までは明確だった感覚が、ぼんやりとしか感じられなくなったのだ。


 もう一つはカナちゃんだった。

 莉子が死んでしばらくしてから、今まで意味のある言葉を離さなかった彼女が、急に明瞭闊達になったのである。最初こそ戸惑っていたものの、おじさんもおばさんもすぐに末娘の変化を受け入れた。

 莉子を失い、悲しみに暮れていた彼らの心の穴は、真由美の想像以上の深さと苦しみを伴っていたのだろう。でも。


 ――まるで莉子が帰ってきたみたい


 その言葉に笑顔で同意してあげることが、真由美にはどうしてもできなかった。

 もっとも、それもどうでも良いことだ。

 就職を機に、真由美は実家を離れることになるのだから。


「ねえ、真由美お姉さん」


 実家で暮らす最後の日。背後からかけられた声に、真由美は振り向いた。

 花をつけ始めた桜並木の下で、一人の少女が立っている。後ろ手に何かを隠し持っているのは明白だ。

「ど、どうしたのカナちゃん?」

「じゃーん」

 効果音つきで広げられたのは、一枚の賞状だった。


 優秀賞 光葉 叶子様


 あなたは第三十一回 聖堂学園絵画大会において頭書のとおり優秀な成績を収められました。

 よってここに記念品を贈りこれを賞します


 聖堂学園初等部校長 首藤 巡

 』


「学校で表彰されたの。すごいでしょ?」

「そ、そう……。すごいね」

「うん、それでね。私、お別れの印にこの絵をお姉さんにあげようと思って」

 無邪気な提案に、真由美はホッとする。

 ――なんだ、そんなことか。

「はい、どうぞ」

「ありがとう」

 水彩絵の具の微かな匂いと、水を吸ってごわついた画用紙。丸められた紙を広げ、真由美は息をのんだ。


 それは、に佇んでいる絵だった。

 莉子が生前連れて行ったのだろうか。いや、まさか。

 でも間違いない、この樹は――。


「離れても、忘れないでね」


 黄昏色の光の中、少女が笑う。



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