招く家

九十九

招く家

夢路ゆめじ、ねえ、一緒に家に来てくれない?」

 夕焼け色に染まる教室で、夢路は同級生に声を掛けられた。

「えっと」

 彼は、と考えて、数回遊んだ事のある同級生だと直ぐに思い出す。

「俺さ、気になる家を見つけたんだよね。ねえ夢路、一緒に家に来てくんない?」

 夕焼けが強く差し込んでいる教室で、相手の表情は濃い影が覆いかぶさっていてよくは読めなかった。ただ笑っている、とだけ夢路には読み取れた。

「家って?」

 笑う同級生に、夢路も曖昧に笑って返す。

「家は家だよ。誰も住んでいない家。どこにでもある寂れた家。俺さ、凄い気になるんだ」

 夢路の元に同級生は歩み寄る。濃い影の中から現れた相手の顔はやはり笑顔だった。

「ねえ、夢路。一緒に来てよ」

 夢路は少しの間相手の顔を見詰めてから、直ぐに首を横に振った。どうして、と相手が途端に悲しそうな顔をするので、夢路の眉は下がった。

「行かない方が良い気がするんだ」

 だから行けないのだと夢路が言うと、同級生はじっと夢路を見詰めた。夢路は視線を真っ直ぐに受けて見つめ返す。

「ねえ、夢路。一緒に来てよ」

「でも、行かない方が良い気がするんだ」

 繰り返す同級生に夢路も繰り返した。

「なんで来ない方が良い気がするの?」

「えっと、ごめん、直感かな。何となくそんな気がするんだ」

 だから、行くのは躊躇われる、と夢路は相手を見た。

 直感、勘、第六感と言い換えても良い。直感がそう働いたから行けないのだ、と夢路は同級生に言った。何となく、の、そんな気がするだけ、の理由だ。けれども、何となくそんな気がするだけ、の理由でも、夢路にとっては理由足りえる理由だった。

「それは理由にはならないよ」

 夢路にとっては何となくも理由になる。けれども相手は違う。相手からしたら何となくで断られていい気はしないだろうな、と夢路は眉をさらに下げた。

「ねえ、一緒に来てよ」

 数歩、近づいた同級生が夢路の手を取った。

 行かない方が良い、と第六感は言っていた。けれどもどうしてだか抵抗が出来ずに、夢路は半ば引き摺られるようにして廊下に出た。

「じゃあ、黄昏たそがれは? 一緒じゃ駄目?」

 何時も隣に居る友人の名前を出したのも殆ど直感の様なものだった。

 普段であれば夢路の隣を離れない友人は、離席したまま帰って来ない。先生にでも捕まっているのだろうか、それにしては遅すぎる。黄昏は夢路と離れることを嫌っている、時間があれば夢路と一緒にいるような友人だった。その黄昏が居ない時に同級生は訪れた。ただの偶然かも知れないそれに、何となく夢路は不安を覚える。これもまた直感だった。

 同級生は一度止まって夢路を振り返る。その顔はまた濃い影に覆われてしまって、表情が読み取れなかった。今度は笑っているのかさえ分からない。

「駄目だよ。あれはいつも夢路と居てずるいじゃん。俺と夢路の家だもん。二人でが良いな」

 小首を傾げながら同級生は言った。

 夢路は、同級生の言葉に首を傾げた。彼と夢路の家とはどう言う事だろうか、と首を傾げたまま同級生を見詰める。同級生から答えが返って来ることはなく、再び夢路の手を引いて彼は歩き出してしまった。夢路はやはり引き摺られるようにしながら相手の後ろを歩いた。夢路の思考はまるで眠気が襲って来た時みたいに霞がかかり始めていた。


 何処をどう歩いて来ただろう。夕焼けが煌々と辺りを照らすその中で、夢路は同級生と家の前に立っていた。

 ブロック塀で囲まれたその家は、錆びた赤色の屋根のどこか寂れた家だった。けれど、家の中は眩しいくらいの灯りが付いている。

「家ってここ?」

 まるで水の中に居るみたいに自分の声が何処か遠くに聞こえるのを、夢路はぼんやりとした思考の中で感じていた。

「そうだよ、ここ」

 自分の声は何処か遠いのに、嬉しそうな同級生の声は耳元で聞こえた。

 夢路は目を細めて家を見た。家の中の眩しさが思考を溶かすような感じがして、夢路は目を閉じた。

「目、開けてよ」

「ごめん」

 目を閉じたままゆるゆると首を横に振る。何となく、同級生の声に応じてはいけない気がした。

 第六感が警鐘を鳴らす。これ以上ここに居てはいけないと警鐘を鳴らす。

 夢路は足に力を込めて、自分が立っている場所を確認しようとした。先程から自分の立っている場所が曖昧なのだ。

 次いで、手に力を入れて、同級生から手を離そうとした。教室からずっと繋がったままだった手は、道中もどうしてだか剥がせなかった。力を込めて見ても、やはり離れる気配は無い。

「俺の手から離れたいの?」

 夢路は目を開けて同級生を見た。濃い影に覆われた顔から目だけが覗いている。どこか寂し気な目は夢路の判断を鈍らせる。

「ううん、分かんないけど、ごめん。そうしなきゃって思って」

「そっか。うん、でも駄目」

 同級生は頷きはしたが、手はけして離さなかった。夢路はぼんやりと同級生を見る。やはり彼の瞳は寂し気に揺れていた。

「ね、行こう」

 同級生は夢路の手を引いてブロック塀の周りを歩き出した。夢路は足を止めようとするが、やはり引き摺られてしまう。

 一歩歩いて、一度止まって、一歩歩く。そうして家の西側に回った時、ブロック塀のちょうど真ん中に×印があるのを夢路は見つけた。

 一歩歩いて、一度止まって、一歩歩く。やがて×印の所まで辿り着くと、同級生はその×印を手で消した。チョークか何かで書かれていたのか、何度か強く擦ると、×印は形を歪めてそうして消えた。

 これは良くない事だ、と夢路の第六感は警鐘を鳴らした。

「駄目だよ」

「駄目じゃないよ、夢路」

 歌うように同級生は言った。

「でも」

「駄目じゃないんだよ夢路。駄目じゃない」

 夢路の手を引いて、歌うような朗らかさで同級生は言う。

「帰ろうよ」

 夢路がそう言えば、同級生は泣きそうな目で夢路を見た。

「ねえ、一緒に帰ろうよ」

数秒か数分か、そうして見つめ合って、それから再び同級生は歩き出した。夢路はそれ以上言葉を発することが出来なくて、同級生の後姿をじっと見つめた。

「ねえ夢路」

「何?」

「俺、ずっと羨ましいなって思ってたんだ」

 前を歩く同級生に夢路は首を傾げた。羨ましいとはどう言う事だろう、と次の言葉を待つ。

「夢路とさ仲良くなってみたかったんだ、俺。だから、あれが羨ましかった」

「あれって黄昏?」

「そう、あれはずるい。いつも夢路と一緒に居る。俺だって仲良くなりたいのに」

「じゃあ、仲良くなろうよ」

 一瞬の静寂。

「これから仲良くなるんじゃ駄目なの?」

 尋ねた夢路に、瞬間同級生が振り返って夢路を見た。目はやはり泣きそうな色を灯して左右に忙しなく揺れる。こつ、と同級生の足先が石を蹴った。夢路の方に歩み寄ろうとして居た身体は、それで止まる。

「その言葉も、何となくの直感で出た言葉? そう言ったら事態が良くなるって思って言った言葉?」

 言われて夢路は首を傾げた。直感かと尋ねられたらそうかも知れない。なにせ考えて口から出た言葉では無いからだ。

「分かんないけど、そう思ったから。口をついて出たから、言った。直感かも知れないけど分かんない」

 だから、夢路はありのまま同級生に伝えた。

 同級生は、そう、とだけ呟いて、再び歩き出す。夢路もそれに従い歩き出す。

 家の北側に辿り付いて、またブロック塀の真ん中に書いてあった×印を同級生は消した。この場から離れなければならないと第六感が再び警鐘を鳴らす。けれども夢路は前を歩く同級生を見て、何となく離れがたくなってしまって、その手をぎゅうと握った。

 同級生は足を止めた。

「どうして手を握り返してくれたの?」

「何となく、離れたくないなって思って」

「どうして?」

「だって、泣いてるから」

 前を歩く同級生の肩は震えて居た。これから仲良くなるのでは駄目か、と尋ねた時から彼の肩は震えて居た。だから夢路は更にぎゅうと手を強く握った。

「仲良く、なりたかったなあ」

 独り言を呟くみたいに同級生の口からは言葉が零れた。振り向いた同級生は僅かに目元を和らげさせて、そうして来た道を戻った。


「夢路」

 声が聞こえて、夢路は目を覚ました。同級生の声がした筈なのに、目の前に居たのは黄昏だった。

 黄昏は怖い顔をして、夢路の両肩を正面から強く握っていた。夢路が机にうつ伏せに寝ていたのを起こしたらしい、と身体に当たる机の椅子の感触で分かった。黄昏の顔は何処か焦りを滲ませていたが、夢路が視線を合わせると息をか細く吐き出し、夢路の肩に顔を埋めた。何時も隣にあるその温度に、夢路は何処かほっとした。

 夢路は肩に顔を埋めている黄昏の頭を何度か撫でると、辺りを見渡した。教室の中は相も変わらず煌々と輝く夕日に照らされていた。


 そう言えば、と夢路は思い出す。同級生とは何度か遊んだ筈なのに名前を知らない、と。結局今日も、彼の名前は知れないままだった。小さく柔らかい棘が胸を刺す。

 名前を知らなければ探せもしない、と夢路は小さく眉根を寄せた。


 後になって探しても、夢路は結局同級生の姿を何処にも見つけられなかった。あれ以来、彼の姿は何処にも無い。

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