第30話 最終話 師匠のために心をこめて

 両の手のひらを天にむけて肩をすくめると、雷火さまが語りはじめる。

郷土愛主義カンパニリズモという言葉がある。かつてイタリアにはどんな街にでも、たとえ小さな村であっても必ず教会があり、その教会には必ずカンパニエーレ……つまり鐘楼しょうろうがあった。人々は教会の鐘の音を頼りに生活していたのだ。朝の鐘が響けば仕事に向かい、夕方の鐘が響けば家へと帰る。そうやって教会の鐘の音は、長い間人々の生活の中に根づいてきたのだ。そしてこの鐘の音が聞こえる範囲こそが自らが暮らす地域であり、その地域に対する愛着こそがカンパニリズモなのだ」

「そんなことは知っている。それがどうしたというんだ」

 憮然ぶぜんとした態度のまま、萱代さんが言いすてる。

 彼の言葉を無視するかのように、雷火さまは続ける。

「クチーナ・ポーヴェラ、つまり庶民の料理を考えるとき、カンパニリズモを避けては理解がおよばない。地域ごとに採れる食材があり、その食材を使って地域ごとの料理が生まれた。この場合の地域とは単に場所の区切りのことではなく、生活の共同体のことを指している。そして最小の共同体は家族だ。イタリアの母親は家族のために、たとえ貧しい食材しか手に入らなくとも、美味く食べられるよう思いやりと工夫をこらしてきた。そしてその味は地域に広がり、さらには親から子へと伝わっていく。そうやって受け継がれてきた料理が家庭の味として、そして地域の味として、ひいては郷土の味として受け継がれてきたのだ。その地に住む誰もがそのことを知っていて、誰もがそのことを誇りに思っている。そして郷土の味になみなみならぬ愛着をもち、郷土の味こそが一番だと信じている。つまりクチーナ・ポーヴェラとは、家族への、ひいては郷土への思いやりの集大成でもあるのだ」

 顔をそむけながらも、萱代さんが真剣な面持ちで耳をかたむけている。

 雷火さまは、なおも続ける……。

「今回の勝負にクチーナ・ポーヴェラを持ち出したのは、貴様がどれだけ料理の本質を理解しているのか測りたかったからだ。料理とはやはり、食べる者のためにある。食べる者のことをどれだけ思いやることができるか、それこそが料理の本質なのだ。脈々と受け継がれてきた思いやりの集大成こそがクチーナ・ポーヴェラだとするならば、これほど本質の理解を測るにうってつけの料理はない。本質を外した料理はいくら美味かろうが、たんなる腕自慢、食材自慢にしてしまうのだ……」

 水をうったように、ホールが静まりかえっている。

 雷火さまが歩みでて、萱代さんの前にたつ。

「解るか、桜馬。貴様の料理に足りないものが……」


     ◇


 勝負を終えた後、季里さんに車で送ってもらった。季里さんはワタシたち二人をマンションの前で降ろすと、萱代さんの部屋に寄らずに帰ってしまった。元気のない萱代さんと、一緒にいることがいたたまれないのだろう。

 帰りの車の中でずっと、萱代さんは黙りこんだままだった。話しかけても生返事ばかりで、窓の外ばかりながめていた。あれだけ意気ごんで挑んだ勝負に負けたのだ。落ち込んでしまうのも無理はない。

 萱代さん独りで落ちこんだ方が良いかと思い、自分の部屋へ帰ろうかとも思った。けれどもこんなときに側にいてあげるのも弟子の務めかと思い直して、萱代さんの部屋へと上がりこんだ。

 帰ってきてからずっと、萱代さんはソファーに身を投げてぼんやりと宙をながめている。

「負けちゃいましたね、師匠」

「そうだな……」

「でも、師匠のパスタも美味しかったですよ」

「やめろよ。なぐさめなんて……」

 相変わらずの生返事だ。

「雷火さまのお店に戻らないんですか?」

「言ってただろ。無能はいらないって」

「あんなの、絶対に本心じゃないですよ……」

 そう、勝負に負けたら店に戻るという約束だったのだ。しかし雷火さまは「料理の本質も理解しない無能など、うちの店には必要ない!」と言いはなち、萱代さんを追いかえしてしまった。

 雷火さまも戻ってきてほしいのなら、勝負なんてふっかけずに「戻ってきてくれ」と言えばいいのに……親子そろって、本当に素直じゃない。

 そう言えば、二人の仲たがいの原因をまだ教えてもらっていなかった。でもそんなもの、聞かない方がいいのかもしれない。もしも人の生死に関わるような原因だったら、そんな話を聞かされても受け止めきれるものではない。

 まぁ、でも、きっと、つまらない原因なんじゃないかとは思っている。たとえば、萱代さんが大切にしまっておいたプリンを、雷火さまがだまって食べてしまったとか……そういうレベルのつまらなさだ。

 いずれにせよ、親子の問題なのだ。他人が無神経に踏みこむべきではないだろう。師匠の気がむけば、そのうち教えてくれるかもしれない。

「ねぇ、師匠!」

「あん? てか、師匠って呼ぶな……」

「お腹すきません?」

「すかないな。飯なんて食う気分じゃないよ」

 萱代さんの返事を無視して、キッチンにはいる。

 そしてお鍋に水をはって火にかけた。

「すいてなくても良いですから、試食してくださいよ。パスタ作りますから!」

「なんだ、そりゃ……」

 お腹が空くと、ろくなことがない。落ち込んでいるときほど、ちゃんと食べて元気を取り戻すべきなのだ……これはワタシの持論だ。

「ちゃんと美味しいの作りますから……ね!」

 言いながら、エプロンを腰にまく。

 湯が沸くまでの間に、材料の準備だ。グアンチャーレの塊を、一センチくらいの厚切りに……からの一センチ幅の拍子切り。

 濃厚に仕上げたいから、卵黄はいつもより多めに。ボウルに卵黄を入れ、すり下ろしたペコリーノ・ロマーノ、挽きたての黒コショウともに混ぜあわせていく。

「なに作ってんの」

 ソファーに身を投げたままの師匠が声をあげる。

「音でわかるでしょうに……」

 卵を割る音を聞いただけで、なにを作っているかわかるはずだ。卵を使うパスタなんて、そう多くはない。

「わかっちゃいるんだけどさ。無謀な挑戦してるな……て思ってさ」

「おほほほほ。大船に乗った気分でお任せあれぇ~」

「……泥舟じゃなきゃいいけどね」

 また憎たらしいことを……。でも、嫌みを言う元気が戻ってきたのなら喜ばしい。

 沸騰した湯に塩を入れ、リガトーニを茹ではじめる。太い筒状のリガトーニは、モッチリとしていて食べごたえ充分……濃厚なソースによく合うはずだ。

 隣でフライパンを弱火にかけて薄くラードをひき、グアンチャーレから脂を引きだしていく。ほどなくして、脂の焼ける芳ばしい匂いがキッチンに漂いはじめる。

「いい匂いがしてきたな」

 鼻をひくつかせながら、萱代さんがソファーの上で身をおこす。

「お腹すいてきたでしょ?」

「んー、そうでもないかな」

 ほんと素直じゃない。でも、今日のところは許して差しあげましょう。

「顔でも洗ってきたらどうです? サッパリしますよ」

「そうだな……」

 スリッパの音を響かせながら、萱代さんは洗面所へと姿をけした。

 充分にグアンチャーレから脂がでたら、茹で汁を加えてよく混ぜる。あとは、パスタの茹で上がりを待つばかりだ。

「代わろうか?」

 気がつけば、萱代さんがキッチンを覗きこんでいた。

「お手だし無用!」

「大丈夫なの? 本当に」

「心配ご無用!」

 などと威勢よく断ってみたものの、正直に言うと自信はない。ここからが難しいところなのだ。

 茹で上がったリガトーニを、フライパンに移してグアンチャーレのソースをからめる。ほどよく熱がちったところで……さぁ、ここからが勝負だ。ボウルから卵黄のソースを混ぜあわせ、フライパンをあおっていく。

 まだソースがゆるい。コンロに火をつけて、フライパンの底を遠火であぶる。

 決して火が通りすぎないように……。

 決して卵が固まりすぎないように……。

 混ぜる手を止めないで……。

 絶妙なとろみがつくように……。

 ここだ!

 ギリギリのところを見きって火をとめる。これ以上ソースに熱がはいらないように、急いで温めておいた皿へと盛りつける。ペコリーノ・ロマーノを削りかけ、黒コショウをひけば完成だ!

「おまたせしました。リガトーニ・アッラ・カルボナーラでございます」

 少し気取って、ダイニングテーブルの萱代さんにサーブする。

 大きな筒状のリガトーニが、トロリとしたソースをまとって美味しそうな湯気をたてている。我ながら、上手にできたんじゃないかと思う。師匠はなんて言うだろうか。感想が待ちどおしくて仕方がない。

 けれども師匠は、カルボナーラの皿を前にして、なんだか呆気にとられている様子だ。

「もう! 熱いうちに食べてくださいよ!」

「お、おぉ。これって、君が作ったんだよね?」

「作るとこ見てたでしょうに。早く食べてくださいってば!」

 急きたてられて、萱代さんがリガトーニを口へとはこぶ。ゆっくりとした咀嚼。突然のように眉根をよせる。しかめっ面のまま、テーブルにフォークを置いた。そのまま口もとに手をそえて、何やら考えこんでしまった。

「も、もしかして、美味しくないですか?」

 精一杯やったつもりだ。これでダメならば、カルボナーラなどという呪われたレシピは永遠に封印するしかない。

「おどろいたな……」

「え、やっぱりダメです……か?」

 なんだか、泣きそうになってしまう。

「いや、美味しい」

「本当ですか! え、ちょ!? 本当に??」

「あぁ。火の通し方も完璧だ……」

 力強くうなずくと萱代さんはフォークを手にとって、ふたたびパスタを食べはじめる。

「よっしゃぁ!」

 思わず叫んでガッツポーズをキメる。

 嬉しい……。

 ただただ嬉しい……。

 師匠が「美味しい」と言ってくれるだなんて!

 まともに「美味しい」と評価してくれたのは、もしかすると初めてじゃないだろうか。大抵は「まずい」とつぶやいてからのダメ出しだ。たまに上手にできたと思っても、「悪くない」とつぶやいてからのダメ出しなのだ。この「美味しい」という一言のために、どれだけの練習をつみ重ねてきたことか……。

「でも俺の味とは、ちょっと違うよね」

「あら、お気づきになりました?」

「気づかいでか」

 萱代さんが苦笑する。

「お疲れのご様子なので舌も鈍ってるかと思って、黄身だけで濃厚に……」

「ペコリーノも多いな」

「それも濃厚さのために。それに師匠、今日はいっぱい汗かいてたから、塩っぱいくらいがちょど美味しいでしょ?」

 ペコリーノ・ロマーノは、意外と塩分が多いチーズなのだ。そしてグアンチャーレだってけっこう塩っぱい。カルボナーラは、塩加減が難しいパスタなのだ。

「リガトーニを使ったのはどうして?」

「ソースが濃い目だから、食べごたえのあるパスタの方が良いかと思って。あと、ローマではリガトーニを合わせるって、師匠が教えてくれたじゃないですか。本家へのリスペクトってのもありますね。それと、やっぱり……」

「やっぱり……なに?」

「師匠がお腹すいてるかと思って。ほら、今日はいろいろと大変だったから……」

 驚いたように、萱代さんが目を丸くしている。

 やがて苦笑すると、肩をすくめる。

「雷火さまのご高説をさっそく実践とは、恐れいったね……」

「えらいでしょ? 師匠のために、心をこめて作ったんですよ!」

 萱代さんと雷火さまの勝負、そして敗因となった料理の本質……ワタシなりに思うところがあったのだ。

 思い返せば、最初から……一年前からそうだった。この部屋で最初に作ったカルボナーラは、ワタシだって料理ができると証明したくて作ったものた。

 師匠にパスタを教えてもらうようになってからも、きっとその姿勢は変わっていなかったのだと思う。上達していることを証明するために作り続けていたのではないか……そんな風に思ってしまう。

 雷火さまの「誰のためにこの料理を作ったのだ」という問いかけは、ワタシの心にも深く刺さった。彼の言う通り、やはり料理というのは食べる人のためのものなのだ。食べる人のことを思うほどに、おのずと相手が食べたい形になっていく……料理とは、そういうものなのだろうと思う。

「ワタシの分も食べていいですからね!」

「本当? 悪いね……」

 空になった皿を引いて、手つかずのお皿を彼の前にサーブする。

 お腹すいてないなんて言ってたくせに、二皿目もあっという間にたいらげてしまった。

「カルボナーラを二皿も食べるのは、これで二度目だな」

 一度目のアレを、カルボナーラと呼んで良いものかどうか……。思い出すだけで、顔から火が出そうになってしまう。若気の至りということで、勘弁していただきたい……いや、決して若くはないのだけれど。

「一度目のヤツは、ローマ人への冒涜だって言われましたからね」

「言ったっけ? そんなひどいこと……」

「忘れたんですか!?」

「憶えてないなぁ……」

 あんなに衝撃的な一言だったのに、憶えてないとかなにごと!? とは言うものの、実はワタシの中でもすでに消化されていて、いまじゃ笑い話にだってできるのだ。

「この料理をカルボナーラと呼ぶのは、ローマ人に対する冒涜だ。キリッ!」

 指をL字に顎にそえ、萱代さんのキメ顔を真似てみる。

「なんだよ、キリッ!って。そんな顔してないだろ」

「してましたよぉ!」

 顔を見あわせ、互いに噴きだしてしまう。

 ひとしきり笑いあった後、唐突に静寂がおとずれた。

 気まずい空気をふり払うようにして、ワタシは声をあげる。

「ねぇ、師匠。これからも、いろんなパスタ教えてくださいね!」

「い、いいけど……なんだよ、改まって」

 この面倒くさい人のところへ、押しかけで弟子入りしてからもう一年がたとうとしている。一年もかかってしまったけれど、それでもやっと師匠に認めてもらえるパスタを作ることができた。そのことがとても嬉しい。本当に嬉しいのだ!

「パスタ職人パスタイオになりたいんです、ワタシ!」

「プロになりたいの?」

「それもアリかなって思いますけどね。でも、気持ちの持ちようとして、職人でありたいって言うか、真面目に向き合いたいっていうか……」

「いいんじゃないの。お手伝いしましょう」

 きっとパスタ修業に、終わりなんてないのだろう。

 師匠とのパスタな日々は、これからも続いていく。


 パスタ職人パスタイオを目指す旅は、まだ始まったばかりなのだ。


《了》

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チャオ!チャオ!パスタイオ ~ 面倒な隣人とワタシとカルボナーラ からした火南 @karashitakanan

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