第29話 勝負はどちらの勝ちだ?
試食は、ワタシと季理さんの二人で行うことになっていた。また、スタッフたちのリクエストにこたえ、味見のために少量づつ振るまわれることになっている。
けれども予定通り、審査をするのはワタシ一人だ。ホールへ向かうと、すでにスタッフの手でテーブルがセットされていた。
わずかばかり先に仕上がった、萱代さんのパスタから試食することになった。プロの給仕がよどみのない所作で、テーブルへパスタの皿を運んでくれた。
テーブルの前に立ち、萱代さんが料理の説明をはじめる。
「ピチ・コン・レ・ブリチョレ……ピチのパン粉がけ。トスカーナ地方に伝わるクチーナ・ポーヴェラだ。まずは食べてみてほしい」
調理中のパスタを見て、季里さんがうどんの様だと言っていたけど、目の前に供されたパスタは本当にうどんの様に見える。フォークに巻きつけ口へと運ぶ。
噛みごたえと言い腰の強さと言い、これはまさにうどんの味わいだ。噛むほどに小麦の香りが口いっぱいに広がっていく。遠く離れたトスカーナの地に、こんなにも日本の麺と似かよったパスタがあるだなんて驚きだ。
ニンニクとオリーブオイルのソースが、この日本的情緒をたたえたパスタに良く合っている。巨大な容姿に反して、このニンニクの味わいはとても繊細だ。ニンニク特有の刺激的な香りはひかえめで、タマネギのような甘みを感じる。
そしてこのパン粉だ。ザクザクとしたパン粉の歯ざわりと、もっちりとしたパスタの歯ごたえのコントラストが思いのほか心地よくて、いつまでも食べ続けていたくなってしまう。
「このザクザクしたの美味しいね」
季里さんも、大満足のようだ。これが炒ったパン粉だと知ったら、驚くだろうか。
「さて、いま食べてもらったのが、ピチと呼ばれるトスカーナはシエーナという街が発祥のパスタだ。乾燥パスタに使われるデュラム小麦ではなく、ピチは軟質小麦を使って作る。日本の小麦粉であれば、薄力粉から中力粉あたりが軟質小麦に該当する。今回は国産小麦の中力粉を使った」
乾燥パスタに使われるのは、デュラム小麦のセモリナ粉だけと決まっている……萱代さんから、そう教わっている。デュラム小麦はグルテンを多く含んでいて、コシが強い麺に仕上がるのだとか。
乾麺でなければ、ほかの小麦で作るパスタもある。考えてみればパスタは、パンと並んでイタリアの主食だ。乾燥パスタはデュラム・セモリナに限定していることも、生パスタに使用する小麦にバリエーションがあることも、主食に対するこだわりの現れなのだろう。
「ピチのレシピは、小麦粉と水だけで作る質素なものだ。最近では味の良さを求めて、全卵や卵白を用いるもの、オリーブオイルを用いるものなどバリエーションが生まれている。だが今回は、伝統的な小麦粉と水だけのレシピで作った。食べてもらった通り、味わいとしてうどんに近い。日本人にも馴染み深い味じゃないかな」
なるほど、中力粉と水だけで作ったとなれば、それは全くもってうどんと同じだ。似ているどころの騒ぎではない。
「トスカーナでは、ピチは様々なソースと合わせて食べられている。太くて食べごたえがあるから、パスタに負けない濃厚なソースと合わせることが多い。リストランテでは、猪とか野兎のラグーや、ポルチーニ茸のクリームソースと合わせることが多いが、クチーナ・ポーヴェラといえばやはり、アリオーネを用いたソースだろう」
「アリオーネって、さっきの大きなニンニクのことです?」
あの巨大ニンニクのこと、ずっと気になっていたのだ。
「アリオーネは、トスカーナ特産の大きなニンニクだ。一般的なニンニクの八倍ほどの大きさがあるが、風味はマイルドで刺激や匂いが少ない。見た目とは反対の、繊細な味わいが特徴だ。残念ながら日本ではアリオーネの入手が難しいから、鹿児島産のジャンボニンニクを使った。刺激が少なくマイルドな味わいは、アリオーネの味わいににかなり近いはずだ。トマトを合わせるレシピも人気があるが、今回は昔ながらのレシピで作り、仕上げにブリチョレを振りかけてある。この炒ったパン粉は、クチーナ・ポーヴェラと呼ぶにふさわしい知恵と工夫の結晶だ」
パスタへの印象が塗り替えられてしまう、驚きの一皿だった。
うどんのようなパスタがあることも驚きだし、ジャンボニンニクのほっこりとした味わいも新鮮だった。そして仕上げのブリチョレだ。チーズのような重厚さはないけれど、クスビーな食感が加わることでパスタの美味しさが膨らんだような気がする。それでいて固くなったパンの再利用だというのだから、この知恵には頭がさがるばかりだ。
萱代さんが解説を終えると、沈黙を守っていた雷火さまが一歩前へと踏みだす。
「気づかった点はなんだ」
「なんだと!」
怪訝な表情で萱代さんがこたえる。
「何にこだわって作ったのかと訊いている」
「本物であることだ。食材こそ日本のものだが、このパスタにはトスカーナ料理の精神が込められている。これは紛れもなく本物のトスカーナ料理であり、そしてクチーナ・ポーヴェラだ」
「それだけか?」
「当然、食材にもこだわっている。パスタとパンには、安全で風味の良い国産小麦を使った。いまが旬のジャンボニンニクを使い、オリーブオイルだって最高のものを用意している。調理にも注意をはらい、手を抜くことなく丁寧に仕上げた」
次第に萱代さんの語気が強まっていく。
「本当にそれだけなのか?」
「最高の素材を、最高の技術で丁寧に仕上げる……これ以上、何が必要だと言うんだ!」
突如として雷火さまの高笑いがホールに響く。
「だから貴様には、料理の本質が見えていないと言うのだ」
「なんだと!?」
にらみつける萱代さんの視線をものともせず、雷火さまは料理を運ぶよう、手ぶりでスタッフに伝えた。雷火さまの皿が目の前にサーブされる。スパゲッティにソースを絡ませただけの極めてシンプルなパスタだ。
ホールに、ニンニクとオリーブオイルの鮮烈な香りが漂いはじめる。そして二つの香りに隠れるようにして……いや、二つの香りに引き立てられるようにして、もうひとつの香りがある。
魚介を思わせるこの香りが、ニンニク以上に食欲を刺激する。そればかりではなく、どこかで嗅いだことがあるような香りだ。記憶をたどってみたのだけれど、なんの香りなのか思いだすことができなかった。
「スパゲッティ・コン・コラトゥーラ、まずはご賞味いただこう」
雷火さまにうながされるがまま、スパゲッティをフォークに巻いて口にはこぶ。
一口食べた瞬間に、口の中に海が広がった。魚だ。魚の旨みを濃縮したかのような、芳醇な味わいが口いっぱいに広がっていく。
美味しい……。
文句なしに美味しい……。
そしてなんだろう、この懐かしさは。やっぱりワタシ、この香りと味を知っている!
「……百合ちゃん、大丈夫?」
心配そうに季里さんが、ワタシの顔を覗きこんでいた。
「え? 大丈夫って……なにが?」
「なんだか放心してるし。それに、涙……」
言われて目じりに指をやれば、指先が涙にぬれた。いつの間に泣いていたのだろうか。涙が止めどなく流れて頬をぬらす。
「だって、このパスタが……」
そう、この料理の味が、香りが、なぜかワタシの心の深い部分を揺さぶるのだ。懐かしい味、かつて食べたことのある味……すっかり忘れていた、この味わい。
「このパスタ……なにが……」
この味わいはなんなのかと訊きたかったのだけれど、涙声になってしまいまともにしゃべることができなかった。萱代さんやお店のスタッフも、なにが起こっているのかとざわめくばかりだ。
やがて皆の注目が雷火さまに集まる。
その場にいる全員の疑問に答えるかのように、雷火さまが静かに口をひらく。
「いしるだ。奥能登のいしるを使った」
そうだ! いしるだ!
子供の頃からずっと食べていた味! いしるの味だ! どうして忘れていたのだろうか。あんなにもなれ親しんだ味だと言うのに!
魚の旨みを凝縮したいしるの香りに、オリーブオイルの気品のある香りと、ニンニクの刺激的な香りが重なる。まさに香りの三重奏……素晴らしいハーモニーを奏でながら、香りが鼻へと抜けていく。
美味しい……。ただただ美味しい……。
パスタをたぐる手が止まらない。むさぼるようにして、あっという間に一皿のスパゲッティを食べ尽くしてしまった。
「ご堪能いただけたかな?」
ワタシの食べっぷりを見て、雷火さまが満足げにうなずいている。
「美味しかったです。そして懐かしい味……。どうしてこの味を?」
まるでワタシの故郷が、
「出身は
「出身が輪島だってこと、ご存じだったんですか!?」
雷火さまに出身地を教えた憶えなんてない。
「
「あれが輪島塗りだと、ひと目で見抜いたんですか!?」
「
いくら蒔絵に特徴があろうとも、ひと目で見分けてしまうだなんて驚きだ。
雷火さまとのやり取りを聞いていた季里さんが、隣で不思議そうな顔をしている。
「あの、いしるって……なに?」
季里さんの問いかけに、スタッフの何人かも深くうなずいている。皆の疑問に答えるように雷火さまが説明を始める。
「いしるとは、奥能登で昔から造られている
「その、いしるってのは、どんな料理に使うの?」
季里さんの問いかけに、雷火さまがそっとワタシを手で指し示す。ワタシの方が答えるに適任だ……そういうことだろう。
「ワタシの実家では、日常的に使ってました。醤油の代わりに使うと考えてもらえば、ほぼ間違いないです。鍋物や煮物、味噌汁にだって使うし、お刺身だっていしるで食べますし。あと、いしるで野菜を浅漬けにしたり……」
感心したように、季里さんがうなずいている。
ふたたび、雷火さまの解説がはじまる。
「魚醤は日本のみならず、東南アジアの沿岸地域で多く用いられてきた。タイのナンプラー、ベトナムのヌクマムあたりは有名だが、他にもフィリピンのパティス、カンボジアのトゥック・トレイ 、ラオスのナンパー 、ミャンマーのンガンピャーイェー 、インドネシアのケチャップ・イカンなど、挙げ始めればキリがない程の数がある」
ここまで話すと、雷火さまは言葉を切った。
そして皆を見まわすと、一呼吸おいた後にふたたび言葉をついだ。
「そしてイタリアにも、魚醤を造っている街がある」
「え? 魚醤ってアジア圏だけのものじゃないんですか?」
「イタリアは、塩漬けのイワシ……つまりアンチョビを食べる国だ。副産物とも言える魚醤があっても、なにも不思議はない。アマルフィ海岸にあるチェターラという漁師街で『コラトゥーラ』と呼ばれる魚醤が造られている。そしてこの魚醤を用いた郷土料理が、先ほどご賞味いただいた『スパゲッティ・コン・コラトゥーラ』だ。今回はコラトゥーラの代わりにいしるを用いが、どちらもイワシを塩で仕込んだ魚醤だ、本場と変わらない味わいを楽しんでいただけたことと思う」
料理の説明を終えた雷火さまの視線は、萱代さんへと注がれる。雷火さまのパスタの試食が始まってからずっと、萱代さんは唇をかみしめてうつむいたままだ。
「さて、桜馬。勝負はどちらの勝ちだ?」
「くっ……」
萱代さんが唇を噛みしめる。
「どちらの勝ちだと訊いている」
「……答えるまでもない。宇久田さんを見ればわかる」
絞りだすように答える。
「ほぉ、負けを認めるか。では、貴様はなぜ負けた。貴様に足りないものはなんだ?」
「そ、それは……」
「解らんのか。まだ解らんとは情けない」
見くだすかのような雷火さまの視線をさけ、萱代さんが顔をそむける。
そして、わずかばかりの沈黙がながれた。
「貴様は一体、誰のためにこの料理を作ったのだ」
ハッとして萱代さんが顔をあげる。
その様子を見た雷火さまが、深いため息をつく。
「仕方がない。少しものを教えてやろう……」
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