【3】朝より目映い

池田春哉

朝より目映い

「どうしたの楠谷くすたにさん。早いんだね」

 週明けの月曜日。

 休日モードを切り替え損ねた気怠げな身体に鞭打って登校すると、朝日に白んだ教室にはすでに楠谷さんが席に座っていた。僕は通学電車の混雑を避けるため始業時刻よりもかなり早く登校しており、いつも教室にはまだ誰も来ていない。

 だからまさか僕より早い人がいるなんて思わなかった。

「しかも、すごいクマだよ」

 そしてその彼女がぱっちりと大きな両目の下に色濃いクマを作っているなんて思いもしなかった。

「そう? いつも通りだけど」

 僕の後ろの席で赤本とノートを開いて彼女はシャーペンを握りながら言った。

 その赤本の表紙には『壱西高校』と書かれていることを僕は知っている。僕が来年から通う高校だ。

「そうは見えないな。僕の第六感がそう言ってる」

佐伯さえきくんには第六感があるの?」

「あるよ。予感みたいなものだけど」

 根拠はない。しかし確信はあった。

 第六感。五感を超越した、言葉では形容できない六個目の感覚。

 そんな不可思議な感覚を僕は確かに持っているのだ。

「そうなんだ。ちなみに的中確率は」

「五%くらいかな」

「それただの妄想じゃない?」

 話しながらも彼女は手を止めない。薄緑色の罫線の上に黒鉛の足跡が細く刻まれていく。

「でも、今日に限っては正解」

 シャーペンをがりがりと走らせながら楠谷さんはなんだか可笑しそうに「悪い予感は当たりやすいよね」と口角を上げた。なんだか意味深な台詞に少し戸惑う。

「……え、もしかして不治の病とか?」

「や、ちがうちがう。そんなドラマチックなのじゃないよ」

 あはは、と笑いながら右手を横に振る。その笑みにもいつもの元気はなかった。

「勉強してたんだ。それだけ」

 彼女の言葉を聞いて、僕は彼女の手元にある問題集に目を遣った。

 机の上の問題集にはいくつもの付箋が挟まれており、開かれたページには沢山の下線が引かれている。さらによく見れば全体的によれており、かなり使い込まれた様子だ。

 それだけ、と彼女は言ったけれど。

 どれだけ勉強すればこうなるんだろう。

「やりすぎじゃない?」

「受験までもうすぐだから」

「けど、身体を壊したら元も子もないよ」

「大丈夫。ご飯も食べてるし、ちょっとは寝てるから」

 とは言うものの、彼女はもはや疲労を隠しきれていなかった。その表情や声は今にも倒れてしまいそうなほど力無く、『大丈夫』でないことは歴然だ。

 そんな状態で受験に臨んで、望む結果が出せるだろうか。

「でも、」

「ここで」

 なおも食い下がろうとする僕の言葉を遮るように彼女は言った。

 顔を上げて、はっきりと。

「——ここで頑張らなきゃ、一生後悔する」

 彼女の声が白い教室に凛と響く。


「私の第六感がそう言ってるの」


 それから彼女はこちらを見た。両の瞳が僕を映す。

 目の輪郭をぼかすような青黒いクマ。寝不足で赤く充血した眼。そしてその奥で、煌々と燃えさかる

 それらすべてが息を呑むほどに荒々しく、そして美しかった。

「……楠谷さんはすごいよ」

 心をそのまま零すように僕は言った。彼女はからかうように尋ねる。

「それも第六感?」

「いいや」

 僕は首を小さく横に振って否定する。

 根拠はない。しかし確信はあった。

 これは六個目なんかじゃなく、零個目の感覚だ。


「僕が、そう言ってるんだ」


 その台詞は予想外だったのか、楠谷さんは少しの間だけ驚いたように目と口を開いていた。その表情が、ゆっくりと微笑みに変わっていく。

「……へへ、ますますやる気になるね」

 彼女は嬉しそうにそう言って、再びがりがりとペンを動かしはじめた。誰もいない静かな教室に黒鉛の足音が満ちる。その音を聞いていると、身体の内側が心地よくざわめくのを感じた。

 この胸の中を波打つ言葉にならない感覚は六個目なのか、零個目なのかはわからない。

 けれど、ともあれ。

 その瞳の奥に燃える光に見惚れてしまった僕が、彼女に言えることなんてひとつだった。


「がんばれ」

「おう」

 


(了)

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【3】朝より目映い 池田春哉 @ikedaharukana

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