玻璃と瑠璃のよるべ

西条彩子

第1話

 喪主と手が似ていた。彼が合わせた手のかたちは、私とそっくりだった。手の甲に三本、くっきりと浮き出る骨。

 袖を通すのは二度目の喪服、このたびはご愁傷様です、は案の定噛んだ。摘んだ抹香はどこまで持ち上げるのか、何回やるのか、焼香する人たちを不躾に眺め、自分の番をなんとか済ませて席につき数分。

 読経を終えてりんを鳴らした僧侶がすっと両手を合わせた。居合わせた者たちがそれにならう。私は合掌こそしていたものの、白と青の花々に囲まれた男の遺影を見上げ、祭壇の脇の遺族席を見やった。

 息子が三人。下二人は、喪服より制服のほうが似合いそうな幼さの残る顔を、真剣に伏せている。喪主である長兄は、大柄な目鼻を冷たく俯かせ合掌していた。

 合わせた両手の、抹香の匂いが残った人差し指が無意識に唇に触れる。そこに三回触れた唇の意味を、私は今も、考えないようにしている。

 僧侶が会場から出ていき、やがて入れ替わるように喪主が前に出た。

「長子のあきらです。本日は父、渡会克己わたらいかつみの通夜にご参列いただきありがとうございます」彼はよく通る声で告げ、一礼した。遺族席の二人も続いた。

 渡会。母が故人を指す時に呼び、私が名乗ることのなかった苗字だ。

 父と私の母が離婚していなければ、私もあそこで娘として頭を下げたのだろう。でもそれは、下二人の子がこの世にいない世界線でもある。

 人間も人生も、わからないものだな。

 二十四にして何かを悟った私は、中程の席で弔問客として返礼した。

「父は膵臓癌を患い入院しておりましたが、三日前、九月二十六日に容態が急変し、逝去いたしました。享年六十二歳でした。今ごろ、昨年他界した母とともに過ごしているかと思うと、幾ばくか救われる気がいたします」

 最後に食事の席の案内で締めくくると、彼は再度頭を下げ、上げた。

 終わりよければすべてよし、とは手放しには思えないけど、これだけの人が別れを惜しんでくれるのだから、父の人生はそれなりに幸せだったのだろう。

 通夜ぶるまいの会場へぞろぞろ移動する参列者の塊を抜け出て、私はトイレへ向かった。

 訃報を知らせた兄以外一人の知人もいない通夜だとわかっていたのに、無性に堪えた。ここにいちゃいけないという異物感が、木魚の一定のリズムに乗ってポクポクポクポク私の中に流れ込んでくるのだ。

 だけどこれが、父に会える最後なのだから。

 行くのはいいけど、あたしは行かないよ。渡会の親族は少ないけど顔合わせるのも嫌だしね。晶にだけよろしく伝えて。

 母は素っ気なくそう言い、私を送り出した。

 座ると同時に見たスマホに、『食事食ってけよ。声かけるから』と、見越したようなラインが兄から入っていた。私は音姫に紛れてため息を吐き、出ないと思った用を足す。

 離婚の原因は、父の浮気らしい。私が産まれる前の話だ。

 仲人を巻き込んで揉めに揉めた末、母は当時五歳だった兄を残し、東京の実家に帰ってきた。母と離婚した五年後、父は浮気相手だった人と再婚した。

 その離婚と再婚の微妙な空白、父と母とのあいだにできた子が私だ。

 何がどうしてそうなったかはわからない。覆水も盆に返ることもある。欲求のタイミングが偶然心の隙をついたのだと思う。結果私は、この世にぽこりと産まれてしまった。

 私の戸籍に父の名はない。母の名の下に坂枝瑠子さかえだること、「女」の一文字がある。


 食事の席におしゃべりという雑音が加わって、五十名を超える群れの中で、私はますます所在をなくした。畳敷きの壁際の座卓だったのもよくなかった。

 世話好きらしいおばさん四人に、若いんだから食べなさい、と寿司を三貫載せた紙皿と割り箸を押し付けられた。タイとマグロとイクラ。しゃべり続ける彼女たちの向こうにあった醤油にはありつけず、そのまま食べる。素のままのタイは味気なく、口のあちこちに米が散らばった。

 いい人だったわよね、克己さん。

 父の名を拾った耳をそばだて、口をゆすぐようにしてビールを飲む。

 いい人だったわ本当に。奥様亡くなった時はずいぶん憔悴してらしたけど、まさか膵臓癌なんてねえ。立て続けに大変ねえ。下の子たちなんて大学入ってお家出たばかりでしょう。

 あ、でもご存知?

 声がひそめられた。克己さん、再婚なんですって。あら。一番上の、喪主の、あの子だけ母親違うんですって。道理で、下の子たちとお顔違うものね、シュッとして。

 内心ため息をついた。私がなるべく冠婚葬祭を避ける理由だ。私と母は、どこまでも広がるこぼれ話の格好のネタだった。

 おばさんの誰かが「あっ」と言って、それでねと元のトーンで別の話を始めた。

 理由はすぐにわかった。下の子のうちの一人が、ビール瓶を持って近づいてきたためだ。

「本日はありがとうございます」

 彼は隣のおばさん四人のグラスへ順にビールを注ぐ。あら蒼太そうたくんどうも、とおばさんたちが、何食わぬ顔でそれを受けていた。

 蒼太。私の、腹違いの弟。その下は俊太しゅんたで、二十と十九の年子だという。兄とはじめて会った時にそう教えられ、逆算すれば辻褄が合ってしまう事実がやたらおかしくて、二人してげらげらと笑った。

「向かいからすみません」テーブルの先で彼が膝を折る。「お姉さんもどうぞ」

 だからその呼ばれ方はことさらぞっとした。父の犯した罪など知らぬほうがいいと、兄とともに墓まで持っていくと誓ったのだ。

 瓶を差し向ける彼に向かって私は咄嗟に作り笑いを浮かべ、「ありがとうございます」とグラスを傾けた。ビールと一緒に半分同じ血が流れてくる気がして、そのへんで、と辞する。

 彼のまなざしが、探るように私を覗き込んだ。仕事、知人、友人、親族。どのグループにも属さない若い女を、不審に思ったのだろう。

「克己さんには、私の母が生前お世話になりまして。今日は母が来れませんでしたので、失礼とは存じましたが代理で」嘘は『ご愁傷さま』よりもずっと上手に言えた。

 ああ、と彼は納得した顔で頷く。「失礼なんてとんでもない。お越し頂き恐縮です」

 社会人二年目の私でもつっかえそうなことをすらりと言える健やかさが、癇に少し障った。

 たまにいるのだ。ちりっとしたひっかき傷をこめかみに与えてくる、劣等感に縁のなさそうな、何も欠けていない子が。

「すみません」と私は笑みを作った。「そっちにお醤油あります? 取りそびれちゃって」

 彼は座卓を見回し、ありました、と頬を綻ばせ、二つの小袋を私に差し出す。

 どうもと受け取ると、「お母様にもお礼をお伝え下さい」と丁寧に会釈してほかのテーブルへ移った。

 醤油をネタの上へ直接垂らし、続けて放り込んでビールで流した。僻みとしか言いようのない感情は口の中にいつまでも残り、思わず兄を探した。三つ隣のテーブルに彼はいた。瓶を手に控えめな談笑をする横顔を見て、私は結局逃げるように席を立った。

 似たり寄ったりの黒い靴が、すのこに沿って微妙に乱れて並んでいた。明後日なほうを向いた男物の一足をきちんと並べたら、隣の靴も気になって直す。その上も直す。右から始めた二列横隊の中心に来たあたりで自分の靴に巡りついても、私は続けた。やっと所在を見つけた気がしたのだ。

 いつの間にやら母から受け継いでしまった習慣だった。私が幼少の頃から、こういう集まりの時、母はいつも靴を並べていた。

「どうしてママがするの?」と訊くと、「こうするとみんな探しやすいし、綺麗でしょ」とほほ笑んでいた。

 横隊の最後尾が見えてきたその時、「瑠子」と背後から声がした。私は手を止め、振り返った。「晶くん」

「声かけるって言っただろ。っつかそんなことしなくていいって。客でしょうが」

 そうだけど、と言った私に、でもさんきゅーな、と兄が隣に膝をつき、残りを引き継ぐ。「親父もよくこれやってたんだ」

 あ、と思った。「パパも? ママもそうなの」

「うん。子どもん時、『お前の母さんから俺に伝染った』って、親父が。以来俺もやるようになった」

 歯を見せて得意げに笑う顔は、二年前に死んだ叔父にどこか似ていた。

「帰ろうかな」と立ち上がった私に、「顔見ていけば」と兄がさっきまでいた会場のほうを顎で示した。「親父の」

 明日の火葬に私は出ない。

 最後なのだから。その思いが、私の首を縦に動かした。


 兄について入り直した会場は、静けさと抹香のにおいが満ちていた。棺の中の父は蝋人形のような顔で、白い花に囲まれ眠っていた。

「さわっていい?」

 うん、と兄が隣で頷き、私は恐る恐る手を伸ばして頬に触れた。薄化粧を施された皮膚の冷たく固いゴムのような感触に、背筋がそわっとする。生気とはまさしく生きる者の気配なのだと実感する。眼下の父からは、それがまったく感じられない。

 最初に父と会ったのは二年前、叔父が死んだ直後だ。身内の死に初めて直面した私がまず思ったのが、父と兄の存在だった。

 話だけは、十六の時に母から聞いていた。父と兄がいること、離婚の原因と私の出生、父は再婚していること。それとなく察してはいたためショックはなかった。周りの子には普通なものが、特殊な事情にあるだけ。だけど存在を知ったぶん、私は焦がれた。まだ見ぬ父と、兄に。

 時が経つにつれ燃えカスとなった芯に、あっけなく訪れた叔父の死が火をつけた。SNSのどれかひとつくらい、と探して見つけた父のアカウントへ、私はメッセージを送った。

『瑠子という名に覚えはありますか?』

 返事はその日のうちにあった。『瑠子は、私の娘です』

 DNA鑑定などと言い出されたら面倒だな、という私の思いに反し、父は快く受け入れてくれた。父の言葉で浮気と離婚の話を聞けたのも大きい。それぞれの言い分をお酒と一緒に飲める年齢だったのもよかった。その帰りがけに、「晶が会いたがってる」と聞かされた。

 突如現れた妹に兄も好意的で、積もる話もあるだろう、と、取ったホテルにお酒と惣菜を山ほど用意していた。

「親父に聞かされた時は驚いたけど、なんか納得して嬉しくなっちゃったんだ。俺、家族の誰とも似てないから」

 そう言って見せられた家族写真は事実、兄だけぽこりと浮いていた。代わりにうちの親族の写真を見せると、兄は心底ほっとしたように、よかったと。一人じゃなかったと。水晶と瑠璃で、名前が揃いなんだなと、目を潤ませていた。聞けば一人違う自分を憂いて、尖った時期があったという。

 たぶん私と同じように、彼もどこか欠けていたのだ。夜通し話し込み、明け方になって崩れるように二人、一緒のベッドで眠った。

 仕事相手でもなく、友人でも恋人候補でもなく、それでいて彼は、『家族』の殻をかぶった『異性』だった。

 だから、とは言わない。別れ際、私と兄はハグを交わし、ついでに唇を交わした。ペット相手にするような、無邪気なキスだった。どこにも嫌じゃない自分に、私も、兄でさえも戸惑っていた。それが最初で、一回目だった。

 二回目は、母を交えて会ったあと、「もう少し話そう」と私が二軒目に誘った行きがけ。三回目は兄の買い物に付き合った帰りだ。

 四回目は、躱した。向こうのお母さんが亡くなったと報告されたその日は、キスで済まない予感がした。躱した理由も生理中だったからで、決して拒絶ではなかった。

 以来、父の病状を聞き、見舞いに行き、そのたびに会っても兄は何もしてこなくなった。それを寂しく思う私が、おかしいのだ。遺伝子の親しい異性を遠ざけるはずの本能は、思春期をともに過ごさないとバグを起こすのだろうか。

「親父、瑠子に会えてよかったって。心残りだったって」

 私が触れた反対の頬に触れ、兄は言った。私は無言で頷き、「晶くん」と横を向いた。「ちゃんと泣けた?」

 兄は曖昧な顔で首を振った。私も、まだ泣けていなかった。こうして対面しても、触れても、実感がまったく湧いてこなかった。

 晶くん。私は再び言った。「パパの遺品、私がもらえる物あるかなあ」


 塩を互いに振って父の家に入った。寮の方が斎場に近いらしく、弟たちは今夜は帰らないそうだ。

 兄にとっては実家のはずなのに、彼は不慣れそうに照明のスイッチを探していた。

「ここができた頃、まさに反抗期であんまり帰ってなくてさ」

 明るくなった廊下からリビングに入る兄の腕を、私は後ろから無言で掴む。

「……瑠子」

 振り返った兄は、顔をぐしゃりと歪めて私の手を引き寄せた。私は彼の胸に抱かれ、染みついた匂いを肺いっぱいに吸い込みながら背に腕を回した。背徳の香りは、きっとこんな匂いだ。

 私たちには、圧倒的に時間が足りていなかった。

 家族として過ごす時間。互いをわかり合う時間。ともに過ごす時間が、とにかく足りていなかった。

 私のからだには空洞があって、兄のからだには棘があった。それが一番手っ取り早い手段だった。

 喪服のスナップボタンが、ぷちん、ぷちんと外されていく。理性を外すには間抜け過ぎたから、私は背にやった手で、ファスナーを一気に下ろした。悲鳴みたいな音がした。

 胸の頂点でゆるく尖った先端に触れる指が、抹香をつまむのと同じかたちをしていた。

 鈴よりもずっと濁った声が、あ、と喉からもれた。

 このまま天にのぼって、煙となって空にかき消して、墓場まで持っていこうと誓った。

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玻璃と瑠璃のよるべ 西条彩子 @saicosaijo

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