めざめて駆けて

「私は一体、誰なのでしょう」


 男性はポツリと呟いて、外をぼんやり眺めました。

 視線の先には大きな柿の木。葉を落とした裸の枝には、甘く熟したあかい実がたくさん。

 それを朱い頬のヒヨドリがギィーギィー騒ぎ立てながら、せわしなくついばんでいました。その鳴き声ばかりが響く寒い庭先を、風がふわぁっと通り抜けます。


 ここは、とある小さな民家。

 少しの植木と小さな家庭菜園のある庭に、日当たりの良い縁側がありました。そこには白髪の男性と小柄な少年。

「あぁ、自分が何者かなんて。ずっと分かっていませんでした。

 いえ、考えたことがなかったのでしょう。……私はずっと留まっているんです」


 淡々と独り言のように語り続ける男性に、少年は返事をすることも、相づちをうつこともしません。ただ、じっと黙って隣に座っていました。同じように庭を眺めて。

 その沈黙が話しやすいのか、男性の言葉は続きます。ゆるゆるゆるりと糸がほどけていくように。


「……ほら、便利な世の中になったでしょう。

 夜は明るいし、食事も楽に手に入る。遠くの誰かに連絡だってすぐとれちゃうし、会いに行くのもあっという間。

 ……だから、ついついそこに留まってしまう。同じとこへと居ついてしまう。……つまりは、楽なそこへと流れてしまう。もう何年も何十年も渡しはそうなんです。

 きっと何かを目指していた……そのはずなのに」


 ギィーギィーと騒いでいたヒヨドリが何かに気づいて、飛び上がったかと思うと、近くの電柱にカラスが止まり、低い声でひとつ鳴きました。


「地縛霊なんだから、当然よ」


 男性と少年が振り返ると、薄暗い居間に年端もいかないひとりの少女。ざっくり短く切られた真っ黒な髪。その下の黒く大きな瞳がギョロギョロと男性を見つめます。

「……地縛霊?」

 困惑したようにおうむ返しに呟く男性。少女は身体をゆらゆらと揺らしながら、値踏みでもするように、彼の顔を覗き込みました。

「そうよ。あなたは他人を羨み、他人を妬んだ。憧れ、望み、願うばかりで進めない。歩むつもりで、足踏みばかりの地縛霊……」

 容姿にそぐわぬ少女の言葉。しかし、男性は腹を立てたりすることはなく、ただ彼女を見つめました。何かを思い出すかのようにぼんやりと。

「だけど、それはあなたが周囲をよく見ている証拠。今日は私も機嫌が良いので、あなたの姿を教えてさしあげましょう」

 そうにっこり微笑む少女の瞳は黄金色に輝き、

「ちょっと待って……っ!」

 何かに気づいた少年が止める間もなく、少女の口からはアルトのよく通る声が響きました。


「にゃお~ん」


 途端に、男性の瞳は真っ赤に染まり、白髪からはまっすぐな長い耳が飛び出します。細身の身体はキュっとさらに縮んで引き締まり、白い柔らかな毛が全身から噴き出して……。彼の姿は白いウサギへと変わりました。

 彼はぴょんっと庭先に飛び降りると、少し空気の匂いを嗅ぎました。そして、何事もなかったかのように、隣家の垣根の方へ跳ねていきました。先ほどまで、人の姿をしていたのが嘘のように。


「……あーぁ、もう!祢子ねこのバカ!

 せっかく、お話を聴いてたのに!」

 小柄な少年、田中透たなか とおるは頬を少し膨らまして、声をあげます。


「怒んないでよ!

 トオルのお仕事手伝ったんじゃん!背中がモジャモジャになるの嫌って言ってたもん!」

 さっと柱の陰にかくれて叫ぶ少女。祢子と呼ばれた彼女はスカートから二本の可愛らしい長いしっぽを覗かせていました。

 そんな彼女の様子に、透はため息混じりに呟きます。

「……無理やりやらなくても、よかったんだよ。ゆっくり話せば、おじいちゃんは自分の姿を思い出せたんだから」

 透の家、田中の一族は不思議な一族。あやかしの声を聴いて、彼らの心を癒します。ただ、彼らが『甲羅』と呼ぶその力は、使う度に身体を固く毛深くしました。他者の想いを貯めこむように……。

 大した代償ではないものの、小学生の透には他人との差異はちょっぴり嫌なものでもありまして。

「……ありがと。体育の時に背中のこと聞かれるのは恥ずかしかったから……」

 小さい声で言いました。

 彼の声に祢子はスカートが捲れ上がるほどしっぽを立ち上げると、パッと目を輝かせて、透の方にすり寄りました。

「ねぇ!それじゃあ、遊びに行こう?

 裏の川に大きなサワガニを見つけてね――」


 外のカラスが飛び立ちました。大きな翼をばさばさと。

 雲からパッとお日様が顔を出しました。彼らの庭を優しく穏やかに照らします。明るいそこをぽかぽかと。

 いつかどこかの午後のお話。

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とにもかくにも おくとりょう @n8osoeuta

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