【2】推しを推すならこんな風に
池田春哉
推しを推すならこんな風に
黒板上のスピーカーからチャイムが鳴る。
それを合図にホームルームが終わり、僕は帰る準備を始めた。筆箱をしまい、教科書を入れようとして、そこに先客がいることに気付く。
そういえば昼休憩に急いで買いに行ったんだっけ。
鞄から取り出した薄い紙袋を机の上に置くと、どさり、と音がした。
「え、なにそれ」
袋を置いた振動が後ろの席にまで伝わったのか、
「本だよ。今日、新刊の発売日なんだ」
「へえ。
「まあね」
僕は答えながら紙袋の口を開ける。中からインキの香りと本の表紙が覗いた。
思わず零れそうになった笑みを引き締める。新しい本を開くときの高揚は、たぶん人生にとって必要不可欠な栄養分だ。
僕は買ってきた九冊の本を紙袋から取り出して机に積み上げる。本当なら十五冊は購入する予定だったのだが、学校の近くの書店にはこれしか置いていなかったのだ。まあいい。残りは駅前の書店に寄って補充しよう。
「え、なにそれ」
後ろの席から先程と同じ問いが聞こえた。もちろん同じ問いには同じ答えを返す。
「本だよ」
「そうじゃなくて」
楠谷さんは僕の買ってきた九冊の本を指差す。
「それ、全部同じ本だけど」
彼女は積み上げられた九冊の背表紙を見ながら震える声で言った。その目は信じられないものを見つけたかのように見開かれている。一体どうしたんだろう。
「うん、そうだよ」
「え、私がおかしいの?」
楠谷さんはなんだか混乱していた。
「だって本って読むためのものだよね?」
「そうだね。本は読むものだ」
「その機能は一冊あれば達成できるよね?」
「そうだね。一冊あれば達成できる」
「じゃあ何でここに九冊あるの?」
「あと六冊買うよ」
「狂気」
彼女はもはや怯えるかのように震えていた。うっすらと涙目だ。
「大丈夫だよ楠谷さん。推しの作家さんってだけだから」
「何が大丈夫なのよ」
安心させたつもりだったのだが、彼女は少し意味が伝わらなかったようだ。
「本は一冊あれば事足りるでしょ」
そうか。
彼女の主張を聞いて、どうして今まで僕の声が届かなかったのか悟った。前提条件から違ってるんだ。
僕は積み上げた本の一冊を手に取って、裏表紙を彼女に向ける。
「そうだね、楠谷さんの言ってることもわかるよ。確かにこの世の基本は等価交換だ。モノにはそれに見合った価格があって、同じ価値の金銭を支払うことで僕らはそれを得ることができる。本一冊分の物語を求めるなら、本一冊分の金銭を支払えばいい。僕はお金を失うことで本を得ることができる」
僕は彼女の目を見る。そして手に持った本を元に戻した。
雲間から姿を現した太陽がスポットライトのように僕と推しの本を照らし出す。
「しかし、推し活はその限りではない」
「なんか無駄にかっこいいな」
太陽の位置的に影になった席で楠谷さんは眉間に皺を寄せた。
まだうまく伝わっていないらしい。説明を続けよう。
「確かに僕は推しの書いた本が読みたい。推しの描いた世界が読みたい。でもそれだけじゃないんだ」
「なんだっていうのよ」
「単純さ。僕は推しに書き続けてほしいんだ。もちろん推しが『もう書きたくない』というのなら、僕は『今まで本当にありがとうございました』と言う心構えはできてるよ? でもそれ以外の要因によって志半ばで辞めてほしくないんだよ。できるだけ推しの作家人生の障害は取り除きたい」
「なるほど」
「そこで僕にできることは何か。それがこれだ」
傍らに積み上がった幸福を、僕はひとつ撫でた。さらりとした紙の感触が指先に伝わる。
「推しの出した本を買うこと。しかも一冊じゃない。できるだけたくさん買うんだ。印税なんかの仕組みはよくわかんないけど、売れたら売れるほど人気が出て仕事も増えるし、そのぶん収入も上がるだろう。そうすれば推しは栄養のあるものを食べて、あったかい布団で寝られる。副業なんかもしなくて済むはずだし、病気になっても質のいい治療を受けられる」
「お金で解決できる問題は結構あるもんね」
「そう。だから僕は推しの書いた本を買う」
偉そうに語っているが、本当は不甲斐ない気持ちだった。
できることならもっと直接的な方法で推しを支えたい。けど今の僕にできることはこれくらいしか思いつかなかったんだ。
しかも、結局僕のほうが得をしてしまっている。
「ここにある九冊、そしてこれから六冊の本を買う。でも僕は何も失わない。そこに払ったお金は推しの生活になり、推しの健康になり、推しの新しい作品になって僕に返ってくるんだから。つまり僕は何も失わないまま、推しの本を十五冊も手に入れてしまうことになる。そんなの幸せでしかないだろ」
「幸せねえ」
「推しの幸せは僕の幸せだよ」
「そうなんだ……」
楠谷さんは影の中でぼやくようにそう言った。彼女は賢い。僕の言っている意味が分からない、ということはなさそうだ。
けれど、どこか形を捉えきれていないように見える。
「……もしかして」
彼女の様子に、僕にもひとつだけ思い当たることがあった。
それは僕がアイドルの握手会のためにCDを買い漁る大人がいることをはじめて知ったとき。
そのときの困惑と、彼女の表情が合致する。
「もしかして楠谷さんはまだ自分の推しに出会ってないのか」
僕が尋ねると、彼女は少しばつの悪い顔を浮かべた。
「……そうだけど、悪い?」
「いや何も悪くはないよ。それはまだ出会ってないだけだ。気にすることはない」
「なんで慰められてんのよ」
別に気にしてないし、と彼女は再び問題集に向き直った。そういえば長く勉強の邪魔をしてしまったな、と少し申し訳ない気持ちになる。
さてじゃあ僕も帰ろう。駅前の本屋が閉まる前に。
そう考えた僕は机に出した推しの本たちを再び紙袋に丁寧にしまって鞄に入れ込む。そして静かに教室を去ろうとした、そのとき。
「ところで佐伯くんの好きなお菓子はなに?」
「え」
教室の扉の前で振り向くと、楠谷さんはこちらを向いていた。人違いではなく、僕に対する問いかけのようだ。唐突だが難しくもない質問に少し戸惑いながらも答えを返す。
「……ポッキー?」
「よし、今度持ってくるね」
そう言って楠谷さんは再び問題集に向き直った。これ以上勉強の邪魔をするのも悪いしこのまま帰ろうかとも思ったが、僕は自分の中で膨らむ疑問を抑えることができなかった。
「なんでそんなこと訊くの?」
「ん、ああ」
楠谷さんは顔を上げないままに言う。
僕は少し目を細めた。
「ちょっと佐伯くんを幸せにしてみようかなと思って」
いつの間にか太陽が傾いたのか、やわらかな薄黄色の光が彼女を包み込んでいた。
(了)
【2】推しを推すならこんな風に 池田春哉 @ikedaharukana
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