4~ウチの妹はめんどくさい~
いつだったか、妹が大泣きした夏の日のことを思い出す。
昔の、幼い頃の、ささいな記憶。
確か、気付いたら親に申し込まれていたボーイスカウトのキャンプか何かだったと思う。
随分と前のことなので、正確には覚えていない。
夏休みに、俺が何日かの外泊をすることになった。
そして俺が家からいなくなると知った妹が、盛大に泣いたのだ。
妹は、俺に行って欲しくないと、泣いて喚いた。
妹は俺の腰にしがみついて、絶対に離れないという意志でしがみついて、泣いた。
お兄ちゃんと一緒がいいと、いなくならないでと、そう言って泣いた。
すぐに帰ってくるからと諭しても、いやだと泣いた。
そういう記憶だ。
気付けば俺は、どこまでも広がる草原にいた。
寒い寒い夏の世界。
俺の前にはアイツではなく、田中さんがいた。
「やっぱり、気持ち悪いよね」と、田中さんは言った。
「そうなのかなぁ」
「そうだよ」と、田中さんは朗らかに笑う。「この歳にもなって、兄妹べったりなんて、普通じゃない。というか、べったりって言葉じゃもう足りないよね。なんかもう、すっごい気持ち悪い」
「普通って、何なんだろう」
「普通は、普通だよ」
「うーん」
「普通の妹は、あんなことしない」
うへぇ……と、おぞましい何かを吐き出すように、田中さんが舌を出した。そして彼女は、俺に指を突き付ける。
「そして君は、普通じゃない」
「まぁ、それは、そうかも」
「そうだよ」
「そうだよなぁ」
目を覚まして下に降りると、母親が笑って俺に言った。
「平日昼過ぎに起きてくるなんて、良い御身分ですね」
「まぁ夏休みなので」
「いいなぁ、夏休み」
「母さんなんて毎日夏休みみたいなもんじゃないの?」
「あんた専業主婦なめすぎ」
割と本気で睨まれる。気まずくなって話題を変える。
「アイツは? 遊びに行った?」
「はぁ?」
困惑した顔で、母親が俺を見ている。
「アイツって?」
「いや、俺の、妹……」
「あんた寝ぼけてんの? それともふざけてる?」
「え」
「あんたに妹なんていないでしょ」
そう言われてみると、妹なんていなかったような気がしてきた。そう、思った。
なぜだか、胸がすくような気分だった。
「わー、藍坂くん、筋肉すごいね」と、マイが言った。
プールのへりに腰掛けた藍坂が、「まぁ鍛えてるからな」とさわやかに笑う。
わいわいきゃぁきゃぁと、そこら中で楽しげな声が弾けている。水面が揺れ、太陽の光にキラキラと笑い返す。どこかでシャワシャワとセミが合唱している。ウォータースライダーから流れてきた誰かが叫んでいる。
「惚れちゃダメだよ。コウくんがカッコいいのは分かるけどさ」
水面から顔を覗かせている相川が、余裕のある笑みで言った。藍坂は無駄にイケメンな微苦笑をこぼしている。
「分かってるよー」と、マイが唇を尖らせながら俺を見る。「ねぇ、君もさ、もーちょっと体きたえてみない?」
「俺の体じゃご不満ですか」
「うん」
躊躇なく頷いたマイに、藍坂と相川が吹き出した。
「ほんと仲良いよね、君とマイちゃん」
泳ぎ疲れて木陰で休んでいたところ、隣にやってきた相川が言った。
「まぁ……、ずっと付き合ってるからな」
「小三の頃からだよね?」
「そう」
「すごいなぁ。中々ないよそんなの。いいなぁ」
視線を遠くにやりながら、相川が呟いた。
一体どこを見ているのだろうと相川の視線を追ってみると、流れるプールの中で何やら話している藍坂とマイがいた。何を話してるのかは知らないが、楽しそうだ。
「じゃあさ」と、相川が言う。「ああいうの見ても、嫉妬したりしない?」
「しないって言えば、ウソになるけど……」
「あー。じゃあ、心配にはならない?」
「それは、ないかな」
「すごいなぁ」
相川が膝を抱えて、膝と膝の間に顎を置く。「私は、すっごく不安になる。コウくんカッコいいし」
「それが普通なんじゃないの?」
「うーん」と、相川が苦笑する。「私はコウくんともっと特別になりたいな。普通じゃなくてさ」
「なるほど」
「なんかさ、君とマイちゃんってさ、兄妹みたいだよね」
「はぁ?」
「なんか、恋人っていうよりは、そっちの方がしっくりくる感じ。お兄ちゃんと妹みたいな」
「いや、それはなんか違うだろ。……妹いないから知らんけど」
「まぁ私もいないんだけどさ。お兄ちゃんも妹も」
くすりと微笑みながら、相川が言う。「なんでだろう、ずっと一緒にいるからかな?」
「さぁ、どうだろうな」
「ねぇねぇ、君ってマイちゃんとキスはするの?」
相川が、からかうように笑った。
「なんだよいきなり……」
「いや、私たちはまだだから参考にさせて頂こうかと」
「えぇー……」
気恥ずかしくて相川から視線を逸らすと、すぐ近くまで来ていたマイと目が合った。藍坂はいない。
「む、仲良さそうに、なに話してたの?」と、マイが俺を疑うように見る。「顔あかいぞ」
「あー、いや……」
思わず相川を見ると、彼女は可笑しくてたまらないというようにくすくす笑っている。
「大丈夫だよマイちゃん。お二人さんのキス事情について聞いてただけ」
「え」
「ほら。私たちはまだだから、先輩方の経験を参考にさせて頂こうかと」
「なーんだ」と、マイが安心したように笑って、頬を赤らめる。軽く周りの視線を気にするようにしながら、俺を見て、相川を見た。どうしようもなく、幸せそうに。「お手本、見せてあげましょうか?」
「あー、はいはい。ごちそうさま。やっぱりいいや。私たちは私たちのペースで行くことにします」
「ちぇー」
残念そうに唇を尖らせるマイ。そのまま流れるようにきゃいきゃいとはしゃぎ始めた女子二人の側にどうにも居辛くて、俺はプールに飛び込んだ。
俺の部屋で、マイと一緒に夏休みの課題を片付けていた。
クーラーの効いた部屋は適度に涼しく、居心地がいい。窓の外を見やると、飽きもせずに太陽が燦々と輝いている。文句の付けようがない快晴。今日も外は暑そうだ。
切りの良い所までペンを走らせてから、俺は体をほぐすように伸びをする。
振り返ると、ベッドに寝転んで漫画を読んでいるマイがいる。
「宿題やれよ……。今日一緒にやろうって言ったのお前だろ」
呆れながらそう言うと、「んー」という生返事が返ってくる。
「今年は最終日に泣きついてきても手伝わんからな」
「え! それは困ります」
漫画を脇に置いて、バッと起き上がるマイ。「でも、やる気が出ないんだよね」
「そうか」
「えー、そっけないなぁもう」
ベッドから降りたマイが俺の背中に抱き着いて、全力で体重を乗せてくる。
胸が当たってるなぁ……と、思う。
「重いって……」「ふっふ、実はやせたんだよねーっ、私」「何キロ?」「五百グラムくらい?」「それはやせたって言わんだろ……」「言うよ」「そうか」「ねぇそっけないーっ!」「あー、はいはい」「なで方が雑だなぁ」「はいはいはいはい」「ねぇ私ってかわいい?」「可愛いよ」「どのくらい?」「めんどくさいカノジョかお前は」「だって、めんどくさいカノジョだし。ねぇ! どのくらい?」「……今まで見てきた誰よりも可愛い」「えへへー」
ようやくまともに宿題を進める気になったらしいマイが、机の前に座る。
「私と君ってさ」紙面に目を落として、ペンを動かしながらマイが言った。「たぶん、結婚するよね」
「えぇ、いや……。んなこと急に言われても」
「じゃあ、結婚したとするでしょ?」
「えー」
「よく言うじゃん? 結婚して、時間が経って、子どもとかもできたら、お互いを異性として見られなくなる、って。男と女じゃなくて、家族になるって。キスとかエッチなことも、しなくなるって」
「あー……」
「言うでしょ?」
「まぁ」
「私たちはどうなんだろう……ってさ、思うわけよ」
「それで?」
「想像できないんだよね。だって七年以上付き合っててもさ、私は君と毎日キスしたり、抱き合ったり、色々したいって、めっちゃ思うし」
「…………」
「ふふっ」
「なんだよ……」
「いや? ここで君が照れてくれるのが、すっごい嬉しくてさー」
マイと目を合わせていられなくなって、顔を背ける。隣に来た彼女が、俺の肩に頭を乗せてきた。
窓の向こうに、青い世界を二つに切り裂くような――ひこうき雲が見えた。
「幸せだなぁ」と、噛み締めるような呟きが落ちた。
夏休みってヤツは、どうしてこんなに早く過ぎるのだろう。
「終わっちゃうよ、夏休み」と、相川が言った。
「今日何日だっけ?」
「八月三十一日」
「マジで?」
「ちなみに今日は日曜日です、要するに明日から学校」
「ウソだろおい」……と、言いながらも、しっかり把握していた。
夏休みはもう終わりなんだって。
「誰かが勝手に時間を進めてる気がする。不思議だ」
「夏の魔法ってヤツ?」
「そう、それだ、きっと」
せらせらと、川のせせらぎが聞こえた。
相川が苦笑する。「まぁ、君がそれでいいなら、いいんだけどさ、私は」
相川には、たまに俺の全てを見透かされているんじゃないかと思う時がある。
「そう言われてもなぁ」
「普通はさ」と、相川が言う。「ここで正しい世界を選択して、恋人と結ばれるんだよね」と、相川が言う。「幸せに、いつまでもいつまでも」
「普通って、何なんだろうな」
「さぁ、何なんだろう」
「じゃあ正しいって何なんだろうな」
「さぁ? 私もよく分かんないや」
「俺たちは、普通じゃないのかな」
「どうだろうねー」
「どうなんだろうなぁ」
「君はさ」
「うん」
「田中さんより、妹ちゃんの方が好きなんだよね」
「まぁ……うん、そうっちゃ、そうなんだけどさ。そうなんだけど……」
「そうなんだけど?」
「俺は、お兄ちゃんだから」
「……君は、バカだよね」
「あのさ、相川」
「なに?」
「俺がお前のこと好きだった、って言ったら、信じるか?」
「もちろん、信じるよ。でも、仮に恋人になってくださいって君に言われたとして、それをオーケーしたかどうかは知らないけどね」
「……そうか」
「君はさ、私と妹ちゃんのどっちの方が好き?」
「妹」
「君って、バカなの?」
相川は苦笑していた。
「こういうのをシスコンって言うのかなぁ」
「最悪のシスコンだよ、ほんとに」
妹の部屋のドアを勝手に開くと、どこまでも続く草原が広がっていた。
寒い寒い夏の世界には、せらせらと笑う川がどこまでも伸びている。
シャワシャワそよそよという夏の音を聞きながら、凍えそうになりながら、川の側に寄る。川の向こうに、小さな影が見えた。
じゃぶじゃぶと川に脚を突っ込んで、足をぐちゅぐちゅに濡らしながら、どうにか向こう側に渡る。冷たすぎて、足の感覚がなくなっている。
妹は俺を見るや否や、「遅い」と不機嫌そうに言った。
「ごめん」
思わず謝ると、げしっと脚を蹴られる。
足の感覚がなくなっていたこともあって、よろめいた俺は尻餅をつく。
「なさけな」
「あー、なんか死にてぇ……」
一体何をやっているのだろうか、俺は。
後ろ手をついて顔を上げると、俺に向けて両手を広げている妹がいた。
「ねぇ、お兄ちゃんはさ、私のこと好き?」
「好きだよ、残念なことに」
「どのくらい?」
「世界で一番」
「ふーん。私は別にそこまでお兄ちゃんのこと好きじゃないけど」
「なんだと」
「あのさ」
「なんだよ……」
「だきしめて」
両手を広げたまま、妹が俺を見つめている。
「はぁ……」
重い体をどうにか立たせた俺は、妹の背中に両手を回す。
「もっと」
力を込める。
「もっと」
全力で抱きしめた。
「もっと」
「もう無理だって」
「お兄ちゃんってさ、マジで力ないよね。きたえた方がいいよ」
「善処する」
「お兄ちゃんはさ、私がイヤな女だって思う?」
「さぁ、どうだろう」
「お兄ちゃんはさ、私のこと、きらい?」
「さっき好きって言ったろ」
「私のこと、きらいにならない?」
「ならない」
「絶対? これからもずっと?」
「あぁ、絶対」
「じゃあ、これからも私を甘やかしてくれる?」
「……それは、ちょっと厳しいかもな」
そう言うと、妹は俺の背中に爪を立てた。
「痛いって」
「お願い、ねぇ、お兄ちゃん」
「……無理なんだよ」
「なんで?」
「俺たちは、きっと、子どものままじゃいられないんだよ」
「……いやだよ、そんなの。ねぇ、お願い。――私だけの、お兄ちゃんでいてよ」
「……」
「ねぇ、お願い。……お願いだから、お兄ちゃん」
妹が、むせび泣いている。嗚咽を漏らしている、小さな子どもみたいに。
「めんどくさい妹だよな、お前は」
「……うん」
「まぁ俺が言えた義理じゃないんだろうけど」
「うん、……うん」
「泣くなって」
「だってぇ……」
小さな小さな妹を抱きしめて、その頭をそっと撫でた。
「じゃあ、一つだけ約束する」
「……なに?」
「もう絶対に、お前の側からいなくならない。これだけは、もう、絶対に」
「…………わかった。じゃあそれで、許してあげる」
涙と鼻水で顔をぐちゅぐちゅにした妹に睨まれて、思わず苦笑した。
その瞬間、確かに妹の熱を感じた。
妹と触れ合っている部分から、むせ返るような熱い体温が伝わってくる。
その熱はどこまでもどこまでも広がって、気付けば俺は夏の中にいた。
暑いあつい、熱いくらいの、どうしようもない夏の中。
でもその夏も、もう終わりかけている。茜色の空の下、背中を向け始めた夏を惜しむように、どこかでツクツクボウシが鳴いている。
「じゃあ、帰るか。明日から学校だ、残念なことに」
「……あのさお兄ちゃん」すっぽりと胸の中に収まっている妹が、きまり悪そうに、そっと俺を見上げた。「私、宿題終わってないんだけどさ、手伝ってくれる?」
「はぁ……。来年は絶対手伝わないからな」
妹の背に回していた手を離して、代わりに繋いだ彼女の手を引く。
「うん。ごめんなさい。……あと、ありがとう、お兄ちゃん」
夏休みが終わっても夏の余韻はしぶとく残り、九月の二週目に入ってもそこら中から「暑いあつい」という呻き声が聞こえてくる。
放課後、額に浮いた汗を拭って帰り支度をしていると、隣に相川がやって来た。
「妹ちゃん、またカレシつくったらしいね」
「お前らってそういう情報どこから仕入れてくる訳?」
マジで不思議でならない、初耳なんだが。俺にも教えてくれよ。今度聞こうかな。
「なんか中学生らしいよ」
「……アイツ、年下に手出したのか」
中学生の男子にアイツを制御しきれるとは思わないんだが。同情。
「あと、田中さんにフラれたらしいね、君」
相川が、クスクスと笑った。
「フラれたっていうと語弊がある気がするけど……まぁ、うん」
夏休みが終わってすぐ、妹と一緒に田中さんに謝罪しに行って、微苦笑しながら許してもらったあの日以来、田中さんが俺に向ける態度がよそよそしくなったというか、連絡が全く来なくなったというか。
まぁそこらへんのことをフラれたと捉えるなら、フラれたんですけども……。
「あぁ、あとね、この前妹ちゃんとお喋りしたよ。ほんの少しだけど、普通に」
「…………」
それも俺が知らないことだった。
素直に、驚きの気持ちがあった。
アイツが相川のことをどれほど嫌っていたか、よく知っているから。
「ひとって、変わるもんなんだねぇ」と、相川がしみじみ言う。
「そうなのかなぁ」
「そうだよ、きっと」
まぁ相川が言うならそうなんだろう。知らんけどさ。
その時、カラリと音が鳴って、教室の扉のところに妹が立っているのが見えた。
「ねー、お兄ちゃーん」
間延びした声と共に妹がやってきて、微笑みまじりに言った。
「ちょっと手伝って欲しいことがあるんだけど」
おわり
ウチの妹はめんどくさい 青井かいか @aoshitake
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