ウチの妹はめんどくさい
青井かいか
1
「お兄ちゃん手伝ってっ!」
その日、俺は自室のベッドに寝転びながら意味もなくスマホをいじっていた。
妹は、風呂上がりのラフな格好でバーンと扉を開けてやってきて、そんな脈絡のない台詞を放った。具体性はゼロに等しい。
手伝っても何も、一体俺は何を手伝えばいいのか。
とはいえ、別に戸惑うことではない。ウチの妹が思いつきで行動を起こすのはよくあることだから。
その度に振り回されるのは妹の周囲という訳であり、結局のところ、その筆頭にいるのが俺だ。
つい先日も、SNSで話題の数量限定スイーツを手に入れるため、朝っぱらから長蛇の列に並ばされた。蒸し暑い雨の中で傘を差して延々と立ち続けた。
「今度は何なんだよ」
体を起こしながら、俺は妹を見る。
妹の顔は、何だか楽しそうだった。機嫌がいいのが一目で分かった。
当たり前のように妹は部屋に侵入してくる。
妹は勉強机の前にあった回転イスを引き寄せてくると、背もたれを抱きしめるようにして座った。
「なんかいいことでもあったのか?」
「ふふ、実はねー、好きな人が出来たんだー」
ニマニマと口元を緩ませる妹。
「なるほど、それで?」
「それでねー」
妹はクルクル回るイスで、自分もクルクル回りながら、恥ずかしそうに頰に手を当てる。
一見すれば可愛らしい仕草。見る人が見れば鼻につくだろう仕草。
ウチの妹って美人だよなぁ――と、脈絡なく思う。
「その好きなひとってのが、お兄ちゃんと同じクラスのひとなの」
「マジか」
「うんマジ。二年生の、テニス部の、藍坂せんぱいってひと、お兄ちゃん知ってるでしょ?」
「まぁ、知ってるけど」
知ってるも何も、友達だった。
別に妹の恋路にどうこう言う気はないが、妹の想い人が俺の友人だというのは、何か嫌だった。ハッキリと説明はできないが、なんか嫌だ。
なんか……、こう……、ねぇ?
だが、流行りモノに影響を受けやすくて派手好きの妹が、藍坂を好きになるというのは理解できた。
藍坂は校内でもそこそこ有名なテニス部のイケメンで、この前の部活の試合で結構凄い活躍をしたらしく、女子たちがそこそこ騒いでいたと思い出す。
ウチの妹は、流されやすいというか、気ままというか、その場その場のノリと勢いで生きているというか、まぁそんな感じの子であり――。
「だからね」と、妹が言う。「だから、お兄ちゃんちょっと手伝ってもらいたいなーって」
「……なるほど」一応、確認しておくことにしよう。「でも、お前と藍坂に接点なんてあったか?」
「いやないけど?」
「ないの?」
「やだなぁお兄ちゃんっ、世の中には一目惚れって言葉があるんだよ、知ってる?」
「知ってますが」
バカにしないでもらいたい。
そして、妹が言う。「だから」――と。にっこり、世界一可愛い笑顔を見せて、「よろしくねお兄ちゃん」
「りょーかいしました」
可愛い妹のためなら何とやらってね。
翌日、登校した俺は教室で藍坂を持つ。
藍坂は、HR開始の五分前に教室に入ってきた。
テニス部の朝練を終えたばかりという様子だった。近付くと、さわやかな制汗剤の香りと微かな汗のにおいがした。
話しかける。「なぁ藍坂」
「おう、どうした」「実はだな」「おう」「あー、あれだ」
「なんだよ……」
眉をひそめ、俺を見る藍坂。
「今日めっちゃ暑いよな」と、俺は言う。「朝からマジで暑い」
「そうだな。まぁ、めっちゃ暑かった」
藍坂は窓の向こうへ目をやった。
燦々とした太陽が運動場を照らしている。ハードルやら何やらを慌てて片付けている陸上部が見えた。めっちゃ暑そう。
「梅雨入りしたのに、めっちゃ晴れてるよな今日、暑い」と、俺は言う。
「あぁ、そうだな」と、藍坂が言う。「なんか明日も晴れるっぽいな」
「へー」
「で、結局何なんだよ」藍坂は疑うような目を俺に向けた。
「あー、そうだな」
言い淀む俺を見る藍坂の目に、疑いの色が増す。
「あー……」一体どう説明したものだろうか――と悩み、めんどくさくなったのでそのまま言うことにする。まぁ、こいつならこういう話題には慣れてるだろうしね。
「実はさ、ウチの妹が……」
「え、お前妹いたの?」
「……」
この反応である。
そう言えば、彼にはウチの妹について話したことはなかったかもしれない。
高校に入ってから知り合って仲良くなった藍坂だが、一年以上の付き合いがあってもお互いについて知ってることなんてこんなものだ。
「実はいる」
「へぇ知らなかったな。部活はなんかやってるのか? お前の妹」
「あー、なんかバスケ部のマネ始めたとか何とか言ってた気がする」
「え……」と、藍坂が驚いた顔を浮かべる。「もしかしてあの子?」
「あの子ってどの子?」
「あー、ほら、あれだ。この前、バスケ部に可愛い一年の女子マネが入ったみたいな話、あったんじゃん?」
「そう言われても……」
「いやいや、話してたじゃん? けっこう噂になってた。可愛いって」
「ならたぶん、そうだと思う」
ウチの妹、可愛いし。
うんうんと頷く俺に、物凄く微妙な顔をした藍坂が言う。「まぁそうなんだろうな……。そう言われてから見ると、お前と少し似てる感じあるし」
「ウチの妹のこと、知ってんの?」
妹は、藍坂との接点なんてないと言っていたが。
「いやまぁ可愛いって噂になってたから」と、藍坂が言う。「遠目に見たことがあるってだけ」
なるほど。
「そうか、なら話は早いんだが。……そのウチの妹が、お前のこと気になってるらしくて、だな」
「え……」と、複雑そうな表情を浮かべる藍坂。
「で、どうですか、ウチの妹は」
「えぇ……」分かりやすく困惑している藍坂が一瞬俺から視線を逸らし、また俺を見た。「それを……お前に言うの?」
そうですよね、言いにくいですよね。
「藍坂は今カノジョとかいないだろ?」
「いや、いないけど、さ」
「で、今他に気になってる子とかもいない……よな?」
「ここでいるって言ったらどうなる訳?」
「どうにもならない。とりあえずウチの妹と一度会ってみません?」
強引に押し切る感じで、俺は言う。「そう、噂になるくらい、ウチの妹は可愛い。あー、あれだ。とりあえず顔は良い。あと美人だ」
俺の勢いに藍坂がちょっと引いている。
妹に嫌われないようにお兄ちゃんは必死だ。
「そう、ウチの妹はそこそこ、というか結構可愛い」
ここで俺は、結局妹の顔しか褒めていないことに気が付く。
「――で、あと、可愛い」
「お前妹のことどんだけ好きなんだよ……」という藍坂の呟きを聞き流す。
「まぁ、とりあえず噂になるくらいには可愛い。まぁ、ちょっとワガママというか自己中というか、そういうお茶目な点がない訳ではないが、可愛いことは保証するので、とりあえず。そう、とりあえず……だ。明日のお昼を一緒にご飯的な感じでどうですか」
俺のプレゼンに対する藍坂の反応は小さなため息だったが、そのあとすぐに彼は頷く。
「まぁそれくらいなら、別にいいけどさ……」
「よっし! じゃあそういうことで!」
お兄ちゃん大勝利。やったぞ妹よ。
藍坂は苦笑していた。
自宅。妹の部屋のドアをノックする。
既に帰宅していることは確かだが、返事はない。
もう一度ノックする。
返事はない。
そっとドアを開くと、ヘッドフォンを付けてベッドに寝転び、ニヤニヤしながらスマホを見ている妹がいた。
「…………」
俺と妹の目が合う。そして、こちらに飛んできた妹に蹴り出された。世界を狙える跳び蹴りだった。
ヘッドフォンを外した妹が、腹を押さえて呻く俺を睨んだ。
「勝手に部屋に入ってこないでって前言ったよね?」
「いや、ノックはしたんだけどさ」
「は? 私に聞こえてなかったら意味ないでしょ?」
「はい」
「で、なんの用?」
不機嫌そうに眉を吊り上げている妹に、俺は言う。
「いや、ほら、昨日言ってだろ? 藍坂がどうのこうのって。あれだけどさ、とりあえず今日、藍坂と話してさ」
「えっ、藍坂せんぱい? 私のことなんて言ってた!?」
パッと妹の顔が明るくなる。分かりやすくて大変助かる。
「まぁまぁ落ち着け。とりあえずだ。明日、お昼に藍坂が会ってくれるっていう約束は取り付けたぞ」
「ホント? おぉ、お兄ちゃんすごい!」
「ハッハッハーっ! もっと褒めろ」
「きゃーお兄ちゃんカッコイイっ。藍坂先輩の方がもっとかっこいいけど」
そうですね。異論はない。
「じゃあそういうことで」
「うん」
「たぶん明日一緒にお昼ご飯食べる的な感じになると思うから」
「おっけー」
そして俺が部屋に戻ろうとすると、なぜか妹も付いてくる。ご機嫌にハミングまでしている。最近街中でよく聞く恋愛ソングだった。愛に理由はいらないとか、好きだから好きでいいとか何とかいう、そういう歌詞。
俺の部屋で、当たり前のように本棚から漫画を引っ張り出してベッドに身を倒す妹を眺めながら、俺は言う。「漫画持って行っていいから、自分の部屋で読まない?」
「んー」
誰が聞いても聞いていないと分かる生返事だった。
いや別にいいんだけどさ……。
その時、俺のスマホに着信があったので応答しようとすると、妹にギロッと睨まれた。
――ので、妹様にうるさいと言われる前に俺はスマホを持って部屋を出た。
翌日、昼休み。
食堂前にあるテラス席に、妹と藍坂、そして俺が座っていた。
丸型のテーブルを挟むように妹と藍坂、妹の右隣に俺がいる。
天気は昨日に引き続いて梅雨を感じさせない晴れ。気温は高く死ぬほど蒸し暑いが、俺たちがいる場所は日陰になっているためいくらかマシだ。
俺は、妹と友人が向かい合っているこの状況を目の前にしながら、今朝に妹と交わした会話を思い返す。
「えー……、今日お兄ちゃんもいるの?」「藍坂が、いきなり二人きりは気まずいと言うので」「藍坂先輩って案外シャイなの?」「そうなのかもしれない」「ふーん……、まぁいいや。だったらお兄ちゃん、余計な事は言わないでよね」「はい」
逆に俺がいる方が気まずいんじゃないかと思いもしたが、藍坂の気持ちも分かるのでこうなったという訳です。
食堂で注文して持って来た日替わり定食を前にしながら、妹が微笑む。藍坂に「はじめまして」と、丁寧に自己紹介をしている。完全に余所行きモードの口調だった。
「――お兄ちゃんがいつもお世話になってます!」
ここで『兄』ではなく、あえて『お兄ちゃん』と言うあたりに妹の計算高さを感じるのは考え過ぎだろうか。
どこか照れたようにはにかんでいる妹が、藍坂に可愛い自分を精一杯見せつけようとしているのは間違いない。
ウチにいる時の妹とは、まるで別人だ。俺が半ば感心して妹を見ていると、脚を蹴られた。
妹が藍坂に、苗字で呼ぶとお兄ちゃんと紛らわしいから是非下の名前で呼んでください的なことを言っている。
藍坂がどこか困ったように笑いながら、妹の名前をちゃん付けで呼ぶ。すると妹が、「なんだか名前で呼ばれるとやっぱり照れますねー」と、口元に手を当てながら頬を染めたので思わず吹き出してしまった。全力で脚のスネを蹴飛ばされる。
俺が悶えていると、藍坂が笑った。
「妹と仲良いんだな」
明らかに俺に向けた台詞だったが、俺より先に妹が反応する。
「いえいえ、全然ふつうですよーっ」
それ以降、藍坂も変な緊張を感じさせないリラックスした様子で妹と話し始めた。
話題は学校での過ごし方、趣味、部活のこと。休日の過ごし方。好きな音楽や漫画。最近話題になっている映画。
基本は妹と藍坂が話して、たまに俺も会話に加わる。
「あの映画めっちゃ見に行きたいんですよねーっ」と、朗らかに妹。
「あーうん、面白いらしいね」と、曖昧に微笑みながら藍坂。
「あっ、そういえば」と、思い出したように妹。「友達に聞いたんですけど、テニス部って日曜日はお休みなんですよね。バスケ部も日曜はお休みなんですよ」
「あーうん、そうだね」
ニコニコと微笑む妹。曖昧に微笑む藍坂。
妹に脚を蹴られたので、助け舟を出す。
「せっかくだし二人で行って来たら? 趣味とか結構合ってるっぽいし。どうよ」と、俺は妹に目線を流す。視界の端で、藍坂が変な顔をしている。
妹はパッと嬉しそうに、照れるように微笑んで「私はぜひ行きたいです! 藍坂せんぱいが、ご迷惑じゃなければ、ですけど……」
「あー、うん」
ほんの一瞬、諦めたように吐息した藍坂が言う。「いいよ、今週の日曜ならまだ予定ないし。今週は大丈夫?」
「大丈夫です! 全然空いてます!」
少し前のめりになる妹に、藍坂が微苦笑を漏らす。昨日も見たような苦笑だった。
そして全員が昼食を食べ終えてからも会話は続き、いつのまにか話題は『恋人について』のものになっていた。
藍坂が『高校に入ってからはそういうひとはいない』というようなことを言って、妹が『中学の時に一人だけカレシがいて、今はもう連絡も取っていない』と流れるようなウソを吐いたあと、なぜか話の矛先が俺に向いた。
俺は、今までカノジョような女の子がいたことはない――と、曖昧に言って、それを妹がバカにしたように笑って、それを聞いた藍坂が「あれ?」と、首を捻った。
「お前、昔カノジョいたことあるって前に言ってなかったか?」
「え?」
一瞬、戸惑った。
でもすぐに思い当たる。そういえば、そんなことを藍坂に言った覚えがある。
まるっきりのウソという訳でもないが、ほとんど見栄を張ったのと変わらない。
モテる藍坂にその場のノリと勢いで見栄を張った。ただそれだけのこと。
「え、なにそれ私その話知らないんだけど」
人と人の間に生まれる空気には、それ特有の温度がある。肌で感じる気温とはまた違う――体の内側で感じる温度。
梅雨の向こうに顔を覗かせる夏が太陽を急かして、燦々とした陽光をまき散らす今日の気温は、ほとんど夏と言っていいくらいで、率直に言えば暑くて熱い。
けれども確かに今この瞬間、場の空気は一気に冷え込んだ。
「お兄ちゃん、カノジョいたことあるの?」
「いや、いたって言っても、あれは――」
「は? なに? 説明して」
「あー、はい」
説明する。
小学三年生くらいの時に、一人の女の子に告白されて、それを知った周りもそれを囃し立てて、断りにくかったから付き合って、いわゆる『恋人』ができたことがある。
しかし結局、恋人らしいことは何もしなかった。お互い、恋人というものの関係をよく分かっていなかった。その上、そのあと学年が上がってクラスが変わって、会う機会も減って、自然消滅的な感じでそれ以降その子と話す事はなかった。中学は同じところに通っていたはずだが、彼女が今何してるのかさえ俺は知らない。
というか正直に言うと、失礼な話だが、彼女の顔と名前も俺はもう覚えていない。
どうして俺がこんなことを今ここで話さないといけないのか。胃がキリキリする。体の内側のどこかが、ドライアイスを押し当てたかのようにヒリヒリと焼け付く。
よく分からないまま説明し終える。
「ふーん、しょうもな」と、妹が鼻を鳴らす。
その後の雰囲気は最悪で、一気に機嫌が悪くなった妹に藍坂は気を遣っていたが、妹が彼に笑顔を返すことは一度としてなかった。
……マジでお腹が痛い。藍坂には本当に申し訳ない。
昼休みの終わりが近付いて俺たちは解散する。妹は荒っぽく席を立って、食べ終えた昼食の食器を放置したまま校舎の方へ歩いて行った。
「お前の妹、なんというか物凄いな……」
妹が置いていった食器を自分のトレイに乗せている俺を、藍坂が見ている。その藍坂の表情を、どう表現すればいいだろう。
その顔は、まるで真昼間に幽霊を目撃したかのようで、仲の良い友達がいきなり宇宙語を話し始めたのを聞いたかのようで、熱いコーヒーだと思って飲んだものが冷たい水道水だったかのようで、一言で簡潔に言い表せば――、訳も分からずドン引いていた。
「あのさ、お前って妹と……」顔をしかめて口を開いた藍坂が、ふうと息を吐いて口を閉じる。「いや何でもない。とりあえず教室戻ろうぜ」
「あぁ、そうだな」
「もういいなんか違う」と、妹は言った。
夕食中もずっと不機嫌で話しかけるなオーラを出していた妹が、突然俺の部屋にやって来て、そう言った。
「藍坂先輩、確かにすごいカッコいいけど、なんか違うと思った。だからもういい」
「えぇ……」
途中で雰囲気が最悪になったとは言え、それまでは中々良い感じに喋ってたし、今週末は映画に行く約束までしてたのに。
「せっかくなんだから、その判断は映画一緒に行ってからでよくない?」
「映画はもういいや。なんか冷めたし」
えー……。俺の苦労は……。
「じゃあ私お風呂入って来るから」
荒っぽい足取りで部屋を出て行く妹の背中に、声をかける。
「今日帰りに買ったアイス冷凍庫に入れてるから、食べていいぞ」
が、俺の言葉をガン無視して全力で扉を閉められる。バァンという音がやかましく響く。
耳を押さえながら、俺はスマホで藍坂にラインする。
今日の昼に藍坂が妹と約束した映画の件について、断りを入れて置く。返信はすぐにあった。『了解』というだけの短い返答。
翌朝冷凍庫を確認すると、俺が買ったアイスは消えていた。
「ねぇ、さすがにちょっとハッキリ言った方がいいんじゃない? 妹ちゃんのためにもさ」
別に相談したかった訳ではないが、「最近の妹ちゃん、どうなの?」と聞かれ、最近の出来事を適当に話したらそう言われた。
妹と藍坂のことがあった翌週の朝の出来事。土砂降りの雨の日だった。
少し厳しい目つきで俺を見るのは、昔から何かと縁のある相川。
相川との縁は本当に奇妙なものだ。小学一年生の頃から高校二年生の今に至るまで、俺と彼女は一度の例外もなく同じクラスで勉学に励んでいる。
でも別に、休日や放課後に一緒にどこかに遊びに行ったりする訳でもなく、毎日言葉を交わしている訳でもない。俺と彼女の学内でのコミュニティに明確な関わりはない。……ので、女友達と言えるのかも怪しい。
俺と彼女の関係を的確に言い表す術を、俺は知らない。
ちなみに相川は妹と面識がある。
妹は、相川のことを死ぬほど嫌っている。理由は『何となく気に入らないから』らしい。
相川は俺を見て、呆れたように息を吐く。「シスコンも、ブラコンも、大概にしないと」
「ウチの家庭の問題に首を突っ込まないでもらえますか」
「なにそのキャラ……?」
ボケたつもりだったが、ウケが悪かったので真面目に答える。
「そう言われてもなぁ……」
正直な俺の思いを答えると、『そう言われても』以外に出てこない、本当に。
「いや、まぁ私が言うことじゃないのは、そうなんだけどさ……」どことなく決まりが悪そうに、相川が言う。「でも、なんだろう。君がこのまま妹ちゃんを甘やかし続けると、いつか大変なことが起こりそうで、ほっとけないんだよね」
「大変なこと、とは?」
「さぁ? でも君も、何となく分かるでしょ?」
「うーむ……」
相川の言わんとすることは分かる。
確かに、このままだと妹は周囲の男も女も誰もかも振り回し続けて、いつか大変なことが起こるような気が……しないでも、ない。
「妹ちゃんのためにも、さ」
妹のため――だと、相川は言う。
「でもアイツ俺の言うことなんか聞かないぞ」
「聞かせるんだよ」
「え、なにそれ怖い」
「あのね、真面目に聞いてる? この際ハッキリ言うけど、別に私だって君の妹ちゃんのことよく知ってる訳じゃないけど、それでも――」相川はふぅと一呼吸置いて、言う。「あの子、女の目から見て相当イヤな女だよ。いや、誰の目から見てもかな」
「いや、誰の目って言っても、俺は別に――」言いかけて、相川に睨まれた俺は口を噤む。
相川が俺を見る目に、なぜだか熱く胸が痛んだ。
「例えばだけど」と、俺は言う。
「うん」
「アイツに俺がハッキリ言うにしても、何を言えばいいんだ」
「それくらい自分で考えて欲しいけど、そうだね、例えば」と、相川は小さく吐息して、仕方ないと言いたげに微笑んだ。まるで――手のかかる弟を見る姉みたいに。
「いつまでも子どものままじゃいられないんだよ、とかかな?」
六月二週目の終わり、霧雨が降る日のことだった。
藍坂が俺に言う。「なんかお前の妹、カレシできたらしいな」
「なんでお前が知ってるんだ……」
俺、そんな話知らないんだけど……。
衝撃である。
「え、知らない? さすがにウソだろ。結構な噂になってるけど」
「どんな噂」
「バスケ部の一年の、美人マネージャーにカレシができたって」
「初めて聞いた」
「けっこう噂になってるんだけどな」
「そう言われてもな……」
「……あと、ついでにバスケ部のマネもやめたって聞いてるけど」
「え、は、マジ?」
「ウソだろお前……。なんでお前が知らないんだよ……」
なんで――と、言われても、なんでだろうか。
そう言えば、今までも妹にカレシらしき人物が何人もいたらしいことは知っているが、俺がそれを知るのはいつだって事が終わってからだったし、たぶん俺が全く知らない話も多い気がする。
別に妹の恋愛事情を全て把握してる兄なんてキモいだけだし、今までは特に気にしていなかった。……けど、俺に向けられる藍坂の視線を受けて、小さな違和感が産まれた。
「いや、でも、ウチの妹、そういうことあんま言わないしな」
「いや、でも、普通気付くだろ。俺が知ってるくらいだぜ?」
「そう言われましても」
そう言われても、気付かなかったものは、気付かなかった訳だし。普通と言われても困る。妹の様子は、特段いつもと変わりないし。普通だし。
てかあいつカレシできたのか。とんでもねぇな。藍坂と昼一緒に食べてまだ十日も経ってないぞ。
「あのな。前々から思ってたけどさ、お前はもうちょっと周りのことに目を向けた方がいいと思うぞ」と、藍坂が言う。彼の瞳は、どうしてだか俺を非難するような色を帯びていた。
でも、その真意を俺は測りかねる。
「いや……普通だって」
「普通ではない」藍坂が深く嘆息した。「じゃあ、聞くけどさ――」
俺と藍坂の間にある空気がヒリついた。焼けるように肌が冷える。藍坂が何かを言おうとしているのは分かるが、何を言われるのかまるで分からなかった。
「お前、相川さんがこの前告白されたって話、知ってるか?」
「は? え!? は? マジ?」
「やっぱ気付いてないよな……」
藍坂が、教室の端で友人と談笑している相川を一瞥した。
えー……、めちゃくちゃ驚いたんだけど。驚愕。
相川は俺と同類だと思ってた。なんかショックだ……。すごい、ショック。
「それ、いつの話?」
「二週間前」
「最近も最近じゃん……」
丁度、俺が藍坂に妹のことを持ち掛ける少し前だろうか。
「たぶんクラスの半分以上は知ってる。なのに、割と頻繁に相川さんと喋ってるお前が知らないのはおかしいだろ」
「いや、近すぎる故に気づけなかったという可能性も」
ほら、ドラマとかでよくあるやつ。
藍坂に睨まれたのでそれ以上は何も言わないでおく。
「てか、相手は誰なんだ?」
そう尋ねると、藍坂がまた嘆息して、静かに言った。
「俺」
「…………え」
「ウソじゃないぞ」
「ぇえええええええ」
真顔で言わんでくれるか。マジで死ぬほどビビったんだけど。
「え、え、……マジか、マジか、なんかショックだわ」
ひとりで取り残された感が半端なかった。
「え、で、せ、成功したの?」
心臓がドクンドクンと跳ねた。
「あのさ……、成功してたらお前の妹と映画行こうと思うか?」
「……あ、いや、なんか、それは悪い……」
「はぁ……」と、分かりやすいため息が落ちた。
「いや、なんかここ最近、お前が相川と話してる姿見ないな、とは思ってたけど」
それまではそこそこ会話してる姿を見かけた覚えもある。藍坂が相川に話しかけている姿が。……というかこいつ、相川のこと好きだったのか。
全然、気付かなかった。また、取り残されたような気分を覚える。
「そこには気付いてるんだな。そこで察せよ」
「無茶言うなよ……」
藍坂が俺を見る瞳に非難の色は既に無く、彼はただただ呆れたように首を振った。
その日の夜は冷え込んで、酷く寝苦しかった。
何か悪夢を見たような気もするが、起きた時、俺はその内容を何一つ思い出せなかった。
次の土曜日、妹がウチにカレシを連れてきた。
妹に絶対に部屋から出て来るなと言われたので、しばらく部屋で本を読んでいた。……のだが、そこまで言うなら俺が家に居ない方がいいよなと思い立ち――、家から出て行こうとしたら廊下で妹のカレシと鉢合わせた。
絶妙過ぎるタイミング。きっと神のイタズラ。カレシくんはトイレに行くところだったと思われる。
妹のカレシは、さわやかな好青年を思わせる整った顔立ちをしていた。モテそうだな――と、一目見て思った。
軽く会釈してその場を無言で通り過ぎようとしたところ、カレシくんに腕を掴まれた。
「あの、少しいいですか?」
「……なんでしょう」
「あまり僕の口からこういうことは言いたくないんですけど。少し彼女から離れてもらえませんか?」
彼女――とは、妹のことだろう。
しかし、離れろと言われても同じ家に住んでいるのだから、難しい相談だ。
俺がどう答えたものかと悩んでいると、カレシくんが口を開く。
「彼女も迷惑してるんです」
「…………」
「流石に気持ち悪いです。高校生にもなって妹離れできない兄ってどう思います?」
どう、思うか。
ここで、特に何とも――と返すのがマズいことは、流石に分かる。
「だんまりですか? ホントは自覚してるんですよね。それって余計にタチ悪いですよ」
カレシくんに軽蔑するような目で見られる。ゴミを見るような――そういう目付き。
「今まではどうなのか知りませんけど、今は俺のカノジョなんです。少しは自重してください」
言いたいことだけを言うと、カレシくんはさっさとその場から去っていった。
見た目と中身が随分と違う印象を受けた。
あと、きっと彼と俺の間には、致命的な認識の違いがあることも、分かった。たぶんね、なんとなく。
あと、彼の人間性をどういう言いたくはないが、妹が良いなら別にいいんだけど、あんまり妹と長く付き合っていて欲しいタイプではないと思った。思っただけ。こういうところが気持ち悪いのかな。
割と傷ついた胸を押さえて、俺は家を出た。
週明けの学校。休み時間。廊下を歩く。窓の外は雨。
自販機に飲み物を買いに来たところ、相川とばったり出会った。
自然と、一緒に教室に帰る流れになった。
「あのさ」と、俺は相川に尋ねる。「俺って、そんなに気持ち悪いかな」
「なに、いきなりどうしたの。そんな当たり前のこと聞いて」
「あの」
「冗談だよ」相川がからからと笑う。「妹ちゃん関連のことでしょ? 何があったの?」
昔からそうだが、相川は何かと察しがいい。たぶん、俺と違って。
「妹のことと言えば、そうなんだが……」
「なに、お兄ちゃんなんて嫌いって言われた?」
「オトウトにね」
「そういえば妹ちゃんカレシできたんだっけ」
察しが良い。そのことについては相川も知っていたらしい。
相川は逡巡するように「んー」と唸ったあと、俺を見る。
「まぁ、あんまり気にしなくていいと思うよ。これからも多分同じようなことが起こると思うし」
「起こるんですか」
「まぁ、君が妹ちゃんから距離置かない限りはね」
「うーん……」
「そこで悩むのが、君だよね。さすがシスコン」
本気で呆れたように相川が言った。
ばつが悪くなったので、話題を変える。
「そういえば相川さ」と、勢いで口にしてしまって、やっぱりやめておこうと口を閉じる。「いや、やっぱりなし」
「おいこら、そこでやめるのは卑怯」
「じゃあ言うけど……、相川って藍坂に告白されたの?」
「……やっと気付いたんだ」
より正しく言うなら気付かされたのだが、そこは黙っておく。
「どうせ気付かされたんだろうけど」
「その察しの良さはどこから来るの?」
「ふふ、すごいでしょ? 本当に気付かなかったんだね」相川の視線が、そっと、優しく、俺を射抜く。「私も、藍坂くんも、妹ちゃんもこんなに近くにいるのに」
「……なんでそこで妹が出てくるんだ」
「なんでだろうね」
いたずらっぽく笑う相川。その瞬間、後ろから頭を叩かれた、パシンと。
振り返ると、そこにいたのはなんと妹だった。
一目で彼女が不機嫌であることが察せられた。
「なんでこんなとこにいるの?」と、妹が言う。
一瞬、俺に言われたかと思ったが、妹が向ける視線の先は相川だった。
相川はそれに応えるように言う。「ごめんね。でも別にお兄ちゃんを取っちゃった訳じゃないから」
「……なんでそーゆう話になるの? 意味分かんない」
「あ、だったらよかった。じゃあもうそろそろ授業も始まるし、早く教室に戻ろっか」
相川が俺を見やって、歩みを進める。
居心地の悪さを感じながら、俺は相川の背中を追う。――が、グッと後ろから襟を引き寄せられる。喉が絞まって一瞬死の世界が見える。
ゴホゴホ咳き込みながら、俺は振り返った。
「今のはヤバいって……」
「お兄ちゃんはここに残って」
「…………悪い相川。先に行ってて」
「はいはい、分かりました」
特に気にした様子もなく、相川はその場を離れていく。
妹はその背中をずっと睨むばかりで、俺に何かを言う様子もない。
が、不意に妹が言う。「あの女のこと、好きなの?」視線は相川が曲がった廊下の角に向けられたままだった。
「え? あー……、どうだろう、な」
曖昧な返事をすると、相川を追っていた鋭い目線が俺に突き立てられる。
怖い。
そのまま無言の視線に耐えていると、授業の開始を告げるチャイムが鳴った。
「おい授業始まったぞ」
「……お兄ちゃん。あの女だけはやめておいた方がいいよ」
それだけ言うと、妹は俺の足を踏みつけてからその場を去っていく。
「はぁ……」
頭を掻きながら嘆息して、俺は教室の方に向かう。普通に遅刻で怒られるな、これは。
すると廊下を曲がったところで、相川とぶつかりそうになった。
「チャイムに助けられたね」
「先に行ったんじゃないんですか」
「君だけが怒られるのは可哀想だからね。……っていうのは建前で、妹ちゃんがなんて言うか気になっただけ」
「……相川はさ」
「うん」
「なんでそんなに、俺たちのことを気にするんだ?」
「言ったでしょ。なんかほっとけないって」
「お母さんかよ……」
思わず呆れてそう言うと、相川はクスクスと笑った。
相川はひとしきり笑ったあと、両手を挙げて「んー」と大きく伸びをした。
目の前で、夏服で、そういうことをされると、目のやり場に困った、非常に。
「ここでさりげなく目を逸らすのが紳士なんだけどね」
相川には、たまに俺の全てを見透かされているんじゃないかと思う時がある。
「じゃあ、一緒に怒られにいきますか」
そう言って、相川は俺に背を向けた。
スマホが行方不明になった。
夜、風呂に入ったあとに自室に戻って、スマホがないことに気付いた。
確か、ベッドの上に放っておいたと思うんだけど、どこにも見当たらない。
ベッドと壁の隙間を覗いてみても、ない。
「……ないな」
俺のスマホちゃんどこ……。
ここのところ、スマホを見失う機会が多い気がする。片時もスマホを手放さない現代人としての自覚が足りない。若者失格だ。……マジでないんだけども。
リビングに置いてきたかな。
首を捻りながら部屋を出て階段を降りる。リビングに通ずる扉を開こうとしたタイミングで、中から妹が出てきた。せっかくなので聞いてみる。
「あ、なぁ俺のスマホ見なかった?」
「知らない」
「そっか」
結局、スマホはリビングのソファの上にあった。ロック画面を見ると、たった今届いたと思しきラインが届いていた。
『ねぇ、わたしのこと、きらいなの?』
送信者は、去年一緒のクラスだった田中さんという女の子。
メッセージの意図がよく分からなくて、首を捻る。
彼女とのトーク履歴をさかのぼると、最後のやり取りは二週間前。本当にどうでもいい雑談のような会話で終わっている。
去年、田中さんと一緒のクラスだった時は、何気に話す機会が多かった覚えがある。クラスが別々になってからもちょくちょくラインが来ていたが、そう言えば最近は音沙汰がなかった。
『ねぇ、わたしのこと、きらいなの?』
もう一度、彼女から来ているメッセージに目を落とす。
既読を付けてしまったので、何か返答しないとマズいだろう。どうしよう。
このメッセージの意図がまるで読めなかった。
……送り間違え、とか? ……いや、でも、これは――。
何と返信しようか悩みながら自分の部屋に戻って、ベッドに寝転んだ。
本当にどうしようか――と、目をつむって考える。
――本当に気付かなかったんだね。――こんなに近くにいるのに。
瞼の奥の暗闇から、幻聴がした。
先日、相川に言われた台詞だが、彼女の声とは少し違った響きに聞こえた。でも、とてもよく聞き慣れた声。
気付けば俺は眠っていて、たぶん夢を見ていた。
たぶん――というのは、俺が五感で認識するその世界があまりにリアルで、そこが夢なのか現実なのか自信が持てなかったからだ。
そこは終わりの見えない青々とした草原で、頭上に広がる空は群青で塗りつぶされていた。雲一つない快晴。どこか――原風景のような光景。
どうみても夏の真っただ中にあるその場所は、しかし、どうしようもなく冷え込んでいた。
さわやかな風がサッと吹いて、さぁさぁと音が奏でられる。草の香りがした。
あまりの寒さに俺が腕をさすっていると、背後から声がした。
「お兄ちゃんは」と、誰かが言った。
振り返ると誰かがそこにいて、俺に向かって口を開く。
せらせらと夏を照り返す川のせせらぎを感じながら、俺たちは肩を並べた。
「お兄ちゃんは――いや、お前はさ」と、ソイツが言う。「お前はたぶん、甘えてる」
俺は黙って、ソイツの言葉の続きを待った。
「心のどこかで、しょうがないと思ってる」ソイツは言った。「他の奴らと違うから、しょうがないんだって。俺も。私も」
ソイツは言う。「でも、しょうがないのままじゃいられないんだよ。だから、自覚しないといけない。他の奴らと違うなら、なおさら、そのままじゃいられない」
「そう言われてもな……」
思わずそうこぼすと、ソイツはせらせらと笑った。「もう死ねよお前」
「お前さ」と、ソイツが俺に言う。「あの女のこと、好きだろ?」
「え」
「相川だよ」
ドクンと、心臓が跳ねた。イヤな跳ね方だった。
「小学生の時からずっと近くにいる、気の合う異性。まぁ惚れる理由としては自然だな」
「あのさ、これ何の話な訳?」
「要するに」と、ソイツが言う。「お前は惚れた異性の周りで起こってる色恋沙汰にすら、気付かなかった訳だ。その上相川とは、毎日教室で顔を合わせてるんだぜ、お前は」
せらせらという穏やかな笑声が鳴った。まるでセミの声みたいに。凍えそうだ。
ジリジリと、何かが俺の肌を焼いている。俺を焼いているのがソイツの言葉なのか、空で輝く太陽なのか、俺には区別が付かない。でも俺はそれを、氷のようだと思う。
「でも別に、そこは問題じゃない」と、ソイツが言う。「それはただ、お前がクソ鈍いアホってだけの話だからな」と、ソイツが言う。「問題は、お前がそれをしょうがないって思ってることだ」
「だから――」と、ソイツが言う。「結局甘えてんだよ、お前も、私も」
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