2


 目を覚ますと、意識を失う前から五分も経っていなかった。

 俺はグッショリと冷たい汗をかいていて、肌はヒリヒリと焼けたようだった。

 たぶん、俺は、今までと同じようにはいられない。なんとなく、そう思った。

気付かなかった前には、戻れない。

 だから――と、俺はドクドクとのたうつ心臓を胸の上から押さえつけて、相川に電話をかけた。しょうがないじゃダメなら、行動するしかない。

 数秒後に、相川の応答がある。

『どうしたの? 意外だね、君が電話なんて』

「あぁ、実はさ」

『うん』

「ちょっと、相談したいことがあって」

『へぇ?』

 この状況を愉しむような声が返ってくる。可笑しそうに微笑む彼女の顔が、ありありと脳裏をよぎった。

「田中さん、っているだろ、去年同じクラスだった」

『いるね』

「田中さん、って、あー、あれだ。なんて言えばいいのか分かんないけど」

『うん、なに?』

 今の俺が抱えている疑問を分かりやすく伝える表現が出て来なくて、俺の口が開いたまま固まる。そのあと数秒を置いて、こらえきれなくなったように相川が言った。

『告白でもされた?』

「はぁ?」

『あ、やば――』と、慌てたような声。『ごめん今のナシ』

「……いやいや」

『さすがにナシは無理だよね……。あー、やっちゃったなぁ』申し訳なさそうに、後悔したように相川が言う。そして、気を取り直すように言う。『まぁいいや。いや、よくはないんだけど、女子は割と知ってるし、なんていうか、君にはこれくらいハッキリ言った方がいい気がするし。……言い訳だけど』

「あぁ、そう……」反応に困りながらも、どうにか言葉を返す。

『でもまぁ、君にしては珍しくいい判断だったんじゃないかな、私に電話したのは、うん。とにかく、何があったか知らないけど、田中さんのその気持ちは前提にして対応してあげてください。……これでいい?』

「よくはないけど、たぶん、いいと思う。大丈夫」

『そっか。じゃあ他に何かある?』

「……。いや、大丈夫、ありがとう」

『ん、じゃあね。あ! あと、私が田中さんの気持ち君に言っちゃったことはナイショで! お願いします。マジ。じゃあね』

「あ、あぁ。じゃあ――」

『あ! 待って!』

「なんですか」

『一つ……、聞いていい?』

「なに」

『君は、田中さんのこと、どう思ってるの? 正直に答えて欲しい』

「……ハッキリ言えるのは、元クラスメイトってことくらいだと思うけど……」

『ほんとに、それだけ?』

「あ、あぁ」

『……ふーん。そっか、分かった。じゃあね、またあした』

「おう……」

 そして相川との通話が途切れる。

 最後のやり取りに妙な違和感を覚えながらも、俺は田中さんとのトーク画面を開き直す。

『ねぇ、わたしのこと、きらいなの?』

 少し悩んで、俺はそれに対する返信を――電波に乗せて送った。


「ねー、お兄ちゃんー」

「ん?」

 六月最後の日曜日、お昼時。天気は、どうしようもない晴れ。

自室のベッドで寝転びながら本を読んでいると、いつの間にか俺の部屋に妹がいた。

 ぐでーっと溶けるように床に寝てスマホをいじりながら、妹がこぼす。

「あついんだけど」「暑いな」「あつい」「そうだな」「ねぇお兄ちゃん」「なんだよ」「テスト勉強、しなくていいの?」「した方がいいな」「しないの?」「お前はいいのかよ」「ねぇお兄ちゃん暑い」「リビング行ってこいよ、クーラーあるだろ」「お兄ちゃんなんでこんな暑い部屋にこもってるの? バカじゃないの?」「自分の部屋にいるくらい好きにさせてくれ」「ねぇお兄ちゃん暑い」「そうだな」「暑い……」

 あつい暑いと連呼する妹の言葉をてきとうに流していると、妹のスマホに着信が入った。

 やかましく着信のメロディを流すスマホを、妹は舌打ちまじりに睨みつけて黙殺する。

 しばらくして、着信が止んだ。

「いいのか?」「いいの」「カレシか?」「うん」「え。いいの?」「もういい。どうせ別れるし」「えぇ……」

 いや、まぁ、俺が口出しするようなことじゃないんだけどさ。

 あなたがそれでいいなら、いいんですけども。

「ねぇお兄ちゃん」恋人の電話をガン無視した後ろめたさなど一切感じさせない声で、妹が言う。「あつい」

「お前はそれしか言えんのか?」

「だって暑いじゃん!」

「じゃあお兄ちゃんとプールでもいくか」

「絶対にイヤ、あり得ない」

 即答で拒絶される。

 冗談だって。

「じゃー、コンビニ行ってアイスでも買ってきてやるよ。お前もくるか?」

「えー……、外出るのいや、あつい」

「じゃあちょっと行ってくる」

 ベッドから起き上がって、机の上のサイフを取る。

 その時、後ろから妹の声が飛んでくる。

「……まって、私もいく」


「あつい、あつい、ねぇお兄ちゃん暑い」

 燦々とした日光が照りつける中、コンビニを目指してひた歩く。

シャワシャワシャワとせっかちなセミの鳴き声が、そこら中で響いている。

「あつい、ねぇマジで暑い。お兄ちゃん、あついんだけど、ねぇ」

 背後からは、セミの合唱に混じって呪詛のような妹の呟きが聞こえてくる。俺を恨むような念さえこもっていそうだ。

 君が付いてくるって言ったんでしょう?

 コンビニにたどり着くと、一気にひんやりとした冷気が体を包み込む。

 砂漠の中でオアシスを見つけた旅人の気持ちが分かった気がする。

 そんなことを考えていると、妹がくしゅんとクシャミをした。

「ねぇお兄ちゃん寒い」

「早く買って出るか」

「うん」

 よりどりみどりのアイスたちを眺め、そのうちの一つを妹が指差す。

「これがいい」

「はいよ」

 二人分のアイスを買ってからコンビニを出た所で、見知った顔に出くわした。

 妹の見事な舌打ちが響く。世界を狙える舌打ち。

「ほんとに仲いいよね、二人とも」

 俺たちを見る相川の顔は、可笑しそうでもあり、呆れているようでもある。

 妹が相川を睨む目は、憎悪すらこもっているように思える。どうして、妹はここまで相川を嫌っているのだろう。

 相川は妹にとって一つ上の先輩で、小学校も、中学校も、高校も同じ。俺と相川が関わる機会が多いものだから、妹と相川が偶然顔を合わせる機会もしばしばあった。

 その中で、妹と相川が仲違いするような出来事はなかったと思う。あくまで俺の知る限りでは――の話だけど。

 妹はもう一度相川を睨んで舌打ちして、足早に相川の側を素通りした。俺はそれを追う。足元を見ていなかったせいで、水たまりを思いっきり踏みつけて靴が濡れた。ぬるい水が足をぐちゅぐちゅに湿らせる。

「じゃあまた明日ね」

 特に気を悪くした様子もなく手を振ってくる相川に「すまん、またな」と返して、俺は妹と一緒に帰路に着いた。

 その途中で、アイスを咥えながら妹がポツリと言う。

「私とお兄ちゃんって、そんなに仲良いの……?」「いや、普通だろ」「そうだよね。マジであの女死ねばいいのに」「こらこら……」「ねぇお兄ちゃんはさ」「なんだ」「私とあの女、どっちの方が好き?」「お前」「それって、どれくらい?」「残念ながら相川のために死ぬことはできないけど、お前のためなら死ねる」「ふーん。私は別にそこまでお兄ちゃんのこと好きじゃないけど」「なんだと」「ねぇ、私ってかわいい?」「世界一かわいい」

「……ふーん。そっか。なら、まぁ、いいや」


 相川と藍坂が付き合うようになった――という話を聞いたのは、それから三日後の、七月一日の夜だった。ちなみに妹から聞いた。

 その話を聞いたあと、俺の内なる動揺は中々のもので、我ながら笑えるほどだった。

 翌日、相川と藍坂の様子を観察してみると、二人がまた普通に会話するようになっていることに気が付いた。

 放課後、相川に確かめてみる。

「なぁ相川さ」

「どうしましたか」

「藍坂と、何かあったの?」

「あったよ」

 当たり前のように、そう返される。

「と、言いますと……?」

「前に告白された時は断ったけど、まぁ、色々あって、やっぱりオーケーしました」

「……藍坂、だよな?」

「うん」

「お、おぉ、それは……」

 ドクンドクンと、心臓が跳ねている。胸がヒリヒリと焼け付く。

たぶん、俺は、後悔している。

 その時、あぁ俺は本当に相川のことが好きだったのか――と、やけにすんなり呑み込むことができた。

「ちなみにそれ、いつの話?」

「んー、ほんとにこの前だよ。六日前、くらいかな」

「へぇ……」

「びっくりした?」

 いたずらっぽく、相川が笑う。

「あぁ、まぁ、そりゃ……」

「でも意外と早く気付いたよね、誰かから聞いたの? まだ知ってる人は少ないと思うんだけど」

「まぁそんな感じ」

「そっかそっか、まぁそうだよねー」

「そう、だよな。うん、まぁ、うん……」

 その夜、テレビのニュースキャスターが梅雨明けを告げた。


 また妙な夢を見た。たぶん、夢だと思う。そうであってほしい。

 頭上に広がるのは青い夏空で、あまりの寒さに俺は腕をさする。

 草原を流れる河川の縁に腰掛けて、俺はせらせらと笑う川を眺めている。川には、いつか見たような光景が映っている。

 妹が父親に怒鳴りつけられている光景だった。俺はただそれを見ている。すると、妹が父親に怒鳴りつけられた。 

 俺はその日がくるまで、まさか両親が離婚するなんて思っても見なかったのだ。

 でも、確かに予兆はあった。俺はただ、俺の家族の幸せを、俺と妹の――、父と母が俺たちをいつまでも無償に愛してくれる幸せを、ただ信じ続けていた。そこに生じたひび割れに気付きもせず、それが無様に崩れ落ちるその瞬間まで、ただ思い込んでいた。気付かなかった。

 あぁ、そうか。あぁ、今も昔も変わらないんだな――と。結局、あぁ。そうか。

 結局、変わっていない。しょうがないじゃダメだと分かっても、変わらない。

 あぁ、そうか。

 分かっていたはずなのに。

 誰かがせらせらと笑った。――ほら、結局甘えてる。

 でも、確かに予兆はあった。川の上流から、いつか見た光景がどんどん流れてくる。

 どんぶらこ、どんぶらこ。

 俺はただそれを眺めている。すると、母親が妹を突き飛ばした。俺はただそれを眺めていて、すると、母親が妹を突き飛ばした。

 シャワシャワ、せらせら、そよそよ。

 不意に、妹が母親に突き飛ばされた。しかしその時、妹が父親に怒鳴りつけられる。

 俺はただ見ているだけで、すると、俺は気付くことがあった。

 もしかして――と。

 俺が、妹にとってただどこまでも都合のいい兄で居続ける理由は、――もしかして、俺が妹を妹として愛しているからなどではなく――、妹がどうしようもなく可愛くて、ついつい甘やかしてしまうから、などではなく、もしかして――、もしかして。

――このどうしようもない後ろめたさから来ているのではないか。

 その思考に至った瞬間、俺は弾かれたように起き上がった。

 炎天下で走り続けたあとのように、俺は大量の冷たい汗にまみれていた。ぐちゅぐちゅに、濡れている。寒い。気持ち悪い。寝間着もベッドも汗で濡れるほどだ。痛い。ドライアイスを肌に押し付けたみたいに、全身がヒリヒリと焼け付くような痛みを訴えている。

 荒い呼吸を整えてから、俺は最後にもう一度深呼吸した。

 俺にとって妹は、妹にとって俺は――。どういう存在なのだろう。

 俺は妹に対して、どういう兄であるべきなのだろう。


 期末テストの一日目、ウチのクラスでささやかれているらしいこんな話を耳にした。

 曰く、俺が相川にフラれた――と。

「どうしてそうなる……」

 俺の気持ちとしては非常に否定しにくい噂だが、事実と異なっていることは確かだ。

 俺は別に相川にフラれた訳ではない。そう、決して、フラれては、いない……。

 胸が痛かった。こういう噂こそ、無自覚に気付かないまま済ませてくれたらよかったのに。何が悲しくてこんな噂……。あぁ……。

 帰り道、なぜか隣にいる相川がクスクスと笑う。

「まぁ、君と私は一緒にいることも多かったからね。昔からずっと。私がコウくんと付き合うようになったら、みんなが勘違いするのも無理はない」

「お前、藍坂はどうしたんだよ」

「コウくんは部活なので」

「あぁ、そうだっけ」

 なんでもテニス部は試合が近いので、特別にテスト後も練習しているらしい。大変だ。

「それはそうとしても、俺と二人はマズいんじゃないのか」

「大丈夫、許可は取ってるので」

「なんの許可だよ……」

 俺はそれ以上相川を突き放すこともできなくて、結局会話を続ける。

「相川って、藍坂のこと好きだったの?」

「うん、まぁ、カッコいいしね」

「じゃあなんで一回断ったんだよ」

「なんでだろう、私もよく分かんないや」

「なんだそれは……」

 頬を伝う汗を拭いながら、俺は肩を落とした。暑い。疲れた。

なんかもう、疲れた。つーか暑いな……。

「何なんだろうね」と、そっと呟いた相川の視線は、夏の空に向けられていた。

 彼女の横顔は、俺が昔から知っている彼女の横顔だった。胸が痛い。

「あ、ひこうき」と、相川の唇が動いた。

 彼女の視線の先を、俺も見た。

 群青に染まった空を切り裂くように、細く白いひこうき雲が伸びていく。

「夏だねぇ」と、のんびりした声で相川が言った。

 胸が痛くて千切れそうというのは、こういうことか――と、そう思った。


 テスト期間というのは、テストがあるかわりに学校が早く終わる。味の濃いものは美味しいかわりに健康に悪いみたいなもんだ。全然違う。

 とりあえず、テスト期間は家に帰る時間も自然と早くなる。

 帰宅後、俺は明日のテストに備えて付け焼き刃の知識を詰め込む作業に入る。

 俺が勉強の手を止めたのは日が暮れて夜の七時を過ぎた辺りで、空腹を感じたからだ。だから、手を止めた。

 そして妹がまだ帰宅していないことに気が付いた。

 妹が返ってきたら夕飯にしようと思いながら勉強を再開して――でも、結局妹が帰ってきたのは日付が変わる直前だった。

「お前こんな時間まで何してたんだよ」

「お兄ちゃんには関係ないでしょ」

 ふんと鼻を鳴らして、浴室に向かおうとする妹の背中を、俺は見つめる。

 今までにも、こういうことはあったと思う。でもそういう時、今までの俺がどうしていたかは、よく思い出せなかった。

「――いや、ちょっと待てって」

 妹を呼び止める声が、俺の口から漏れる。その声は、自分の口から発せられたはずなのに、まるで別の誰かの声のように聞こえた。

「は?」

 振り返った妹の顔はウザったそうで――でも、その表情の中には微かな驚きがあった。まるで、ずっと部屋に置いているぬいぐるみが急に言葉を発したみたいな、そういう――。

「……なに?」

 ピリピリとした声音。妹が俺を睨む。

「あー……、いや」俺は、妹にかける言葉をさがす。考える。「いや、流石にこんな時間まで連絡も無しに帰ってこないと、心配だからさ。それに今はテスト期間だし」

「……で?」

「あー、だから……。勉強とかしなくて、いいのか?」

 妹は困惑したように眉をひそめる。「テストとかどうでもいいし」

「いやいや、どうでもよくは、ない。勉強は大事だって」

「……ねぇもういい? 私シャワー浴びたいんだけど」

「じゃあ分かった。俺が勉強教えるよ」

「はぁ? お兄ちゃんが?」

「そうお兄ちゃんが。今日……は、もう無理だけど、明日と明後日の放課後、俺がお前に勉強を教える。付け焼き刃かもしれないけど、お前だって、良い点取れるなら取れた方がいいだろ? 赤点だとほら、夏休みに補講とかあるし、うん」

 妹は、どこか戸惑うような目で俺を見ていた。二秒、三秒と沈黙が続いて、不意に妹の口が開く。「……わかった」

 感情の読めない声だった。

 今の俺は、妹が何を考えているのか分からない。――いや、たぶん今までも、俺は妹が考えていることを分かっていない。

 妹は俺に背を向けて浴室に向かい、俺は妹の小さな背中が見えなくなるまで、その場にただ立っていた。

その夜は涼しく、夢は見なかった。


 期末テスト二日目の放課後、俺は俺の部屋で妹に勉強を教える。

「どうしてこんなこと勉強しなきゃいけないの?」「うーん」「こんなこと覚えて何の意味あるのか分からないし」「うん」「テスト終わったらどうせ忘れるし」「うん」「ねぇお兄ちゃん」「うん」「マジでこれ覚えてなんの意味があるわけ?」「うーん」

 やる気ゼロの妹に、少しでも点を稼ぐ術をどうにかこうにか教え込んでいると、机の上に置いていた俺のスマホが鳴った。

 ラインの着信――田中さんからだった。

「ちょっとごめん」と妹に断りを入れて、スマホを手に廊下へ出る。

 応答すると、『あ、今大丈夫だった?』という田中さんの声が聞こえた。

「あぁうん、大丈夫。どうしたの」

『あ、うん、ちょっとね』少し照れたように、田中さんが笑う。心なし、緊張しているようでもあった。『ちょっと、テストのことで聞きたいことがあるんだけど』

「うん」

 田中さんの聞きたいこととは、歴史のテスト内容に関する質問で――。

彼女曰く、去年の俺の歴史の成績が良かったことを思い出したから、聞くことにしたらしい。彼女の言葉に相槌を打ちながら、俺は彼女の質問に答える。

ふと、まるでたった今それを思い出したかのように、田中さんが言う。

『あ、そういえば、今日偶然聞いたんだけどね』

「うん」

『その、カナちゃんと、君が、色々あったーみたいな?』

 あはは、と何かを誤魔化すように田中さんが笑う。『それがちょっと気になって、あ、いや、全然変な意味はないんだけど、気になっちゃって』

「あー、いや、うん。なんか色々言われてるな」

 思わず、苦笑する。その苦笑をやけに自然に発した自分を、なぜだか殺してやりたくなる。「別に俺と相川が何かあったとかは、全然ないよ」

『あっ、そうなんだ。そっかーっ』

 その瞬間、俺の部屋の扉が勢いよく開いた。

 ガンッと鈍い音が響いて、通話口の向こうで息を呑む気配がした。

 部屋から出てきた妹は、俺の方に見向きもせずにトイレの方へ歩いて行った。

『……どうしたの?』

「いやごめん、ちょっと妹が」

『あ、そういえば妹……いるんだよね』

「あぁ」

『……この前まで、バスケ部のマネージャーだった子、だよね?』

「知ってるんだ」

『う、うん』

 俺と田中さんの間に静寂が落ちた。どちらともなく、じゃあ――と声を置く。

『テスト期間なのに急に電話してごめんね』

「いや、全然大丈夫」

『そう? よかった。うん、じゃあ……えっと』何かを迷うように、田中さんの言葉が続いた。ドクドクと心臓が跳ねた。『また電話……してもいいかな?』

 ここでダメだと断るやり方を、俺は知らなかった。――ほら、甘えてる。

「いいよ、俺の時間がある時なら」

『そ、そうっ? うん、また電話するね! テスト頑張ろうね! じゃあね!』

 田中さんとの通話が途切れる。

 振り返るとそこには妹がいて、妹は俺に言った。「ねぇ」と、不機嫌そうな声が響く。

「はやく勉強……、教えてくれるんでしょ」

「あぁ、うん。任せろって」

「これで私が補講になったら殺すからね、マジで」

「大丈夫だいじょうぶ、お兄ちゃんに任せとけ」

「頼りなさそう……」

 半眼で俺を見る妹に、俺は微苦笑を返した。

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