3


 四日続いたテスト期間が終わり、夏休みまであと二週間を切った。

 テストが終わったあとの妹はいつもより少しだけ機嫌が良く、テストの出来はそこまで悪くなかったのだろうと察せられた。

「ねぇお兄ちゃん」

 夜、ベッドに寝転んでスマホをいじっていると妹が部屋にやって来た。

「どうした?」「今回の私のテストの点が良かったらさ、服買ってくれない? 欲しいのあるんだよね」「良かったらって、ぜんぶ平均越えたらとか?」「は? いやそれは無理でしょ」「えー……じゃあどんくらいだよ」「ぜんぶ赤点回避したら」「えー……」「ねぇいいでしょ? お願い」

「じゃあ、こうしよう」

「……なに?」

「全部赤点回避して、どれか一つでも平均点越えてたら」

 妹は一瞬俺を睨んだが、すぐ思い直したように、自信ありげに笑った。

「じゃあそれで! 今回結構解けたし!」

「分かった、じゃあそれでな」


 日に日に気温が上がっていくのが、肌で感じられた。

 いよいよ本格的な夏が始まったのだと、誰も疑いようがなかった。

 そんな日であっても平日には学校があるし、朝から夕方まで俺たちは勉強する。

 当たり前の話。勉強は学生の本分なので。

 暑く晴れた空の下、テスト終わりにも続く授業に皆がだるそうにしていた。俺もその中の一人だった。心なしか先生もだるそうに見えた。

 ぼんやりとしている内に時間が過ぎる。妹は今何しているのだろう。

 昼休み、皆に冷やかされながら連れ立って教室を出て行く相川と藍坂を見やる。いくつかの視線が俺にも向けられている。

 同情されていると感じるのは、俺の思い込みだろうか。

 もし、それが、俺の思い込みなのだとすれば――。

 この世界は結局、俺の思い込みで形成されていることになる。ほら、結局この世界を認識しているのは、俺の脳みそな訳で、つまり、俺にとっての世界は、俺の思い込み次第でどんな風にも変わってしまう訳で――。

 バカなことを考えている。

 ぼんやりと思考を明後日へ逃がしながら、購買に昼食を買いに行こうと思い立つ。今日は何を食べようか。

 廊下へ出る。

「あっ」という、声がした。

 振り返ると、田中さんがいた。

「あぁ」と、俺は曖昧な返事を返す。

「奇遇、だね」と、田中さんが照れたように微笑む。

「あぁ、うん」と、俺は曖昧な返事を返す。

「どこいくの?」「購買に行こうかなって」「あ、お昼?」「そう」「じゃあ私も購買で何か買おっかな」「うん」

 気付けば、田中さんと並んで歩いている。

「テストの出来、どうだった?」と、田中さんが俺を見て首を傾げる。

「まあまあだと思うよ。いつも通り」

「そっかぁ。私は英語がちょっとヤバいかもー」

「田中さん、英語、苦手なの?」

「あ、えっとー、うん。そうなんだよーっ」

 田中さんの朗らかな返事に、ノイズが走る。

とても、とても些細な違和感。きっと今までの俺であれば、気付きもしなかったであろう仄暗い違和感。なんだろう――と、そう思って思い出す。

テスト最終日の前日に、田中さんと通話したな――と。その時に、田中さんが、英語が苦手で、明日の英語のテストがヤバいという話を何度もしたな――と。

 忘れていたことを謝ろうとしかけて、口を噤む。

 俺は一体、何様のつもりなんだろう、俺は。「もう死ねよお前」と、誰かが笑う幻聴がした。

 ――ほら、結局甘えてる。

 うるさいなぁ――と、全力で叫び出したくなった。もう死ねよ。

 ヒリヒリと冷える胸に手を押し付けて、すうはあと深呼吸する。

 急に立ち止まった俺を、田中さんが不思議そうに見ている。

「どうしたの?」

「いや」と、苦笑する。周りにも人がいて、廊下で立ち止まっている俺たちを不思議そうに見ている。

 ごめん何でもない――と言いたくなる気持ちを押さえ付ける。

 変わろうと思うだけで変われたら、結局誰も苦労しないんだよな――と、そんな当たり前の事実を今更――。あぁもうめんどくさい。

 胸が冷たくて千切れそうだった。

 俺は歩き始めて、田中さんも俺の横に並んで歩く。なるべく、ひと気のない方へ行く。

「俺さ」と、俺は言う。

「う、うん」

「好きな人が、いたんだけどさ」

「……うん」

「いや、たぶん、今も好きなんだと思うんだけど」

「そう、なんだ……」

 今、田中さんの顔を曇らせているのは俺だと自覚する。

「田中さんは……」と、俺は言う。たぶん今の俺には、こういうやり方しかない。「田中さんはさ」

「うん」

「俺のこと、好きなの?」

「…………うん」

 田中さんの泣きそうな声が聞こえた。俺は、今の自分の目が、田中さんを見ていないことに気付く。顔を上げて田中さんを見ると、彼女は泣きそうな顔をしていた。

「ちょっと……、ちゃんと話したい」

 人がいない――封鎖された屋上の扉前にやってくる。埃臭くて、蒸し暑い。肌にじっとりと汗が浮く。

 ひんやりとした壁に背を預ける。所在なさげに立っている田中さんと向かい合う。

 深呼吸をして、落ち着きを保つ。

「俺、フラれたらしくて」

「……うん」

「でも、何だろう、今ここでさ、じゃあ田中さんと、その、何だろう……。あー……。えっと、そうだな。だからと言って、そういう意味で仲良くなるのは、ちょっとできそうにない……というか。別に全然、田中さんのことが嫌いとかイヤって訳じゃないんだけどさ……。いや俺はフラれたんだけど」

「うん、大丈夫」

 すうはあと深呼吸した田中さんが目尻に浮いた涙を指で拭って、真っ直ぐ俺を見る。

「知ってた、から、私も。分かってたよ。……そりゃ、ちょっとは期待してたけど」

「あー、そうなの?」

「うん……。だって君は――」

 そう言いかけて、田中さんが視線を落とす。また、ノイズが走った。その違和感の正体を俺は突き止められない。

「ううん、何でもない。でもしょうがないよね、好きになっちゃったから」

「しょうがない……のかな」

「うん、しょうがないよ。ほら、よく言うでしょ?」と、田中さんが無理に笑った。「愛に理由はいらない、好きだから好きでいい――って」

 どこかで聞いた言葉だった。一体どこで聞いた言葉なのか思い出そうとしていると、田中さんが自嘲気味に言った。「私もさ……」

「私もさ」と、田中さんが繰り返し言う。「自分でもなんで君を好きで居続けるのか、よく分からないんだけどさ、でも、まぁ、しょうがないよね」

「……そっ、か」

「あの、一つだけ確かめていい? 正直な君の気持ちが聞きたいの」

「うん」

「私に、可能性はありますか?」

 田中さんに見つめられて、自分に問いかける。正直に答えるとするなら――。

「あると……思う、今は俺も色々ゴチャゴチャで、自分でもよく分からないけど、たぶん」

「君にとって私は、アリですか?」

 二つ目だな――と、つい笑ってしまって、俺は頷いた。「うん」

「そっか! そっかそっか」

 うんうんと田中さんが頷く。「ありがとう。私、これから頑張れる気がしてきた」

 田中さんが笑う。可愛いらしい笑顔だなと、素直にそう思う。

 これでよかったのだろうか――と思う気持ちを呑み込んで俺は笑った、曖昧に。


 夏休みまで残り一週間となった。

 もうあと二、三日もすればテストが返却されて、終業式があって、いよいよ夏休みとなる。

「田中さんと最近いい感じらしいね」と、相川が言った。放課後、帰り支度をしている時に、そう声をかけられた。

「いい感じ……なのかなぁ」

「いい感じだと思うよ、たぶんね」

「たぶん……」

「田中さん、可愛いよね」と、相川がワザとらしく言う。「それに良い子だよ、とても」

「そうだな」

「付き合っちゃえば?」と、相川が言う。

「やけに田中さんの肩持つよな、お前」

「まぁ、君のことが好きってバラしちゃった負い目もあるし。それに、ね」

「それに?」

「それには、それに」

「なんだよそれ……」

「最近妹ちゃんとはどうなの?」と、相川が話題を変える。

「いい感じだと思うよ」

「ほんとに?」

「まぁ、うん、たぶん」

「なるほど」

 意味のない会話をしていると思った。

「藍坂とは最近どうなんだよ、お前」

「いい感じだと思うよ」

「たぶんか?」

「そう、たぶんね」

 相川がクスクスと笑った。

 意味のない会話にも、きっと何かしらの意味はあるんだろうなと、ふと思った。


 テストが全て返却された。

 俺はいつも通り、全ての教科で平均より少し上くらいだった。

 妹は、赤点こそ一つも取らなかったが、平均点を越えた科目は一つもなかった。唯一、数学の片方が学年の平均点より一点だけ低く、かなり惜しかった。

「もうこれ平均越えたってことでいいよね」と、妹は言った。

「うーん」と、俺は唸る。「越えては……ないな」

「は?」

「いやまぁ、事実としてね、うん」

「でも私、がんばったでしょ?」

「頑張ったと思う、お兄ちゃんびっくり」

「でしょ?」

「うん」

「じゃあ、服買ってくれる?」

「うーん」

「買ってくれるよね?」

「はい、いいでしょう。まあがんばったしね」

「よっし! さすがお兄ちゃん。話が分かるよね」

 妹の笑顔を、俺は見る。美人だな――と、やけに冷静にそう思った。

 妹の笑顔と、相川の笑顔、そして田中さんの笑顔は、俺にとってどう違うのだろうか。

「……どうしたの、お兄ちゃん」

 俺に見られていることに気付いた妹が、不可解そうに眉根を寄せた。

「あのさ」と、俺は口を開く。

「……なに?」

「お前。俺にカノジョができたら、どうする?」

「…………」

 その一瞬、妹の顔が確かに歪んだ。彼女が俺を見つめる瞳に潜むソレが何色なのか、俺には分からない。ふと、昔の、いつかの記憶が脳裏に過ぎった気がする。

「別に、どうでもいいし。好きにすれば?」

 鼻を鳴らして、俺の部屋を出て行く妹。

「うーむ……」と一つ唸って、俺は腕をさすった。

 よその兄妹はどうやってコミュニケーションを取っているのだろうか――なんて、これまで気にもしていなかったことが、気になった。

 

 お祭りに行く約束をした。終業式の夜に、町外れの神社で開催されるお祭り、縁日。

 メンバーは、俺と、田中さんと、藍坂と、相川。

 ダブルデートというやつ……らしい。そういう約束だった。

 着実に外堀を埋められている気がしたが、案外悪い気もしなかった。

 終業式の前日、夏休み前の最後の授業を受け終えて、俺は家に帰る。妹の様子は、案外今までと変わらないものだった。

 ただその日、また俺のスマホが行方不明になった。まぁすぐに見つかったんだけどさ。

 ただ、それだけのことのなんだけど。


 終業式の朝、藍坂と話す。

「ようやく夏休みだな」と、清々しい顔で藍坂が言う。

「そうだなぁ」

 少しの間、俺たちの間に沈黙が落ちる。

「藍坂は」と、俺は言う。「きょうだいとか、いるんだっけ」

「いるぞ、妹が」

「え、マジ? いるの? ウチの高校?」

「いや、まだ中学生」

「へぇ……。いたのか……」

「まぁ、お前のとこほど、仲良くはないけど」と、藍坂が言う。

 俺と妹は、果たして仲が良いのだろうかと、俺は思う。

「仲、悪いのか?」と、俺は藍坂に尋ねる。

「いや、普通だと思うけど」

「ふーん」

「普通っていうか、ほとんど喋らないけど」

「喋らないのか?」

「そういうもんじゃないのか?」

「同じ家に住んでるのに?」

「いや、そりゃ」と、藍坂が困ったような顔になる。「小さい子どもの頃は、よく一緒に遊んだりもしたけど、まぁでも、そういうもんだと思うけどな」

「ふーん」

 また、沈黙が落ちる。

「なぁ」と、俺は言った。「俺達って、もう子どもじゃないのかな」

「子どもでは……ないだろ、さすがに」

「そっかぁ」

 そういう会話だった。


「ねぇ」と、終業式を行う体育館に向かう時、相川に声をかけられる。

「なんだ?」

「今日、田中さん学校来てないって、知ってる?」

「え、そうなの?」

「うん。その様子じゃ、何も聞いてないよね」

「いや、俺は何も……」

「そっか」

 相川の顔が、曇っていた。ふと視界の端に、窓の外の景色が映る。雲一つない、夏の快晴。誰かがどこかで「あっつー」と叫んだ。

「ラインしても、全然返信がないんだよね」と、スマホを見ながら相川が言う。ちなみにスマホの学校での使用は禁止されてる。

「風邪で寝てるとか?」

「だといいんだけどね」

「なんか心当たりあるのか?」

「ないけど……、でも」相川が俺を見る。その瞳は、誰かを責めるような色を帯びている。「まぁ、田中さんの返信を待つしかないんだけどさ」


 終業式が終わって、皆が各々の教室へ戻る。このあと、先生から成績表を貰ったら、いよいよ夏休みである。

 そして、俺の教室の注目は、俺に集まっていた。

 教室の中央で、俺は棒立ちになっていて、なぜか別のクラスの女の子に睨みつけられていた。先生はまだ来ていない。

 その女の子を、俺は知っていた。確か、田中さんと同じクラスの、田中さんと一番仲が良い女の子。

「あんたなんか死ねばいいのに」

 ドライアイスのように冷え切った言葉と共に、俺の頰に熱が走った。

 彼女に平手打ちをされたのだ。いわゆるビンタというやつ。

 たとえ相手が女子でも、本気でやられると相当に痛いということを実感した。

 ジンジンと頬が熱を持っている。

「ちょっと待ってよ」と、相川が間に割り込んで来る。「まだ話もしてないのに、いきなり暴力は」

「ちょっと、どいて。邪魔」

 彼女は興奮した様子で、俺を憎悪する視線で射抜いて、相川を横へ押しのけた。

 彼女がもう一度俺の頬を張る。バシンと乾いた響いた。

クラスの男子たちから「おぉ……」という小さな歓声が上がった。

「ちょっと!」

 相川が咎める声を上げた。

「なんでマイが、あんたみたいなヤツに」と、彼女が俺を睨む。

 頬を押さえて一歩下がった俺の腹を、彼女が全力で蹴飛ばした。

 俺は大きくよろめいて、背後にあった机で腰を打ってから、倒れた。

 凄まじく痛い。でも、キリキリと冷える胸の奥の方がずっと痛かった。

「もう死ねよ」と、彼女が言う。「あんた、絶対許さないから。マイが許しても、私は絶対」

 背中から相川に抱き着かれている彼女が、俺を睨んでいる。そこには嫌悪と憎悪しかこもっていないように思われた。

 ちょうどそのタイミングで、先生が教室に入ってくる。俺たちにスマホを向けていた奴らが、慌ててスマホをしまう。

 先生がバンと強く教卓を叩いた。シンと空気が冷え、皆が押し黙る。先生に注目が集まる。

「とりあえず成績表を配るので席に着いてください。あなたは自分のクラスに戻って。……事情は、あとで聞きます」

 落ち着いた対応だった。


 田中さんの友達が、どうしてあんなに怒っていたのか。

 どうにも昨日の夜、俺が田中さんにラインで酷いメッセージを送ったからだと――、とてもシンプルに言うなら、そういうことらしかった。

 でも、俺のスマホには、田中さんにそんなメッセージを送った履歴など残されていない。

 そもそも昨日の夜、俺は田中さんとラインのやり取りなんて、していない。

 田中さんの友達は、俺が証拠隠滅として、やり取りを全て消去したに違いない――と、そう言った。ラインは、自分が送ったメッセージも、相手から送られたメッセージも、綺麗に消すことができるから。

 俺はそんなことしていない――と、そう言っても、田中さんの友達がそれを信じてくれる様子はなかった。まぁ、無理もない話である。

 でも、問題はそこじゃない。問題は、俺は本当にそんなことをしていない――という部分だ。

 それ以上、田中さんの友達とは、まともな話にならなかった。先生は、俺たちの間でちゃんと話し合ってくださいと話をまとめて、いなくなった。

 誰もいない教室で、俺は相川と話をしていた。田中さんの友達は、気付いたらいなくなっていた。相川は、どうしてここにいてくれるのだろう。

 窓の外では運動部が威勢のいいかけ声をあげていて、校内からは管楽器の演奏が聞こえてくる。空は青かった。

「妹ちゃんだよね」と、厳しい声で相川が言った。

「どう……だろうな」

「だって、他にいないでしょ? そんなことができる子」

「いや、まぁ、うん、そうなんだけど」

「さすがにさ」と、相川が言う。「さすがに、ダメだよ」

「うん、まぁ」

「普通じゃ、ない」と、相川が言った。

「普通って、何なんだろうな」

「君はこれが普通だと思うの?」

 分からない――というのが正直な答えだった。よく、分からない。

 普通って、なんだよ。

 少しの沈黙を置いて、相川が言った。「君は、これからどうするの?」

「田中さんに、謝りに行く」

「誰が?」

「……俺が」

 相川が笑う。おぞましい笑い方だった。「君って、バカなの?」

「いや、うん、アイツが一番悪いのは分かってるんだよ。でも俺にも悪い所はあるし、それにさ」

「それに?」

「アイツが今、素直に謝ることは絶対にない。無理だよ、たぶん」

「ふーん」

 心底呆れたように、相川が俺を見ている。「まぁしょうがないか。今のとこは、ね。君は早く田中さんと会った方がいいと思うし」

「うん……。そこで相川に一つお願いがあるんだけどさ」

「はいはい、分かってるよ」

 席を立った相川が鞄を肩にかけて、小さく吐息した。「田中さんの家なら、私が案内してあげるから」

「……お願いします」


 相川と一緒に校舎を出ると、昇降口の側に妹の姿を見付けた。

 妹は、同級生と思われる五人の女の子と向かい合っていた。より正確には、睨み合っていた。

「あ」と、誰かが声をあげた。

 妹と、他の女の子たちの視線が、俺と相川に向いた。

 誰かが、舌打ちをした。

 ヒリヒリと、異様な空気が漂っている。

 女の子たちの内の一人が、「いこ」と、他の女の子たちに言う。その女の子は、妹に思いっきり肩をぶつけると、校門の方へ歩いて行った。他の四人の女の子は、それに続く。

「マジでキモい……」という、きっと俺と妹に向けられた声が、聞こえた。

 妹は酷く気まずそうに俺と相川を見て、校舎の中に戻ろうとした。

 俺はそこで、妹の歩き方に違和感を覚えた。足の裏をかばうような、そういう歩き方。

「あし、どうかしたのか」

「別に」

「いやでも」

 それ以上の俺の言葉を無視して、妹は校舎の中へ消えた。

 ふぅという小さな吐息が、俺の横から聞こえる。

どうするの? ――と、相川が目だけで俺に問いかけてくる。

「今あんま刺激するのも不味そうだし……、とりあえず田中さんの家に行こう」

「まぁ、君がそれでいいなら」

 間違ってると確信できる選択を、人は選択できてしまうんだなと、思った。


 田中さんの家に着いて、インターホンを鳴らす。すると、すぐに、まるで俺たちが来るのを分かっていたように田中さんが出て来る。

 相川が連絡を入れておいてくれたんだろうなと、なぜか察せた。

 俺たちの前に立った田中さんは、思っていたより元気そうだった。

 よかった。俺の気持ちも軽くなる。

「あのさ――」と、まず俺が口を開いた。「えっと、……ごめん」

 頭を下げる。誰かの苦笑の気配がした。

「どうして君が謝るの?」

 そう、田中さんが言った。彼女は、どこまで知っているのだろう。

「えー……っと」

 そっと顔を上げると、田中さんが苦笑している。隣を見るのが怖かった。

「うん、まぁいいや」と、田中さんが言う。「私も学校休んで心配かけて、ごめんね。あと、私の説明の仕方が悪くて、ムギちゃんが君に酷いことしちゃったみたいだし」

「あぁ、うん。俺は、大丈夫」

「ムギちゃんの誤解はちゃんと解いとくから、君が悪い訳じゃないって」

「うん」

「君じゃ……ないんだよね。私にあんなこと言ったの」

「俺では、ない。……うん」

 あんなこととは、どんなことだろう。

 昨日の夜、田中さんが受け取ったらしい酷いメッセージとやらの内容を、俺は知らない。

「そっか、うん、そうだよね」田中さんが、少しホッとしたような顔になる。「そっか」

「あのさ、今日のことだけど」

「あー、えっと」田中さんが、曖昧に微笑む。「うん、ごめんね。今日のお祭りのことだけど……、私は……。えへへ、なんかごめんね。そういう気分じゃ、なくなっちゃったから」

「うん、無理しなくていいよ」と、隣で相川が言った。

「じゃあ、私はこれで。また今度いっしょに遊ぼうね」

 胸の前で小さく手を振って、少しだけ無理のある笑顔を浮かべて、彼女は家の中に戻って行った。


「田中さん、泣いてたね」

 帰り道、ふと相川が呟いた。

「え?」

 歩みが止まる。相川が俺を見る、分かっていたように。

「目、赤かった。私たちが来るまで、泣いてたんだよ」

 俺は、気付かなかった。

「あと、たぶん今も泣いてる」

 相川が優しく微笑んで、俺を見た。

こんなに痛い優しさを、俺は他に知らなかった。

 俺に背を向けて、相川が言う。「さぁ帰ろっか。もう、夏休みだよ」


 その日の夜。

俺がベッドに寝転んで、閉じたまぶたの上に腕を置いてぼうっとしていると、妹がやってきた。

 視界を閉じていても、妹が本棚から漫画を取り出して、ベッドの縁に背を預けたのが分かった。

 一時間くらい、俺と妹は一言も言葉を発さなかった。

 ふと、俺の口から言葉がこぼれ落ちた。

「なぁ」

「なに……? お兄ちゃん」

「なんで、俺のスマホ勝手にいじろうと思ったんだ?」

「別に、……なんとなく」

「なんとなくで、やることではないだろ。さすがに」

 あぁ、間違えてるなと思う、どうしようもなく致命的に。

「知らない! そんなの私の勝手じゃん!」

 妹の投げつけた漫画が、俺の顔に当たった。


 そして妹は、いなくなった。

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