聖女の埋葬

狂フラフープ

聖女の埋葬

 まず聖女の話をしよう。

 それは神が地上に遣わした救済の奇跡。

 聖女の行く処には暖かな陽が差す。乾いた大地は潤い、枯れた森には命が芽吹く。

 その指は触れるだけで傷を塞ぎ病を癒し、その腕は万民に渡るまで無尽の聖餐を生み出し続ける。

 老いず飢えず、如何なる悪意も寄せ付けぬ。

 どんな害意も聖女を損なうことは叶わない。

 聖女に害を成すものは毒も刃も、意識の外より飛来する矢すらも、小さく可憐な赤い花弁へとその身を変じる。


 次に魔王の話をしよう。

 その身に宿る奇跡を、聖女は次代に譲り渡す。

 神の奇跡は、万世の係累は、そうして今に伝えられ、そして未来へ連綿と続く。

 先の聖女もまた、慈悲と救恤の信念に従い、己に与えられた祝福を、癒しと共に最も恵まれぬものに分け与えた。

 かくして聖女は花弁となり、新たな聖女が生まれた。

 それはあてどなく彷徨しながら、視界に映る全ての人と人の作りしものを花弁に変え続ける無辜の怪物。

 先代の聖女と共に、万の民草が花弁と化した。見渡す限りに広がっていた巨大な都市が、千年の長きに渡って都市を見下ろした巨大な城が、市壁が、街道が、舞い散る花弁となり空を地面を埋め尽くす。

 しかしその幻想的な光景を目にしたのはただひとり今代の聖女のみ。後に残されたのは血の海に似て広がる花弁の絨毯。

 その風貌を吟じ得る詩人は居らず、ただその爪痕だけが、その力を物語った。その瞳に映る絶望と、あまりに深い嘆きの叫びを響かせていた。

 人はそれを魔女、あるいは魔王と呼んだ。


 あれから十年と半分が経つ。

 千を超える村落と百を超える城市、十七の小国と二つの大国が滅んだ。

 幾人もの勇士が魔王に挑んだ。それは聖者であり、狩人であり、騎士であった。薬師が、罠師が、獣使いが、ありとあらゆる者たちがそれぞれの方法で魔王に挑み、ただひとつの末路を辿った。

 それでも誰かがやらねばならぬ。

 かの恐ろしき魔王を討ち取らねばならぬ。

 人はいつしか彼らを勇者と呼んだ。



 ***



 今私は諸君らを勇者と呼ぼう。

 勇ある諸君に、永劫謳われる誉れを与えよう。

 立たねばならぬ。

 集わねばならぬ。

 成さねばならぬ時が来た。

 未来を紡ぐ未曽有の勇者の軍勢よ。



 ***



 その男の口車に載せられ、穴を掘り始めてもう一月になる。

 隣の男がつるはしを振るう手を止めて、汗を拭って天を仰いだ。


「……これで本当に、魔王を殺せるもんなのかね」

 たしか左の市の端くれで、粉屋を営む男のはずだ。

 常は足下に踏みしめる大地が、今は見上げた先にある。

 梯子なくして二度と上れぬ高さの空堀は、既に街の外周を取り囲み、

「さあなあ。少なくとも、近寄れなくはなるんじゃないか?」


 すでに仮設の橋を介してしか、街に踏み入ることはできない。街の出入りに課せられる多大な手間に、文句を言うものは誰一人いなかった。

 如何に魔王が恐るべき力を持つとはいえ、しょせんは一人の人間に過ぎない。

 通れぬ道は避けて進む他にないはずだ。

 とはいえ魔王は視線だけでどんなものでも花弁に変えられる。

 地上に登れば、市壁や尖塔は目に入る。壁が花弁に変えられれば、その内の家々とて視界に入るだろう。

 安全とはとても言えないが、それでも助かる者もいるはずだ。

 市側の断崖には少しでも視線を遮れるよう、盛り土を積み上げている。

 ゆくゆくはこの大穴を偽装し、落とし穴として魔王を待ち受ける。

 しかしな、と隣の男は歯切れの悪い顔をしていた。

 気持ちはよくわかる。

 剣も矢も、それどころか毒や瘴気すら魔王には通じない。聞くところによると、魔王が渡る最中に橋を破壊して、深い川の流れに突き落とした技士が居たそうだ。

 魔王は死ななかった。花弁が川を堰き止めるまで、川の水は花弁に変わり続けた。


「お前の言いたいことはわかる。魔王は落下でも死なねえ。地面が花弁と化して魔王を受け止める。だがおれはあの人が演説した酒場に居合わせたんだ。魔王にとって脅威になるものが花弁と化すなら、花弁が脅威になる状況を作ればいい。自らの花弁で生き埋めにして殺す。それが魔王を殺す唯一の方法さ」

 隣の男は納得したようだったが、実のところ自分では疑っている。

 水も食物も陽の光も、およそ人が生きるのに必要なもの全てが、聖女の行く所に溢れていた。ならば地の底に落としたとて、人が生きるために必要な空気が、湧いて出てこないなどと考えるべきでないのではないか。

 さりとてそれ以上の策など浮かぶはずもなく、殺せるという可能性にすがる以外に自分たちに道がない。


 食事の配給を報せる鐘の音が響いたので、掘った土石を袋に担いで、二人で梯子を上った。地上は同じように手を止めた連中で溢れかえっている。

 飯に行列ができるのはいつものことだが、今日は何か様子が違った。

 盛り土の上に人だかりがある。

 何かを興奮気味に囁く彼らの下へ、急いで駆け寄った。


 開けた視界に映ったものに、思わず声を上げて呻いた。

 地平から、山のような人波が押し寄せている。尋常の様子ではない。

「昨日、隣の市の領主の旗を掲げた早馬が市内に駆け込むのを見たという奴がいた」

「それが魔王が来たという報せだったってことか? なぜ領主は黙っていた?!」

 人だかりは受け入れがたい現実を否定する材料を探して口から唾を飛ばす。

 だが疑う余地はない。魔王が来たのだ。


「くそ、こうなることは予想できた。どうすればいい……?」

「どうするもなにも、そのために大穴を掘ったんだ。俺は大穴を信じるぞ」

 遅れてやってきて状況を理解した粉屋が自分に言い聞かせるように宣言する。

 ここに至ってはもう何の役にも立たないだろうつるはしを強く握っていた。

「そうじゃない、逃げて来た連中をどうするかだ」

「だってそりゃあ、見捨てるわけには……」

「それで、魔王が到着したら橋を落とすか? 花弁になった人間がどうやって?」

 細い橋を順番に渡らせて、魔王がたどり着くまでに膨大な避難民を全て受け入れることなどできるはずがない。

 では都合のいいところで切り上げる? そんなことができるか? 対岸に残された人間には確実な死が待っているというのに。

「つまり、避難民を見捨てて、魔王が来る前から橋を落とすしかない」


 見ればわかる。飲まず食わずで昼夜を歩き通してきたであろう群衆に、これ以上逃げ続ける気力など残っていない。大穴を越えて市内に逃げ込むのが、唯一生き残る道なのだ。

 だが、その希望にすがる者たちが希望を踏みにじってしまう。

 収拾がつかないまま、人々が殺到し続けるうち、魔王がここに到達したとしたら、もう誰も橋を落とすことはできない。


 群衆の先頭が橋に届く。

 橋の検問にあたっていた者は、逃げてきた人々を市内に受け入れ始めてしまった。

 すでに流れ始めた人の群れはもはや制御もなにもない。

 そして、橋の吊り縄が切れた。

 自然に切れたのではない。誰かおれと同じことを考えたものが居たのだ。

 重量に耐えきれず橋が鈍い音を上げ始める。

 だが後方からくる連中の勢いは留まるはずもなく、橋前の人の密度はどんどんと高まっていく。


「不味いぞ、こりゃあ」

 呟きを聞きながら、却ってこれで良かったのだと思おうとした。

 だがその先は目を逸らしたくなる地獄だ。

 誘導にあたっていた者が群衆に押されて大穴へ落ちた。

 何人もの避難民が後方から大穴へ押し出され、狂乱する人波が加速する。ただでさえ悲鳴を上げていた橋が真っ二つに折れる。それでも後方からの圧力が減じることはない。

 大穴が命を吸っていく。

 死体の上に落ち一命をとりとめた者の上に次の者が落ちてくる。

 呻きと悲鳴、おびただしい苦痛の声が陥穽を満たした。

 ついさっきまで自分が掘っていた穴が、苦しみと死で埋め尽くされていく。

 俺たちはこんなことのために穴を掘っていたんじゃない。

 人々が悲痛な声を漏らしながら顔を覆う。

 違う。

 目を逸らしてはいけない。

 これは、こんなものは、これからやってくる絶望の前座に過ぎないのだ。


 そしてそれが来た。

 群衆の背景、人波の向こうで何かが風に吹き上げられる。

 それは小さく。

 赤く。

 風に舞う花弁が、


「伏せろ!」

 隣で呆然と立ち尽くす粉屋を盛り土の裏に引きずり下ろした。

 盛り土の上の人だかりが、花弁となって散る。

 背後で、街が消えた。

 自分に降り注ぐ無数の花弁に戦慄する。今の今まで人間だったもの。


 息を詰める意味などないと理解しているのに、恐怖がそれを許さない。

「大丈夫だ。橋は落ちた。おれたちは見た。奴はこちら側に来れない」

 歯の根を鳴らす粉屋に言い聞かせた言葉で、自分の少し落ち着くことができた。

 こうして盛り土の裏にいる限り、おれたちが死ぬことはない。

 だがいつまで待てばいい?

 魔王が去ったことを、どうやって確かめればいい?

 おれたちは飢えて死ぬまで、ここに釘づけられるのか?


「嘘よ、街が、」

 近くで女が泣き崩れている。

 中途半端な盛り土の壁は、街を魔王の視線から守りはしなかった。

 見慣れた故郷は跡形もなく消えた。友人も、家族も皆。

 盛り土の陰で生き残った人々の数を数える。

 七人。

 たったの七人だ。辺りを埋め尽くす避難民も、山ほどいた作業員も、兵士も、炊き出しの女たちも、誰も彼も死んでしまった。

 魔王が殺した。


 その魔王が、今も盛り土の向こうをうろついているのだ。

 恐ろしくてたまらなかった。

 恐る恐る鋤を盛り土の上に掲げる。花弁にならない。魔王は今、こちらを見ていない。

 しくじれば死ぬとわかっていても、見らずにはいられなかった。

 今にも泣き出すような恐怖に耐えて、盛り土から頭を出して周囲を窺う。

 はるか遠くまで続く花弁の絨毯の中に、ただひとつだけ、動くものがある。

 襤褸切れを纏った、長い長い髪の女。

 大穴の手前で立ち止まるその横顔に希望を見出す。

 その穴を越える手段などない。おれたちは助かる。そうであってくれと祈る。


 そして魔王は、大穴に身を投げた。


「おい、何が見えたんだ」

 粉屋が袖を引く。おれは呆然と答える。

「魔王が、自分から穴に落ちた」

 理由はわからないと口にしようとして、結局は言葉に出来なかった。

 わからない?

 自分の悪行を悔いて身投げをしたかもしれないと?

 そんなわけがない。

 魔王が何を望んで行動するかをおれは知っている。

 人間を殺すためだ。

 穴に落ちても、死なないから、容易く這い上がれる手段があるから、魔王はその身を投じたのだ。

 おれたち七人を殺すために。


 そして、終わりが始まった。

 七人の命を繫いだ盛り土が崩れ落ちていく。

 大穴のある一点から、すり鉢のように、大地が花弁へと変わっていく。


 花弁となるのは、魔王を害する人や、人の作り上げたものだけではない。

 人の作ったものでない大地や雲が花弁にならないのは、山や坂が魔王を害すことがないからというだけの理由なのだ。魔王に牙を剥くものは、川の水さえ花弁と化す。

 魔王を害するために人が作り上げた地形であれば、花弁へと変えられない理由など、なにひとつあるはずがなかった。

「魔王が、登ってくる! 私たちを殺しに来る!」

「もう終わりだ、お終いだ」

「嫌だ! 死にたくない!」

 生き残りが口々に喚き散らした。


「違う!」

 おれは叫ぶ。

 たった七人?

 違う。まだ七人もいるのだ。

「魔王がすぐ近くにいる! その通りだ! もうすぐおれたちの前に姿を現す!」

 ひとりひとり、生き残りを指差した。

 武器を無くした兵士。

 炊き出しの女。

 少年。

 初老の役人。

 髭面の親父。

 左の市の粉屋。

 そしておれ。


「七人だ! これほど多くの人間が! これほど魔王に近付けたことはない!」

 それは言い訳のようなものだった。

 絶望しないために、都合の良いことばかり口走った。

「かつて勇者は遥か山頂から魔王の姿を一目見るために命を懸けた! 刃の届く距離まで近付くために、飢えと恐怖に耐え、来るかもわからぬ魔王を待ち続けた! 己の技に生涯を捧げた者たちが、視界の端に捉えられるだけで花弁と散って死んでいった!」

 だが言葉が勇気をくれる。ほとんど口からでまかせだった叱咤激励が、自分自身さえ立ち上がらせ、立ち向かう勇気をくれた。

「おれは見たぞ! 誰も見たことのない魔王の姿を! だがまだ生きている!」

 

 魔王が今、どこにいるか知っている。

 魔王がどこから現れるか、知ることができる。

「いいか! おれたちは! いまだかつてない好機に立っている! 武器を取れ!」

 おれは叫び、鋤を空高く掲げる。

 なんて無様な勇者だろう。だがそれでも希望はあった。

「畜生! 俺は! 俺はやるぞ! やってやる!」

 涙と鼻水を垂らしながら、粉屋が立ち上がった。

 つるはしを、包丁を、鍋釜を、ただの棒きれを持った名も知らぬ勇者たちが集う。


 足元が揺らいだ。

 確たる地面は消え失せ、花弁の海に足首まで浸かる。

 花弁の海が僅かに動いた。

 魔王が、地の底から上がってくる。

 魔王が全員を同時に視界に捉えられないよう、囲むように武器を構えた。

 ほとんど泣き声のような虚勢を張って、七人が叫ぶ。

 そして、魔王が現れた。

 二人が死んだ。

 誰よりも早く兵士が打ちかかり、三人目の死人と化す。

 少年が棒きれを振るって死に、女も死んだ。

 おれの叩き付けた鋤は手応えもないまま花弁と散って、視線に捉えられた粉屋が花と化した。

 空に消えた鋤の勢いで、足を滑らせて倒れ込む。

 振り向く魔王の足元に転がって視線を避けることができたのは全くの偶然だった。

 時を置かずに、魔王の視線という死が追い付くのは必然だった。

 何か、何かないのか。

 這いずった手先に触れたのは、女の持っていた、小さな手鏡。

 こちらを振りむく魔王の眼前に、苦し紛れに差し出した。


 目を開けたとき、魔王の姿はどこにもなかった。


 ***


 かくして魔王は滅び、世界に平穏が訪れた。

 さあ、勇者の物語を語り継げ。

 彼らの雄姿を讃えるためでなく。いつか来たる次の魔王に備えるため。

 

 心するがいい。

 聖女がその祝福を他者に譲り渡すことなく命を落としたことは過去にもある。

 聖女の力は不滅である。

 道半ばで聖女が死したとき、いつか聖女と同じ資質を持つものが現れ、聖女の祝福はその者に宿ると伝えられている。

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