〈オス〉って何

隠井 迅

学園祭、完全なるアウェイ

 それは、二〇一九年の初夏の、とある日曜日の事であった。


 大学二年生の佐藤秋人(あきひと)は、早朝便のLCCの飛行機が新千歳空港に到着するや否や、空港に隣接しているJRの駅にて、小樽行きのエアポートに飛び乗った。

 秋人は札幌出身なのだが、今回の彼の向かい先は実家ではなく、「北広島」で、この駅から約二キロの所に位置している大学であった。

 というのも、この日、北広島の大学では学園祭が開催されており、その屋外ステージにおいて、秋人の〈最オシ〉である、アニソン・シンガー、〈真城綾乃(ましろ・あやの)〉、愛称〈あやのん〉のミニ・ライヴが、十三時から催される事になっていたからである。

 北海道出身のあやのんは、所属事務所が札幌なので、道内で開かれるイヴェントに頻繁に呼ばれているのだ。


 ちなみに、今回の北海道遠征において、秋人は実家に立ち寄るつもりはない。

 六月末は、大学の春期講義期間で、月曜の午前中には必修講義もあるので、日帰りの予定なのである。


 朝一の飛行機を使っても、この日の〈現場〉である、北広島の大学への到着時刻は、早くても午前十時、最前列を狙うイヴェンターにとっては、完全なる出遅れである。それゆえに、今回は〈最前〉は難しいかも、と秋人は半ば諦めていたのだが、いざ、ステージが設置されている、キャンパスの中庭に到着してみると、ミニ・ライヴ開始の三時間前であるその時刻、ステージ前に居たのは〈おまいつ〉、あやのんの〈現場〉に必ず居る、いつものメンバーだけであった。ちなみに、おまいつとは、〈おまえいつもいるな〉を縮めた表現である。


 そのおまいつの中には、秋人が中三の秋の初めに、北海道のアニソン・フェスで出会い、それ以降、イヴェンターの〈師匠〉と仰いでいる〈ふ〜じん〉の姿もあった。

 秋人は、最前列のセンター・ブロックの上手側で、本を読んでいた中年男の右隣の席に座った。


「お早いございます、シショー、今日も安定の〈最前ドセン〉ですね」

「シュー、今、来たんか。

 ワンマンとかは抽選だから、運任せになるけれど、こおいったタイプの、来た順のイヴェこそ頑張らんと。昨日は札幌泊で、朝一に此処に着いたんだけれど、結局、今いるのは、シューも含め、おまいつだけなんだけどね」

「やっぱ、地方の学園祭って、人の集まりが悪いんですね」

「だな。ワンマン・ライヴとかだと、おまいつではなくても、遠征するヲタクは、それなりにいるんだけれど、リリイヴェや学園祭のミニ・ライヴのために遠出するのは、やっぱり、難易度高めなんだよ。

 でもさ、こおした客が少なめのイヴェにおいてこそ、ヲタクは試されるってものなんだよね」


 秋人の〈現着〉から三時間——

 十三時からのミニ・ライヴ開始の直前になると、キャンパスの各所から、ステージを見物するために、学生がワラワラと集まってきたものの、明らかな真城綾乃目的の客の数は、さして多くはなかった。

 つまり、今回の状況は、演者の真城綾乃にとっても、あやのん目的の観客達にとっても、完全なアウェイという事になる。


 ミニ・ライヴが始まる前に、演者を呼び込むための〈SE(サウンド・エフェクト)〉が鳴り出した時、隣のふ〜じんが、秋人に囁いた。

「シュー、のまれるなよ」

 この時、周りが学生や地元民だけという状況に、自分が完全に萎縮してしまっていた事を自覚して、秋人は気合いを入れ直した。

 

 そうだ、今、自分が意識を差し向けるべき相手は、観客席の周囲などではなく、ステージに出てきた〈最オシ〉の真城綾乃なのだ。

 やがて、ステージの真ん中に立った〈おしろん〉は、歌い出す直前の刹那の瞬間に、最前列のセンター・エリアに居るおまいつ達に視線を向けて、何度か軽くうなずいたように秋人には感じられた。


 そして、一曲目のイントロが流れ出すと――

 真城の曲を聴きに来ているファンしかいないワンマン・ライヴや、参加するためにCDを買っているリリース・イヴェントではない、学園祭のミニ・ライヴという、この完全なるアウェイ状態においても変わることなく、おまいつ達は、全力で声を出し、思い切り腕を振り上げ、全身全霊で、真城綾乃を〈オシ〉切ったのであった。


 ミニ・ライヴの終了後、おまいつ達と北広島駅で別れ、東京にとんぼ帰りする秋人は、空港行きの列車に揺られながら独り考えていた。


 真城綾乃を〈好き〉な〈ファン〉はきっと沢山いる。

 ファンにも、単に曲を楽しむだけの〈FUN〉と、熱狂的な〈FAN〉がいるわけだけれど、〈オス〉にも色々あるのではなかろうか。

 ヲタク達が、今なんとはなしに使っている「おす」は、〈気に入った〉程度の意味合いしかないように思われる。秋人も、フェスや対バンなどで偶然知った演者に対して、軽率に「おせる」などと言ったりもしている。

 これに対して、意図的に「推す」という漢字を使った場合、この〈推〉に含まれているのは、自分の好きな対象の素晴らしさを拡散させる事、つまり、推薦や〈オススメ〉といった気持ちが込められ、秋人も、この意味で、〈推す〉や〈推し活〉という語を使う事がある。


 さらに、である。


 この日の完全なるアウェイ環境において思った事があった。

 周りが、演者のファンだらけ、つまり、ホームの時には応援行為をするのは容易い。

 だが、おまいつしか居ないような状況の時、心細い気持ちでいるのは、観客席にいるヲタク達だけではなく、ステージ上の演者もまた同じなのかもしれない。

 周りにのまれて、恥ずかしさから、微動だにせず、声も出さないようでは、オシをオシている事にはならない。

 こうした完全なるアウェイの時にさえ、全身全霊で想いを届け、心細さを覚えている〈最オシ〉を精神的に支える事、その背中を押す事こそが、〈オス〉とゆう事なのではなかろうか。


 あっ! そうか。


 ステージ上から、自分達に注がれていた真城綾乃の眼差しって、〈押し〉ている僕らの気持ちを受け取ったという、あやのんからの〈私信〉だったに違いない。


 そう直感した秋人であった。




                           〈了〉


注:この物語は虚構であり、たとえモデルがあるにせよ、作品中に登場する人物、団体、名称等は架空存在であり、実在する方々とは無関係でございます。

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