夜になったふたり

尾崎中夜

夜になったふたり

 セリーヌとヘッセが恋をした。

 女は当時、大学の図書館でアルバイトをしていた。時給七百三十円。大した稼ぎにはならなかったが、講義の空き時間で月々の書籍代ぐらいは稼げた。

「私、本さえあれば無人島でも生きていけると思う」

「それより明日のテストは大丈夫なの?」

 暇なときには本を読めた。物語の世界に浸りすぎて仕事を忘れることもあったが、勤務態度はまずまず良好だった。

 その日はヘッセの『車輪の下』を読んでいた。読み進めているうちに目が潤み出しては、「あの」と声をかけられるまで目の前の男に気づかなかった。

「ごめんなさい」慌てて本を仕舞い、「貸出ですか? 返却ですか?」

「返却で」

 中肉中背の男。これといった特徴はなく、強いてあげるなら色白。

「この二冊でよろしいでしょうか?」

「お願いします」

 本を受け取る――「あ」と思わず声が出た。

「……なにか?」

 女はゆっくりと顔を上げ、男のことを初めてちゃんと見た。

「セリーヌの『夜の果てへの旅』……」

「え!」男が驚く番だった。「セリーヌ知ってるんですか?」

「な、名前だけなら。いつか読んでみたいなって……」


 ある雨の水曜日、女は持参した本にブックカバーをかけた。ごわごわかさかさして本が読み辛くなるからふだんはかけないのだが、これは本好きならではの作戦だった。

「――……今日は、なにを読んでるの?」

 女は、カウンターの下でエプロンを握り締めながら答えた。

「よ……『夜の果てへの旅』です」


 学生時代の終わりが近づくにつれて、空想主義者のふたりもいい加減現実と向き合わなければならなくなった。本は食べられないし、福沢諭吉でもない。大変残念なことに。

 女は決して高望みはしなかった。少なくとも本人はそう思っていた。地元の会社で細々と事務の仕事が出来たらいいな。周りがギラギラと可能性を試していこうが、人は人で自分は自分。はじめから分をわきまえ、目標は控えめに立てていた。

 それでも思ったようにことが進まない。就職活動の最中、妹にたびたび愚痴を言った。

「声の大きさと笑顔の明るさが採用基準なら、私なんか逆ピラミッドの最下層よ……」

「そういうとこじゃないの? ……あぁ、ごめんごめん。いまの嘘。いまのは嘘だから!」

 一方、男は人が変わったように動き回っていた。ためになりそうな説明会があれば県外にも遠征した。何度落ちても次から次に履歴書を出し続け、チャンスを掴めば赤いネクタイで面接に臨んだ。

 週末のデートが月一に減り、電話も一日のちょっとしたことを話すだけで終わる。女は寂しがった。不満もゼロとは言えず、一度だけ浮気を疑ったことも……。

「僕のお嫁さんになってほしい」

 男が初めてそのことを口にしたとき、女は夜の喫茶店で泣いた。お人好しのマスターが新作のコーヒーをふたりにご馳走した(そのコーヒーは一ヶ月後メニューから消えていた)。

 周りより時間はかかったものの、ふたりとも目標としていたところに落ち着いた。

 夏休みには再び伊豆を訪れた。日帰りの慌ただしい旅だったが、そのときはお互い嘘をつかずに済んだ。

 卒業を間近に控えた二月、男は改めて挨拶に訪れた。

「三年後に」

 女の両親を前に男は言った。

 母親は「まぁ」と喜んだ――今夜はお赤飯にしなくちゃね!

「すまない」父親は十分席を外した。

 心優しい青年だが世間知らずの娘を任せるにはどこか頼りない。そう不安に思っていた彼の堂々とした話しぶりに用意していた台詞がすっかり飛んでしまった――一国一城の主であるこの俺が? 現実を見据えた上での愛の深さに長年夢見ていた親父の鉄拳も振るい損ねてしまった――なんてことだ! 握り締めていた決意は、娘を任せるに値する、頼もしくなった青年の肩を強く叩くばかりだった。

「三年後、この子にどうか綺麗なドレスを着させてやってくれ」

「約束します」と男が言ったとき、未来の義兄の凛々しさに、涙をぽろぽろと零す姉に、渋々その場にいた妹でさえ目頭を熱くさせた。


 しかし、現実の世界は、若いふたりに甘く微笑んではくれなかった。

 社会人失格――これが第一の躓きだった。

 三年後必ず迎えに行くよ、と旅立って行ったはずが、男は僅か一年で地元に送り返されて来た。

「もういいよ、お前」

 日に日に薬の量と種類が増えていっても、女には『元気にやっているよ』と言い続けた。数字と罵倒。始発と終電。数字と罵倒。始発と終電。数字と……。

 社用車で吐いた日、産業医からストップがかかった。

「ほらな」

 色褪せたポストに退職届を投函したあと、男は喫茶店に寄った。外回りのサラリーマンをぼんやりと眺めながらコーヒーを飲んだ。慣れないブラックで。

「結婚は考え直したほうがいいんじゃないか?」

 女の父親は男の躓きに落胆していたが、女はこんなことぐらいでふたりの未来が閉ざされたとは微塵も思っていなかった。

 ある日、妹に言った。

「いざとなったら私が養ってあげるもの」

「本気で言ってるの?」

 さぁね、と微笑む女。

「あの人のところに行ってくるわ」


 男は予定より一週間早く退院した。だからといってすぐに動き出せるはずもなく、彼が再び求職活動を始めるには、さらにもう一ヶ月の自宅静養が必要だった。

 晴れの日にはハローワークで求人を検索したり、職員に悩みを話せた。ちょっとでも天気が悪くなるとそれだけでベッドから起き上がれない。梅雨時は週に一回のハローワーク通いでさえ困難になった。たまに本を開いても文字が頭に入ってこない。五分も読んでいると文字がひとりでに歩き始めて気持ちが悪くなった。

 消せない傷のついた履歴書はことごとく落ち続け、たまに面接まで進めても意地の悪い面接官に手足が震えそうになるまで苛め抜かれた。ハローワークのテレビで高校野球を観た日、初めて「自殺」という言葉が冷たくよぎった。

「俺よりいい人が、きっと……」

 そんな弱音も吐かなくなってしまった恋人に、女はあのときの言葉を言いかけては、そのたびに我慢した――いざとなったら私が養ってあげるもの。

 男がある決心をしたのは八月の終わりで、それを女に打ち明けたのは九月の中旬だった。

「二年間だけ夢を追わせてほしいんだ」

 女は、男の決心に泣いて喜んだ。

 現実に打ちのめされ、いまにも消えてしまいそうだった恋人の目にあの日の情熱を見た。初めて両親に嘘をついた、二泊三日の伊豆旅行。絡ませた指先に重なりの余韻を探していたとき、男はたしかに言った――俺はいつか作家になるよ。

 いまがそのときだった。

 女の両親はふたりの決断を心配したが、遠回しにお見合いを匂わせても、ストレートに「別れろ!」と言っても、娘はもう親の言うことに耳を傾けなくなっていた。言えば言うほど反発されるばかりで、女がついに「駆け落ち」という言葉を口にしたとき、父親は娘の行く末をすっかり諦めてしまった。「自分達でやっていくって言うんだから好きにさせたらいいんじゃない?」表向きは諦めたような顔をしながらも、母親は女親らしく娘のロマンスを応援した。妹は「私だったら無理だな」と苦笑いで言った。

 ひとつ屋根の下の暮らしを始めてから間もなく男は派遣社員として社会に復帰した。給料は安くいつ切られるか分からない、不安定な身分ながらも毎日が充実していた。仕事にすべてを捧げなくていい。気に入らない仕事だったらいつ辞めたっていいんだ。開き直って小説のことだけを考えた。残業は一切せず、昼休みも本を読んでいるか、あるいはものを書いているか、夢追い人はもう周りの視線や陰口など気にしなくなっていた。

 アパートに帰れば彼女がいる。優しい笑顔と温かい手料理に応えたい。筆一本でもっと豊かな暮らしをさせてあげたい。なにより子どもの頃からの夢を叶えたい。『夜の果てへの旅』の主人公だって言っていたじゃないか。

「こんなふうに夜の中へ追い出されてばかりいれば、それでもいつかはどっかへたどりつくにちがいないさ」

 夢を見続けた、夢を追い続けた、この二年間がふたりの人生において最も幸せな時間だったことは言うまでもない。


 最後の望みを賭けた作品は、一次選考を通っただけで終わった。選評にはこう書かれてあった。

〈作者が多くの作品に触れてきたことはよく分かるが、それが悪い形となって作品に出ていた。文章、テーマ、世界観、すべてが二番煎じ。自分の作風を確立出来ないようでは上は目指せないだろう。これからの努力に期待する〉

 選評を読み終わったあと、男はひと月ぶりに笑って言った。

「どこか旅行にでも行こうか」


 男は現実主義者となった。文学を捨て、仕事漬けの毎日。終電どころか会社に泊まることも珍しくなくなり、休日も――麻雀、ゴルフ、アルコール――つまらない接待で潰れるようになった。

『男はそんなものだ』

 父親は娘の相談を笑った。『むしろ安心したよ。ようやくお前を任せられそうだ』

 女の心配をよそに男は出世していった。「いまどきの若いもんにしちゃ珍しい」鬼気迫る働きぶりに上司の覚えもめでたかった。

「社会不適合者」と笑われていたあのお坊ちゃん顔もいまやすっかり精悍になった。「あとは日焼けサロンだな」

 ただの冗談に女は本気で怒った。

 本社勤務が決まり、男は女にプロポーズした。夜景の見えるレストランで、指輪は給料三ヶ月分。一語も間違えることなく――愛の言葉はどこかプレゼンめいていた。

「新婚旅行はどこに行きたい?」

 伊豆、と言いかけて止めた。「……あなたはどこがいい?」

「香港とかどう?」

「いいと思う」

「まぁ、しばらくはそんな暇もないだろうけどね」

 いくらするのか分からない料理が次々と運ばれてくる。女はふと学生時代によく通った喫茶店の脂っこい卵サンドを恋しく思った。

 男の話に相槌を打ちながら、ときどき窓の外を見た。高層ビルの夜景。なにも知らなかった頃はあんなにも憧れていたのに、夜はただの夜でしかなく比喩のひとつも思いつかなかった。

 男がワインのおかわりを頼んでいる。女は頬杖をつきながら、赤い横顔をぼんやりと眺めている。

 私はこの人と結婚するんだ。


 ひと月経っても都会の暮らしには慣れず、専業主婦になったらなったで不思議とまた働きたくなった。とりあえずは子どもを作る予定もなかったので、ある日、相談してみた。

「事務のパートとかどう?」

 すると、革靴を磨いていた男の手が止まった。

「ねぇ?」

 後悔が胸にじわじわと広がり始めたとき、男はちらっとだけ振り向いた。「いまの稼ぎじゃ不満かい?」

 それからまた靴を磨き始めた。

「……ちょっと出かけてくる」

「どこに?」

「ただの散歩よ」

「こんな時間に?」

「こっちに来てからずっと運動不足だもの」

 玄関のドアが乱暴に閉まると、男は舌打ちした。

 女は夜の公園で泣いた。


 第二の躓きはふたりの人生を大きく変えた。

 きっかけは些細なものだった。あるとき、上司が自分の失敗を男に被せようとした。評判のよくない上司だった。失敗も微々たるもので、甘んじて受けたところで男の出世にはまったく影響しなかっただろう。

「真面目すぎるのも考えものだよな。いつまでやってんだか」

 トイレで陰口を言っていたのは、自宅に招いたこともある同僚だった。

 睡眠薬の量が増え、ある日、とうとう社用車で事故を起こしてしまった。電柱に頭から突っ込み――幸い怪我人は出ず、男も軽い鞭打ちで済んだが――何百万とする車をスクラップにしたことで自らにとどめを刺した。

 緊張の糸がぷっつりと切れ、ビルから蹴飛ばされた。

 また抜け殻だけが残り、

「どこか旅行にでも行こうか」

 男はいつかのように言った。

「玉川上水なんてどう?」

 女は相手がどんな反応を示すかじっと窺ったが、男は阿呆のように口を開けているばかりで最後までタチの悪い冗談に気づかなかった。

「おやすみ」

 疲れた笑みを浮かべた男が――いまはもう別々の――寝室に消えると、女はひとり冷たい居間に残された。


「また指名してくださいね」

 男が引きこもるようになってからは女が働いた。

〈遙〉は夜のアルバイトと奨学金で大学に通う女子大生。卒業後の夢は、女手ひとつで育ててくれた母親を海外旅行に連れて行くこと。森の小さな教会で結婚式を挙げること。

 ちょび髭メタボの支配人が大真面目に考えた設定にはじめ笑いそうになったものの、小さい頃から世間知らずで子どもっぽいと言われ続けてきた童顔が思わぬ形で役に立った。溜め息だらけの暮らしも苦学生らしさに一役買った。

 おっとり屋で聞き上手な〈遙〉は、会社と家庭の板挟みに疲れているおじさまがたからよくお呼びがかかった。若くて綺麗な女の子達がポンポン辞めていく中で来年三十になる自分が上手いことやっていけるのだから夜は不思議な世界だと毎日のようになにかしらの発見があった。

「お触りとか絶対ないし、アフターとかそういうのも禁止しているお店だから……手ぐらいは握られるだろうけど」

 入店が決まってから報告した。

 素麺を掴み損ねたぐらいで、あとは「そっか」と呟いたきり男はなにも言わなかった。こんなことは言いたくないが、男の躓きが都心のマンションを買う前で本当によかった。

 不倫を持ちかけられたり、連絡先をしつこく訊かれたりとトラブルは日常茶飯事だったが、それでも――うたた寝していたら夜になっていたかのように――いつの間にか半年が経っていた。


 あれは、雨上がりの夜だった。

 茶髪の友人が「そのへんにしとけよ」と言うのにも耳を貸さず、彼は強いカクテルばかり頼んでいた。下膨れの顔がアルコールでますます膨れ上がり、目も潤み始めていた。酔い潰れたいだけの――あまり品がよいとは言えない――飲みかただった。ベテランのボーイと目が合う。めそめそしている男の子に水を勧めながら、女はさり気なく右耳を触った――まだ大丈夫。

 そのまま酔い潰れたところで、新入りの女の子がベタベタとした声で言った。

「この人なにがあったの?」

「それそれ! 聞いてくださいよ」

 茶髪の彼は〈遙〉に背を向けた。

 片想いしていた文学少女に彼氏が出来たんだそうだ――よくある話だった。

「慰めてやろうと思ったら二軒目でこれっすよ? こういうとこなんだなぁ、こいつは。パチンコで大勝したからソープのひとつでも奢ってやろうかと――おっと。まだ九時だったね。美雪ちゃん、いまのは忘れてちょーだい。あはは!」

 彼は、友人の失恋をダシに店の女の子を口説こうとしていた。肩に回している手が冗談っぽく胸に触れるのは時間の問題だろう。彼女も冗談で済ませそうな気がする。よくて罰金。今夜の売上がよくなかったら、ふたりとも夜の社会科コースへとご案内しなければならない。授業料は法外。

 ふだんならボーイが来る前に優しく注意するところだが、この日は傷心の男の子につききりだった。彼の頭を膝に乗せて、目の前で乳繰り合うふたりを、女はただぼんやりと眺めていた。

「いいじゃんか。ほらむちゅー」

「もうやだぁ!」

 間もなく、コツンコツン、と革靴の音が近づいて来た。

「――は? なに言ってんすか? 俺、なんもしてねーよ」

「え、え? 私、なにかまずいことしちゃいました?」

「ここでは他のお客様のご迷惑になりますから、場所を変えてゆっくり話し合いましょうか」

 慇懃な物言いにも有無を言わせぬものがあった。

「どうか」

 柔らかい微笑みにふたりとも青ざめていた。

「指導がなっていませんね」

 そして、去り際の小言もしっかり忘れなかった。

 ふたりがいなくなると、別のボーイがやって来た。

「おい、起きろ!」

 こちらはいささか乱暴だった。従業員兼用心棒のボーイは、一向に起きない彼の腕を掴んで「立てや」と無理やり立たせた。

「遙ちゃん、なにもされなかった?」

「ええ、なんにも。酔ってたみたいだからちょっと膝枕をしてあげただけ」

「ならいいんだけどよ」

「心配してくれてありがと」

 女が微笑むと、ボーイは「いやぁ」と短い襟足を掻いた。男の子がぐにゃっと脱力すると悪態をついた。「この、芋ガキ!」

 彼が事務所まで引っ張られて行ったあと、さてどうしたものか、と女はテーブルいっぱいのグラスに溜め息をこぼした。

 あれから十年。思えば色々なことがあった。


「――……今日は、なにを読んでるの?」

「よ……『夜の果てへの旅』です」

 本当に、色々なことがあった。


 コンビニの灯りがこの日照らしていたのは、非行少年達ではなく三十歳の引きこもりだった。

 駐車場のブロックに座り込んでいた男は、女に気づくと顔を上げた。

「やぁ」

「どうしたの?」

「あー……」

 無精髭によれよれのスウェット。雨上がりのノスタルジックを台無しにする饐えた臭い。

「なんとなく夜の空気が吸いたくなって」

「夜の空気が、って」それでも女はふっと吹いていた。「いま一時よ?」

「そうだね――あ、買い物待ってるから」

 おにぎりをふたつ。缶ビールをふた缶。女が出した一万円に、中年の店員は露骨に舌打ちした。


 仕事はどうだい?

 自分では上手くやってるほうだと思うけど。

 そっか。

 引っ叩きたくなるようなスケベ親父もたまにいるけどね。

 うん。

 なに?

 いや。

 なによ。

 いやー……。

 言ったら?

 変わったなって。

 あなたもね。

 たしかに。はは、は、は……。

 ねぇ。

 ん?

 どこか旅行にでも行かない?


 ふたりを見つけたのは、H大学の山岳部だった。その新入生がたまたまルートから外れなかったら、ふたりは未だに見つかっていなかったかもしれない。お手柄ではあったが、先輩やOBの言うことを守らなかった彼は、後日、山岳部を除籍となった。

 連絡が取れない――女の両親が捜索願を出したのは、H大学の山岳部が入山する前日のことだった。

 上京したきりの娘にいい加減業を煮やした父親が「この際なにも知らせずに行くぞ」と、妻とマンションを訪れたとき、部屋には鍵がかかっていた。

 どこか出かけているのだろう。娘の携帯に電話をかけた。出なかった。電源が切られている。少し苛立った。なら、と旦那のほうに電話をかけた。やはり出なかった。こちらも電源が切られている。土曜日の二時半。休日出勤もそう珍しくないと聞いてはいたが、ふたりとも出ないのはどうもおかしい。帰省を延ばし延ばしにされていたのもあって胸騒ぎを覚えた両親は、管理会社に連絡して部屋を開けてもらった。

 まず目に飛び込んで来たのは白。部屋中がペンキで真っ白に塗られていた。壁だけでなく床も天井も(家具までも!)執拗なまでの白。父親は言葉を失い、母親は気を失いそうになった。

 両親は、娘夫婦が寝室を別々にしていたことを、このとき初めて知った。ふたつのベッドがそれぞれの部屋にあった。ただ、その寝室の壁が――最近やったのだろう――ハンマーで大きくぶち抜かれていた。

「夜中になにやってんのかと思いましたよ」

 隣の学生は眠たげに無精髭を掻いていた。

「てっきり新婚さんのハイキングかと……」

 麓で弁当屋を営む老夫婦は、警察の話に驚き、「まだ若いのに……」と無念そうに言った。


「写真? 撮ってるわけねーだろ! 不謹慎つーか絶対呪われるわ!」

 ふたりを見つけた学生は、警察から解放されると同級生から質問攻めにあった。

「生活が大変だったんだって……でも、なんだろう……」

 飲み放題の九十分が終わったあと、彼は馴染みのバーで、ひとり酔い潰れるまで飲み、追い出されてからは、駅のホームで眠った。


 そりゃもう、ひどいなんてもんじゃなかったよ。

 なのに、顔だけは綺麗に残っていてさ。口元がこう、笑ってるんだよ、ふたりとも。

 それを見てさ、俺ちょっとだけ泣いたんだ。

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