10 文化祭
それから文化祭の日はすぐにやってきた。
今まさに盛り上がっている体育館、その華やかなステージを眺める薄暗い舞台袖にて、ひたすらに出番を待つ控室。
刻一刻と近づく本番を前にして、緊張しているのか藤川さんは震えていた。
「私、うまくやれるかしら?」
小さな声。不安と緊張に襲われて怖がっているのだ。
いつもは自信と度胸に満ちているはずの彼女らしくなく。いや、彼女らしさってなんだろう。
いつだったか、練習終わりに私と二人きりになったとき、雑談の流れで彼女はこんなことを言っていた。
「私はうまく生きなきゃいけないの」
そのときは「ふうん」と思って聞き流していたけれど、今になってそれが彼女を苦しめているのではないかと思えてくる。
みんなの期待に応えようと、周りに望まれている偶像のままを演じようと、そして何よりも自分の弱さや未熟さを認めたくないからこそ、決して失敗は許されない。うまくやれていると信じていないと、強くあろうとする弱い心が耐えられないから。
そんな脅迫観念に苦しんでいたのかもしれない。
自分を隠して生きる。いろんな意味を含めた「自分」を、ぐっと我慢して押し込める。
社会でうまくやっていくために。うまく友達と付き合っていくために。
ある程度の範囲でなら誰だってそうしようと頑張るだろう。私だって彼女と同じく努力していた。
でも、うまくやるって何だろう?
うまくやるってことは、つまり、失敗につながる「へま」をやらない。
だけど、その「へま」って?
うまくやるために隠さなきゃいけないものが自分にとって大事なものであればあるほど、私たちは理想と現実の軋轢に心をすり減らしてしまう。
人間って強ければ強いほど他人とぶつかりがちだし、弱ければ弱いほどつぶれがちになる。
有名なジレンマ。ハリネズミとかヤマアラシとか言ったっけ。
私はそれを思い出しつつ、不安そうに顔を曇らせる藤川さんの肩に手を置いた。
「だけど藤川さんはうまくやれているじゃん。私と違って人気だってあるし」
「少しでも緊張をほぐそうと励ましてくれているんでしょうけど……」
彼女の肩に触れている指先から伝わってくる小さな震えが止まらない。
どうやら本格的に緊張しているらしい。
「私、そんなんじゃないの」
「そんなんじゃない?」
「そう。私はあなたが思うような人間じゃない」
こんな感じで自分では違うと否定して言うけれど、藤川さんって前からそういうところがある。
お世辞でもなく藤川さんは本当に可愛くて人気もあるのに、どこか一歩引いていて、自分を客観視していることに私は少し前から気づいていた。
悪意なく褒められているときくらい、素直に喜べばいいのに。
何を言われても遠慮するような謙虚さだけではなくて、自嘲するように自分は過大評価されていると言ってくる。
「人気があるように扱ってくれているけれど、本当に人気があるわけではないわ」
そんな風に彼女は苦笑する。
そんなわけがないのに。
だって藤川さんは私の憧れ。
そう言ったら彼女は笑って言い返してくるのだ。
「あなたのほうがすごいじゃない」
「私のほうがって……」
思わず今度は私が苦笑してしまった。
それこそ、そんなわけがないのだ。
なのに彼女は今まで隠し続けていた重大な秘密を打ち明けるように言う。
「いいえ、私は確信しているわ。ずっと黙っていたけれど、私、あなたに憧れていた部分があるのよ」
そこまで言って少し照れ臭くなってきたのか、もちろん私を褒めるだけでは終わらない。
前歯をちらりと見せた藤川さんはいたずらっぽく付け加える。
「同じくらい、じれったさも感じていたけどね」
「じれったさって……」
「だって、あなたはきっと私なんかより人気になれる。そんな気がするのよ」
「え……?」
私が人気者?
藤川さんよりも?
嬉しい言葉ではあるけれど、それはさすがに頷けない。
まったく、なんでこんなときに藤川さんはふざけたことを言い始めたんだろう。
ひょっとして私たちの気持ちをリラックスさせようとしているんだろうか。
ライブを前にした緊張感もあって笑うに笑えず、馬鹿みたいに唖然としたせいで声を出せずにいると、冗談を言っているつもりもないのか藤川さんは真剣な顔つきのままでいる。
「あなたは最高のライバルで、今では最高の友達になれた。でも、それだけじゃないのよ。ずっとあなたへの嫉妬に苦しんでいた部分もあったから。自分を隠して周りに合わせようとする私には、昔からあなたがまぶしく見えた」
それってつまり……。
なかなか言葉が出てこなくて相槌も打てずにいる私を見つめて藤川さんは柔らかく微笑む。
「かっこいいあなたが好きなの。孤高で、クールで、ちょっとだけ王子様っぽいあなたが」
やや熱っぽい目をして言うものだから、これも冗談で言っているわけではないのかもしれない。
私が孤高で、クールで、ちょっとだけとはいえ王子様っぽい?
かっこいいって言った?
たっぷり時間をとって、私はようやく言葉を出せた。
「そんなこと初めて言われた」
「だったら周りが馬鹿なのよ」
「藤川さん……」
ああ、これだけは確かなことが一つだけある。
少なくとも彼女は本気でそう思ってくれているという事実だ。
私のことをポジティブに考えてくれている。
それがどんなに嬉しいことか。
「あんまりまじまじと見つめないで」
「あ、ごめん」
指摘されて私はとっさに目をそらした。でも見つめているのは藤川さんだって同じだ。目が合うっていうのはそういうことだから、人のことを言えない。
それに気づいたのか、今さらになって藤川さんも顔をそらす。
まったく、お互い顔を赤らめて何をやっているんだろう。
告白に興じる想い人同士じゃあるまいに。
先ほどまでの緊張もどこへやら、私に視線を戻して藤川さんが苦笑した。
「こうやって上手く振る舞えなくなるから、それがあなたと距離を取っていた理由の一つ」
つられて私も苦笑する。私だってそうだ。
教室で、地学室で、それぞれ別の理由でうまく振る舞えなくなる。
だから半ば同意するけれど、あわせて藤川さんに迫った。
「一つ? 他にも理由があるなら言って」
本番を前にしたこんなときだからこそ聞き逃せない。
最後の最後に懸念を残したくないから。
ずっと距離をとっていたことに私にも原因があったのなら、今すぐにでもなくしたい。
しばらく待って藤川さんから返ってきた理由は意外なものだった。
「だって、ひどいことを言いそうになるから」
「いつも言われてる気がする……」
「あなたもなかなかね」
お互い様である。
それからしばらく、ついつい言いすぎることを後悔するように言葉を見失って沈黙を共有する。
けれど時間は限られている。
いつまでもそうしていられないのか、すごく言いにくそうに藤川さんが口を開いた。
「髪留めのこと……覚えてる?」
「えっ……髪留め?」
と言って、息をのみそうになった私はそこで言葉を詰まらせた。
簡単に忘れられるような出来事ではなかったから、もちろん覚えているに決まっている。
あの梅雨の日、朝一番の教室で、たまたま私と同じ髪留めをつけていた藤川さん。
もしも普通のどこにでもある髪留めだったなら、同じものをつけていた程度で動揺するほど意識したりはしなかった。
だけどあれは特別。
あれは私たちの好きなアイドルグループがプロデュースした髪留めだった。ファングッズの一種として、彼女たちが使っているSNSで紹介されていたものだ。だから私は自分には似合わないかもしれないと思いつつ、どうしても我慢していられなくなって買うことに決めた。
手に入れたら世の常で、一度くらいは使ってみたくなる。勇気を出して使ってみたら、運悪く藤川さんとかぶった。
私がどんなに動揺したことか、今となっても克明に思い出せるほどだ。
だから、どれほど私がショックだったかも覚えている。
「ごめんなさい。心にもないことを言って。あなたのほうが似合ってた」
そう言って彼女は頭を下げる。
申し訳なさそうにする様子から判断すると、藤川さんは自分の発言を気に病んでいたのだろう。
事実、彼女はあれ以来、あの髪留めを一度もつけていない。
すぐに頭を上げてほしくて、けれど私は答えに窮して黙った。怒っているわけではない。ただ、条件反射みたいに適当なことは言いたくなかった。二人にとっては大事なことであるような気がして、いい加減な気持ちで決着をつけたくはない。
あの日、たまたま同じものをつけていた髪留めが理由で発生した些細な対立は、久しく会話のなかった私たちにとっては大きな意味を持つ衝突だった。お互いに相手のことを意識していたからこそ過剰に反応してしまったのはあって、ついに今の今まで謝ることも茶化すこともできなくなっていた。
仲良くなって何度も顔を合わせるようになってからも、ただの一度も話題に出せなかった。
どちらが似合うとかそういう話ではなく、あの髪留めのことを話題に出したせいで何か取り返しのつかない逆戻りをするんじゃないかとか、せっかく仲良くなれた私たちの間に修復不能な亀裂が入るかもしれないと恐れていたから。
同じアイドルが大好きで、そのアイドルがプロデュースしたもので、どちらもすでに持っていると知っていたのに、結局は今まで一度も言い出せなかった。
どちらも本当は相手のほうが似合うと思っていたのに。
つけてくれることを待っていたのに。
それを私から言いたくなって口を開きかけると、それを制するように藤川さんが右手を私の前に掲げた。
「実は……。今、持ってるの」
ほらと言って私の前で開かれた彼女の右手には、まさしくその髪留めがあった。
やっぱり彼女のほうが似合いそう。
そう思いながら問いかける。
「どうして今これを?」
「この髪留め、本当は私のなんだけれど……。せっかくだから、私の代わりにステージであなたにつけていてほしくて」
「え、私に?」
「そう、あなたに」
ずっと渡そうと思っていたのよ、と藤川さん。
ひどいことを言ってしまった罪滅ぼしの代わりじゃなくて、あなたにすごく似合うと思うからあげたいの、とはにかんで。
彼女がそう考えてくれたことが私は嬉しかった。
だから今まで言い出すタイミングを見つけられなかった私も、今がその時だと心を決める。
私は彼女からそれを受け取る代わりに、ちょっと待ってと頼んだ。
「実は私からも藤川さんにプレゼントがあってね。それと交換しよう」
「……プレゼント? 交換するって、こんなときに?」
すんなり受け取ってくれることを期待していたらしい藤川さんは私の提案に目を丸くしている。
もっと丸くしてくれると嬉しいなと思って、サプライズを意識しながら私はそれを彼女の前に差し出す。本番を前にして緊張しているらしい藤川さんを勇気づけてあげたいと、隠すように左手に握ったまま、渡すタイミングを計りかねていた大事な贈り物。
指を開いた私の左手に乗っているそれを見た彼女は目を真ん丸にして、声を張り上げた。
「……これって!」
「うん、これは私の髪留め。考えていたことは同じだったみたいだね」
そう、私は彼女にこれをつけてほしかった。
あの梅雨の日、きっと彼女も私と同じように勇気を出して髪留めをつけてきたのだ。周囲にはアイドルが好きであることを公言できずにいる彼女が、精一杯の自分らしさを大事にしたいと願って踏み出した一歩だったに違いないのだ。
私にひどいことを言ってしまったのは、たぶん、動揺を隠すための強がりもあったのだろう。
だから私も藤川さんと同じように、あのときは自分のせいで彼女のとっておきを台無しにしてしまったんじゃないかと、今までずっと気がかりだった。
「だったらこうしましょうか。これはあなたに私がつけてあげる」
「それじゃあ、これは私が」
お互いの髪留めを、それぞれ相手の頭の右側と左側につけ合う私たち。
ステージの右側と左側で、それぞれ一番映えるように意識して。
「似合うじゃない、やっぱり」
「藤川さんもね」
そう言って私たちは照れつつもポーズを決めたりなんかする。
二人でおそろいの髪留めをつけているからか、買ったばかりのころに一人で鏡の前でつけてみたときより様になる。
たぶん私たちの心が一致したから、ただのファッションアイテムというだけじゃなく、友達のシンボルみたいに新しい意味を持って輝いて見えるのだ。
かわいい藤川さんは当然、かわいくないと思っていた私にも。
「つけてくれてよかった」
安堵して胸をなでおろした藤川さんの笑顔はとてもまぶしい。
私だって、彼女がそれをつけてくれて嬉しかった。なにしろ彼女には本当に似合うから。
それこそアイドルと見まがうばかりに似合っているけれど……。
少しだけ反応が怖くて、だから藤川さんの手を握って、つばを飲み込んだ私は彼女に提案する。
「仮面は外してやってみない?」
これから始まる私たちのステージは、出演している人間が誰なのかわからないように四人全員が仮面をつけて顔を隠す予定だ。そういう計画だったからこそ私たちは文化祭のステージでライブをやると決めたのだ。
だけど、ここにきて私はその仮面を外したくなった。
藤川さんにも外してほしくなった。
私たちはこれからも友達でいたいから。
嘘みたいに馬鹿げた衝突や対立を、いつまでも教室やみんなの前で演じていたくないから。
藤川さんもそう思っていてくれるなら……と期待するものの、なかなか彼女から反応が戻ってこない。
それも当然だ。それだけのことを言っている。
もし私たちが顔を出してステージに出れば、それはもう後戻りできないことを意味する。
いろんなものを失うかもしれないし、きっとなにもかも変わってしまう。
けれど、もしかしたら……。
もしかしたら、今よりもっとうまくやれるようになれるかもしれない。
いや、うまくやれるように頑張るんだ。
「ね、どうかな?」
嫌なら嫌でも構わない。とにかく藤川さんからの反応が欲しい。
念を押すように私から尋ねると、ようやく彼女はぼそっと何事もないように、
「うん、そうね」
と言うから私は自分の耳を疑った。
「ちょっと藤川さん、今、もしかしてうんって言った?」
「言ったわ。……そんなに驚かなくてもいいでしょ。心外だわ」
「驚いているんじゃないよ! 喜んでいるんだよ!」
「あー、はいはい。あなたが元気で嬉しいわ」
あきれたようにそう言って、だけど本当に嬉しそうで。
「いい? 顔を出すからには、今までで一番うまくやるんだからね」
熱っぽく指を絡み合わせるように手を握ったまま、お互いの健闘を祈って肩をぶつけて笑う藤川さん。
だから私も遠慮なく肩をぶつけて笑い返した。
「今までで一番楽しくやれそう!」
「それは絶対にそうよ。こうなったら観客全員をファンにしてあげましょう!」
「本気を出した藤川さんなら本当にできそうだね」
「あなたと一緒なら、ね?」
確認を求めて藤川さんが私に目を向ける。
その目を覗き込み、確信を込めて私は頷いた。
これまでは今日のライブが私たちにとって最後のステージだと思っていたけれど、これからはこれが記念すべき最初のステージになるかもしれない。文化祭のライブが終わった後も、私たちの日常という最高のステージはずっと続いていくのだ。
だから、髪留めをステージで。
私たちは本当の自分らしさを引っ込めたりせずに生きていく。
「ほらほら、二人とも! そろそろ時間だよ!」
「遅れたら私たち二人だけでやっちゃうよ!」
慌てた様子で声をかけてきた愛と雪が、見つめ合ったまま時間を忘れつつあった私と藤川さんを呼ぶ。こちらの話を聞いていたのか、彼女たちも仮面をつけていなかった。
ここにも二人、かけがえのない私たちの仲間がいるのだ。
なら、それが二人でとどまるとも限らない。
私たちはこれから何人でも仲間を増やしていけるかもしれない。
そんな上向きな気持ちで、四人一斉にステージへと力強く一歩を踏み出す。
さあ、幕が上がる。
私たちの、本物のステージが。
髪留めをステージで。 一天草莽 @narou_somo
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