すさびる。『幸福のルート』

晴羽照尊

幸福のルート


 生まれたときから、僕は、勉強しかしてこなかった。いや、あるいは、母のお腹にいるときから。


 母は、地方の名門とやら呼ばれる家に生まれたが、とことんまで出来損ないだったという。両親の勧める進路へは、まったくかすりもせず、そこそこの進学をして、そこそこの就職をした。その人生は総じて、客観的に決して、悪いものではなかっただろう。しかし、母の家族や親族一同と比べてしまうと、たしかに、あまりに平凡すぎる経歴ではあった。

 その反動からか、母はひとり息子である僕こそは、母が辿るはずだったルートと同様の道を歩ませようと躍起になった。それには、仕事ばかりで家庭を顧みない父親への反抗心もあったのだろう。


 生まれる前から四書五経を語り聞かせ、生まれたときから名門幼稚園への対策を開始。名門小学校、中学校、高校、大学。そして、超一流と呼ばれる会社への就職。そこまでのルートを、母は、僕を身ごもったことを把握してから生まれるまでの九か月ほどで、完璧に構築し、そして、実行したという。


 その甲斐あってか、僕は、たしかに一流の道を歩んでいった。名門幼稚園から、小学校、中学校、高校、大学、就職。だがそれは、決して母が想定した、『超』一流のルートとはかけ離れていた。

 そうだ、それは、母の辿ったルートの、わずかに上振れた程度でしかなかった。普通の母と、超一流だった父との、ちょうど中間くらいだ。僕はまさしく、ふたりの子だった。

 とはいえ、母の望んだ人生設計を実現できなかったことは、僕にとって、暗いものを心に芽生えさせるには十分だった。僕は、グレた。


 といっても、アウトローな世界に足を突っ込んだわけじゃない。むしろそんな人望などなかった。そもそも勉強ばかりで、友達などいなかった。


 つまり、どうグレたかというと、推し活であった。


        *


「おらおらあぁ! てめぇら! 腹から声出してんのかああぁぁ!!」


「うおおおおおおおぉぉぉぉ――――!!」


 むせ返るような熱気。ステージも観客席も、まるで酔っぱらったように――悪い言い方をすれば、薬でもやっているかのように、はっちゃけている。そしてそれこそが、すさんだ僕の心に染み入った。


 いわゆる、地下アイドルというやつだ。メディアへの露出をしない――というより、多くは『できない』というほどに、知名度の低い、アイドルである。だがそのぶん、演者と観客の距離も近く、握手会等で触れ合い、言葉を交わす機会も多い。

 決して、いかがわしい気持ちで彼女らを応援しているわけじゃない。ただ、近くで接することができるということは、そのぶん、彼女らの頑張りを、身近に感じられるということ。そうして知る、生の彼女らが、実に人間らしくて、本当に輝いていて、素直に、感情のままに、体が動き、声が上がるのだ。


 ああ、これが人間だ。そう思う。女性でありながら、汚い言葉で観客を煽る、その言葉も。メイクも髪のセットもふり乱して、一心不乱に歌い、踊る姿も。楽しそうに語り、ときには舞台上だというのに、本気でキレる、その感情の波も。僕にはそれまで、知ることのなかった、本物の、人間だった。


 幸い、稼ぎはあった。『超』一流ではなくとも、一流の企業に勤めていたのだ。その稼ぎで、彼女らのCDを買い、ライブへ通い、声を張り上げた。どうせ他に使い道のない、金と時間だ。彼女らの糧となれるなら、見返りなどなくともよかった。いや、すでに僕は、十分すぎる見返りをもらっていた。人間とはどういうものか、それを、学ばせてもらっていたのだから。


        *


 そんな僕の推し活も、三年が過ぎた。初めはライブ会場に入るのすら戸惑ったものだが、いまでは顔パスに近い。やけにフランクな常連たちとも、もう打ち解けたものだ。そうだ、僕の人生初の友達との出会いすら、この、ライブ会場だった。


 この推し活が、僕のすべてだ。いや、すべてだった。過去形で語るにはまだ早いが、そのときはもう、すぐそこにまで迫っている。そう、本日は、僕の一番の推しである、キラちゃんの卒業ライブなのだ。


 三年前。僕が初めてこの会場に来たとき。僕は入口の看板を見て、立ち止まっていた。『オマエラの人生をぶっ壊す! 爆散☆ハニートラップ』。なんじゃそら。そう思った。でも、『人生をぶっ壊す』というのは、当時の僕にとって、なんだか甘い響きのようにも聞こえたのだ。


 入ってみようか。と、迷っていた。だが、作法を知らない。地下アイドルという存在は、なんとなく知っていたが、そういうところに初見で飛び込むのには勇気を要した。観客も、やけに整った動きで応援するものだと、勝手なイメージを持っていたから。

 数分、迷っていた。不審者のごとくうろうろしていたと思う。そして、やっぱりやめようと、結局は踵を返したのだ。


「わっ」


 見えなかったが、そこに、女の子がいた。

 赤と緑と金の髪色をしていて、頬に大きな蛇の刺青を入れた、小柄な子だった。決して大きくはない僕の身長と比べても、腰くらいまでしかないような、めっぽうに小柄な女の子だった。


「つまんなそうな顔してんね」


 彼女はそう言って、重そうな睫毛を持ち上げ、赤い目を近付けて、僕を見た。言葉を紡ぐために口から出した棒付きキャンディを、再度口に咥え、そのまま入口へ降りていく。

 ドキリ、とした。それは、彼女のいかつい容姿にであるのか、ふと近付いてきた距離感であるのか、あるいは、その言葉にであるのか、何度思い返しても、判然とはしなかった。けれど、吊り橋効果であろうとも、それが、僕の推し活の始まりだった。


 たった一言を残して、慣れたように入口に消えていくキラを見て、吸い込まれるように僕は、その後を追った。


        *


「おいおい! これが最後だぞ! それが全力かああぁぁ!?」


「ギラああああああああぁぁぁぁ!!」


 とうに嗄れた声で、僕は叫ぶ。だが、涙は止めどなく流れていた。汗も、次から次に蒸発して、この会場の一部になる。

 こうして、この場所はひとつになる。キラがいなくなっても、『爆散☆ハニートラップ』は、これからも続いて行くだろう。しかし、僕は決めていた。彼女がこの活動をやめるというなら、僕も、きっぱりと、推し活をやめようと。今後、彼女以上に夢中になれるアイドルと出会えるとは思えない。それに、僕はもう、一生分の勇気を、彼女からもらっていた。

 その勇気を使って、僕はもう、人生を変えていたのだ。それは決して、母が求めていた超一流のルートとはまた、違うものだったろう。しかし、それでも、確実に人間らしい、素晴らしいルートに踏み出したということだけは、胸を張って言うことができる。


 ライブの後、最後の握手会で、僕は彼女と笑い合い、泣き合い、そして軽く抱き合って、これまでの三年間を噛み締めた。


「いい顔してんじゃん」


 そう、キラは言った。ああ、その自覚は、僕にもある。


        *


 まだ、心臓が鳴りやまない。キラの卒業ライブから自宅へ帰り、鍵を開ける。部屋に入り、鍵を閉めた。それから電気を点け、用意を開始する。

 そう多くの時間はない。それは解っていた。だから、ほとんどの準備は終えてある。妻に内緒で進めるのは骨が折れたが、なんとか隠し通せているはずだ。


 数か月前にプロポーズをして、先日入籍したばかりの、新妻だ。先月ころから同棲している。そして今日は、ふたりにとっての、新しい始まりの日であるのだ。


「おじゃましまーす」


 鍵を開けて、妻が帰ってきた。準備はぎりぎり、間に合っていた。簡単な部屋の飾りつけ。料理の用意。


「おかえり。キラ」


「もうキラじゃねーっての」


「おじゃましますでもないけどね」


「……ただいま」


 そう、照れたように言うと、彼女は僕の肩に手を置き、ぐっと背伸びした。それでも届かない距離を、僕の方から詰める。彼女の唇の感触が、頬を撫でた。


「……なに変な顔してんの?」


 キラが言う。


「いや、幸せでさ」


 僕が答えると、「馬っ鹿みたい」と、彼女が言った。俯いて、顔をそむけて。

 だから僕は、ライブのときとはまた違う感動を覚えて、涙する。この幸せを離さないように、強く、彼女を抱き締めた。


 どうやら、僕の推し活は、これからもずっと、続いていくらしい。



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