心を溶かす豆乳甘酒スープ

緑川えりこ

心を溶かす豆乳甘酒スープ

「あの、大丈夫ですか?」

道路に座り込んで泣きじゃくる3歳の息子を私の前にその人は突然現れた。

端正な顔立ちにキラキラと光る金色の髪、そしてやけに綺麗な肌が印象的だった。

顎のラインでパツッと切り揃えられた髪が風に揺れる。まるでシャンプーのCMのワンシーンを切り取ったかのような美しさだった。


♢  ♢  ♢


ゆう、公園行こっか。あ、公園の前にパパに頼まれたお手紙出さないといけないから、郵便屋さん行こうね」

「えーはやく、公えん行きたい!」

「ごめん、ごめん、すぐ終わるから」

筒井つつい聡美さとみは、3歳半になる息子、ゆうの手を引き、玄関のドアを開けた。

穏やかな太陽の光とともに、気持ちのいい澄んだ空気が身体の中に入って来る。

12月の東京は冷え込む日が続いていたが、今日のように綺麗な青空が広がり、気温が15度を超える日は、暖かい陽気に包まれる。

聡美はその気持ちよさを感じながら、悠の小さな歩幅に合わせてゆっくりと歩いた。

紅葉のように小さくて柔らかい悠の手はしっかりと聡美の手を握っている。

その頼りない小さな手を握る度に、守らなきゃという気持ちと愛おしい気持ちの両方が出てくる。

それにしても疲れた……。

今日は、洗濯、食事、皿洗いといったいつもの家事に加え、悠がおねしょした布団の洗濯とごはん中にこぼした牛乳の片付けというイレギュラーかつヘビーな仕事を終えたあとなのだ。

今の私の顔はきっとしぼんだ風船のような顔をしているに違いない。

本当ならば、家でゆっくりしたい。だってしぼんだ風船だよ?元気な空気をパンパンに入れたい。

しかし子育て中の母はそんなわけにはいかないのだ。

晴れた日は必ず悠の「公園行きたい」攻撃が始まる。

そのため、晴れた日の午前中は、家から歩いて行けるスーパーの近くの公園で1時間近く遊ばせたあと、その足で買い出しへと向かうのが聡美の日常になっていた。

住んでいるアパートから徒歩15分圏内で行ける範囲に公園とスーパーがあるのは、ペーパードライバーの聡美にとってありがたかった。

今日は、公園の前に郵便局寄って、それから公園、スーパーで買い出し……っと。

あー、でも、郵便局行かないといけないのきついなぁ。

ゆっくりとした歩幅とは反対に、頭の中ではこれからの行動スケジュールを急ぎ足でザッと考える。

そして、しんどくなってしまう。

郵便局くらい自分で行けばいいのに……。

聡美は心の中で、目の前にはいない夫に小言を言った。

聡美の夫であるひろしは、IT企業に勤めている。

毎朝、7時ごろ出社し、帰って来るのは日付が変わるギリギリだった。

仕事してるから、郵便局に自分で行けないのは分かる。分かるんだけど……。

でも、3歳のやんちゃな息子を連れて行くのは、郵便局でさえ大変なのを彼は知っているだろうか。

昨夜、「明日、郵便局でこれを速達で出しといてほしいんだけどいいかな?」とさらっと言った弘の顔が浮かぶ。

聡美の心に黒く、もやもやとしたものがぼんやりとかかる。

……まぁ、弘は仕事を頑張ってくれてるわけだし、仕方ないか。これくらい。

聡美は、かぶりを振って、黒いもやを追い払った。

駄目だ。油断するとすぐに正体の分からない黒いものに自分自身が飲み込まれてしまいそうになる。

その感覚は、聡美にとって恐怖でしかなかった。



「ママ!まずはすべり台からやろ!」

公園に着いた瞬間に悠はお気に入りのぐねぐねとした赤い滑り台へと一直線に走って行った。

10時過ぎの公園は、すでに多くの子ども連れで賑わっている。

カンカンと太陽が照りつける夏は、遊具が熱くなってしまい、公園に行くのを避けざるを得ないが、冬の晴れた日の公園は最高の遊び場だった。

それに聡美は、冬のじんわりと地上へ暖かさを届けてくれる冬の太陽が1年の中で1番好きなのだ。

ぽかぽかとして気持ちいい……。

こんな天気のなか、お昼寝できたら最高だろうなぁ。

ありえないほど固く凝り固まった肩、立ちっぱなしによって感じる足の裏のジンジンとした痛み、身体が訴えてくる慢性的な疲れは、すぐにでも私を夢の世界へといざなおうとしてくる。

楽しそうに滑っている悠を見ながら、ふぁ、と思わず大きなあくびが出た。

「ままー!一緒にすべろー!」

「はいはーい」

聡美は、目尻に浮かんだ粒を拭いとり、滑り台へ続くわずか5段の小さな階段を上った。



「悠、そろそろ帰ろうか」

「えー、もうちょっと」

「さっきの滑り台が最後って言ったでしょ」

「あと1回!」

全然帰るつもりのない悠に、「ほんとに、あと1回だからね!」と聡美は小さくため息をつき、腕時計に目をやる。

くたびれた紺の革ベルトのアナログ時計は、11時を指していた。

あぁ、もう11時だ……。このままだと買い出しの時、お昼ご飯の時間にかぶってしまう。

お腹を空かせた3歳児ほど手に追えないものはないのではないかと私は思う。機嫌が悪くなるし、泣きわめくし、癇癪が激しくなる。その時はだいたいお菓子やアイスを永遠とねだられ、私の顔はしぼんだ風船どころじゃなくなる。

「いい?もう帰るよ?」

若干の苛立ちを抱きながら悠が滑る姿を見る。

「はーい」

結局悠は1回と言ったところ、2回滑り台を滑り、満足顔で聡美の元へやってきた。



スーパーに着くと、すでに11時半をまわっていた。

あぁ、ヤバい。完全にお昼どきだ……。

よし、でも悠の機嫌はまだ悪くない。

今のうちにサッと買い出し済ませてしまわないと!もちろんお菓子とアイス売り場は避けて。

家に作ったご飯を用意しているのに、こんなところでお菓子だのアイスだの食べられては困る。

ええっと、まずはお肉のコーナーから……。

聡美の頭の中がより忙しなくなる。

そこへ、焼き立てのパンのいい香りが鼻をかすめた。

唾液腺が刺激され、ぐぅ、と腹の虫が鳴く音がする。

……美味しそう。

そう言えば、私、朝ごはん、味噌汁しか飲んでないや。おねしょの片付けとかこぼした牛乳の片付けに追われて、もういいやってなったんだよな。

聡美は、花の蜜に誘われる虫のように、ふらふらとパン屋に近づく。

しかし、これが聡美の体力ゲージをさらに減らす要因となる。

を3歳のやんちゃざかりの息子が許してくれる訳はなかった。

気付いたときには、目の前のパンを悠が人差し指で突いていた。

「悠!!なにやってるの!駄目でしょ!」

店中に響くような声で、悠を反射的に怒鳴ってしまうと、ジロジロとした視線が聡美を突き刺さしてくる。

あぁ……。だめだ。またこの感じ。

子育てをするようになって、よくこの視線を感じるようになってしまった。

誰も何も声をかけるわけではなく、ただ見られるだけの無言の視線。

無言の視線というものを向けられたほうは、あれやこれやと想像して、なんだか、勝手に世界からけ者にされているような気がしてしまう。

聡美は、目にぐっと力を入れ、こみ上げてくるものを抑えた。

そちらはなんとか抑えれたのだが、疲れもあり、怒りの方は抑えることはできなかった。

感情に任せて怒っては駄目だと頭では分かっているのに、なぜできないんだろう。

怒るじゃなくて、叱らなきゃ。

アンガーマネジメントの本で読んだ言葉を思い出す。

しかし、一度怒ってしまうと、なかなか止められない。

「売り物なんだから触っちゃ駄目なの!!」

怒気のこもった声に、悠の目には、だんだんと透明な粒が浮かんできた。

「うわーーーん!!」

その粒は、次第に大粒の涙となり、ボロボロと悠のぷっくりとした頬を伝っていく。

もう、公園までは笑顔で過ごせてたのに、なんでこうなっちゃうの。

聡美は唇を強く噛みしめた。

悠が素手で触ったパンをトングで掴み、トレイに乗せ、290円を支払う。

「すいません」の言葉を添えて。

母親になって、何度も使う言葉だ。

たまに、私は、一体何に謝っているのだろうと思う時もある。

「ほら、悠、行くよ」

聡美は泣きじゃくる悠の手を引き、スーパーの肉売り場へと向かう。

もう、パンなんて買うつもりなんてなかったのに。

しかも、私は食べれないエビの入ったパン……。

ひろしにでもやろう。

まぁ、今夜も終電でしか帰って来ないんだろうけど。

聡美は、今夜も日付が変わるギリギリでしか帰って来ないであろう夫の弘を思い浮かべて、より一層憂鬱な気持ちになった。



なんとか買い物を終えた聡美は、一方は買い物袋を、もう一方の手では悠としっかりと手を繋ぎ、家へと向かう。

晴れていると言えど、吹き付ける風はやはり冷たい。

冬の風は、ピリピリと聡美の頬を刺激してくる。

重力に逆らえないパンパンになった買い物袋の持ち手がジャンパー越しの聡美の細い腕にグイッと食い込んでいる。

あぁ、早く家に帰ってこの荷物をおろしたい……。

「まま、だっこ」

「え!ここで!?もう少しだから頑張って歩こうよ!ね?」

家まであと5分というところで、悠は一歩も動かなくなってしまった。

買い物袋の重さは、容赦なく聡美の腕へと重力をかけ続ける。

「悠、もうちょっとがんばろ?」

「やだやだ!だっこがいい!」

「ママ、お買い物したもの持ってるでしょ?だから、今は抱っこできないの。ほら!頑張って歩いたら、おうちで悠の大好きなゼリーが待ってるよ!」

「いーやーーー!今!だっこ!」

悠は、座り込んで、またも大声をあげて泣き始める。

パン屋であれだけ泣いたのに、まだ泣けるのかというくらいパワフルな泣き方だった。

「もう!!いい加減にして!自分で歩きなさい!!」

通り過ぎる人のジロジロとした視線を再び感じる。

「あんだけ抱っこって言ってるんだから抱っこくらいしてやればいいのにな」

「ほんとだよねぇ」

若いカップルが、そう言って聡美の横を通り過ぎていった。

悠は、まだ泣き止む様子もなく、声量もそのままに泣き続けている。

「……泣きたいのは私のほうだよ」

聡美の腕から、買い物袋がドサリと音を立ててアスファルトの上に落ちた。

そんな今にも泣きだしそうな聡美の目の前に現れたのが、男か女か分からない金髪の人だった。


「荷物、持ちますよ」

「え、あっ、すいません……」

その人は、アスファルトの上の荷物を軽々と拾い上げた。

女の人……?いや、男の人?

端正な顔立ちに低い声、女の人にしてはしっかりとした肩幅……。

男か女か分からない金髪のその人は、底なし沼のようにずっと涙を流し続けている悠と同じ目線まで屈んだ。

「一生懸命泣いて、どうしたの?」

「……抱っこ、ヒック」

その人は、悠に優しく微笑みながら話しかけると、悠はしゃくりあげながら答えた。

「あらぁ、抱っこが良かったの。私が抱っこしてもいい?」

品を作りながら言い、悠が返事をするのと同時に買い物袋を持っている手と逆の手で軽々と悠を抱え上げた。

悠は、高いのが嬉しかったのか、抱っこしてもらったのが嬉しかったのか、先ほどまで流れ続けていた涙はピタリと止まった。

家ではママがいい!で、外では人見知りのはずの悠がおとなしく初対面の人に抱っこされているのが聡美は不思議だった。

「あ、あの、ありがとうございます」

聡美は、180センチ以上はある大きな身長を見上げながら言った。その長身から、スラリと細い手足が伸びている。

黒のトレンチコートにデニムというシンプルな服装がよりその人のスタイルの良さを際立てていた。

首には、高級そうな紫色のマフラーがくるりとお洒落に巻かれている。

「いいえ~。お母さんって大変ですよね。抱えて」

聡美に向けられた、純粋な笑み。

はらり、と聡美の目から何かが零れ落ちた。

1つ零れ落ちると、それを皮切りにして、ボタボタと熱いものが次々と頬を伝っていく。

あれ、どうしよう。私、泣いてる。

見ず知らずの人の前で。しかも初対面なのに。

「え、わ、どうしましょう!そうだ、これ、ハンカチ」

その人は、一度買い物袋を置くと、ポケットから綺麗に折りたたまれた白色のハンカチを聡美に向かって差し出した。

「ちゃんと洗ってますから、安心してください」

半ば強引に渡されたハンカチを受け取り、涙をせき止めようと、顔に押し付けた。

そのハンカチからは、甘い花の匂いがした。

情けない。

わずか3歳の息子に我を見失うほど怒って、家事も育児もきちんとこなせなくて、見ず知らずの人の前で泣いて……。

聡美は、顔を上げることができなかった。

「あの、よければなんですけど、私のやってるお店でゆっくりしていきませんか?」

聡美の頭上に優しく穏やかな声が降って来た。



「どうぞ、ゆっくりしていってください」

そう言って案内されたのは、小さな喫茶店だった。

カウンター席が5つと、テーブル席が3つ。それと、靴を抜いてくつろげる小上がりのテーブル席が2つあった。

聡美は、小上がりの席に悠と2人で座る。

「あ、買ってらっしゃるもの、冷蔵庫に入れておいてもいいですか?」

「え、あ、じゃあ、お願いします。すいません」

「どうして謝るんですか。誘ったの私なんですから、謝らないでくださいよ。あ、今日はもともとお店を開けるつもりのなかった日なので、他に人は来ませんから、いくら騒いでもいいですからね」

その人は、整った顔を緩ませながらクスクスと笑うと、カウンターの奥の方へと姿を消した。

お店を開けるつもりのなかった日に、こうしてのこのこ付いてきて良かったのだろうか。

だが、他にお客さんがいないというのは、正直ほっとした。

飲食店なんて、悠が走り回ったり、大声を出したりと、周りの目線が気になって、行くこと自体避けていた。

ゆっくりと店内を見渡してみると、すごくレトロチックだ。それに、お花がたくさん……。

壁にかけられたリースやテーブルの上に置いてある一輪挿しなど、いたるところに花が飾ってあり、この場にいるだけで心がほぐれていくようだった。

「ママ!これ、きれいだね!」

悠が目をキラキラさせながら、座っている席の大きな窓を触る。

「うん、ほんと、綺麗……」

その窓は、すずらんの花が描かれた、美しいステンドグラスの窓だった。

その窓に当たった光が反射し、幻想的な光を店内へと届けている。

家の近くにこんな場所があったなんて全く知らなかった。

つれて来られたたのは、いつも行くスーパーや公園がある方向とは逆の方向にある、小さな路地を抜けた先だった。

この喫茶店はそこにひっそりとたたずんでいた。まるで花屋のようにたくさんの花が入り口に飾ってあり、初めてここを通ったとしてもきっと中がこんなレトロチックな喫茶店だなんて思わなかっただろう。

「お待たせしました~!」

白をベースに黒い花模様があしらわれた、ふりふりのエプロンをつけて、その人はやってきた。正面のウエストの部分でリボン結びをしている。

お洒落な雑誌から飛び出してきたようなその美しくも可愛らしい姿に、聡美は衝撃を受けた。

「……かわいい」

聡美は思わず、声に出してしまっていた。

「ほんとですか!?」

キラキラと目を輝かせてくるその人に、聡美はこくりと頷く。

「かわいいです。本当に」

目の前に立つモデルのような人と、ぼさぼさ頭で、顔もぱさぱさ。そして毎日、息子や重たい荷物を抱えて育った、たくましい二の腕。スタイルがいいとはお世辞でも言えない身体の自分を比べて、心までもがしぼんでいく。

「あの、お名前聞いてもいいですか?」

金色の髪の下から、豊かなまつ毛のついた切れ長の目が聡美へ向けられる。

「私のですか?」

「はい!息子さんには先ほど名前を教えてもらいましたので。ね、悠くん」

「うん!」

ここに来るまでの短時間で、あっという間に悠は打ち解けてしまったようだ。

「だから、お名前お願いします」

ジーッと赤茶色の目に見つめられる。

「さ、聡美です」

「わぁ!素敵なお名前ですね。聡美さん」

「そうですか?」

私は、名前負けしている気がして、あまり自分の名前を好きになれなかった。

「美しい」だなんて、私には不釣り合いすぎる。

そんな漢字が似合うのは、目の前にいるこういう人のほうだ。

「素敵ですよ!あ!私の自己紹介まだでしたよね!?ごめんなさいね。先に名乗らせちゃって。私は、スズランって言います。みんなは、ランちゃんって呼んでくれます」

「ラン、ちゃん……」

「そう、ランちゃん!……ちなみに、私は男です」

「そうなんですね」

「あれ!?驚かないんですか?男なのにこんな格好してとか」

「……似合ってますので、問題ないと思います」

そう、似合ってる。私なんかより全然。

「聡美さん、今なんか物凄くネガティブなこと想像したでしょ?」

「あ、いえ」

ぐう、と大きな音が響いた。

「ママ―!お腹すいたー!」

どうやら、悠のお腹からだったらしい。

「悠くん、待ってて!スペシャルなものパパッと作っちゃうから!聡美さんも待っててください!聡美さんのためだけの特別メニューありますので!」

悪戯っぽく切れ長の目を片方閉じると、再びランちゃんはカウンターの奥の方へと姿を消した。

聡美さん……か。

名前で呼ばれたのはいつぶりだろうか。

「ママ」「悠くんのお母さん」最近は、そんな風にしか呼ばれていなかった気がする。

それに、誰かにご飯を作ってもらうのを待つのは、いつが最後だったか思い出せないほど遠い遠い昔だ。


10分と経たないうちに、お肉が焼ける香ばしい匂いが漂ってきた。

それから、だしの匂い、火にあぶられたお醤油の匂い……。

「お待たせしました~!悠くんのために作った、握らないなんちゃってハンバーグよ!」

目の前に出された温かみのある木のプレートの上には、海苔の巻かれた小ぶりなおにぎりが2つ可愛らしくちょこんと座っている。

その横には、均一にぽろぽろと炒められたひき肉が艶を放っている。

上にかかっている赤いとろりとしたものは、ケチャップだろうか。

「いつものハンバーグとちがう……」

「いつもの?」

「うん!いつもね、ママが作ってくれるハンバーグは、車のかたちしてるんだよ!」

「へぇ、それは素敵ね。私も食べてみたいわ」

ランはにっこりと悠に笑いかけると、優しく頭を撫でた。

「でも、ランちゃんのやつも食べてみる!」

悠はスプーンを握ると、ゆっくりと口へ運んだ。

「ランちゃん!これ、おいしい!」

悠は、目を輝かせると自分でバクバクと食べ始めた。

「よかったわ。ゆっくり食べるのよ!あ、聡美さんのもすぐ持ってくるから、待っててください」

そう言って、ランちゃんが持ってきてくれたのは、茶色いスープマグからふわふわと湯気の立ち上る白いスープだった。白だけど、真っ白ではない、少し黄みがかかった白。

スープの中心にパラパラと添えられた緑色のパセリと鮮やかな赤い小さな花が綺麗だった。

ふんわりと香ってくる優しく食欲をそそる匂いに、ごくりと喉が鳴る。

「どうぞ」

ふわりとランが微笑みながら促した。

「いただきます……」

聡美は、木のスプーンで一匙すくい、ゆっくりと口へと運ぶ。

その瞬間に、鼻の穴を大豆の香りが通り抜けていった。

ごくりと一口含むと、とろりとした、まろやかで優しい味が、口の中を満たしていく。

胃がぽかぽかと温かい。

「美味しい……」

生クリームのしっかりとしたコクでもなく、牛乳のようにさらっとした喉越しでもなく、その中間のような優しくもったりとした飲み心地。

「ふふ、よかった。聡美さんのためだけに作ったスープなので喜んでいただけて嬉しいです」

「私のためだけ、ですか」

「はい!聡美さんのためだけに作った豆乳甘酒スープです!」

……豆乳。なるほど、この大豆の香りの正体は豆乳か。

こんなに飲みやすい豆乳初めてかもしれない。

それに、こんな風に優しい味のスープ飲んだことない。

「豆乳には、幸せホルモンと呼ばれるトリプトファンが豊富なんです。それに、甘酒は腸内環境を整えてくれるんですよ!豆乳も甘酒も美容には凄くいいんです!女性のつよーい味方なんですよ!」

ふふ、とランは笑った。

「米麹で作った甘酒は、ノンアルコールなので、悠くんも一緒に飲めちゃいます。ちなみに、聡美さんのために作ったスープには、身体をあっためる効果のある、すりおろした玉ねぎと生姜も入ってます!」

ランは、ぱっと花が咲いたように口角を上げた。

「聡美さん、最近、自分に優しくできてますか?」

自分に優しく……。聡美はいまいちランの言っている意味が分からなかった。

「自分が喜ぶものを自分に食べさせてあげたり、スキンケアやお風呂でゆっくり肌を労わったり、自分で自分を褒めてあげたり……そういうことです。なんだか、それができていない気がして。だから、そのお手伝いを私がしたかったんです」

あぁ、違う、豆乳だから、甘酒だから優しい味なんじゃない。

スープがこんなに優しい味なのは、ランちゃんの優しさがたっぷりとこのスープの中に溶け込んでいるからだ。

聡美の目にだんだんと熱が集まる。

「駄目、なんです。私、もともと不器用で……。名前に似合わず、賢くも美しくもないし、本当に名前負けってかんじで」

聡美は、ぽつりぽつりと口にする。

そんなこと話すつもりもなかったのに。

このスープは、私の心を溶かしてしまったみたいだ。

「少しでも付けられた名前に恥じない自分になりたくて。いろいろ計画を立てて、家事やろうとしても、なんかバタバタになっちゃうし、怒りたくないのに感情に任せて悠を怒ってしまったりして……っ、駄目なんです!本当に!母としても妻としても!もっと頑張らなくちゃいけないのにっ!そんな駄目な私が自分に優しくなんてしたらさらに駄目に……」

「聡美さんの何が駄目なのか、私にはさっぱり分かりません。

もっと頑張る?こんなに充分頑張っているのに?」

ランは、指の長い細く白い手で、聡美の手を優しく握った。

「頑張ってる人の手ですよ。聡美さんの手は。

自分の感情に蓋をして、ぐつぐつ、ぐつぐつ煮込んでると、人生が美味しくなくなってしまいますよ。たまには感情の蓋をとってアクをとらないと」

「アク……」

「たまに、自分の中に出てくる黒い感情のことですよ。それを私は、アクって呼んでます。悪魔みたいな」

クスクスとランは鈴のなるような声で笑った。

「でも、黒い感情も実は必要で、それと上手く付き合っていくことが生きていくうえで、何よりも大事なんじゃないかと私は思います」

「……ランちゃんにもあるんですか?黒い感情」

「ありますよ。人間、誰だって」

そう言うランの表情は憂いを帯びていた。

ランちゃんって、なにか凄く大きなものを抱えているのだろうか。

「……ランちゃんって一体何歳なんですか?」 

「そんなの、もちろん秘密ですよ!」

ランはおどけて、幼くも見える表情で笑った。

「聡美さん。私は、子どもいないから分からないんですけど、もっと人生、らくしていいんじゃないでしょうか。ハンバーグだって握らなくてもいいんですよ。料理も子育ても、人生も、自由でいいんです」

「自由……」

「そう自由!大切なのは、自分に優しくすることです!」

そう微笑むランちゃんはやっぱり綺麗だった。

「たべおわった!おかわり!」

口のまわりを赤いソースでべちゃべちゃにしている悠が満面の笑みを2人に向けて言った。

「わ、悠!もう食べたの?」

「うん!おいしかった!」

「よかったわ。おかわりね!待ってて~」

そう言うと、ランは、すぐに握らないハンバーグを空になったお皿に乗せて持ってきてくれた。

「あの、ランちゃん。これ、ケチャップだけじゃないですよね?」

「そう!ケチャップとお醤油とお出汁を片栗粉でとろみをつけてる特製ソースです!簡単だから、ぜひやってみてください」



悠は、見事におかわりした握らないハンバーグも食べ終わった。

聡美は、改めてランにお礼を言う。

「ランちゃん、今日はありがとうございました。何から何まで……。でも、本当にお金いいんですか?せめて、私が頂いた分だけでも……」

「だーかーら!何回も言ってるじゃないですか!私が誘ったからいいって!」

先ほどからお金を払いたい聡美をランは頑なに断った。

「じゃあ!今度はちゃんと食べに来ます!」

「それならぜひ。楽しみに待ってます!」

ランはにっこりと笑った。

「ランちゃん、幸せでした。本当にありがとうございます」

じゃあ、とランに頭を下げお礼を言い、家に続く道へと足を向ける。

「あ!聡美さん!すずらんの花言葉って、“幸福の再来”なんです。だから、きっとまた聡美さんに幸せが訪れますよ!」

ランは、聡美たちが見えなくなるまでずっと手を振ってくれた。


「あのね、ママ」

「なぁに?」

「ぼく、ランちゃんのハンバーグ好きだけど、ママの作ってくれるハンバーグがいちばん好き!」

「……ありがとう」

聡美は小さな悠の手をぎゅうっと握りしめる。

忙しいと、見失ってしまいそうな幸せを、今しっかりと噛みしめる。

大切なのは、自分に優しくすること、か。

それに、もっと自由でいいんだ。

晴れた日に必ず公園に行かなくて家でのんびりしても、毎日なにか作らなくてお惣菜買っても、食べたかったらパンを買っても、疲れたら休んでもいいんだ。

聡美の心の黒いもやもやはいつの間にかなくなっていた。

空には、オレンジ色の夕日が浮かび、大小2つの濃い色の影が道に落ちている。

「聡美!悠!」

聞きなれた耳ざわりの良い声が2人を呼ぶ。その声に振り向くと、弘がいた。

「パパ!」

悠は嬉しさいっぱいの笑みを浮かべながら弘へと駆け寄った。

「弘!今日も遅くなるんじゃなかったの?」

「……聡美、最近元気なさそうだったから早く帰りたくて」

弘は肩で息をしながら、真っすぐに聡美を見つめた。

夕陽に照らされた弘の顔が愛しかった。

「あと、これ」

弘は後ろから、ピンクのりぼんがついた、一輪のすずらんを取り出した。

「綺麗だったから、聡美にと思って……え、ちょ、何で笑ってんの」

不思議そうな顔をする弘に、あのね、と微笑む。



こんなに早く幸せが再来するなんて。

今度は、弘も連れてランちゃんのところへ行こう。



冬の日の夕方、聡美の心と身体はぽかぽかしていた。

それはきっと豆乳甘酒スープに溶け込んだランちゃんの優しさというどこにもない調味料と、この手から伝わるぬくもりのおかげだ。

夕焼けに染まる街に、手を繋いで歩く大小3つの影が仲良く道に落ちていた。

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