最終話 カレーライス成立論

 開店したばかりの、昼前のカレー屋。客はほとんどいなかった。


 閑散とした店内を、僕はまっすぐ歩いた。


 奥のテーブルに先客がいた。


 その男は言った。


「カレーライスとは対話である」

「……なにを言うとるんだ、このヒョロガリ眼鏡は」


 その男、的場は小綺麗なスーツに身を固めていた。胸には金のバッジが輝いている。


「君の過ちは、子どもがカレーを好くように彼女を好いたことだ」


 テーブルにはカツカレーがあった。なぜかそのカレーは冷めているような気がした。


「君は子どもがカレーを好むのと同じように彼女を好んだ。最大公約数的な味覚に素朴に訴えかけてくるような旨み。そういうものを彼女に求めた」

 

 的場はカツカレーを一口食べた。なんとなくその手つきが鼻につく。


「そう都合のいいものではないぞ」

「……」

「カレーも彼女もな」


 カレーにラーメンにハンバーグ。子どもに人気な料理が子どもに好かれる所以は、それらを味わうのに洗練された味覚がいらない、ということだ。


 最大公約数的な、大雑把な味覚で事足りる。


 しかしそういう未熟な舌で味わえるのは上っ面の朧気な旨みだけなのだ。


 そこには酸いも甘いもない。


「君が思うほどには彼女は都合のいい女ではなかったのさ」

「……そんな風には……考えていなかった」


 即座に、強く、明確に否定すべきところを、曖昧な返ししかできない時点で、僕が彼女のことをどう思っていたのか知れるというものだ。意識していたにせよ、していなかったにせよ。図星。


 そしてそれはきっと彼女も感じ取っていたことなのだ。


「あるいは、君はこう思った。僕に惚れるような女だ。僕のような男に惚れるような女だ。僕のようなくだらない男に。どうとでもなる、とな」

「……」

「君は君自身を貶めすぎた。自分自身を貶めて、彼女をさらに貶めていたんだ。──猛省すべきことだ」


 僕はひどく喉が乾いていることに気づいた。


 テーブルに置かれたグラスに水を注ぐ手が震えた。


「君は彼女を好いていたかもしれないが、愛していたのか? 俺はそうは思わない。君は恋愛などしていなかった」

「そうだ。僕は恋愛なんてしていない」

「自覚しているだけ、無自覚であるよりマシだ、なんて思うなよ。無知であることを自覚しているだけ、無知であることに気づいてないやつよりは賢いなんて考えるな。それは相対的な評価でしかない。無知は恥だ。無自覚は罪だ。君は可愛く優しい彼女のご厚意につけ込んで好意を搾取した。君は彼女を弄んだ」

「僕は彼女を持て余した」


 だから彼女は去った。それだけの話だ。


「問題を矮小化するのは君の悪い癖だ。それではなんの解決にもならない。次につながらない」

「次? 次なんてない」

「もう彼女以上に都合のいい女は現れないからか?」

「黙れ!」


 僕は一気にグラスの水を飲み干した。


「……俺は黙らないよ。カレーライスとは対話であると言ったはずだ」

「なにが言いたいんだ……お前は……?」

「カレーを食えと言っている。俺が君に言えることはカレーを食えということだけだ」


 的場はスプーンを差し出した。僕が受け取ると、彼はカツカレーの皿をぐいっと僕の方に寄せた。


 僕は促されるまま、カツカレーを食べた。


 冷めていた。


「カレーを食えよ。対話しろ。君が主体的に働きかけろ。君が能動的に食べることでカレーはカレーライスになる」


 的場のカレーライス成立論。


 カレーライスとは実はファジーなもので、食べる側がカレーライスとして食べようという意思を持って食べたとき、初めてカレーライスは成立する。 


 そうあれかしと望んで食って、初めてカレーはカレーライスになる。


「彼女を逃がすなよ。君のようなものにはもったいない女性だ」


 僕はカレーを食べ続けた。


 皿までカレーにして食ってやろうという勢いで食べた。


 僕はカレーが好きで、彼女が好きだった。


 だが、僕にはわからなかった。人を好きになるということがわからなかった。どうしたらいいかわからなかった。なにもわからない、そう思いたかった。僕が確かに分かっていたのは、僕はカレーが好きだ、ということだけだった。


 だから僕は彼女に「カレーをおすそ分けさせたい」なんて訳のわからないことを言って、訳のわからないことをしていた。


 いい歳して、人を好きになるということがわからなくて、自分の未熟さが堪らなく痛々しくて、耐え難くて、目をそらしていた。


 もしかしたら、彼女は僕のそういう未熟さに惹かれたのではないか、なんて気持ち悪いことを思ってしまう。しかし同時に、彼女にかけられていたのは愛情ではなく、憐れみではなかったかと思う。


 彼女が留学したいという希望を、僕に中々言い出せなかったのはなぜか。憐れんでいる相手に、なにを相談できるだろうか。


 僕は僕の未熟さによって、彼女をひどく傷つけていた。


 自覚しているだけ無自覚であるよりマシだなんて思うな、なんて的場は言うけれど、自覚することから全ては始まるのだ。僕は僕の痛みと、彼女に与えた痛みと、僕の罪を自覚した。


 僕はカツカレーを平らげた。  


「的場範一ともあろう男が凡庸なことを言うようになったな」

「君ほどではない。凡庸に恋愛をしたふりをして、失恋したようなふりをするのはよせ。君は恋愛などしていなかった」

「そう僕は恋愛なんてしていなかった」


 僕は千円札をテーブルに置いて立った。


「これからするんだ」


 僕は的場に背を向け歩きだした。


「おい!」


 店を出ようとする僕を的場が呼び止めた。振り返った僕に彼は言った。


「足りないぞ!!」


 カツカレー大盛り1,300円(税込)。


 


 

 

  

 

 

 




 


 


 


 

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誰が為にカレーは煮える 菅沼九民 @cuminsuganuma

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