第32話 堂々巡り

 大学を辞めると決めた以上、実際にいつ退学するかは準備ができ次第、ということになる。


 引っ越し業者を雇う余裕はないし、実家に持って帰らなければならないものもたいしてないので、僕は辞めると決めた日からひたすら部屋のものをゴミ袋に詰める日々を送っている。


 日がな一日中ゴミ袋の口を拡げている。たった六畳のスペースにこれほどまでに物があったのかと驚き呆れている。


 粗方ゴミが片付いたところで、家電の処分について考えた。テレビや冷蔵庫など、殆どは大学入学とともに買ったもので、強いて実家に持ち帰って使いたいような上等の物ではない。やはり捨てるほうが楽だ。


 冷蔵庫。これが一番処分するのに手間だ。空にしなければならない。僕は冷蔵庫の中の物をゴミ袋に詰め始めた。


 まだ食べられるとか、買ったばかりとか、もう僕にはどうでもよかった。


 冷凍室もきれいにしなければならない。頑固な霜がついてしまっていて中々とれない。やかんで湯を沸かした。


 湯で霜を溶かしながら張り付いてしまった冷凍食品なんかを引っ剥がす。スプーンでガリガリ氷を削ったりもした。


 冷凍室の一番奥に、なにか四角い箱状のものがくっついていた。力を込めて引き剥がしたら、それはタッパーに入ったカレーだった。


「あ……」


 思わず声が出た。それはあの日、忍野さんからおすそ分けされたカレーだった。もらった量が多くて、タッパー2つに分けなければならなかったのだ。タッパーの1つを冷凍していたのをすっかり忘れていた。


 僕は凍ったタッパーをゴミ袋に入れようとした。


 しかしどうしても捨てられずレンジに入れた。


* * * 


 気がつくと、僕は四畳半くらいの真っ白い空間に突っ立っていた。


「ああ、またここか」


 2回目、いや3回目ともなれば慌てることもない。


 僕は四畳半の真ん中に寝そべった。


 ここは僕の精神世界。僕の行き着くところ。最後の領地。


 天井を見上げると、そこに天井は無くどこまでも夜空が広がっていた。


 そして一際輝く星の一つから糸が垂れ下がっていて、その先になにやら巨大な仏像のようなものが垂れ下がってきた。


 徐々に迫ってくるそれは、絡みつく男女の像であった。


「タントリズムかあ、趣味じゃないな」

「私の趣味でもありませんよ」


 像の背中からひょこっと見覚えのある黒髪が覗いた。


「見覚えのある、だなんて嘘はいけませんね。人間の髪はこんなふうに夜空をバックに輝いて見えるものではありません」 


 確かにそうだ。しかし僕にはその黒髪は黒く輝いて見えた。


「お前は誰だ」

「そうですね。以前お会いしたときは解像度めちゃ低の忍野七海でしたが、今は脚色された忍野七海、といったところでしょうか」


 僕の心に潜む解像度めちゃ低の忍野さんは脚色された忍野さんへと昇格していた。


 輝く黒髪に白い肌。両目に納まった瞳には天の川が見える。それは夜空の星々が写っているのではなく、星がその中に閉じ込められているのだ。


「二階級特進、といったところでしょうか」

「縁起でもない」


 脚色忍野さんは肩にかかった髪を指でくるくるといじっている。忍野さんはそんないじらしい仕草はしなかった。これが脚色されているということか。


「しかし、先輩。私は正直ひいていますよ。ドンびきです」

「なにが」

「なにって私に会いたいからって一年以上前のカレーを食べちゃったことです」

「そんなんじゃない」

「ここで繕ったって意味はないでしょう。私はあなたなのですから」


 それもそうだ。これは言わば自問自答なのだ。彼女は忍野さんであって忍野さんではないとかではなく忍野さんではないし、忍野さんでもない。しかしそれ以外でもない。僕の想像上の、創造された忍野さんだ。


「そうです。だから素直に思ったことを言ったらいい。私はあなたをすべて肯定し、すべて否定してさしあげましょう」

「僕は君に会いたかったのだろうか。いや君じゃなく現実の君に」

「そんなこと、あなたにわからなければ私にわかるはずがないでしょう」


 なんだよ。


「それと、現実の君、とはまさに私のことではないですか?」

「それはおかしい。いま目の前の君は脚色された君のはずだ」

「ええ、ですがこの私とあなたのいう現実の私。よりあなたが正確に知覚できるのはこの私のはずです。なぜなら私とあなたの間にはなんら隔てるものがないのですから」


 確かにそうかもしれない。現実の、実在の忍野さんと僕を隔てているものはあまりにも多い。それは部屋を仕切る壁だとか戸だとかだけではない。


「あるいは、私は忍野七海のイデアと言えるでしょう」

「そんな高校生が好きそうな哲学用語を言って」


 忍野七海のイデア。理念としての忍野七海。僕の妄想。


「どこまで行っても、あなたは忍野七海を五感を介してしか知覚することはできません。各器官で得た刺激を電気信号に変換して読み取ることでしか忍野七海を知れないのです。それなら純粋な脳内の電気信号の産物である脚色された私のほうが純度の高い情報だとは思いませんか。私のこそ忍野七海だとしておいたほうが幸せですよ」

「なにが言いたい?」

「なにも言いたくありません」


 埒があかない。


「そうです埒なんて明きません。これはあなたが最も好むところの堂々巡り、停滞した空転なのですから」

「僕が望んでいる」

「そうです。あなたが望む限り、私はこのかわいいおくちから意味のない戯言を延々と垂れ流すのです。だってそうやっていればなんだか賢いような気がするから。思考を常に巡らせているようで、同じところをぐるぐる巡っているだけだけど、頑張って思考しているような気分になれるから。思考しないやつは愚かだ、思考を止めなければ愚かではない。そんな愚かな考えでぐるぐるとやっています。理屈っぽく見せて、そこには理屈なんてないのです。ただ垂れ流してるだけ。私の言葉が要領を得ず、何の意味も為さないのはあなたの思考がそうだからです。私の口から出る言葉は正しくあなたの思考そのままなのです。脳直結のスピーカにかわいい女の子の皮を被せています。いい趣味してますね」

「いい趣味してるよ」


 本当に。


「こっちからしゃべってばかりでもなんですから、水を向けて上げましょう。あなたはどうしたいのですか。どうしたかったのですか」

「それを考えたくてここに来たんだと思う」

「だったらあなたが寝そべっているそこがすべての答えなんじゃないですか」


 僕の寝そべっているところ。きれいな正方形。窮屈で薄汚い四畳半。僕が行き着くところ。


「思考の果てにあなたが行く着くのが、そのちっぽけな四畳半ならば、それはあなたの器の狭さ、心の狭さ、精神の幼さ、未熟さなのです」

「ひどいことをいう」

「すべてあなた自身が思っていることです。結局そこは狭すぎる。2人は入れません」

「そんなことはない5人くらいいけるさ」

「同じ種類のカードは重ねていいルールです」

「なんのゲームだよ」

「人生ゲーム?」


 人生ゲームなんて大して遊んだことないだろ。


「的場さんたちはあなたと同種ですが、忍野七海は違います。それは忍野七海が若いからとか可愛い女の子だからとか、そういう話ではないですよ。仮にあなたが美少女だったとしても忍野七海とは別種です。その狭い四畳半に百合の花園が開園することは無いです。仮に忍野七海が美少年だったとしても」

「わかってるからそれ以上はよせ」

「なんですか男女差別はよくありません。薔薇園の話までするべきです」


 百合だの薔薇だのと、お花畑の話は間に合っている。


「どだい無理な話だった」

「そうしてあなたは諦めた。結局のところ勝手に向こうが告白してきただけで、自分から好きになったわけでもない。そもそもつり合っていなかった」

「そういうこと、さすがよく分かってる」

「だから、結局話は戻り、堂々巡りなわけですが、これは自問自答なのです。あなたがわかっていることは私にもわかっているし、私がわかっていることはあなたも重々わかっている」


 そう、結局ここではわかっていることと、わからないことを再確認することしかできない。ここには僕の思考しかないのだから。


「まあでも…」


 脚色された忍野さんが像から飛び降りた。ふわりと僕の腹に降り立って馬乗りになる。


「刺激物を口に含んだ影響で普段なら思いもよらない考えが浮かぶ、ということもありえます」

「さすがよく分かってる。それを狙ってたんだ」

「破廉恥ですね」

「僕の世界は拡がるのだろうか」

「拡がるんじゃないですか」

「どうしようもなく不完全で、不完全に完成してしまった僕の世界だ」

「不完全なら壊しちゃっても良くないですか」

「壊した先になにが残るだろうか」

「さあ、でもきっと今よりすっきりしますよ」


「僕は君が好きだったのだろうか」


──そうなんじゃないですか。


* * *


 目覚めた瞬間、僕はトイレに走った。


 胃の中身ごと口のカレーを吐き出す。冷凍していたとはいえ、流石に一年越しのカレーは無理があった。刺激物以外の何物でもない。


 苦しさで涙がでる。胸の苦しさで。





 



 



 

 

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