第31話 ジンベエザメ
忍野さんとデートするとき、決まって梅田駅で待ち合わせした。隣に住んでいるのに。
一種の儀式みたいなものだった。
忍野さんと海遊館に行こうと約束していた。
先日ちょっとした行き違いがあって、いまは喧嘩中といったところだ。果たして喧嘩前に交わした約束は有効なのだろうか。
喧嘩の原因はお互いにお互いの行く末について、相談する機会を持たなかったことだ。それは行き違いと言うにはあまりにも決定的な破綻で、致命的なコミュニケーションの欠如だった。僕たちは付き合っているなんて言って、その実、漫然と一緒に居ただけなのだ。
僕は謝罪せず、弁明せず、歩み寄らず、彼女との行き違いを解消しようとせず、悶々とした日を過ごした。
自ら行動を起こさず、相手に委ねた。自分がひどく無気力で無責任な人間であることを再確認した。
そして今日。海遊館に行こうと約束したはずの日。僕は一人で梅田駅のいつもの場所に立っている。どうすることもせず、やはり彼女の行動に僕たちの関係を託した。
「……おまたせしました」
結果として彼女は来た。
「行こうか」
それだけ言って、僕は歩きだした。
* * *
前を歩く彼女。
博物館にしても、美術館にしても、僕は忍野さんに前を歩かせた。
遺物にも絵画にも興味はない。僕の興味は、彼女が何に興味を示すのか、ということにしかないのだ。
水族館でも同じだった。僕は水槽に収まった魚類にさして興味はない。ただ彼女が、ガラスケースに閉じ込められた魚を見て、どんな反応をするかだけが見どころだった。
この期に及んで忍野さんのことをもっとよく知ろうとか、そんな殊勝な意図ではない。ただ僕は彼女の視線を通して物事を見ることが楽しい、というだけなのだ。
彼女はスタスタと歩いていく。
アユ、エゾメバル、ゴマフアザラシ、ハリセンボン、ピラルク、ジェンツーペンギン、ナンヨウハギ。
彼女はせいぜい一瞥くれるぐらいで通り過ぎていく。スタスタと。僕も黙って続いた。
* * *
彼女が足を止めたのは、ジンベエザメの水槽の前だった。
「大きい……」
彼女は素朴に感動していた。
素朴に、ありきたりに、当たり前に、二匹のジンベエザメの大きさに驚いていた。悠々と水槽を泳ぐジンベエザメをじっと見つめていた。
僕も隣に立った。
彼女の心を動かしたものを見て、果たして僕は何を思うのだろうか。
僕たちは交わす言葉もなく、ずっとジンベエザメを眺めた。
* * *
ジンベエザメのあと、忍野さんが興味を示す水槽は特になく、すぐに外に出てしまった。
「先輩」
忍野さんはスッキリした顔で笑った。
「私、満足しました」
「それは良かった」
僕たちは笑い合うことができた。しがらみなく、屈託なく、素直に笑顔を見せあえた。
「先輩、あれに乗りましょう」
にっこりと笑った忍野さんが指し示したのは観覧車だった。悪名高い天保山の観覧車だ。
その観覧車に乗ったカップルは別れる。あまりにもありきたりで笑ってしまうようなジンクス。
それを忍野さんが知っているのか知らない。だが僕は乗ってみるのも面白いと思った。彼女の目に止まったという事実だけで、乗る価値がある。
* * *
天保山の観覧車は一周約15分。
その15分は、僕たちに必要だったコミュニケーションの欠如を埋めるのに十分な時間だったのだろうか。
だが、それでも僕たちは話し合い、互いを理解し、納得したのだ。そういうことにしよう。そういう合意を形成しよう。そう彼女と決めた。
そして僕たちは観覧車の前で別れた。
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