第2話  今日という日の始まりに

まるで長い夢から覚めたばかりのような、現実世界と心象風景が瞳の中で入り交ざる感覚。何かと何かの堺にいるようなこの感じが、私はあまり好きではない。

目が覚めてからどれほど経っただろうか。


ベッドから起き上がり、四畳半の部屋に一つしかない大きな窓のカーテンを開ける。

柔らかい朝日に目を細めていると、見慣れた街の風景が浮かび上がる。

海沿いにある小さな街、「境町」。


これで「さかいまち」でなく、「ボーダー・タウン」と呼ぶのには正直驚いた。

はじめのうちは拭えなかった違和感も、連日街の西側にそびえる県境の壁を見ていると、それも以前から当たり前だったように思えてくる。

境町を横切るコンクリートの壁は、町の中にいるときは建物に遮られ見ることができないが、丘の上に立つこの部屋からは異質な存在感を放ち続けている。

あれが由来なのかどうかはわからないけれど、「境町」という名前はこの町にぴったりだと私は思っている。


この部屋で目を覚ますようになってもう一ヶ月になる。

新参者の私はあまりこの街のことをよく知らない。

どこか懐かしさを感じさせるほどに、ありふれた町並みのはずなのに、私にはこの町が少し普通からズレているように思えてならなかった。そうしたズレがこの町を奇妙にさせてならなかった。私をそう思わせる一番の原因は、今の私が過去の記憶を喪失しているという点にあるのだろう。


もしかしたらこれが私の日常だったのかもしれない。

けれど、どうしてだかここの言葉も文化も風習も、私の「知っている」とは少し違っていた。

私は一体どこまで記憶を失ってしまったのだろう。

私とこの町には不鮮明なズレがある。そしてそのズレがよりいっそう、私にわけもない疎外感を抱かせる。見えないボーダーラインの上に立たされているようなこの感覚は、何とも言いようがない。


それをかき消そうと、私は傍の机の上においてあるタバコを手元に手繰り寄せた。

過去の私が好んで吸っていたであろうその青いタバコの紙箱は、雨にさらされ銘柄のプリントが剝がれ落ちてしまっていた。クシャクシャになったパッケージの中から、最後の一本を取り出すと、私はそれにそっと火をつけた。マッチの炎が眺める間もなく、潮の匂いの微かにする爽やかな朝風に吹き消される。慣れないタバコを吸うようになったのは、そうしないと私の中から過去の私という存在が完全に消えてしまうように思えたから…。


遠くの方から聞こえるゴオオオオというジェットエンジンの音に顔を上げると、海の上空をゆっくりと大きな空中輸送タンカーが進んでいた。黒いタンカー船はまるで空を泳ぐクジラのようで、見ていて飽きることがない。実はこの部屋は、空輸タンカーを眺めるのにはかなりの特等席なのだ。

その理由は船の進路の先にある、巨大な海峡大橋の残骸だ。

見事に崩れ去ったその橋は、陸に近いふたつの真っ白な主塔を残し、今も海の上にたたずんでいる。一方の主塔は海に向かって傾き、その間には切れたワイヤーがたくさんしだれ柳のように垂れ下がっていた。空高くまで伸びる橋の主塔とその間に張ったワイヤーを回避するため、タンカーは必ずこの部屋の目の前で停船する。そして大きなジェットの排気音を響かせながら数分かけて船が橋に引っかからないところまで上昇していく。週に一度のこの定期船の姿を、何となく私は欠かさず眺めるようにしている。


揺れるタバコの煙の向こうで、橋の残骸の上を空輸タンカーがゆっくりと通り過ぎていく。

無残な姿のあの橋は、大戦の前まで海の向こうまで繋がっていたらしい。

私は当然、そんな恐ろしい大戦があったことなど知らない。

知らないことだらけのこの町で、私は今「Nobody(ノーバディ)」と呼ばれ、流れるまま「トラブルシューター」なる便利屋まがいの仕事をするようになった。

自分が何者かを知らずとも、人生なるようになるものだと最近思うようになってきた。けれど、毎朝この窓の景色を眺めながら思うことが一つだけある。

「私がここにいる理由があるとするならば、それは一体何のため?」

それ探すために私は、今日も部屋のドアを開き、今日起こる全て出来事に立ち向かう。

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