端倪と混ざり

天池

端倪と混ざり

文字や古文書をもたない社会においては、神話の目的とは、未来が現在と過去に対してできる限り忠実であること――完全に同じであることは明らかに不可能ですが――の保証なのです。ところが私たちは、未来はつねに現在とは異なるものであるべきだ、またますます異なったものになってゆくべきだ、と考えます。

               ――クロード・レヴィ=ストロース『神話と意味』



 眩い白さを突っ切って歩いていくのは簡単な作業だ、なんでもない作業だ、だから全てが当たり前に過ぎていく気がして猛烈な懈怠を目頭に揺らつかせ、無垢な小犬が廃道を走るのを一瞬目で追うように、晴雨(せいう)は二十三時半の東京駅を歩いていた。右手に提げたトランクバッグの重量はいつも愛おしいだけに悔しくなる。人が過ぎ去って、トランクバッグが重ければ、今日の夜はとびきり暗いのだったと思う。夜がとびきり暗くて、私が蹂躙する駅構内の風景が眩く白ければ、私は私自身を置いて早足で歩き去る。行き交うともなく行き交う黒い背広が風みたいな心地を醸し、私の紅い心臓に吹き付けている。でも重いから目を覚ましすらしない。むしろ問題なのは私の腕の方だった。

 タクシーに乗り込むと湖面に浮かべた皿が転覆するように眠気に襲われた。グレーに染まった足元の空間をそっと押しのけるようにして僅かに足を伸ばし、そのまま横倒しにして、膝を曲げる力で肩の向きをずらし、一瞬外を眺めてから目を閉じた。

 金メッキのドアノブに左手を掛けて、扉を開くと何十年も前に演奏されたワルツの音が霞のように流れて聞こえて来た。ヨーロッパへの渡航に規制がかかり、出張の予定が取り止めになってから、姉の花苑(かえん)はひたすら部屋でロシアのワルツを流し続けている。突き当りに丁度見えている小テーブルに乗せられた細長いラジカセはくすんだ緑色のアンティークで、このあたりで双子姉妹の趣味はよく似ていた。清潔な床に置くとコトンという鈍い音の鳴るトランクバッグを再び持ち上げて、晴雨はリビングへと進んだ。夜露に覆われた山の斜面を濃密な暗闇へ滑り落ちていくような足元の覚束なさが、私の姿を触媒として一挙巨大に増幅するが、皮膚のすれすれのところで温かな空気がそれを絶えず断ち切っていく。

「ただいま」

 ソファの端の、天井照明の光がよく届くところに座った姉は屋根を飾る彫刻作品みたいに、緊張を逃がすことによって固められたかのような姿勢で薄い雑誌を両手に乗せていた。

「何読んでるの」テーブルの上にバッグを置いてソファの後ろへ回り、手元を覗き込むと何やらオレンジ色をしたスープ料理の画像が見えた。「え、料理?」

「おかえり。そう、なんかずっとワルツばかり聴いてると同じことを永遠やり続けるのが楽しくなって来るんだけど、急に空が割れるみたいに、別のことがしたくなる。隣の部屋に何かを見つけた気がする。それで料理がしたくなった」

「ふーん」

 姉が静かに視線を落としているのは意外にも料理慣れした人向けと思われる月刊の雑誌だった。調理工程の説明はごく簡単に済まされ、大きく載せられた完成形の写真は鮮やかだった。「何か作りたいものはあるの?」と晴雨が訊くと、「まだ決まってない」と花苑は僅かに顎を引きながら答えた。「でも明日、あんたが帰る前には作っておくから。食べずに帰って来て」

 晴雨は「分かった」と言って、洗面所へ手を洗いに向かった。

 金管楽器の音色が雲間を先導するような浮遊感のあるワルツの響きはリビングを離れると段階を踏んで弱まった。マスクを外して洗面台の明かりを点ける。真っ白な光に背後から突き刺されて既に死んでしまったように無表情だが、目の前の強い光の下で、今ならどんなものにでも触れることが出来そうな矛盾した感覚も帯びる。筋をなして流れ落ちる熱い水の中で手を動かしていると、こうして同じ場所で同じことをずっと続けていることこそが唯一正しいことなのではないかという気がして来て、両手の真下に目をやりながら、姉の言うことは本当だなと思う。手を拭いて照明を落とすと、明るい部屋のワルツがまるで解消され得べき疲労の長年の友のように聞こえた。

 晴雨はトランクバッグからパソコンとカメラを取り出すとそれ等をテーブルに並べ、バッグはもう一度口を閉じてからラグの上に移動させた。自分もラグに腰を下ろしてパソコンを起動し、脚を目一杯伸ばして姉に向き合う背後のソファに半身を預ける。専用のアプリでカメラの画像を一覧表示させると、一日かけて試行錯誤した記憶が様々な感覚を伴ってどっと蘇り、同時に疲労も場面毎に細分化されるようだった。温かい手でカーソル越しに一枚一枚確かめながら、晴雨はなんとなく頭に浮かんでいる編集案と実際に撮れている写真達とを突き合わせる作業に入る。

「今日、良いの撮れた?」と雑誌を置いた姉が尋ね、晴雨は頷いてパソコンを回転させた。「これとかめっちゃ良いよ。あったかい雪景色という感じの」

 晴雨が拡大して示したのは身長十八・二センチのドール駈瀬ちゃんが滑らかに積もった雪の上に絨毯を敷き、ミニチュアの木が作る木陰で地図と弁当箱を抱えている写真だ。

「あ、こないだ作ってた木だ」

「これが大成功だったの。フェルトの色合いも雪とちゃんと合ってて」

 そう言うと晴雨は脇のトランクバッグをかちゃりと開けて、中の箱の一つから上下に分割された雪景色の一片を取り出した。全てフェルトで出来ており、簡単に着脱可能な切断面はうまく葉の内側に隠れて目立たないようになっている。気分を高める為に晴雨は続いて駈瀬ちゃんも取り出し、木の下で休んでいてもらった。

 カルセドニーという宝石に因んで名付けた駈瀬ちゃんは少し桃色がかった柔らかそうな頬ときりっとした直線の眉、どんなものもずっと深く見詰め返すような青白い目の色が特徴的で、不思議と軽やかにどこへでも行けてしまうという特別な能力を持っている。好物はエビフライ、方向感覚が鋭敏。気まぐれに描く絵がとても上手くて、大小の動物に好かれやすい。タイミング良く花苑の流している曲の中で晴雨が一番好きだと感じるワルツが始まり、おっとりと椅子に腰掛ける駈瀬ちゃんを視界の端に置きながらの作業は調子良く進んで、一時間も経たない内にブログにそのままアップ出来るところまで完了した。

 画面を落としてぱたんとパソコンを閉じると、花苑はベッドの上に移動しており、ヘッドボードに背中をつけてタブレットを見詰めていた。初雪の日の賑やかな波止場をペンキに塗られた窓辺から眺めているような、落ち着き払いつつ躍動するメロディが、ふいに目を覚ました透明な巨人が部屋を駆け回るように聞こえている。姉も駈瀬ちゃんも同じような姿勢でベッドやテーブルの上に座り、ぴくりとも動かない。晴雨は両肩を沈めるように落として後頭部をソファに引っかけ、しばらく目を閉じて聴いていた。ラジカセから放たれる音が少しも小さくならないのが心地良かった。

「晴雨、明日何時だっけ?」

 姉の声がして瞼を上げ、自分が本当に眠りかけていたことに気付く。テーブルのガラスの天板の上には雪山の木が一本だけ聳え、奥には姉の料理雑誌が残されている。花苑は腿の上にタブレットを下ろして、両耳を覆うセンター分けの長い髪に囲われた目を妹に向けていた。

「二時に準備が始まるから、昼過ぎかな」と晴雨は思い出すように答えた。

 花苑は反動でそうするかのように何度か頷くと、「私は525町の反戦デモに行って来るから、九時半くらいには出るね」と言いながら身体を布団に滑り込ませた。意思を含んだ身振りがいつの間にか物理現象に移行しているような独特な動き方は姉の癖だった。手を離れた端末が布団の上を流れ、壁に当たる音がした。晴雨は525町の大通りにフラッグや巨大なボードを持った人々が犇めき合う様子を想像して、Netflixで観ているドラマ『ウィッチダンス』のワンシーンを思い浮かべた。絢爛で軽やかなワルツが依然として流れる中、仰向けになって寝ている姉の横顔を見る。

 あっ、と突然花苑が目を開けて、僅かに頭を回転させながら「ごめん、ラジカセ後で消しておいてもらえる?」と小さな声で言った。本当は小声で話しているときが一番落ち着くのだと花苑はよく言っていたが、晴雨と二人でいるときでも、声のトーンはまちまちで、それも昔から変わらないところだった。うん、分かったと晴雨は返事して、駈瀬ちゃんと椅子と木を箱に戻すと、トランクバッグを持ち上げて自分の寝室へ運んだ。


 シャワーを浴びてリビングに戻ると、一対のソファに挟まれたガラステーブルには対角線上に料理雑誌と白いノートパソコンが置かれたままになっていて、まるで今日と明日が地面にへばりついて共に微睡んでいるみたいだった。壁からぼんやりと街路を照らす飴色の明かりのようなラジカセの音を消し、続けて部屋の電気も落とした。空の引き出しを開けるみたいに軽い、鎧戸風の装飾が施されたドアを押して寝室に進む。中の電気を点けると狭い部屋はいつでも爛々と輝くので、夜の間引き篭っているべき場所が端的に示されたような気になる。晴雨はまた手応えのないドアを押して閉め、ベッドに寝転んで見たいSNSだけ軽くチェックし、それが済むとイヤホンを付けて『ウィッチダンス』シーズン2の続きを観始めた。――

 ニューヨークの保険会社で「オフィス組」として働くジョアンナは、各地の支店や取引先との間で迅速な情報伝達を行うハブとしての役割を担っていた。それはオフィスで出世を重ねた先達から〈修行〉とも呼ばれている激務だったのだが、一方、オフィスの中でも異なる幾つもの部署から別々に雑用を押し付けられる日々が続き、またそのせいで、次第に組織内の派閥争いにまで巻き込まれていく。それでうんざりしたジョアンナはFIRE〈経済的独立と早期退職〉を目指し密かに行動を重ねていく、というのが大まかな筋で、シーズン1では同僚の一人が一方の派閥で気に入られたことから、その派閥の力を利用して大規模なストを実行するところまでが描かれた。この出来事は功を奏して会社の組織構造はがらりと変わったが、新たな権力者達から元々目を付けられていた人達は一層肩身の狭い思いをすることになり、シーズン2のオフィスにはかえって淀んだ空気が漂っている。

《エイミー、ほらしっかりして。あと少しの我慢だから》

 ジョアンナはブラインドを閉ざした窓際の棚の上に水の入った紙コップを二つ置くと、すぐ横で棚に両手をついたまま動けずにいる同僚に精一杯の同情を示した。

《ありがとう……》

 同僚はそろそろと紙コップを口に運ぶが、一気に傾けようとした為、多くをそのまま零してしまう。ジョアンナはハンカチを差し出すとぐるりと半回転して、窓を背にして目を閉じた。

 キーボードを叩く音が永遠に止むことがないかのように響く中、ジョアンナは業務が終了して皆がそそくさと家へ向かう頃の誰もいないオフィスを空想に描いていた。小規模のブロックが幾つも並ぶデスク配置は目を閉じていてもありありと思い浮かぶ。そのとき、その空間のいたるところから突然白い人型の影が現れて、薄暗がりに包まれた通路を様々に動き出したのだった。何か布状のものを身に着けていることは分かるのだが、表情は判別がつかず、楽しそうにも見えれば、大きな苦しみを引き連れているようにも見える。

 ジョアンナの顔に苦悶の色が浮かぶ。今や彼女を取り囲んでいるのは白い影に占領された無人の暗いオフィスであり、それ等の影はまるで目的がないみたいに動き続けている。《幻? いや……。今見えているのは、きっとこの場所に打ち捨てられた沢山の恨み……行き場を失った無数の悲しい魂だわ!》

 苦悶を追い立てるように開かれたジョアンナの瞳にはギラギラした光が宿り、つい数秒前のカットでは白い影がいたところに生身の人間が置き換わっている。

《魂……悲しい魂……そうよ、ここでずっと立ち上がる機会を窺っていたそんな魂達が、今一斉に目を覚ましたんだ。こんなに心強いことはないわ!》

 コップに残った水を飲み干した同僚が先にその場を離れた。その丸まった背中を少しの間目で追って、ジョアンナも水を飲みながら自分のデスクへと戻った。――

 一話分を観終えるなり晴雨は強烈な眠気という裏地つきのビロードに一切を包み込まれるようなあくびをし、殆ど目を瞑りながらイヤホンを取り外して、間もなく深い眠りに落ちた。


 デザイン画による一次審査を通過した作品が実際に制作されて披露されるという、服飾系の学生達にとって登竜門となっているファッションコンテストは例年通り盛大に始まった。プロジェクションマッピングを用いた演出がステージを特別な場所に変え、ライトの色が一度に切り替わり、舞台袖で渋滞する言いようのない緊張感が静かに漏れ出してステージの真ん中から空間に溶ける。晴雨からは殆ど死角になっている場所で司会の声が最初の作品の登場を告げ、間もなく青いフリルを沢山施された芯のあるシルエットのモデルが姿を見せた。

 座席の最前列近くまで迫り出したランウェイを、ステージからモデルが歩いていく。その通路上にだけ煌々と光る舞台照明は無人スペースとなっている前方の客席をぼんやりと照らし、沈黙する赤いシートを浮かび上がらせていた。それを挟んで、シートに腰を落ち着けながら鋭い視線を浴びせかける審査員達と、ランウェイの先端で歩行を止めたモデルとが向き合った。スーツを着て下手側の壁の近くに直立する晴雨は、その後姿を食い入るように見詰めていた。三列分の赤いシートは波打つ深淵のように横たわり、その後ろには審査員の列を先頭に人々の動かない頭がずらりと並んで、重なり合って開く小花みたいに鮮やかな青色を身に纏ったモデルは、まるで広大な花畑の表面がその景色ごと直角に傾けられたかのように、雄大で無防備な背中を見せていた。

 数秒間そうして佇んでから、モデルはゆっくり向きを変えると、また晴雨の前を通り過ぎてステージへと戻り、やがて反対側の舞台袖に消えた。澄んだ茶色の舞台床は満遍なく強い明かりに照らされていて、同じ黒色に染まった、両脇のカーテンとランウェイの床が息を潜めるように取り囲んでいた。ランウェイの黒、ステージの薄茶色、カーテンの黒、そしてその向こう……。上手の舞台袖にはもう誰の姿も見えない。そのとき左右のスクリーンに映し出された情報が次の作品のものに切り替わり、司会者がテーマや素材についての簡単な説明を始め、ステージの奥の方からまた別のモデルが現れた。

 司会者の声の後ろでブーツの鈍い音を幽かに鳴らしながら、モデルは奥の方を歩き、少し先で立ち止まることなく向きを変えると、その足を前方に踏み出した。もうブーツの音だけが聞こえている。細かな真珠の帽子飾りのようなモチーフを頭の片側から首の下まで広げていて、顎はその内側にあった。沢山の珠で光を反射させながらも、頬や首のところには微妙な影が生じている。モデルは自らの皮膚に映った光の加減のことなど気にも留めない様子で、グレーのメイクを施した装飾品のような目をまっすぐ行く手に向けていた。晴雨は一歩ごとに近付いて来る揺るぎのないその目をじっと見詰めながら、着実に遂行されていく歩行を追っていた。たった一つその動きだけがこの会場を支配する可能性を握っているのだ。黒い床を踏んで晴雨の前を通り、モデルは客席の方へと進んで行った。白い珠が従順に纏う。また先端で足を止めて、繊細なグラデーションの付いた白と焦茶色のドレスは暗闇の立ち込める淵に臨んだ。

 数秒間。無数の視線が一点に注がれる。でも誰一人として身を動かしはしない。ずしりと重たそうなブーツを引いてモデルが振り返る。ドレスの裾は左から右に向かって長くなっていて、今度は脚の内側に僅かな影が出来ていた。この脚が一歩進む度に後ろ側のあらゆるものが消えていくのだと思ったら眩暈がしたが、全ては一瞬の内に行われて、明るいステージの誰もいない広がりの内に滲んでいくのだった。

 晴雨はもう一度客席の方を見た。豪華な造りの赤いシートが三列。審査員は手元で何かをじっくり参照していたり、早々に書き込みを終えるともうステージに目を戻していたりした。マスクを着けながら人々は皆一様に座り、同じ方を向いている。語らない人々には愛着が持てた。今目の前に存在するこの景色の方が、よっぽどお人形の世界のように思えた。グラデーションの去った恍惚。束の間。私はパンプスの底を通じて、地面の感触を密かに確かめようとした。

 ショービジネスを専門とする会社に入社して以来、このコンテストに携わるのは三回目だった。それは晴雨が服飾専門学校の出身で、更にコンテストへの参加経験があったからだ。晴雨の作った服を着たモデルが、かつてこのランウェイを確かに歩いた。そのとき晴雨は、上手側の舞台袖に回って、吐き気と頭痛とで倒れそうになりながら乏しい視線を暗闇に送り、モデルが帰って来るのを祈るように待っていた。客席側から平然と眺めていることなんて出来る筈もなかった。それは片時も自分の作品とそれを身に着けたモデルから目を離したくなかったからで、同じ身長の可愛くメイクしたモデルがやっと戻って来ると、私はすぐに酷い立ち眩みを起こしてしまって、休憩室のベンチでずっと付き添ってもらいながら休んでいたのだった。

 薄い色の更紗を複雑に組み合わせて用いた作品のモデルが、出て来たときの優雅さのまま黒いカーテンの先へと消えた。姿が本当に見えなくなる瞬間までを目で追ってその度にどきっとする感情と、私には立ち入ることの出来ないランウェイが他人の生活と自分のいるところを分断しているかのような散漫な気持ちとが自分の中に同居する。上手で待っているかつての私のような作者はいなかった。どの作品も、モデルの動きの中にだけ存在して、それに追い縋ることもじっくり観察することも出来はしなかった。綺麗なものが私の前を行き来する、その繰り返しだった。昔からよく知っている審査員達の目は光っていて、客席の人々はマジパンで出来たみたいにすっかり固まっていた。煌びやかなものが弾けるとその破片は赤い淵に吸収されて、後ろを向いたらもう何も残らない。動き。動きだけが支配する。同じルートを辿って動く機械を根気強く眺めているような感覚に晴雨は時折襲われた。動き。カメラの連射のように動きが時間を切り取り続けることによって今が更新され、その始まりから終わりまでを観客達は同じ場所からじっと見届けた。


 各賞の受賞者達が作品と共にステージ上に並ぶ光景はどの年もそれぞれに華美で圧巻のものなのだが、それを眺めていると不思議と高揚感が解けていき、帰る為の準備のことばかりしか考えられなくなるのはいつものことだった。前にコンテストに出たとき晴雨は、審査が済んで受賞者発表が始まってもベンチから動くことが出来ず、休憩室のドアを開けてもらって、舞台裏を通って流れて来る司会者の声をモデルの手を握りしめながら聞いていたのだった。最後まで名前が呼ばれることはなく、嗚咽を漏らしながら誰もいない休憩室でひとしきり泣いて、式典が終わる前にモデルと一緒に会場を出たのだ。穏やかな風がほんのりと暖かく、駅へ向かう道で歩道橋に上ると適度な間を置いて車が前にも後ろにも流れていった。階段を下りるあたりから楽しくなって来たのを覚えている。作品を着たまま上からロングコートを羽織ったモデルとこのまま手を繋いで856町を回れたらどんなに楽しいだろうと思った。でもゆっくり歩いて駅の改札まで来ると、モデルは心配そうな顔をしながら会場へ戻っていった。背中はチェックのコートで隠されていて、私の服はもう見えなかった。

 盛大な音楽と拍手が鳴り止んで、美しい作品達が舞台袖へと引っ込み、観客がぞろぞろと帰り始めると晴雨はステージに上って舞台裏へ向かった。貸与している機材をチェックして回り、撤収作業の段取りを委託業者と確認。そうしたらもう殆どすることはなかった。例年通り、あっけなく全てが片付けられていく。舞台裏にはしばらくの間歓声が響き、ステージを横切るときホールは異様に広く感じられた。運べるものを会社のトラックに運んでしまうと晴雨はそのまま帰路に就くことが出来た。日が落ちかけているが、まだ空は明るい。スマホをチェックすると、姉からLINEが届いていた。

――帰るの何時になりそう?

――七時前くらいかな、と送信してから駅へと向かった。

 家に着いてドアを開けると、相変わらずのワルツと共にバターと卵の匂いが漂って来た。晴雨はパンプスを脱ぐとすぐにリビングへ向かった。花苑はそこにはおらず、リビングから繋がっているキッチンスペースでフライパンと木べらを操っていた。

「良い匂い。美味しそう、」とマスクを顎の下にずらしながら、晴雨は興奮して近付いた。「ナイスタイミング」と花苑も満足気に微笑む。妹に到着の五分前に再び連絡させ、出来上がりの時間を入念に調整していたのだ。

 手を洗ってリビングに戻ると、半ば形の崩れた白い個体とケチャップを大胆に添えられて、半月状のふわふわしたオムレツのようなものが皿に盛り付けられていた。

「ねえ、これなんていう料理?」

「スフレオムレツ。メレンゲで作るの。ふわっふわだから早く食べてみて」

 花苑はソファの前で体育座りをして片手で脚を包み、もう片方の手で晴雨を急かした。一緒にテーブルを使うときは互いの足が当たらないように左右にずれて腰を下ろすのだが、手製のオムレツを口にする妹を正面から眺める為、姉は窮屈な姿勢を選択したらしい。そうされると申し訳なくなり、晴雨も膝を折り曲げながら皿を手に取って、スプーンで半月を掬い口に運んだ。

 ここから世界のあらゆるところまで、地表の全てを覆い尽くす物体をこそぎ取っていくような、決定的で不鮮明な感覚だった。目を爛々と輝かせている姉の優しさのように柔らかいオムレツは、うっすらと塩味がきいていて、厚みはあるがすぐに蕩けてしまうので驚く程の勢いで食べ進めていくことが出来た。

 白いドーム状の物体を切り崩して口にしてみると、煮物に似た甘味と洒脱なまろやかさが広がった。

「これは何?」

「ホワイトアスパラと蕪のムース」

 これ美味しい、と晴雨が今度はケチャップをたっぷりスプーンに取りつつオムレツを掬いながら言うと、同じくスプーンで分厚いオムレツに切り込みを入れた花苑は嬉しそうにそれを頬張った。

 あっという間に食べ終えると、二人は皿をテーブルに残し、そのまま後ろのソファに腰を落とした。緑のラジカセからは威厳に満ちたヴァイオリンの音色がまるで美声のライオンが中で吠え狂うように流れ出していた。

「デモ、どうだった」

「思ってたよりもすごい規模だったよ」

 花苑はソファに置いてあったタブレットを手に取り、雰囲気の伝わりやすい写真を探した。「事前に主催者の何人かには話を訊けたし、交通整理もちゃんとしてた」

 そう言って姉が見せた写真には片側の車線を埋め尽くす人々の溢れ出すような主張が捉えられていた。片手サイズのものから何人かで持ち上げるものまで、様々なボードが頭上に重なり合っていた。お昼時の行進だという。センターラインの手前にはデモのポスターを貼り付けてある背の高い看板が等間隔に並び、それを支える人達の頭がかろうじて見えた。――

 定時になって同僚達が席を立つ中、一人最後まで作業をしていたジョアンナは周りが静かになったことを確認すると、そっと腰を浮かせてオフィスを見回した。ボスはもう帰っていて、他に残っている人は誰もいない。ジョアンナは廊下に出て、広いフロアの奥の方にある執務室へと向かった。そこでいつも会社の重役と顧問弁護士が訴訟の相談を行っていることを彼女は知っていて、椅子に盗聴器を仕掛けていた。今回の訴訟で会社が争っている相手は実はジョアンナなのだ。仕事をこなしながら地道に情報を集めていたジョアンナは、巧みに姿を隠しつつ、それを駆使して会社を窮地に追い込もうとしていたのだった。彼女にとってそれはFIREを成し遂げるのに不可欠なピースで、また、同僚を限界の苦しみから救い出す為の唯一の希望でもあった。

 執務室の前まで来て、まだ明かりが点いていることを不審に思ったジョアンナは、下がり切っていないブラインドがつくる僅かな隙間から中の様子を覗き見た。すると重役の社員が二人向き合って何か話し込んでいて、よく見ると片方の重役の手には彼女が仕掛けた盗聴器が掴まれていた。

 ジョアンナはみるみる青ざめて、震えながら顔を下に隠した。そのとき中で重役達が席を立つ音がして、まずい、と咄嗟に逃げようとしたとき、廊下の角に掛けられた絵画の中から《こっちよ》という声がした。ジョアンナは急いでその角まで行き、壁で身を隠した。なんとか見つからずに済んだが、ジョアンナはたった今自分を助けてくれた聞き覚えのある声に混乱していた。《キャシー……なの?》

 自分の周りに何かが動く気配はない。ジョアンナは動揺して絵画を見詰めていた。

《そうよジョー。よく聞いて、あなたはとても危険なことをしようとしているわ。あなたが思っているよりずっと大きなものを破壊しようとしている。でもそれだけが私達を全ての呪縛から解放する希望の光なの》

《呪縛? 一体どういうこと? キャシーどこから喋っているの?》

《私はこの絵の中よ。あなたからは見えないわ》

《だってあなたもう退職したって……》

 ジョアンナは今にも泣き出しそうな顔をしている。しばらくしてまた声が聞こえた。

《私は魔女の孫なの。そしてこの会社をつくったのは魔女なのよ。今から私の知っていることを全部話すから、そこを動かずに聞いて。

 六十年以上前、古代の信仰を追求していた若い神秘主義者達が、アイルランドに行ってある魔法の儀式を行ったの。そうしたらお互いの姿が光り輝いて見えて、彼女達は儀式が成功したことを悟ったわ。その儀式は人間のとっくに失われてしまった力を引き出す為のものだったのだけど、アメリカに帰ってそれまで通り集会を重ねる内に、自分達は古代の祭司と同じ特別な能力に目覚めて、魔女になったのだと気が付いた。

 彼女達は万能感に満たされて、現代のアメリカで何かしでかそうと考えた。それで得意分野だった宝石を扱う大きな会社をつくったの。お菓子の家の代わりに資本の城をつくったのね。研究を重ねて色んな魔法を使えるようになった彼女達に出来ないことなんて何もなかった。その内の一人が私の祖母なのよ》

 キャサリンは会社がその後に辿った歴史を淡々と語った。はじめ宝石類の専門業者だったのが、様々な分野に手を広げながら拡大し、やがて保険事業に乗り出した。保険会社設立のタイミングで代替わりが行われたのだという。ビルも大きく建て替えられ、新たに経営を任されたのは魔女の弟子達だった。ジュエリーショップの客や自社の社員の中から素質のある者を探し出し、密かに魔法の扱い方を教えていたのだ。しかし魔女流の経営方針をそのまま引き継ぐことは叶わず、弟子達の間には対立が生まれ、次第に二つの派閥が形成されていった。

《私は魔女の血を引いていて、生まれたときから少し魔法が使えたから、会社の派閥に接近することは怖くなかった。うまく出世して、いつか会社を乗っ取るつもりだったの。あんな生活ずっと続けるのは本当に嫌だったしね。でもそんなに甘くなかった。こうして閉じ込められてしまったわ、この絵にね》

 腰を抜かしたジョアンナは足の震えを抑えられない。キャサリンは、この会社にかけられている魔法には必ず〈ボディ〉が必要なのだと話した。この絵画に描かれた少女は会社設立のときから魔法の〈ボディ〉として機能していたのだが、それを忘れた重役達がキャサリンを絵の中に閉じ込めた為、少女はそこから抜け出して行った。それで今ではキャサリンがその役目を果たしているのだ。

《オフィスの皆も、本当はその魔法の〈ボディ〉をしているのよ。私達が出張にも行かずに毎日同じ部屋でひたすら作業し続けなきゃいけないのはそういう理屈なの。このビルが建てられたとき、前みたいに少女の絵一つでは魔法を維持出来なくなって、魔女の弟子達は考えたのね。

 私達のオフィスでは今頃、昼の間皆の中に入り込んでいる魔女の影達が自由に動き回ってる。その中にきっと少女はいるわ。いい、ジョー。その少女から秘密の鍵を受け取るの。他の影とは絶対に口をきいちゃ駄目。少女を見つけ出したら、そっと話しかけて鍵をもらうのよ》


 秘密の鍵を手に入れて以降、オフィスじゅうの魔女の影達がジョアンナに味方をするようになった。盗聴器の一件で警戒を強めた重役達はビルの上部にある隠し部屋で会議を行うようになったが、秘密の鍵を使えば簡単にそこへ侵入することが出来た。魔女の記憶と魔法の綻びは明白だった。ジョアンナはビルに取り付けられた大時計の裏側の梁に腰掛けて、すぐ下の空間で行われる会議をじっくりと眺めたが、その間時計は動きを止めていたから、何も心配する必要はなかった。

 重役達の企みは会社の魔法を利用した錬金術だった。今かけられている魔法を操作して、より大きな富を手中に収められるように会社をつくり替えようとしていたのだ。その計画を十分に把握したジョアンナは、あるときその部屋にオフィスから解放した魔女の影達をなだれ込ませ、会議の場を制圧することに成功した。

 いきなり扉が開いてみるみる内に小部屋を満たした影達を見て、重役の面々は皆驚きの声を上げた。すると即座にその身体に影が入り込み、重役達は声にならないか細い呻きを発してがくりと頭を下げた。勝利を掴んだ影達はテーブルの周りを大勢でぐるぐると回り始めた。映像はそこで六十年前のサバトに切り替わり、古い本や鉱石や小枝や瓶が取り囲む広くない小屋の中で、楽しそうに笑う魔女達は互いの腕を絡ませ合ってひたすらに回り続けていた。

 ジョアンナは金色の鍵を手に持ったままそっと一階に降り、外に出る。ビルから出る瞬間には止まっていた歩行者や車はすぐにまた動き出し、ジョアンナは車の合間を縫って道を反対側に渡る。するとギィ、という大きな音を立てた後でビルの大時計がガコンと壁から外れ、ビルそのものも上の方から光が透過するみたいに溶け出して、道路に落下する直前に時計は強風が吹き飛ばすように消滅し、次いで全てが跡形もなく消え去った。――

 シーズン2の残りの六話分を一気に鑑賞し終えたときには三時を回っていた。晴雨は布団の上に両手を投げ出し、虚脱感に包まれた。後輩の佳奈美ちゃんが上司の暴言に耐え切れなくなって、先月会社を辞めたことを思い出していた。金縛りにあったみたいに全く身を動かす気が起きず、ずっと抱えていたもやもやした感情が急速に膨れ上がった。私は怒っているのか、それとも自分自身の居場所や行動の選択に嫌気が差しているのか分からなかった。枝にとまった一羽の蝶が、その瞬間からぐんぐん何かを吸い取られて、見た目では何も変化していないのに、もう決してそこから動けなくなってしまうような不気味な想像が肩を撫でて、たまらない、と思ったら布団を勢い良く手繰り寄せていた。


 部屋のドアを開けるとリビングにはシリアルの匂いが漂っていた。姉は昨日の買い物で仕入れたらしいクランベリーやバナナをミルクに浸したシリアルにたっぷりと盛り付けて、それをざくざくとスプーンでかき混ぜていた。晴雨はすぐ左手のキッチンスペースに入り、自分の分を用意してテーブルに運んだ。

 シリアルを食べ終えると、姉はラジカセのスイッチを入れて優美なワルツを流し始めた。昨晩は殆ど徹夜で記事を執筆していて、これからもうひと眠りするらしい。晴雨はスーツに着替え、コートを羽織って家を出た。マンションの玄関を抜けると半ば白みがかった空が道路を沈めていて、あらゆるものにその穏やかな明るさが反射していた。大きな木の影が歩道に幾つも出来て面積の半分あまりを埋めていた。ニューヨークの真っ青な空とは似ても似つかない、鏡を張ったような朝ののどけさと、目の前のこの木という存在の確かさ。少し早く家を出たので、いつものように急いで駅に向かう必要はなかった。花苑がすぐに二度寝を始めてしまったお蔭だ。私の服がフェルトで出来ていたらいくらでも眠気で飾り付けが出来るのに、と晴雨は思った。コートで滑らかな影をつくりながら裾を揺らし、道路をパンプスで踏みしめて歩いた。

 四十分間電車に乗って、会社の前まで来ると晴雨は立ち止まり、ジョアンナが何度もそうしていたように思い切りビルを睨みつけてみた。丁度道路の向こうから光が射して、ガラス窓が眩く輝いていた。その間に何人もの人が会社に入っていった。晴雨はその足を動かすことを躊躇った。いつの間にか、私はビルを睨むのをやめて、入口の中に消えていく人々の足を眺めて立ち竦んでいた。全てがぼやけて混ざり合い、何も意味することのない風景に変わっていくような気がした。

 保険会社のビルが消えた後、ジョアンナはキャサリンと一緒にどこかへ歩いて行ったのだった。でも晴雨の会社はどれだけ強く光が照らしても消え去ることなくここにあった。足は棒のようになって動かず、静かに吐き気が込み上げて来た。前方から照らす光が苦しかった。けれど同時に、それを反射して平面的な美をもたらすガラス窓の輝きが、この上なく綺麗なもののように思われて来た。今私の目の前にあるものは結局のところ場所でしかなく、どの場所へ入り込むことも本質的には同じことなのだった。晴雨は自分自身によく似た誰かが非常に重大なことを自分に伝えた気がした。それは一瞬のことだったから、実際には何が起きたのか誰にも分からない。

 再び目線を上げて、溢れかえるきらめきの奥を睨みつけた晴雨は、身体の奥から迫り上がって来る不快な吐き気を怒りだと思うことにした。一段と強い光が射す。晴雨は濃い影を引き連れて、ゆっくりと光の城に入っていった。

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端倪と混ざり 天池 @say_ware_michael

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