第2話 海の麺と四種の蒸し料理

 耳に聞こえるのは静かな水音。これは足元の水面から立っている音だ。但し辺りには風も波も無く、水面はどこまでも穏やかな様相を見せている。ならばこの水音の出所はと言えば、葛城良助がかいで舟をこぐ際に立ち昇る音であった。


 今の状況を何かに例えるならば、SUPサップというマリンスポーツが近いだろうか。簡単に説明すると、サーフボードよりも幅広のボードの上に立ち、パドルで漕いで海の上を散歩するというものである。


 ただ舟とは言ったものの、今良助が足を乗せているのは粗雑そざつで薄い一枚の板切れで、横幅も精々平均的な男性の靴よりもやや広い程度のものでしかない。そんな心もとない板切れの上を、良助は戦々恐々とした表情で、それこそ黄泉の河でも渡るかのような心境で慎重に漕ぎ続けていた。


 何故良助がこのような表情をしているのか。思うに、板の上でバランスを取るのが困難だからだろうか。いや、それは大した問題ではあるまい。仮に落ちてしまっても下は水面。服や荷物が濡れることはあっても、怪我をする程のことは無いのだから。


 ならば理由はと言えば、そう、落ちることの出来ない理由がそこにあるからである。


 異様な程に透明度の高い水。下を見渡してみれば、はるか遠く、底の方に光が届かなくなる地点がはっきりと視認できる程にこの水は澄んでいる。


 距離にして、目測でここから五十メートル下までは見通せるだろうか。故に足から伝わる感触でそこに水があることが分かっていても、当初良助の目にはまるで空気の上を浮き、足を踏み外したなら真っ逆さまに落ちてしまうかのように錯覚せずにはいられない。


 とは言え、実のところその問題点も十数分前には克服済みであった。どんなに怖かろうとも、十分も続けていては慣れるというもの。なんなら途中までは周囲の景色を楽しんでいたし、立ち漕ぎのコツを掴んでからは効率的に移動できる方法を模索するだけの余裕さえあったと言っても良いだろう。


 では何故良助の表情はこうも強張っているのか。そう、その原因は、水の底からゆっくりと追従してくるモノの存在にあった。


 ある地点から姿を現した良助の体長の数倍はあろうかという真っ黒なそれは、巨大な魚とも、或いは寸胴体形なわにとも思えるような見た目をしており、静かに、しかし確実に良助を追うように、どこまでもピッタリと付いて来るのだ。


 いや、ここまで危害を加えてこないのだから、向こうに敵意などは無く、ただ一緒に散歩でもしているつもりなのではないか? そう思って水面を覗き込んで見たことを、良助はすぐに後悔することとなる。


 虚空のような真っ黒な目。その目と目が合うと、向こうには敵意も悪意も無いことが伺い知れる。だが同時に理解せずにはいられなかった。あの巨大魚は、こちらをただの餌としてしか見ていないということを。


 幸運なことに巨大魚は水上を行く良助のことを襲うことはなく、ひたすらじっと、落ちてこい、落ちてこいと言わんばかりに舟の真下より追従してくるだけ。ただその所為で、こうしていつまでも恐ろしい思いをし続けながら先を行かねばならないのだが。


 あぁ、こんなことになるのなら、危険だと忠告する“コンシェルジュ”の言葉にちゃんと耳を傾けておくのだった。そんな風に後悔の念を抱き始めた頃、視線の先に洞窟のようなものが見え始める。あれは――。


「入江だ」


 岩陰に開いた洞窟。その先には小さな建物と細い桟橋さんばしが見える。そして桟橋の先端、そこに人影のようなものを見つけて、目を凝らそうと少し前のめりになった、そのとき。


「あッ――⁉」


 バランスを崩して板の上から足を滑らせてしまった。どうにか体制を立て直そうとして片足のまま上体をばたつかせるも、とうとう良助は立っていることができなくなって――。


 ザバァンと音を立て、透明な水の中へと飛び込んでしまった。


 口から鼻から入り込む大量の水。それは地球の海水とは比較にならない程に塩辛く、目、鼻、口に焼け付くような激痛を覚える。


 だがそんな痛みなんて気にしているどころではない。どうにかして浮上せねばと、塩水にかすむ目で水面に浮いているであろう板を必死で探す。板はすぐに見つかった。体が多少沈みはしたものの、ここから板までは数メートルも離れてはいない。


 しかし水を吸って重くなった服のままでは、どれだけもがこうとも浮上することができなかった。


 そして水中より迫りくる気配。ふと下を見ると、巨大魚は大きな口を開け、もうすぐそこまで迫っている。


 あっ、食われ――。


 そう思った矢先、巨大魚の横っ腹に何かが突き刺さる。一瞬のことで良く見えなかったが、あれは多分、人型の何かがドロップキックを見舞っているように見えた。いや、水中で見舞ったキックなので、あれを果たしてドロップと言って良いのかは分からないが。


 いずれにせよ、キックを見舞われた巨大魚は大慌てで逃げ出して、光の届かない暗く深い水の底へと潜って行った。


 助かった、のか?


 息をすることも忘れ、助かったことに安堵し水の中で呆然としていると、不意に目の前に人型の何かが現れる。


「――ッ⁉」

「泳げるノス?」


 流暢りゅうちょうにそう話しかけられた。それも水の中で。


 そこにいたのは身長にして百五十センチ半ばくらいの人型。薄だいだい色の肌の上に、薄い青緑色の鱗が覆い、腕や脚、背中の一部から美しいヒレが生えている様はまさに人魚。そしてこの深い青に緑が入り混じった瞳の色は、まるで海そのもののようではないか。


「…………、……ッ‼ ……ッ‼」


 黙って暫く目の前の少女に見惚れていると、ようやく自分が息を止めていたことを思い出す。しかしどれだけもがこうとも、やはり水を吸った服のままでは浮くことさえできなかった。


「あ、苦しい? 泳げない? 分かった、陸まで連れて行くノス」


 そう言うと、人魚の少女と思わしき彼女は良助の腕を掴み、水中をビュンビュンと泳ぎ始めた。


 まるでジェットエンジンでも搭載しているのかと思う程の速度に内臓が圧迫され、水中で息をできない良助は肺に残った僅かな空気から何から全てを吐き出しそうになり、フッと気の遠くなるような感覚を覚える。


 意識が途切れる間際、少女に抱えられたまま水上へ飛び出すと、良助は白くモコモコとした柔らかい砂の上へと投げ捨てられた。


「――ッ⁉ ゲホッ‼ ゴホッ――ゥエッ、ゴホッ‼ ペッ、ペッ‼」


 空気を欲して大きく息を吸い込もうとすると、口の中に入った砂が気道に入ってむせ返ってしまった。


 それからどうにか呼吸を整えながら、塩水でひりつく目をこすって前を見る。するとそこには、まるで座礁し半分以上砂に埋もれた船のような外観をした小屋が鎮座しており、掛かっている看板には――。


「“海の家……海神かいじん、厨房”……」


 そう書かれていた。


「入らないノス?」


 声を掛けられた方に目をやると、扉から半身を出した少女が良助に視線を送っていた。ということは、この船のような建物が目的の食事処で、彼女が料理人なのだろうか。


「あっ、いや……でも俺、全身水浸しで砂まみれですし……」

「全然気にしないノス」


 少女は手招きし、良助を中へ招き入れようとしている。すると安堵からか、突如良助の腹の虫が主張を始め、空腹の誘惑に抗うことができなくなってしまった。


「分かりました。それじゃあ、お邪魔します。あっ、でもその前にちょっと、先に店の中で待っていてもらっても良いですか?」

「……ちゃんと来るノス?」

「は、はい。勿論ですよ。ちゃんとすぐに行きますから」

「分かった。待っているノス」


 そう言うと少女は店の中へと消え、砂浜には良助一人が残された。


「さて、と」


 良助は背中のバッグを降ろしてから上のシャツを脱ぐと、いつもの如く中から着替えを取り出して着替える。防水バッグとは言え、あれだけ盛大に水の中へ飛び込んでしまったのだから、着替えがびしょ濡れになっているのではと気にかけていたものの、中身はどうにか全て無事だった。


「ふぅ……いよし」


 新しいシャツに着替え、できるだけ丁寧に体中の砂を拭うと、意を決して店の扉を潜る。


「いらっしゃいませノス」


 中へ入ると、先ほどの少女にそう歓迎の言葉をかけられる。しかし良助は即座に返答することができなかった。それは店の内装が想像していたものとは全く異なり、圧倒され、呆気に取られてしまったからだ。


 そこは正に海の中だった。いや、正確に言うならば海というよりも、巨大な水槽やアクアリウムとでも表現すれば良いだろうか。


 楕円形の空間の半分以上が透明なガラスで覆われ、向こう側は例の透明度の高い水で満たされている。しかし店の中に置かれた調度品の数々によって、良助たちのいるこの空間こそが海の中であるかのように錯覚させられる。


 また、店の中は光源が乏しくやや薄暗いながらも、外とこの空間を隔てているガラスの先、水上より降り注ぐ柔らかな光が店の中を優しく照らすこの光景は、息を呑む程に美しかった。


「お客さん、こっちこっち。どうぞおかけ下さいノス」


 やや興奮した様子で、先ほどの少女が水槽手前のカウンターより手招きしている。それに従って階段を下る最中、良助は期待を高めつつも同時にある不安を抱いていた。それは――。


「えっと、改めてよろしくお願いします。ここへはコンシェルジュさんから魚料理がおいしいと聞いて来たのですが」

「それならうちの店に来たのは大正解ノス。うちの店の魚料理はこの塔で一番旨いノス」

「それは楽しみです。それで、その……いきなりこんなことを聞いてしまって申し訳ないとは思うのですが、この店では、どれくらいの金額で料理を出してもらえるのでしょうか?」


 この塔の中では、どの店でも地球の通貨での支払いが可能である。しかし時には目が飛び出そうな程の金額を要求されることもあり、以前は代金が支払えずトラブルになりかけたこともあったのだ。よって良助が初見の店に足を運んだ際には、こうして事前に必要な金額について尋ねることにしている。


「そうノス……じゃあ、全品一律三百円で良いノス」

「さ、三百円……? あの、ほ、本当に……?」

「ん、高かったノス?」

「あぁいえ、全然そんなことは……。むしろ、安すぎるように思えまして……」

「良いんだノス。お客さんはうちの初めてのお客さん。だから初回サービスなんだノス」

「えっ、俺がこの店の初めての客なんですか?」

「そうだノス。ここの到達難易度は低くなくて、大概は道の半分も来ない内に来られなくなっちゃうんだノス。お客さんは本当に運が良かったノス」


 そう言われて、今まで忘れていたあの恐ろしい巨大魚のことを思い出す。確かに、あんなにも恐ろしい生物が自分の足元を泳いでいたならば、途中で引き返したくもなるというものだろう。


「あぁ……そりゃああんな怪物がいたなら、ここまで来ようとはなかなか思えませんよね。俺も何度途中で引き返そうと思ったことか。いや、そうは言っても引き返すに引き返せないところまで来ちゃっていたんですけど」

「引き返す? いや、違うノス」

「えっ、違うって……その、何が?」

「みんな途中まで来ようとはするんだノス。でも、大概は半分も来ない内に水の中へ落ちちゃうんだノス。それと、今日はあいつらが全然いなかったノス。本当はもっと沢山、もっと大きい奴がいっぱい、水の中を埋め尽くすくらいはいてもおかしくないんだノス。お客さんはノスの店の近くまで来ていたから助けられた。運が良いと言ったのはそういうことだノス」


 半分も来ない内に落ちちゃう? あの巨大魚よりももっと大きな奴が、もっといてもおかしくはなかった? あの、透明度の高い水の中を? それで俺が初めてのお客ということは、つまり……。


 ……。…………。


 よし忘れよう。それについて深く考えてしまえば、食欲どころではなくなってしまうだろうから。


 いや待て、それよりもまず大事なことを忘れているではないか。


「あ、す、すみません! 俺、助けてもらったのにまだちゃんとお礼も言っていなくて……」

「そんなのは良いノス。それより、折角来たんだから何か食べて行ってほしいノス。嫌、ノス……?」

「いえそんな! 勿論食べて行きますよ! 俺だって、その為に来たんですから。それで、ここではどんな物を食べさせてもらえるんでしょうか」

「食べて行くノス⁉ ちょっと待っていてノス‼」


 今まで表情の希薄だった少女は良助の言葉を聞くとパッと顔を輝かせ、冷蔵庫の方へペタペタと音を立てて駆けて行った。良く見るとロゴにはT〇SHIBAと書かれている。流石は東〇。世界に、否、宇宙にも異世界にも通用するメイドインジャパン。


 なんて、そんなどうでも良いことを考えていると、少女は何かを持ってすぐに戻って来た。


「今日はこれがお勧めノス」


 少女が持って来たのは、バットの上に置かれたつややかな光沢を放つ白い半透明な柵状の塊だった。


「これは?」

「ラバスティーケン……お客さんの星の言葉にすると、モノナマズという魚の切り身だノス」

「モノナマズ? ちょっと聞き覚えの無い名前ですが、ナマズは分かりますよ。いやぁ、それにしても綺麗な身なんですねぇ。俺の国では魚を生で食べる風習があるのですが、刺身で食べることはできるんですか?」

「サシミ? それは、何ノス?」

「えっと、こう……魚の身を薄切りにして、醤油……そう、黒茶褐色をした、旨味と塩気のあるタレに付けて生で食べる調理法なんですが」

「へぇ~お客さんの星は変わってるノス。その見た目からはわからなかったけど、お客さんはきっと“力持ち”なんだノス。じゃあちょっと試してみるノス。この状態で薄切りにしても良いノス?」

「はい、是非お願いします」

「分かった。ちょっと待ってノス」


 そう言うと少女は台所から一本の包丁を取り出して、まな板の上で薄切りにすると、小皿にとって差し出してくれる。


「味見だからとりあえず一枚ノス。だけど、うちにはショウユって物は無いんだけど……」

「いえ、気にしないでください。ちょっと味見をするだけですから」


 良助は薄切りになったモノナマズをテーブルの上に置いてあった箸で掴み上げると、それを口に含む。


 確かに刺身を食べるならば醤油があった方が旨いだろう。しかし、これだけ綺麗な身なのだ。そのまま食べたってきっと旨いに違いない。もしもこのまま食べて旨かったなら、少し行儀が悪いけれど、次回は醤油を持参して試させてもらうのも良いかもしれない。


 などと、色々と思考を巡らせていた良助の思惑は、全てが吹き飛ばされることとなった。


 硬い。固い。堅い。あらゆるニュアンス、尺度、方向性において、その刺身はとんでもない硬度を誇っていたのだ。


 まず噛み切ることができない。少女はあんなにもすんなりと包丁を入れていたにも関わらず、口に入れられてからは絶対に形を変えてやるものかと言わんばかりの弾力を発揮している。


 近い物に例えるなら……そう、まるでM〇NOの消しゴム。その硬度と弾力が数倍以上にした何か、とでも言えば良いだろうか。


 これが生物の体を構成している身だとでも言うのか? そんな馬鹿な、あり得ない。今も噛み砕こうと必死で奥歯に力を込めているのに、書いて字の如く、ここまで歯が立たないなんて。


 旨いか不味いかどころではない。とにかく、飲み込めるサイズまで早々に噛み砕いてしまわねば。


 そうしてどれだけの時間が経っただろうか。死力を尽くしてどうにか口の中の刺身を四分割程度にまで咀嚼そしゃくすることに成功した頃――。


「あぁ、ほらやっぱり。お客さん、ぺっ、して良いノス。無理しちゃ駄目ノス」


 心配そうな表情でそんなことを言われてしまう。


「ひ……ひえ……あいよううえふ……」


 料理人の意見を聞かずに我儘を通して刺身という食べ方を指定した挙句、恐らくは貴重であろう食材を無駄になどするものか。その一心で、どうにか良助は超硬質な件の刺身を飲み込める程度にまで噛み切って、渾身の力を込めて飲み下した。


「大丈夫、ノス?」

「…………ッ、……えぇ、はい……。ゴチソウサマデシタ……。それよりその、我儘を言って、本当にすみません……」

「いや、ノスは良いけどノス……。これ、ちゃんと調理すれば食べられるんだけど、止めとくノス?」

「い、いえ! とんでもない! 是非調理した状態で食べさせて下さい!」

「お客さん、根性座ってるノス。分かった、じゃあノスの星の流儀で調理して、絶対に旨いと言わせてみせるノス!」


 少女は首元のエラと思わしき部位でフンスと息を吐いて気合を入れると、白い身の柵にピタリと包丁をあてがい、何やら目算を付けているようだった。すると――。


 シュビビビビッ、と音が聞こえそうな程に凄まじい包丁さばきが始まる。それはあの超硬質な身をあっという間に瞬断し、柵からより細い切り身へ、切り身からさらに細い糸のような形状へと形を変えて行く。


 この形状は恐らく麺だ。しかも博多とんこつラーメンやそうめんよりも遥かに細く、最終的には一本一本全てが髪の毛程にまで細く切り揃えられてしまった。


「よし、身はこれで良いノス」


 あれだけ激しく素早く精密な動きをしていたにも関わらず、少女は汗一つかかず、息一つ切らしてすらいない。いや、それよりも気にするべきはこの麺だろう。極薄に切り揃えられたその様は、まるで艶やかな絹糸を束ねたかのようだ。


「で、これで仕上げノス」


 少女は近くの寸胴鍋におたまを差し込むと、器に移した麺の上にスープと思わしき液体をかける。ただそのスープの色というのがとにかく黒い。水槽の外から入り込む光も、店に設置されている光でさえも吸収しているのではないかと思える程に真っ黒だった。


 しかし少しすると、器の中が僅かに光輝いていることに気が付く。光を発していたのは器の中の白い麺。真っ黒なスープの中心を淡く照らすその姿は、まるで宇宙に描かれた天の川のよう。


 器の中から湯気が立っていない。つまりこれは、冷たい麺料理なのだろうか。


「凄い……これは、星……いや、まるで宇宙だ……」

「大げさノス。さ、ぬるくなってしまう前に食べるノス」


 少女はそう催促しながら、割り箸を手渡してくれる。ただいくら麺状になったとは言ってもこれはあの超硬質な物体を細切りにしただけの物。或いはこのような形状になったことで、口の中に突き刺さってしまうのではないか。


 そんな恐ろしい光景を思い浮かべてしまっては、目の前の麺を前に、良助はピタリと硬直せずにはいられなかった。


 いや、今更何を戸惑うことがあろうか。海に落ちて巨大魚に襲われているところを彼女は救ってくれたのだ。恐れることなんて何も無い。


 いざ、南無三ッ!


「……いただきますッ!」


 覚悟を決めた良助は器に箸を突っ込んで、持ち上げた麺を一気にすする。警戒してしっかりと顎に力を入れると、歯に伝わってくるのはまるで予想外の感触だった。


 プツン、プツンと一本一本の麺が歯で切れて行く心地良い食感。一瞬だけ歯を押し返すような適度な硬さはあれど、それはすぐに楽しい音を奏でるようにして切れ、滑り込むように喉の奥へと落ちて行く。


 そしてやはりこのスープだ。これだけ真っ黒な見た目に反して味はあっさりとしているのに、それでいて塩味をベースとした旨味たっぷりのスープが口いっぱいに広がる。


 添えてあるレンゲのような形をしたさじでスープだけをすくって啜ってみると、それは貝の乾物、淡泊な白身魚の出汁、海藻のミネラルを含んだ塩、そして烏賊墨いかすみを一つにまとめたかのような、まるで海の旨味成分を凝縮したかのような極上の海鮮スープだった。


「旨っ……‼」


 良助は夢中で二口、三口と麺とスープを口へと運ぶ。スープの中には他にも色々な知らない海の生物と思わしき旨味が幾つも溶け出しており、食べる度に新たな旨味が飛び込んで来るようだ。


 また食感だけではなく、麺そのものの味も実に素晴らしい。当然ながら麦などの穀物とは違う。一本一本にしっかりとした魚の旨味が凝縮していて、咀嚼する程にスープと絡み、より深い味わいを演出している。


 気が付けば器は空となり、それでも尚麺一本、スープ一滴残すまいと、箸と匙を駆使して最後まで綺麗に食べきった。


「ぶはぁ! あー……、旨かったぁ……」

「ほっ……良かったノス。サシミを食べたお客さんの顔を見たときは、もう食べてもらえないかと思ったノス」

「いやぁ、ハハハ……。その節は失礼しました。だけど、あんなにも硬かったナマズの身が、細くなっただけでここまで柔らかくなるんですね」

「ラバスティーケンの身はとても硬い膜で覆われているノス。だからそれを取り除いて、細い筋肉の一番細いところを切り出してやれば噛み切れるようになるんだノス」

「あぁ、あの包丁さばき。正に達人の技という感じでした」

「ヘヘ……照れちゃうノス」

「そして何よりスープですよ。これだけ旨味の凝縮したスープを取るなんて、とても大変だったんじゃないですか?」

「実に大変だったノス」


 やはりそうなのだろう。あらゆる魚介の旨味を閉じ込めつつも、これほどまでに雑味の無い味に仕上げるには、やはり職人の技術が試されるに違いない。


「お客さんが渡って来た水の底、黒くなっていたのを覚えているノス?」

「えっ、あ、はい。覚えています。けど、それがどうかしたんですか?」

「あれノス」

「えっ……あれ、とは……?」

「このスープは星の核から汲んで来たノス。水の中の生物は肉体の死を迎えると核の底へと落ちて、そこに住む王がそれを食べて魂の濃い部分だけを吐き出すノス。それがあの黒い物の正体で、スープの材料なんだノス」

「……あの、じゃあスープを取るのが大変だったって言うのは、具材から煮出すのが大変ということじゃなくて、つまり、その……」

「海の王は強敵ノス。アレは普段死骸ばかり食べているから、生きている獲物が近寄って来るとそれを求めて必死に捕食しようとするノス。ノスは小さくて速いから簡単には捕まらないけど、あそこは王の領地。ノスとの協定で王はあそこより上には上がっては来られないけど、これを取って来るのは毎回命懸けノス」


 先程までの水底の光景を思い出す。異様な程に澄んだ水の底にあった黒い物の正体、アレは光が届かないから黒く見えたのではなくて、巨大魚を易々と退けた少女が危険視する程の生物が吐き出した何かであると。


 その光景、今口にした物のことを思い浮かべると、良助はどうしても身震いせずにはいられなかった。


「お客さん、体が震えている。寒いノス?」

「あ、あぁ……いえその……まぁ、はい……」

「なら次は温かい料理を作るノス」


 そう言うと、少女は良助の心情を知ってか知らぬか、再び調理に取り掛かる。


 とは言え、良助としてもまだ満腹とは言い難い。それに今食べたのが冷たい料理で、水に落ちた影響もあって少し体が冷えていたということもあって、温かい料理を出してくれるというならば好都合というものだろう。


 少女は冷蔵庫からいくつかのバットを取り出し、色とりどりの食材を件の包丁さばきで細かく刻んで行く。するとそれらの具材を何やら薄い皮のようなもので包むと、蒸籠せいろのような物を取り出してそこへと並べて行く。


 この料理の工程から察するに、次に出てくるのは蒸し料理ということなのだろうか。


「そうだお客さん、お酒は飲むノス? もし飲むなら、次の料理を出す前に丁度良いお酒があるノス」

「それは良いですね。お勧めというならば是非いただきます」

「分かったノス」


 少女はニコリと笑うと、端に置かれた小さな水槽と思わしき物より一本のボトルを水の中から取り出して、良助の元へと持って来る。瓶の表面には大量のフジツボと思わしき何かが張り付き、目で見ただけでは材質がガラスなのか陶器なのかも分からない程に覆われていた。


「これは?」

「スァズーという、お客さんの世界では海の葡萄ぶどうという果物から作ったお酒ノス」

「えっ、“海ぶどう”?」

「そう、“海の葡萄”」


 何やら話が噛みあっていないような気がする。それはきっと、良助の想像している海ぶどうとは異なる物だからなのだろう。しかし地球人の良助には海に生る果物がどのような物なのかなど想像できる筈も無く海藻の海ぶどうを思い浮かべてしまっては、どうしても磯臭いという思い込みを捨てられずにはいられなかった。


 そんな良助の不安を他所に、少女は小さなグラスを取り出して少量を注ぐ。小さなグラスに注がれたのは薄く半透明な紫色をした液体。これはワインというよりも、紫色をしたリキュールのようだ。


「どうぞノス。お客さんは始めてだから、まずはちょっとだけ。でも、気に入ったならもっと飲ませてあげるノス」


 グラスに鼻を近付けると、嗅ぎなれない華やかな香りがした。それは花かハーブの類なのか。いずれにせよ、現時点では磯臭さのようなものは感じられない。


 少しの間酒を観察していると、上澄みが透明となり、底には紫色の液体が沈んで行く。良助は恐る恐るグラスを取ると、軽くスウィングさえ、分離しかかった液体を混ぜた後、静かに酒を口へと運んだ。


「……ッ‼ カッ――⁉」


 辛い。それは唐辛子や山葵のようなそれではなく、強く純粋なアルコールの辛さだ。少量しか口に含んでいないというのに、いったいこの酒はどれだけの度数だと言うのだろう。


「きつかったノス? はいこれ、お水ノス」


 少女が差し出す水を慌てて口に含み、口内を焼くアルコールを洗い流すと、喉の奥からフワッと香りが立ち昇って鼻孔をくすぐる。


 これはワインでもリキュールでもない。良助の知っている物に当てはめるならば、老酒ラオチュウとブランデーの中間とでも言えば良いだろうか。しかしとんでもなく度数が高い。それは以前、ふざけて飲んだスピリタスをも軽々と凌駕していると思える程に。


「…………ッ、あー……。あぁ……あの、これって、度数はどれくらいなんですか?」

「多分、お客さんの星では度数を測れないノス。スァズーは実の状態でも周りの生き物を酔わせ、その液体の濃い部分を取ったこのお酒は、ノスの星でも一、二を争うくらいに強い酒なんだノス」

「な、なるほど……。でもごめんなさい、これだけ度数が高いと、俺じゃあ一杯飲み干すことは……」

「そういうお客さんには、こうするノス」


 少女はスポイトのような物を取り出すと、未だ半分以上酒の残るグラスの中へと数滴垂らした。すると。


「うわっ、なんだ、これは……」


 半透明な紫色の酒は色を変え、青と紺、それに微かに緑を含む神秘的な物に姿を変えた。


「塩の水ノス。これを入れたなら、多分大丈夫。さ、もう一度試してみるノス」


 勧められるがまま、良助は深い青に誘われるようグラスを口へと運ぶ。


 それが口の中へ入ると、酒はさっきとはまるで別の物になっていた。脳裏に浮かんだのは海の底。海底の砂浜には一面花が咲き乱れ、呼吸をしようとすれば一気に潮の味が口いっぱいに広がって行く。


 海の底へトリップしていた意識が戻ると、口の中に広がっていたのは圧倒的な甘さ。そこに花と海の塩が駆け巡り、ややえた麦のパンのような味へと変化するように感じられる。そんな奥深い酒の味の余韻に浸っていると――。


「できたノス。さぁお客さん、お酒は半分だけ残しておいて、まずは熱い内にこれを食べるノス」


 良助の前に蒸籠が置かれ、蓋が開く。未だ湯気が立ち昇るそこにあったのは色とりどりの四つの塊。サイズ的にはゴルフボールよりはやや小さい程度で、ギリギリ一口で頬張れるかという物だった。


「これは?」

海卵かいらん蒸し。四つそれぞれに別の生き物の卵を使った具を、マグマールというとても大きな生物の皮で包んだ物なんだノス」


 海卵、つまりは魚卵や甲殻類の卵ということだろうか。具を包んでいると皮自体はほぼ透明で、その中身は緑の物、中身まで透明なすりガラスのような物、何種類もの暖色系の粒が散りばめられた物、白と黒の二色の物と、どれ一つとして同じ物は無い。


「これは、食べる順番なんかは決まっているのですか?」

「決まっていないノス。好きに食べて良いノス」

「なるほど、分かりました。では――」


 まずは透明なそれを箸で持ち上げる。それを選んだのはひとえに、味の薄い物から濃い物の順に食べようと思ったからだ。事前情報こそ無いが、これだけ透き通っているならば味が濃いということはあるまい。


 などと、地球の常識で物を考えていた良助の思惑は、またも裏切られることとなる。口に含んだガラス細工のように透き通っていたそれの味は、まさに超、濃厚! であった。


 コーンポタージュ、否。クリームシチュー、否。カルボナーラ、否。こんなにも透き通っているのに、そのどれよりも濃い旨味と仄かな塩気を有していた。


「はっ、はっ、ホフ、ホフホフ……。ふ、ふまあふい!」


 ハフハフと口の中の熱を逃がしながら、口の中一杯に広がるそれを頬張り続ける。イクラやタラコ、ウニやキャビア、白子とも違う。正に良助の知らない味。だが、その旨味は間違いなく魚卵特有のそれで、その濃厚さと熱さとで気が遠くなってしまいそうだ。


 そうして最初の一つを食べると、次はどれを食べようかと思案する。見た目からでは味の濃い薄いなど判断が付かない以上、後はもう当てずっぽうとフィーリングで決めるしかない。


 その結果良助が次に選んだのは、赤やオレンジの粒が散りばめられたカラフルなそれだった。箸で摘まみ上げてみると、何やらサクサクとした感触が手に伝わって来る。


 えっ、魚卵を蒸した料理なのに?


 そんな疑問を抱きつつも、思案するよりも味を確かめずにいられなくなった良助は、色鮮やかなそれを口の中へと放り込む。


 やはりと言うか、意外と言うか、そこにあったのはシャキシャキ、サクサクとした食感だった。続いてやってくるのは、一緒に練り上げられている魚肉の旨味。塩と清涼感のあるハーブのような何かで味付けされたそれは獣肉の味に近いが、牛でも豚でも鳥とも違う。


 更に口の中で咀嚼していると、心地よい歯ごたえのあるそれから僅かに魚卵特有の旨しょっぱさが口の中へと広がって、キレが良くも奥行きのある味へと変化して行く。


 ということは、この食感のある物がまさかの魚卵? 味がやや薄めで食感があるところを見るに、とびっこや数の子に近いものなのだろうか。とは言え、とびっこや数の子でもここまでの食感を感じたことは無いのだが。


 う~む、流石は宇宙規模の味。毎度のこと、良い意味で何もかも予想を裏切ってくれるかのようだ。


 旨楽しい。これはもう、事の詳細を確かめるよりも次を食べずには、確かめられずにはいられない。


 次に手を伸ばしたのは白と黒の物。箸で掴むと軽く押し返され、最初の二つとは違ってモチモチとした弾力を有している。


 ここまで変わり種が続いて来たので、その感触に少しホッとしたような、ちょっとだけ肩透かしを食らったような、そんな複雑な気分の良助。他よりやや大きいこともあって、半分を口に含むように齧ると、三度の驚きが訪れる。


 想像を裏切り、それは甘かったのだ。


 カスタードクリーム、黒ゴマペースト、杏仁豆腐、こしあん、ココナッツファイン、黒糖。白と黒の甘い物のラインナップが、ホクホク、モチモチとした魚のすり身を蒸したような食感と共に口の中を駆け巡る。


 これが魚卵? いやいやいや、そんなまさか。だって、魚卵特有の良くも悪くもあるあの特有の感じがどこにも無いではないか。


 混乱を隠せないながらも、良助は半分だけになったそれを恐る恐ると口へと運ぶ。


 やはり来た。甘い、旨い、甘い、旨い。そんなホクホクの塊。


 無理やり地球の料理に当てはめたなら甜点心てんてんしんということになるのだろうが、海の生物の卵と言われておいて誰がこんな味を想像できるというのか。


 こんなのは不意打ちだ! いや、ここまでしょっぱい食べ物が続いたので、これはとても嬉しい不意打ちなのだけれど。


 さて、蒸籠に残った料理は遂に一つ。腹具合からしても、これを食べれば丁度良く落ち着くだろうか。ここまで全て変化球の料理ラインナップ。そして残すはこの他よりも明らかに色の濃い物体。味の想像などできる筈もないが、最早どんな味がしたって驚きはすまい。


 いざっ‼


 と、心の中で勝手に覚悟を決め、良助は箸で掴むそれを口へと放り込んだ。


 ……。…………。


 えっ、普通に旨い。いや、普通よりも遥かに旨い。うわ、なんだこの旨さは⁉


 緑色のそれは小籠包しょうろんぽうや蒸し餃子に近いが、味は今までに食べたことのあるそれらとは比べ物にもならない。極上のスープをたっぷりと含んだ、正に旨味の塊だった。


 豚バラとロース肉。カニや貝柱のほぐし身。そこへカラスミのような濃厚さが加わり、青物特有の苦みが微かに香ってしっかりと引き締められている。


 そして何よりも特筆すべきが、これら王道な味たちを一つにまとめ上げ、それでいて遥か高みに押し上げているのが含ませているスープの味。この味には覚えがある。そう、先ほど提供されたあの麺料理に使われていた黒いスープだ。


 いつまでも頬張っていたい。しかし喉の奥から早くそれを寄越せと急かされて、もう飲み込まずにはいられはしない。


 飲み込んでも尚口の中に残る余韻に浸りながら、視線は半分程残っていた酒のグラスへ向く。すると深く複雑な青を構成していた酒の色は、日が暮れたような赤へと変わっていた。良助はそれを持ち上げ、水が足されても尚度数が強いであろうその酒を一息で飲み干す。


 夕暮れ時の砂浜。海鳥の鳴き声がこだまする海辺に立つ良助の足元から波が引き、砂が足の裏を撫でて行くような感覚。風と共に鼻孔を潮の匂いがツンと香り、ザザァという音が海の先へと遠ざかって行く――。


 家に帰ろう。


 二度目のトリップから醒めると、突如郷愁きょうしゅうに駆られ、いの一番にそんなことを考えていた。


「やっぱりノス」

「えっ、何が、ですか?」

「この料理を食べた後でそのお酒を飲むと、誰もが皆里心がついてしまうノス。海がある星の人は、きっと皆そうノス」

「あぁ、なるほど……。そう言われると、そうかもしれません」

「もう、帰っちゃうノス?」


 目の前の少女は少し寂しそうな表情をして言う。それに対して良助は。


「はい。でも、また来ますよ。だって、ここはこんなにも旨い料理を食べさせてくれるんですから」


 そう答えると、少女はエラをパタパタとさせてはにかんだ。



 ***



「あの、流石にやっぱり安すぎますって。こんなに旨い物を食べさせてもらったのに、これじゃあ悪いですよ……」

「良いノス! お客さんは初めてのお客さんだから初回サービスなんだノス!」


 食事代を支払おうとすると、少女が良助に請求した金額は酒代を含めてもたったの九百円だった。これではどうにも気が咎めるので、もう少しだけでも受け取ってほしいと言ってはいるのだが、双方の意見はいつまでも平行線で一向に受け取ってくれる様子が無い。


「困ったお客さんノス。安くしろと言うならともかく、安すぎるなんて言われるなんて全然考えていなかったノス」

「そんなまさか、これ以上安くしろなんて言えませんって!」

「安くはないノス。お客さん、ここへ来るまでに命懸けだった筈ノス。そんな大変な思いをしてまでも、お客さんはまた来てくれると言ってくれた。ノスにとって、その言葉だけで十分すぎるノス」

「それは……まぁ、そうかもしれませんけど。それとこれとは別というものですよ」

「う~ん……。……それじゃあ、ちょっと言いにくいんだけど、ノスは欲しい物があるノス。お客さん、それをくれるノス?」

「欲しい物? なんですか、それは」


 そう聞き返しはしたものの、今の良助の持ち物と言えば、簡単なサバイバル道具と少しの食料に、異星間コミュニケーションに使えるかもしれないと思って持って来た酒瓶が一本だけ。どれを求められても困らないし、どれをあげてしまっても構わないが、果たしてこの中に少女が欲する物があるのだろうか。


「その、ノスが欲しいのは……お客さんの脱皮した皮ノス……。駄目、ノス……?」

「えっ、だ、脱皮……? 皮……? あの、ごめんなさい、俺は脱皮するような生物じゃないんですけど……」

「嘘ノス! だって、お客さんの体、さっきと配色が変わっているノス!」

「…………、あの、それってもしかして、これのことですか?」


 もしやと思い、良助はバッグを漁ってさっき着替えたびしょ濡れのTシャツを取り出して少女に見せる。すると。


「そ、それ‼ それノス‼ それ、欲しいノス‼」


 突如目の色を変えて、興奮した様子でそんなことを言う。


「いやあの……これはシャツって言うか、服という物で、皮とかそういう物じゃないんです。それにこれ、さっきまで俺が着ていた物だし、水に落ちてびしょ濡れなんですけど……」

「い、良いノス‼ それをくれるならお金なんていらないノス‼ いやその、駄目って言うなら、別に良いノス……」


 困った。こんな物を求められるなんて。


 そりゃあ元の値段を考えれば九百円よりは高いけれど、もう既に何度も着ている上にこんなびしょ濡れで、しかもUN〇QLOで買った別段高価な物ではないのだから。だけどこうして少女が欲している訳で。いや、しかし……。


 気が付くと、少女の視線は手の中のシャツをチラチラと何度も見ていた。


 そんな少女を前にして、良助の取った行動は――。



 ***



 店の扉を開けると、どこからか薄緑とオレンジの陽が入江に差し込み、地球とは少し違う夕方の様相を呈していた。そんな夕暮れの景色を前に一つ伸びをすると――。


「お客さん、今日は来てくれてありがとうノス」


 後ろからそう声を掛けられる。


「こちらこそ、こんなに美味しい料理を食べさせてもらって。それに、代金までタダにしてもらっちゃって……」

「全然良いノス。ヘヘ、ノスもほら、こんなに良い物をもらっちゃったんだから」


 少女は早速と言わぬばかりに、良助の渡したややぶかぶか目のシャツを着てご満悦の様子だった。


「あの、お客さん。折角だから、名前を教えてもらえるノス? 初めてのお客さん、折角だからちゃんと名前を憶えておきたいノス」

「勿論ですよ。俺の名前は葛城良助と言います。良ければ、良助と呼んで下さい」

「リョースケ、リョウスケ……。良助ノス、覚えたノス。あっ、ノスはメルモンタール人、ネルモー・ピリフィファ・ホーペンと言うノス。長いから、ネルで良いノス」

「分かりました。それではネルさん、また来ますね」


 また来る。そう再開の言葉を口にすると、少女は今日一番の笑顔を見せて――。


「待ってるノス。またね、良助」


 そう言いながら、手を振って店の扉を閉める。


 店を背にして、霞行く空と海を目の前に良助は誓った。今度ここへ来るときには彼女の為に、新品のビー〇スのシャツを手土産に持参しようと。

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美食異聞備忘録 —夢幻の塔― 黒ーん @kulone

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