推すな!

サトウ・レン

推すな!

 妻は推し活をしているらしい。どこの誰を、どんなふうに推しているのか、それはまったく知らない。「実はずっと、推し活、してるんだ」と妻に言われたから、そうか推し活をしてるんだなぁ、とぼんやりと思っただけで、それ以上のことは教えてくれなかったから、それ以上の感想を持つことができなかった。


「推しが有名になってくれたら、私、それだけで満足。そのひとのためなら、なんでもできる」


 と、妻は言っていた。そのひと、というくらいだから、人間なのだろう。いや、もしかしたら何かを人間に見立てているのかもしれないが、妻の性格を考えれば、そんな回りくどい言い方はしないはずだ。


 男だろうか女だろうか。羨ましいやつだ。僕は、結婚して数年経ついまでも、妻のことが好きで好きで仕方ない。本当ならそいつに嫉妬したいところだが、先に萌した感情は、不安だった。


 妻に、捨てられたら、どうしよう、と。


 大学で出会い、その頃から、彼女はいわゆる高嶺の花で、本来なら僕なんかが付き合えるような相手ではなかった。だから僕は妻に一目惚れだったし、できるなら付き合いたい、と思っていたが、僕を好きになってくれるわけなんてない、と最初から諦めていた。だから告白は僕からじゃない。彼女からだった。いまだに僕は、この結婚に対して、彼女の一時の迷いが長く続いているだけだ、と思っている。


 推し活の相手は、アイドルだろうか俳優だろうか。きっとそいつは、平凡、なんて言葉から縁遠い人生を送っているに決まっている。


 僕は、平凡、という言葉が死ぬほど嫌いだ。平凡の基準なんて曖昧で、ひとそれぞれ違うから、本当の意味で、平凡、と呼べる容姿もなければ、人生もないはずだ。そうに決まっている。相手によっては、屁理屈だ、と言い返されそうなそんな想いもあるが、何よりも僕自身が周囲から、平凡と言われ続けたのが、一番の理由だ。


 容姿も並なら、人生も平凡そのものだ、と。家族にも、友人にも、恋人にも、言われたことがあった。褒め言葉だ、という意味合いで言われたこともあったが、それでもやっぱり良い気持ちはしない。


 どこにでもある、代替可能な存在。

 残念ながらそれが、客観的に判断された僕だ。

 だから僕が一番驚いている。この状況に。なんだ、これは。


 家を出る時までは、いつも通りの日常だった。いってらっしゃい、と妻に言われて、それで外に出た。通勤には電車を使っていて、もうすぐ駅に着く、というところで、最初の異変があった。


「あっ、もしかして、佐藤さんですか?」

 と、女子高生くらいの、学生服を着た女の子に話しかけられたのだ。見覚えはない。そもそも女子高生の知り合いなんて、ひとりもいない。


「佐藤は佐藤ですけど。あなたは?」

「きゃーきゃー、佐藤さんと話しちゃった。みんなー」と、その女子高生が、他の、すこし離れたところにいる学生服の女の子の集団に呼びかける。「佐藤さんだよ。みんなー、佐藤さん、佐藤さん」


「あ、あの……誰か別の佐藤さん、と間違えてるんじゃ」


 何度もしつこく言うが、僕は平凡な人間だ。アイドルでもなければ、タレントでもなく。著名人でもなければ、稀に見るイケメン、というわけでもない。


「そんなはずないです。私、大ファンなんですから、佐藤さんの。そんな私が間違えるはずがありません」

「い、いや、だって」


 他の女の子たちが近付いてくる。「えっ、佐藤さん!」「うん、佐藤さんだね」「確かに佐藤さんだ」「佐藤さん、はじめて見た」「えっ、ていうか佐藤さん、って実在したんだね」「佐藤さん、サインしてー」「握手もー」


 十数人の女の子たちに囲まれ、僕の頭は混乱していた。混乱しているのは、僕の頭だけではなく、その場もすこし混乱したような騒ぎになっている。さて、どうしたものか、とゆっくり考えることもできず、どんどんひとが集まってくる。人生で、自分の周囲にこんなにひとがいたこと、いままでにあっただろうか。もう僕の周りは女の子だけではなく、おじいさん、おばあさん、おじさん、おばさん、ヤンキーの若者やランドセルを担いだ小学生の男子まで、老若男女が取り囲んで、数十人になった。


 本来ならあと二、三分歩けば駅に着く距離なのに、実際に駅に着いたのは、一時間後だ。ひとは増えていく一方だ。スマホの着信が鳴っている。上司からだ。僕は、僕の周りを取り囲む集団に、ちょっとだけ静かにして欲しい、と言った。この引っ付いて離れてくれない一時間のおかげで、彼らの扱いに慣れはじめている自分がいることに気付いて、愕然とするが、とりあえず悩んでいても仕方ないので、電話に出る。


『おい、佐藤。遅刻か。有名になったら急にそんな態度か』

「い、いえ、そういうわけじゃなくて。行きたくても行けない理由が……」

『どんな理由だ』

「実は、ひとに取り囲まれてしまって」

『自慢か。舐めやがって。会社に着いたら、すぐに俺のところに来い』


 駅のホームに入った時には、数えていないのではっきりとは分からないが、すくなくとも数百人という人間が僕の周りにいて、佐藤さん、佐藤さん、とみんな僕の名前を呼び続ける。吐きそうだ。電車に乗ると、他の連中も付いてくる。どんどん乗ってくる。数百人じゃないな、これは。数千人……いや、一万人、と言われても、驚かない。決して広いとは言えない空間に、異常な数の人間が密集している。乗れなかった人間が電車をよじのぼったり、窓に張り付いたりもしている。相当に危険だ。なんで駅員は彼らの行動を止めないんだ、と思っていると、駅員も電車の中にいて、佐藤さん、と僕の名前を呼んでいる。


 おいおい、死人が出るぞ、これ。


「降りる! 降りるから、みんなも出てくれ!」


 電車が動き出すことはさすがにないだろうが、本当にあったら、それこそ大惨事だ。ホームに戻ると、僕は妻に電話を掛けることにした。こんなこと信じてくれるか分からないが、いまの僕が頼れるのは、彼女くらいしかいない。


「もう一度電話するから、みんな黙っててくれ!」


 妻に電話を掛ける。


『もしもし。どうしたの?』

「聞いてくれ! 大変なんだ」


 僕はここまでの経緯を話した。妻も驚くだろう、と思っていた。だけど返ってきたのは、あまりにも意外な言葉だった。


『やったー。ついに推し活が実った!』

「へっ」

『ふふ。実は平凡なあなたを超の付く有名人にすることが、出会ってからの私の夢だったの。平凡で平凡で、なんの取り柄もないあなたが、私の力ひとつで、突然スターになる様子が見たくて。秘密裡に――』


 僕はこれ以上、妻の話を聞きたくなくて、電話を切った。


 それにしても。


 彼らを見回す。何をどうやったら、こんな状況にできるんだ。何者なんだよ、あいつ。怖すぎる。


 僕はある日突然、誰もが知る存在になった。有名になった僕は、妻を捨てるだろう、と思った。その本当の理由に、きっと誰も気付かないはずだ。

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