ナナの推し

さかな

°◯○。

 あたしはつい最近、推し変した。


 推し変というのはつまり、推しを鞍替えすること。


 今の推しはケント。

 二十三歳と四ヶ月。そこそこ売れてるユーチューバー。

 テーマカラーは青。テーマというより、青系の服を好んで着ているだけだけど。

 女子受けする顔と、視聴者に媚びないキャラクター、あといつもダルそうに喋るところがたまらないらしい。

 推し民の間の一般論だけど――そう言っていたのは、あたしの前の推しのミサだっけ。


 初めてあたしをまともに見たとき、ケントは眉間にしわをいくつも寄せて、威嚇する獣みたいな顔をしてみせた。


「置いていくんじゃねえよ。あいつの荷物だろ、クソだりぃ」


 心底面倒くさそうにため息をついて、でもケントはミサが置いていった餌をちゃんとあたしに与えてくれた。量だってサービスしてくれる。

 優しい男でしょ?

 やがて置き土産だった餌が底をつくと、ケントは「めんどくせえ」とぶつくさ文句を垂れながら、お店で新しい餌を買ってきてくれた。

 うん、やっぱり優しい男。

 推しがケントに変わってから、あたしのお腹は赤ちゃんがいるみたいにいつもぱんぱんなの。


「よく食うなあ、おまえ」


 呆れ気味に笑った推しの笑顔が眩しくて、あたしは目の前の餌を無我夢中で頬張った。


°◯○。


 パソコンの前でケントがだるそうに喋る。

 あたしはその背中をじっと眺めている。

 あたしだけの特等席。頑張れ、って応援の気持ちを込めて、あたしは彼の後ろで純白の尾ヒレを揺らめかせてダンスするの。


 その日の夜、ケントはなんだか落ち込んでいた。

 動画のコメント欄が荒れたみたい。

 普段より口から出る「クソ」の数が多い。そのすべては投げやりで、勢いもない。

 どうすれば推しは元気になるかしら。

 あたしはケントの背後でシルクの尾ヒレを揺らし、踊り続けた。


 次の日、ケントはあたしを見て、そのくっきりとした二重瞼の瞳をさらに丸くさせた。


「おまえ、色変わるのか」


 ケントの指が、ガラス越しにあたしの身体を撫でる。


「綺麗だな」


 そうでしょう。

 ケントなら気に入ると思った。

 絵の具のチューブからそのまま捻り出したような、混じり気のない青。あたしの全身はいま、推しカラーに染まっている。この間までは全身真っ白だったけれど、そういえばあれは前の推しのテーマカラーだったわね。


°○。


 それからというもの、ケントはたびたびあたしに話しかけてくれるようになった。尾ヒレが綺麗だと褒めてくれることもあった。

 この間はホームセンターから新しい砂利や水草を調達してきて、あたしのお部屋をリフォームしてくれたのよ。筋張った腕がどぷんっと水の中に入ってくると、ゆっくりと底砂利を掻き、青々と茂る水草をそこに埋めた。根元に砂利をかけて手のひらでぽんぽんと優しく撫でる。その大きな手が水の中から去っていくのを、あたしは愛おしい気持ちで見上げていた。


「店員さんに取りあえずおすすめって言われたからさ。この葉っぱ……アヌビアス・ナナ? なんかエジプトの神みたいな名前だよな」


 今日の推しは、なんだか機嫌がいい。


「そうだ、まだおまえに名前つけてなかったからさ。ナナにしようかな。いいだろ」


 よくないわ。だってそれ、水草の名前でしょ?


「ナナ。ナナ」


 彼の指先が、名前に合わせてトントン、とガラスを小突く。抗議の印に、あたしは尾ヒレをゆらゆらと揺らしてやったの。

 でもあたしの推しは、目尻に少しの笑顔を滲ませて、嬉しそうにあたしを水草の名前で呼ぶ。


° 。


「ナナ」


 推しはケント。

 二十四歳と一ヶ月。

 いつもお腹いっぱいごはんをくれて、あたしの尾ヒレを綺麗と褒めてくれる、あたしを水草の名前で呼ぶ男の子。


「ごめんな。俺じゃなかったらもっと……」


 なんの話をしているの?

 それよりも、透き通る青い尾ヒレを揺らすから、綺麗と笑ってガラスを指で小突いてね。

 白く濁った目ではもう推しの姿も見えないけれど、あたしの名前を呼ぶ推しの声がすぐ近くで聞こえるから、安心して揺蕩たゆたっていられる。

 なんだかもう、どっちが推しだったのかわからないわね。


「ナナ、ナナ」


 トントン、とガラスを小突く音がした。こっちにおいで、と呼んでいるみたい。

 あたしは尾ヒレを揺らして、音のする方へ泳いでいった。


〈ナナの推し・了〉

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ナナの推し さかな @sakanasousaku

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