しじま

第1話 しじま

港のボラードにはいつものように、学校鞄に縋り付くように腰を丸めて覆い被さり座る少年がいる。2月の寒空の下、マフラーも、手袋もしていない。だが、彼は寒さを感じない。感覚が麻痺しているからだ。 


その感覚を麻痺させた原因は、執拗な虐げである。

学校では、水をかけられ、制服はいつも濡れている。同じクラスではあるが、止めることが出来ない。私にそんな勇気はない。彼に話しかけることができるのは、港での時間だけである。


「緯土、大丈夫?」


決まって私はこう言い、しゃがんで顔色を窺おうとする。


制服の裾をサラッと掌で拭うと、微かに濡れている。これは今降っている雪が解け滲んだ痕跡も混じっているが、中まで浸透するまでには相当な時間を費やす。


要するに、傷を負ったままの状態というわけだ。

何を言っているんだろう。

まぁ、こうふざけた思考をぶら下げていないと落ち着かないの。


彼の黒縁メガネは、頭上に群がる廃空のように光が差していない。私はメガネを外し、レンズの内外にへばり付いた光遮体を鞄の内ポケットから取り出した白い起毛ハンカチーフで抉り取った。

彼の目は地面に積もる雪だけを直視するばかりで、私へと視線を向けてくれることはなかった。

死んだ魚の目といったところだろうか。私がメガネのレンズを拭った親切心もまるで感じていないただそこにうずくまっているだけのモニュメントのようだった。

モニュメントだから彼は、震える動作も、視線を向けるという容易い優しさも行うことができないのだろう。


漁船が波に揺られキーキーと金切り音を荒げ、今にも凍死しそうな波たちが弱々しい声をぶつけ合い、深々と無感情に徹した雪たちがケセランパサランのように綿毛を隠蔽しながら降り積もる。


「ここ座っていい?座るよ?」


頷きすら感じられない。彼の手を握る。甲は冷え、平は微かな温もりを感じる。

この像はどうやら人間らしい。

それはそうさ、分かって話しかけているのだから。


私は彼の手から離脱し、真横のボラードに腰掛ける。

2人いるのに静かである。


これでいい。いつものことなんだよ。これが。


私たちだけが知っている、誰にも邪魔されないトークルーム。

とりあえず後ろを振り向き、右往左往確認する。誰もいない。この確認は重要である。ネタにされて終わる。

よし、誰もいない。


「緯土、今日は何の日か知ってる?」


...


「今日はね、バレンタインデーだよ。知ってた?」


...


「実はね、今年も持ってきたんだ」


...


「今年は初めて作ってみたんだ。だから受け取って、ほい」


...


いつものように話しかけても返事はない。聞こえるのは鼓膜が拾う音だけ。彼の声は私の鼓膜には残念ながら乏しさの欠片すら届くことはない。

雪に晒されていた私のマフラーが雪解け水によって温もりを感じられなくなっていた。それを外し、彼の首に巻きつけた。

ただ彼には温もりが感じられたのか、こんにちの空間で初めて動作を帯びた。

丸まりながらもマフラーを片手で掴み、3mmほど唇が緩み、息が蒸気機関のように漏れる。


私は咄嗟に噛みついた。


「ね、これ受け取ってよ。お願い」


確かに動きはしたが、まだ視線が向けられていない。今はプラスされた温もりに浸るので精一杯なようだ。


私は数センチ先の彼の腕をチョコレートの入った小箱で突く。何度も何度も彼の気がこちらに向くまで何度も突いた。

程なくして、彼の視線がようやく私の方へと向けられた。目はうっすら生気を取り戻しつつあった。眼差しが貫く。鞄を覆うように丸めていた腰もお越し、やっと彼に会うことが出来た。

私が雑に巻いたマフラーを今一度巻き直し、より温もりを感じられるよう、下顎までがすっぽり隠れるくらいにした。


彼の鼻息が鼓膜に届いた。次いでギリギリ聞こえるふふふといった彼らしい感情表現も通過する。

トライしてみる。


「あのさ、これ、作ったんだ」


...


「作ったんだ。嘘じゃないよ。だから、ね?」


...ト


「お願いだから受け取って?」


「ありがと」


やっと聞けた。彼の着色不可能で透明な声を。


ようやく解けた冷めた腕が小箱を掴もうと伸びる。ゆっくり着実にこちらへと伸びる。小刻みに震えているように見えた。いや、実際に震えているのだ。

人の心臓を持つ彼だ。現象が起こるのは当たり前である。

ついに小箱を掴み、彼の元へと届いた。

ただ中身は見ずに鞄のチャックを開け、早急に仕舞い込んだ。ただ外心、嬉しそうである。1mmほどずれているのが現認できた。


ほっとした。

彼の嬉しそうな表情はしばらく拝むことができていなかった。中学生活もあと2ヶ月もすれば3年目に突入するが、この2年間はチョコレートをあげても受け取りはするが、決して喜びを表現せず、そのような感情は欠損していた。

手作りが良かったのか。それとも、ポーカーフェイスが崩れただけか、安心したのか?


精製された渾身の一品であることには間違いない。口に入れさえしてくれれば私は満足である。さらに、踏み込んでみる。


「食べて。私の目の前で」


...


「お願い。食べて」


...ハァ


緊張しているのか、溜め息さえも震えを刻んでいた。


「私、この日のために、一生懸命作ったの。緯土が喜んでくれるようにって。ちょっと高めのガーナ産じゃなくて、サントメ産のカカオが入ったオーガニックチョコを使って、中にはね酸味の強いブルンジコーヒーのジュレが入っててね、甘さ控えめのほろ苦い、たった1人のために作ったチョコレートがこれなの」


...


「だから、食べてほしい、です...」


恥ずかしさのあまり、私は彼に視線を向けることが出来なかった。熱弁の後の静けさは、恐ろしい。寒いはずなのに内からくる熱により、張り付く雪は湯のようにサラサラと肌を伝うように落ちてゆく。

どれほど時間が経過しただろうか。閉膜した耳にはもはや何も聞こえてこない。

恥ずかしさは、油断大敵だ。何でも蝕む。


と、隣の彼の鞄のチャックがキュインと音を立て勢い良く開く音が閉膜しているにも関わらず響く。サイドの伝導で響いているのだろうか。私の耳は彼へ視線を戻すことで、開膜する。

まだ恥ずかしさは残るが、意を決して顔を上げる。


これは奇跡だろうか。彼が小箱の蓋を開け、正方形のチョコレートを摘み、口へと運び終えたところであった。瞬間に立ち会うことが出来た。

時折、歯の軋みとともに漏れた香りが私の鼻を撫でる。

説明たらしい要求を人質が受け入れ、それを嗜む犯人のようにただそれを両手で頬杖をついて眺めていた。

好意を寄せる人物にただ食べてもらうだけでこんなにも極上であったとは俄には信じ難いが、それが今実際目の前で一種の事象として執り行われている。

意味わからんぞ、落ち着け。


私は私を落ち着かせるのに必死だった。外面は至って冷静沈着であるが、内面はコンピューターシステム障害と同様のエラーが表示されている。

小学生のころから、かかさず渡してきたバレンタインデー。

記念日として定めるのはまさしく今日がふさわしい。

私個人としての記念日である。


「ありがとう、緯土。嬉しい」


落ち着きを取り戻し、真っ先に出たのは案外普通の言葉であった。


「苦い」


と、吐露した。


「やっぱり、でもね...」


「でも...ね、美味しい」


言いかけた言葉を一旦押し殺し、彼の不器用な笑顔を見つめた。明らかに慣れていない彼の笑顔は、初々しく、優しい。

上手く言い表せないが、凝り固まったものを死に物狂いで崩して見せた、そんな風に思えてなお一層彼が秘める優情を引き出したくてならなかった。


海の方へと視線をやった。

廃空が曇天を引き連れている。

うっすらと、離小島が確認できる。

もし、救えるならあそこに彼を連れて行きたいとよく思ったものだ。


中2の2月14日は、うん、良かった。


良かったよ。


あなたの心臓が奪われなくて。


奪われるのは私だけでいい。


口の中が酸っぱい。

取り出すと、劣化し悪臭放つ遺物が出てきた。溶けることはないカチコチに錆びたあの日のものを。


姉の温もり残るしじまの丸椅子には旅立ちの痕跡も何も洗い流されたかのように消え失せていた。

何もしてやれなかった。救えなかった。勇気がなかったせいだ。

そうやって救えなかったあの日の自分を降っても降っても溶けるまで一生の汚点を掴み続ける静雪に睨まれながら味もしない透明な錆を舐めた。

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しじま @rwafri0078

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