偽りの神官

天柳李海

偽りの神官

 必要な薬草はエポシキカとフィフラエール。

 前者は精神集中を高めるための香草で、後者は魔物を意のままに操ることができる媚薬。


「教会の薬草庫に、どうして魔法使いが使う秘薬があるのか、前から疑問に思っていたけれど……まあいつも助かってる」


 薄暗い部屋の中でリセルは一人ほくそ笑んだ。

 窓のない薬草庫はあまり広くない。けれど十列ほど規則正しく並んだ木の棚には、びっしりと硝子の小瓶や陶器の壷が並んでいる。


 リセルは赤い豪奢な神官服の袂から革の小袋を取り出した。黒地に金で縁を縫い取られた肩掛けがずり落ちるのを直して袋の口を開く。


「補充っと」


 リセルが教会の薬草庫に忍び込み、必要な薬を持っていくのはこれが初めてではない。どこにどんな薬草が保管されているのかも知っている。

 薬草を管理しているエルダー上級神官よりも、リセルの方が実は詳しいのかもしれない。


「フィフラエールはこれで最後か。もうちょっと欲しかったのに」


 リセルは注意深く革袋の口を閉じ、それを再びゆったりとした神官服の袖の中へしまった。そして扉を開けて、誰もいない事を確認してから外へ出た。


 太陽神アルヴィーズを奉る教会を中心に、西側の薬草園と東側の神学校は石造りの回廊で結ばれている。その空間は樹木が植えられていて、散策ができる憩いの庭になっている。リセルは教会の方に向かって悠々と回廊を歩いた。


「……今日も全部の祈祷をすっぽかしたんですよ。どう思います?」

「何? それは本当か?」


 リセルは人声に気がついて足を止めた。咄嗟に回廊の柱へ身を寄せる。

 どうやら庭の方で二人の神官が立話をしているようだ。

 一人は怒っているのか口調は荒く、もう一方は年嵩の、疲れたようなしゃがれ声だ。


 柱の影から庭を覗くと、少し離れた木の下で人影が見える。

 怒った口調の神官は背が高い青年で、肩口で切りそろえた黒髪を震わせながら、年嵩の神官へ訴えかけている。


「私はもう我慢なりません! プリースト=エルダー。あの若造の我がままを、一体いつまで黙認すればいいんだ? 大神官アーチビショップ=リスティスが視察旅行に出た途端、代行義務を放っぽりだして、我々の仕事を倍にしてくれるんですから!」


「お前が怒る気持ちはわかるが……プリースト=カーマイン。神官長ハイ・プリースト=リセルに直接注意はしてみたのか?」


 白い髭に銀縁の眼鏡をかけた神官――エルダーがゆっくりと、若き神官カーマインへ声をかける。カーマインの頬が見る間に赤味を増した。


「じょ……冗談じゃない! 誰があんな恐ろしい使に面と向かって文句を言えるんです? あの子供リセルは、肉を腐らせ骨を溶かす恐ろしい呪いを使うのが得意なんですよ? なんだってあんなのが神官長ハイ・プリーストなのか、ああ……アルヴィーズよ。私はあなたの御意志が理解できません……」


「ふむ。ならば、リスティス様が戻られるまで、上級神官プリーストの筆頭であるお前が教会内を仕切るしかなかろう」


「そ、それはあんまりだ! 神官長の業務までさせられたら、私の勉強時間はおろか、睡眠時間まで無くなってしまいます!」


 半ば泣きそうな声でエルダーに訴えたカーマインは、はっと我に返った。


「そうだ。夕刻の祈祷にはエンデュミオン陛下が礼拝に来られる。どうせあのガキは仕事をしないんだから、私が支度をしなければ……」


 カーマインはエルダーから離れ、リセルが身を隠している柱の前方へ向かって歩き出した。


「やれやれ。カーマインは真面目だがヒステリーなのが玉に傷だな。さて儂は薬草庫に戻って在庫の確認をしようかの」


 エルダーは反対方向――どうやら庭を横切って薬草庫へ向かうようだ。

 リセルはそれにほっと安堵の息を吐いた。

 その時だった。


「すみません! プリースト=カーマイン様」


 ぱたぱたと石畳に足音を立てながら、カーマインの方へ神官が駆けてきた。

 いや違う。呼び止めたのは、白いベールがついた帽子を被った見習い神官だ。


「お願いがございます」

「なんだ? 私は急いでいる。そこをどけ」


 黒髪を乱しながらカーマインが叱咤する。


「お急ぎなのはごもっともですが、を癒してはいただけないでしょうか。このままだと死んでしまいます」


 見習い神官は、胸の前で合わせた両手をカーマインの方へ差し出した。柱の影で見ているリセルの耳にも、か弱い鳥の鳴き声が聞こえてきた。


「巣から落ちていたのを見つけたんです。翼が折れています。見習いの私に『癒しの技』は使えません。だからカーマイン様のお力で――」


 カーマインは呆れ果てたように蔑んだ目で、見習い神官を睨み付けた。


「お前は確か、三年連続で正神官の昇級試験に落ち続けているアシャンティ・レインだったな」


 ほわほわした産毛しか生えていない鳥のヒナが弱々しく声をあげた。

 アシャンティは一瞬息を飲んで、やがてゆっくりと頷いた。


「はい……」


「そんなものに構っているから何時までたっても正神官になれないんだ。庭をぶらつく暇があったら、部屋に戻って教本を読んで勉強しろ!」


 カーマインは強引にアシャンティの肩を掴んでその横を通り過ぎた。


「ああっ!」


 肩を押し退けられたアシャンティは後方へとよろめいた。けれどこれ以上鳥のヒナを傷つけまいと、肩を柱にぶつけることでその場に倒れる事を防ぐ。


「待てよ」


 リセルは柱の影から姿を現わし、彼らの方へ歩を進めた。

 束ねていないセピアの長髪を指で梳き、額に巻いた緋色の飾り布と共に後方へ放りながら。

 

「……誰かと思えば。これは神官長ハイ・プリースト=リセル。、教会にいらしたのですか」


 『まだ』の所に深い意味を込め、カーマインはリセルへ形式ばった礼をした。

 リセルは返礼をしなかった。

 カーマインが自分の事をどういう風に思っているのか。それを立ち聞きしたばかりなので、彼が自分に頭を下げる行為が馬鹿馬鹿しく思えて仕方がない。


 教会の最高位は大神官アーチビショップで、リセルはその次の神官長ハイ・プリーストだ。けれどカーマインが愚痴を垂れていたように、それは名ばかりであることを一番よくわかっている。


「癒してやったらどうだ。たかが鳥の子一匹。上級神官プリーストのあんたなら雑作もないはずだろう。それともこいつは人間じゃないから、浄財をもらえないのが不満なのか?」


「なっ!」


 リセルは自分より遥かに年上であるカーマインを見下すように、碧の目を細め腕を組んだ。


「生きとし生けるものすべてを慈しみ、己が身を捧げよ――聖典2394ページ。神官の心得の章」


 カーマインがぐっと唇を噛みしめた。


「アシャンティ――鳥を、私の方へもってこい!」

「あ、はい!」


 アシャンティはあたふたとカーマインの前まで駆け寄った。

 両手で包み込むようにして持っていた鳥のヒナを、カーマインへ差し出す。

 カーマインは右の手のひらをヒナの上にかざした。

 左手を自分の心臓の上に置き、まぶたを閉じる。


「アルヴィーズ神よ。生きとし生けるものすべてに、あなたの御慈悲を」


 カーマインの右手が白く、そして太陽のように暖かな光で満ちた。


「……ピピ……ピピピ!」

「ああ! もう大丈夫ね!」


 アシャンティの手のひらの中でヒナが力強く鳴き声をあげた。

 うずくまっていた体を起こし、ぴくりとも動かなかった翼を伸ばしている。アシャンティは鳥のヒナを、うるんだ瞳でじっと見つめていた。


「仰る通り、癒しましたよ」

「……」


 カーマインは目を開き辺りを見回した。

 けれどリセルの姿は何時の間にか回廊から消えている。


「あ……あのクソガキ!」

「ありがとうございました。プリースト=カーマイン様」

「ピピー! ピピー!」


 深々と頭を下げるアシャンティをカーマインは一瞥することなく踵を返し、今度こそ急いで教会へと歩いていった。


「よかったな」

「あ。リセル様」


 リセルは再び柱の陰から姿を現した。

 目くらましの魔法で姿を消しただけで、まだここに留まっていたのだ。


「ありがとうございました。この子の命が助かりました」


 ぺこりと頭を下げて顔をあげたアシャンティは、鳥のヒナを見ながら、やおら物憂げに瞳を伏せた。


「どうした? ヒナはもう心配ないだろう。なんでそんな顔をする」


「だ……だって。確かにカーマイン様の仰る通りだから。私、三年続けて『正神官』の昇格試験に落ちてるんです。ぼーっと空とか見ないで、しっかり勉強していたら。私が癒してあげられたのに」


「焦る必要はないと思う。誰しも得意な事と、そうではない事があるだろう?」


「そう……ですが。でもリセル様は高位の魔法使いで、しかも太陽神アルヴィーズ様を呼び出せる。リスティス様の後継者として教会にこられて、その上神官長になられました。聖典の教句もすらすらと仰って……」


「アシャンティ、『正神官』じゃない。だから『正神官』なら誰でもできる『癒しの技』が使えない」

「ええっ?」


 リセルは腕を組み、カーマインの皮肉を思い出していた。


「私は太陽神アルヴィーズを呼び出すことができる。いわば、そのためだけにいる『飾りの神官』なのさ。でも知識のなさを馬鹿にされるのは癪に障る。わたしも半年前から神学の勉強を始めたんだ。よかったら一緒にしないか?」


「い、いいんですか?」


 リセルはふっと目を細めてアシャンティに笑みを向けた。

 彼女の無垢な笑顔に釣られたのだ。


「ピピピーーッ!」


 ほわほわの羽毛を風にそよがせながら、鳥のヒナも応援するように力強い鳴き声をあげた。


「こいつも一緒に勉強したいと言っている」

「ふふっ。リセル様って、鳥の言葉もわかるのですか」

「わかるかもしれないな」


 リセルは薬草庫から盗み出した媚薬の事を思い出した。あれを使ってみようか?

 と同時に、しわがれた絶叫のような声を聞いた気がした。


「やられたぁっ! またあの魔法使いリセルに薬草を盗まれたー!」


「今の声は……」


 アシャンティが小首をかしげながら薬草庫の方へ顔を向ける。


「わたしの部屋へ行こう。教典でちょっとわからない所があるんだ。教えて欲しい」


 リセルは強引に彼女の手を捕まえて、部屋へ転移の呪文を唱えた。



(完)


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