缶酒にひなあられ

目々

缶酒にひなあられ

 部屋の照明の下で見るひなあられは安いビーズに似た色をしていた。


 机上には幾つかのスナック菓子の袋が無造作に開けられ雑然と置かれ、端の方にはずらりと缶チューハイが並んでいる。

 一番端の缶を手に取ってから流れるようにプルタブを引き、逸らした白い喉を数度上下させてから息を吐いて、


「葉山はどの色が好き?」


 そう言って陽菜先輩は白い指先で桃色のあられをつまみ、私に向けてにこりと笑った。


「好きなの取ってね、遠慮とかしないでさ」

「遠慮はしませんけど……酒のつまみに出たのは初めてです、ひなあられ」

「そうだね、一応季節限定だからあんまり機会はないかもね」


 どこかずれた回答をして笑う先輩の表情を眺めて、私は勧めに従って白いあられをつまみ取る。苦いアルコールの後味に砂糖の甘さと微かな塩気が混ざって、思う程悪い取り合わせではないのかもしれないと思った。


「つまみって塩い方が普通でしょう。ひなあられはこう……おやつですよ。甘味じゃないですか」

「甘味でお酒飲んじゃダメなの?」

「駄目って言うかあんまりやらないんじゃないですかね、酒の甘味に慣れた舌を戻すのがつまみの役割でしょうし」


 先輩は手にした缶──季節限定の白桃サワーだ──に軽く口をつけてから、ひなあられの横に積まれていたチョコレートの包装を剥いて口に放り込んだ。


好きなものお酒好きなものお菓子で、一緒に合わせた方が嬉しいじゃない。どっちかじゃないと駄目?」

「酒飲みは辛党っていう前提があるんですかね」

「甘いものだけでいいじゃんねえ。好きなものだけずっと食べていれば、ずっと好きな味がするし……」


 わざわざ戻す必要なんかないのにねと言って、先輩は喉を逸らして一息に缶を空け、僅か首を傾げながら微笑んでみせた。

 家飲みでひなあられと安酒の取り合わせに遭遇したのも初めてだが、それが先輩の嗜好ならば仕方がない。甘党と酒飲みの二刀流だとは意外だった。

サークルの先輩後輩としてそれなりに親しく付き合っていながら初めて知った事実に、仄かに嬉しいような気分になる。

 空になった缶を机の端に寄せて、もそもそとあられをつまむ。家飲みでただ黙っているというのも行儀が悪い気がして、私は雑談を仕掛ける。


「ひなあられ自体久々に食べましたね。給食で出たくらいですよ、私の経験」

「ひな祭りだと大体家で買ってこなかった? 葉山ちゃんちは」

「うちはそういうのあんまりちゃんとやらなかったんで」

「ちゃんとやると際限ないしね、雛壇出すと面倒だもの。ひなあられ齧ってるくらいがちょうどいいよ、きっと」


 先輩は新しい缶を手に取って、プルタブに掛けた指をそのままに、優しい声で言った。


「……ごめんね、葉山ちゃん来るって約束してたのに外で待たせて。寒かったね?」

「別にいいですよ。コンビニいましたし」

「恭祐が機嫌悪くってさ。昨日修羅場っちゃって、朝からやってたんだけど部屋片付かなくって──前々から言ってたのにね。講義休みの日くらいは恋人のために空けておけってうるさくてさ」


 私が先輩の部屋に上がる直前にあった、ちょっとしたトラブルだ。時間通りに到着し、集合玄関から部屋番号を指定し呼び出した。部屋が片付いていないから少し時間を置いてから来てくれないかと告げた先輩の声は粗悪なスピーカー越しにもひどく痛ましく聞こえた。

 私が学生として通っている大学に、当たり前だが先輩も在籍している。恭祐彼氏も同学部らしいが、詳しい話を知ろうと思ったことはない。率直に言えば先輩の彼氏はカスだ。二人を知るサークルの連中から時折聞きたくもないのに流れてくる噂も大抵がろくでもなく、そんな噂と抱えているであろう苦労を一片とて滲ませることなくいつもように振舞う先輩がいじらしく思えた。

 馴れ初めなんぞは腹が立つので聞いてはいない。先輩のように人目を惹く人間なら、ささいなきっかけでも目をつけられることはあるだろう。高嶺の花に憧れるのは自由だが、それに手を出せるのは余程の傑物か阿呆かのどちらかだ。前者なら仕方がないと祝福もするかもしれないが、後者ではどうしようもない。

 あられを噛み砕いた音が骨まで響いて、勢い余った奥歯が舌の端を噛む。私は痛みを堪えながら、優雅な手つきで缶を傾ける先輩を見つめる。

 このままの気分で酔うと余計なことを言いそうだと予感して、空缶を片手に私は口を開いた。


「済みません、席外していいですか。煙草吸いたくなっちゃって」

「いいよ。灰皿いる? ちょっと探すけど」


 先輩は煙草を吸わないはずだ。


「いや……彼氏さんのでしょう。空缶使うんで台所借ります。換気扇点けるんで」

「分かった」


 ゆっくり吸ってくれていいからねとおどけた仕草で缶を翳す先輩の目を見るのがなんとなく躊躇われて、私は黙って台所へと向かう。


***


 揺らめく白煙は換気扇の唸りに吸い込まれていく。


 煙草を咥えたままキッチンを見回せば、手狭ながらもきちんと手入れがされているのが分かる。照明を点ければガス台周りは鈍く輝くほどに磨かれていた。

 手狭なマンションの一室だ。シンクの真正面には風呂場だろうすりガラスの扉がある。誰もいない浴室は暗く、すりガラスにはぼんやりと私の輪郭が映り込むだけだった。


 ずっと憧れの人だった。高校三年の秋、オープンキャンパスの代わりだと適当なことを言って──何しろ本命は学祭ライブにゲスト出演するバンドだった──親から小遣いを掠め取って、近所の大学の学園祭に友人と行った。そこでライブまでの時間潰しに回ったサークルの発表会場で、ちょうど始まるところだった自作プラネタリウムの上映に立ち寄った。

 話の内容は何も覚えていない。何か北斗七星がどうとか言っていたような気がする。


 上映寸前の闇の中で名前と学科に学年を名乗る声を聴いた瞬間に、天文学の話も神話もどうでもよくなった。その声の甘さと柔らかさ、安物のマイクなのにとろけるような響きの声に、鼓動がでたらめな打ち方を始めたのだけを覚えている。


 上映が終わってぞろぞろと出てきた数人の観客のあとに現れた先輩の姿を見て、この大学に入ろうと思った。偏差値も学科もどうでも良かった。先輩が私の志望動機の全てだった。

 一目惚れとよく似てはいる。それでもこの執着を他人に説明できるとは思わないし、先輩とどうこうなろうというつもりもさらさらない。そもそも先輩にとっての私は『家飲みに誘ってもいいくらいの後輩』でしかないだろうし、それで十分だと思う。


 煙草の灰を空缶に叩く。どうしてか淀むような心持に戸惑って、私は視線を落とす。磨かれたように光るフローリングの床には塵一つ落ちてはいない。

 風呂場のドアの下。レールを覆う白い金属のところに微かな汚れが伝っている。キッチンの綺麗さとは裏腹な汚れ方に少しだけ意外に思い、私は煙を燻らせながらそれを眺める。

 汚れはつうと線のように垂れたように伸びていて、擦れて伸びた端が黒い。先端は歪な球状に固まっている。


 血?


 咄嗟に浮かんだ疑問と想像を、馬鹿げた妄想だと一蹴する。があるわけがない。犯罪ものの娯楽作品の見過ぎだ。普通の女子大生──先輩の部屋で、そんなことが起こるわけがない。

 早くなった鼓動が耳鳴りに重なって、周囲の音がひどく遠く聞こえる。ありえないと打ち消してなお脳裏に貼り付く悍ましい映像にかぶりを振って、私はよろよろと浴室のドアに手を掛ける。

 一目現実を見れば、こんなたちの悪い妄想は綺麗に消えてしまうだろう。きっとただの汚れか怪我の痕跡だ。先輩だって人間ならば、そのくらいの見落としはありうるはずだ。

 祈るような気持ちで押したドアはあっけなく開いた。


 薄暗い浴室。

 浴槽の中からこちらを向く目が差し込む照明にぬめるように光った。


「それね、恭祐くん」


 ひとのお風呂場覗いちゃ駄目でしょうとたしなめるような声が背後から続いた。


「間が悪いって言うか……昨日の夜は本当に聞き分けがなくてさ、そういうつもりはなかったんだけど、ちょっと間とか色んなのが悪くてね」


 私はようやく振り返る。ガス台に寄り掛かったまま、缶を片手に眉根を寄せて笑う先輩の顔はいつもと変わらないように見えた。


「バラすのはさ、葉山ちゃんが来る前まで頑張ったから、もう少しで全部済むんだ。そうしたらあとは捨てるだけなんだけどね」

「それは──お疲れさまです」


 咄嗟に出た言葉の間抜けさを笑うでもなく、先輩は相槌のように缶を呷った。


「捨てるにしてもさ、バレたくないから……燃えるゴミで回収に出すわけにもいかないんだ。だから穴掘ったりとかそういうね、人手がいるんだよ」


 細い指先が形のいい唇をゆっくりと撫で、真黒い瞳が濡れたように光る。先輩は数度瞬きをしてから、


「手伝って欲しいんだよね、葉山ちゃん──玲ちゃんにしか頼めないんだ」


 そう言って困ったように笑う口元から覗く八重歯は赤味を帯びた照明にやけに白々と映えた。


 自覚があるのかどうなのか分からない仕草に目眩がする。人の腹を読み切って、手前の価値を十二分に理解していなければ出せない提案だ。私の黙らせ方をきちんと図って言っているのだ。

 恐らく先輩からすればどちらでもいいのだろう。私が要求に応え、その場凌ぎにしてもこの場が取り繕えれば、私が口止め料として何を要求したとしてもどうでもいい──踏み倒すも支払うも、私相手ならどうとでもなると考えているのだろう。そう意識してもらえていたのならば予想外に嬉しいとさえ思って、自分の愚かさに苛ついた。

 一番どうしようもないのは、滴る蜜にも似た、甘く掠れて纏わりつくあの声で、先輩が私の名前を呼んでくれた。それだけで満たされてさえいる自分がいるという事実だろう。


「先輩」

「何?」

「私だけ、ですか」


 我ながら浅ましい問いだと自覚しながらぶつけた言葉に先輩は少しだけ間を取ってから、


「玲ちゃんと私だけの秘密だね、今のところはさ」


 先輩は私の目を真直ぐに見て一際華やかに笑った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

缶酒にひなあられ 目々 @meme2mason

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ