Skate or Skate ~序説、あるいは月下、リンクの一夜~

天上 杏

第1話

 冬紀ふゆき先生から連絡があったのは、夜九時を過ぎてのことだった。


刀麻とうまを知らない? あの子、明日から全中なのにいつまで経っても帰ってこないの」

 あたしはごくりと一度唾を飲み、ベッドから静かに身を起こした。

濱田はまだ先生にはもう連絡しましたか?」

「ええ。でも電話もラインも繋がらなくて……スピードの連盟の方も今立て込んでるから、旦那も夜遅くまでいなくて」

 だからあたしに電話が掛かってきたのか。妙に冷静な頭で思う。

 先生はすすり泣きでも始めたようで、電話越しに子供みたいな鼻水の音が聞こえてきた。


「最近やっと落ち着いてきてね。アイスダンスの話とか、シングルの話もそうよ。やっと口聞いてくれるようになったと思ってたら、突然こうだもの。もう私あの子が何考えてるのか分からなくて」

「……大丈夫ですよ」

 あたしは隣で聞き耳を立てているかもしれないママを気にして、声のトーンを落とした。

 けど、先生はヒートアップする一方。

「今朝だってねえ、せっかく作ったお弁当をあの子ってば、テーブルに置いてあるの分かってて無視して」

「先生、落ち着いて下さい」

 お弁当の話なんか今どうでもいいだろとため息をつく。

 するといきなり先生は激昂し、

「あの子私のことバカにしてるのよ!」

 と叫んだので、あー、分かってるじゃん、とあたしは思った。

「先生」

 あたしは腹の底からしっかり構えて声を出した。

「あたし、とーまの居場所分かります」


 とーまは冬紀先生をバカにしてる。

 あたしがママをバカにするのと同じように。


 ママは薬を飲んだのか、既にベッドで寝息を立てていた。

 暗闇の中で羽毛布団をかぶったママのシルエットがやけに巨大に見える。

 際限なく太るママの成れの果てを暗示しているようで、あたしはその影を断ち切るようにバタンとドアを閉めた。


 本当は気付いてほしいのかもしれない。

 夜に出て行くあたしを止めてほしい。

 でも、どうせ気付かない。

 ママは、氷の上にいない時のあたしには興味が無いから。


 ヒートテック極暖のタイツ。バーバリーのマフラー。ノースフェイスのダウン。UGGのムートンブーツ。

 完全防備で、あたしは夜道へ繰り出した。



 夜空に浮かぶ満月は、うちのお菓子に似てる。

 あたしが生まれる前にパパが開発して、全国的に一番ヒットしたマドレーヌ。楽天でもダントツで売れてる。

 六花りっかの月。

 あたしの名前が入ったお菓子。


 せめて今夜だけはパパが帰って来てくれればいいのにと思う。

 あたしがいると、パパとママはパパとママでしかいられないから。

 あたしがいなければ、一人の男と女で話し合いができるかもしれない。あくまで希望的観測だけど。

 もう長いことパパとママが言葉を交わすのを、あたしは見ていない。


「……あたし、生まれてこなければよかったのかな」

 白い吐息がたちまち凍り付いて頬に冷たい斑を作る。

 同じ言葉を、去年のあの日もあたしは口にしたっけ。

 初めてパパが女の人といるのを見て、ママにもそれを言えなくて、どこにも居場所がなくて街をさまよった日。

 柏林はくりん中のスケートリンクへ行ったら、とーまがいた。


「六花は空から舞い降りてきたんだよ。だから、そんなこと気にするなよ」

 声変わりを迎えたばかりの掠れた声で、とーまは言った。

 あたしは初めて会った時のことをとーまはちゃんと覚えてるんだと知って泣いた。


「ろく、はな……?」

 あたしの名札を見て首を傾げてた、小学校一年生のとーま。

 りっか、とあたしは言い直した。

「雪のことを、六花って言うの。あたし、ものすごく寒い雪の日に生まれたんだって」

 すると、とーまの顔がぱっと明るくなって

「同じだ!」

 と叫んだ。

「同じ? 何が?」

 生まれた季節のことでも言ってるのかと思いきや、全然別のことをとーまは言った。

「空から降ってきたんでしょ、ぼくと同じ」

 目をきらきらと輝かせて、意味不明なことを真っ直ぐ言ってくる。

「……何言ってんの? あんたもあたしも、ママから生まれたのよ」

 ママとパパが愛し合って……とまでは流石に言わず(仕組みも分からなかったし)、心の中で思った。

 そしたらとーまはいかにも疑わしいという風に眉間にシワを寄せて、

「じゃあ、それ覚えてる?」

 とか言ってきた。

 あたしは猛烈にイラッとした。

「バッカじゃないの。覚えてるわけないでしょ」

「……ぼくは覚えてるのになあ」

 そう呟いたとーまを見て、幼き日のあたしは思った。

 やばい。こいつ、電波系だ。


 とーまがおかしかったのは頭だけでなく足元も。

 屋内リンクなのにスピードスケートの靴を履いていた。

 帯広のスピードスケート人口は多いけど、みんな外で滑る。

 スピードは外、フィギュアは内。

 それが帯広っていうか、北海道のルールなのに。


 スピードの長いブレードで滑るとーまを見ていると、いつもは広々と感じる60×30mのリンクがものすごく狭く見えて怖かった。

 けど、まるでショートトラックみたいに(これは後にショートトラックという競技を知って思い直した例えだけど)、キツいコーナーをスイスイいなしていくとーまはすごくすばしっこい小動物のようにも見えた。

 たとえば、キタキツネ。


「刀麻! 靴を履き替えなさい。始めるわよ」

 冬紀先生の一言で、とーまは幽体離脱でもしたかのようにスピードを失うと、リンクを出てフィギュアの靴へと履き替えた。

 そして、もう一度氷に上がった瞬間、まるで溶けるかのような滑らかさで、一歩がすっと伸びた。

 どこも見ていない、あるいは全てを見ているような空っぽの目が氷を映している。

 そのままフォアで二歩、三歩進み、ほんの少し肩を揺らしたかと思うと一呼吸おいて、いきなり飛んだ。

 ダブルアクセル。

 あたしは自分が何を見ているのか分からなかった。

 分からないまま、それがあたしのスケートの原体験として瞬間凍結された。

 助走なしでもジャンプは飛べるということ。

 とーまのエッジには世界の秘密が隠されている。

 全てを閉じ込めるあの一点を、あたしは自分のエッジの上で、今もずっと探している。


 スピードとフィギュア。

 エッジが刃なら、とーまが携えるのは二つの刀だ。

 どちらを捨てるのも、とーまは拒む。

 まるで空を飛ぶためには両翼が必要だと言わんばかりに。


 つるりと足が滑り、小さく悲鳴を上げると同時に、どしんと尻もちをついた。

 北海道のルールその二。滑ったら、諦めてお尻から行く。

 ヘンに悪あがきして抵抗すると足を捻ったり、ついた手を骨折したりする。

 自然に転べばお尻が痛いくらいで済む。

 じんじんと支配する痛みと冷たさ。

 粛々と立ち上がる。誰にも見られてなかったかと見回す。

 ……こんな夜遅くに学校へと向かう奇特な人間は、あたししかいないみたいだ。


 雲一つ無い夜空に、ダイヤモンドを散りばめたように星屑が光る。

 フェンスの向こう、ナイター仕様で照らされた校庭の、リンクの中央にとーまはいた。

 ぼうっと白く光って、まるで氷から魂を分けてもらったみたいに浮いて見える。

 でも、もちろん浮いてはいない。

 その足元で銀色に光るブレードが、世界と彼を繋いでいるのが分かる。


「とーま!」

 あたしは思いきり大きな声で、その名前を呼んだ。

 ものすごく離れているのに、とーまはあたしに気付いてブレーキをかけた。その止まり方を見て、あたしはホッとした。

 ブレーキを掛けられるのは、フィギュアの方。


 とーまは無言で腕を伸ばし、何かを指差した。

 見ると、フェンスにドアがある。あたしは頷き、一度も入ったことのない裏口じみたそのドアを音を立てて開けた。


 駆け寄ると、息が切れた。

 あたしはずっととーまと一緒にいるのに、とーまに会うまでいつもとーまの顔を忘れている。とーまがどんな顔をしているのか、思い出せなくなってしまう。

 目の輝き。肌の色。耳の形。髪質。一つ一つは覚えているのに、どれだけ鮮明に思い浮かべようとしても、とーまという存在を統合できない。

 だから今こうして目の前に立つとーまを見て、あたしはやっと思い出す。

 まるで、何度でも初めて出会うみたいに。


「六花」

 ずっと平気だったのに、名前を呼ばれた瞬間胸のつかえがとれたように涙が零れた。

「……なして泣くの」

 あたしは急に腹立たしくなって、ブーツで思いきりトーマの足を蹴った。

「痛って! スケーターの足蹴んなよ! 危なく転ぶところだっただろ!」

「とーまのバカ! 冬紀先生心配してたよ! なしてこんなとこいるの!?」

 涙が凍って頬が痛いのがまたムカつく。

 こんなクソみたいに寒い夜。冷たくて固い氷の上。

「ごめん。……俺、不安になると、氷の上に行きたくなるんだ」

 あたしは息を呑んだ。

 そして、どうしてあたしがとーまの居場所が分かるのか、分かった。

 あたしは凛と顔を上げた。

「わかるよ、とーま。あたしもそうだから」

 透明な瞳が、風にさざめくように震える。

 いつの間にか背が伸びた。

 それでも角度さえ見失わなければ、あたしはいつでもとーまのことを真っ直ぐ見ていられる。

 とーまの瞳に光が宿る。

「滑ろう、六花」


 そう言うと思って、ちゃんと持ってきてたんだ。

 フィギュアスケートの靴。あたしの刃。

 この銀色に光るたった1ミリの世界との接線に、あたしは自分を丸ごと預ける。

 その重さ。その自由。

 全部、とーまが教えてくれた。


「……って、ここスピードの400mトラックじゃん!」

「どこだって滑れるだろ。氷の上にさえいられればさ」


(終)









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